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『十八歳の通訳、明治を歩く―伊藤鶴吉とイザベラ・バードの旅日記』  作者: C・T・ITOU


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第十四話 坂東太郎 ― 川の恵みと、八百万の神さま



その川は、まるで湖のようだった。


街道を進んできた一行の前に、突然、広大な水面が現れた。


岸から対岸を見渡しても、川幅の向こうには霞がかかっている。水面には風が渡り、ところどころに白い波が立っていた。


イザベラ・バードは、馬車を降りた。


「これは……川なのですか?」


「はい。利根川です」


鶴吉は、目の前に広がる大河を見上げた。


「この川は、坂東太郎とも呼ばれています」


「バンドウ・タロウ?」


イザベラは、不思議そうに聞き返した。


「人の名前のようですね」


「そうですね。太郎は、長男や一番目の子につける名前でもあります。坂東というのは、昔から関東地方を指す呼び名です」


鶴吉は、川の流れに目を向けた。


「つまり、関東を代表する大きな川という意味合いですね」


「なるほど。人々は、この川を一人の大きな男のように呼んでいるのですね」


「そう言われると、そんな気もします」


鶴吉は笑った。


しかし、目の前の川は、笑って済ませられるような存在ではなかった。


水面は広く、流れは力強い。穏やかに見える場所でも、川底では水が絶えず動いている。


「この川は、恐ろしい川でもあります」


鶴吉が言った。


「恐ろしい?」


「大雨が降れば水かさが増します。流れが強くなれば、人も馬も、簡単に呑み込まれてしまいます」


イザベラは、川面を見つめた。


「それほど危険な川なのですね」


「ええ。けれど、この川がなければ困る人も大勢いるんです」


「どういうことでしょう?」


「この川の水は、田んぼや畑を潤します。稲を育てるにも、野菜を育てるにも、水が必要ですから」


鶴吉は、対岸の方を指した。


「川から水を引き、田畑に届ける。そうして人々は米や野菜を育てています。川は、食べ物を育てるためにも欠かせないんです」


「川が、人々の暮らしを支えているのですね」


「そうです。それに、魚もいます」


「魚?」


「鯉もいますし、うなぎもいます。どじょうも獲れます。川エビだっているんですよ」


「まあ。ずいぶん豊かな川なのですね」


「ええ。魚やエビは、人々の食卓に上ります」


鶴吉は、少し得意そうに続けた。


「うなぎなど、たいへんうまいんです」


「うなぎ?」


「細長い魚です。蒲焼きにすると、格別ですよ」


「蒲焼きとは、どのような料理ですか?」


「たれをつけて焼くんです。香ばしくて、ご飯によく合います」


「あなたは、ずいぶんおいしそうに話しますね」


「それは、うまいものですから」


イザベラは笑った。


「あなたは、うなぎを召し上がったことがあるのですか?」


「もちろんです。日本では昔から食べられてきました。江戸の町でも、うなぎ屋は珍しくありません」


「それなら、いつか私も食べてみたいものです」


「ぜひ。日本の食べ物には、まだまだおいしいものがありますから」


鶴吉は、川面を見つめた。


「この川があるから、魚も獲れる。田んぼも畑も潤う。人々は、川の恵みを受けて暮らしているんです」


イザベラは、もう一度、広い川を眺めた。


「けれど、こんなに大きな川を渡るのは大変でしょうね」


「そうですね。橋がなければ、渡し舟を使います」


岸辺には、何人もの男たちが集まり、舟の準備をしていた。平底の舟が水際につながれ、舟頭が長い竿や櫂を確かめている。


「こちらが渡し場です」


鶴吉が説明した。


「人だけでなく、荷物や馬、人力車も運びます」


イザベラは舟を眺めた。


「ずいぶん平たい舟ですね」


「荷物を積みやすいのでしょう。馬や人力車を運ぶには、こうした舟が必要です」


舟頭の一人が近づいてきた。


「お客さん、まずは浅瀬のところまで行きます。水の深さを見ながら渡しますんで」


鶴吉が話を聞き、イザベラに伝えた。


「浅い場所は歩いて渡るようです。水が深いところでは、肩に担いでもらうことになるかもしれません」


「肩に?」


「はい。バードさんを担いで渡るということです」


イザベラは、少し笑った。


「それは、なかなか珍しい経験になりそうですね」


鶴吉は、彼女の荷物を確認した。


「川の水には気をつけてください。流れが見た目より速いことがあります」


「ええ。わかりました」


舟頭たちは、まず水際の浅い場所へ案内した。


男の一人が水に入り、足元を確かめる。別の男が手を差し出した。


イザベラは一瞬ためらったが、やがて男の肩に身を預けた。


水が足元を流れていく。


川底の石が見えた。


「冷たい!」


イザベラの声が上がった。


男は笑いながら、慎重に一歩ずつ進んでいく。


鶴吉も水に入り、彼女の荷物を持って後ろから続いた。


「大丈夫ですか?」


「ええ。でも、川を歩いて渡るとは思いませんでした」


「橋がない場所では、こうすることもあるんです」


「日本の旅は、驚くことばかりですね」


ようやく浅瀬を抜けると、岸辺に着いた。


しかし、旅はまだ終わらない。


人力車と馬は、平底の舟に乗せて運ぶことになっていた。


舟頭たちは、手際よく人力車を舟へ移し、馬を落ち着かせながら乗せていく。


馬が舟板を踏む音がした。


舟がわずかに揺れる。


「慎重に! そっちを押さえてくれ!」


舟頭の声が響く。


鶴吉は、イザベラのそばに立ち、舟への積み込みを見守った。


「人だけなら歩いて渡れる場所もありますが、車や馬はそうはいきません」


「なるほど。だから舟が必要なのですね」


「はい。こうして川を渡すのも、舟頭たちの仕事です」


イザベラは、舟頭たちを観察していた。


彼らは大声で指示を出しながらも、互いの動きをよく見ていた。馬の様子を確かめる者、車輪を固定する者、舟の傾きを見る者。それぞれが自分の役割を心得ている。


「見事な仕事ぶりですね」


「毎日やっている仕事ですから」


「それでも、簡単な仕事ではありません。川の状態は毎日変わるでしょう?」


「ええ。雨が降れば水かさが増しますし、流れも変わります」


鶴吉は、舟頭の一人に尋ねた。


「今日は水の具合はどうですか?」


「今のところは大丈夫だ。だが、川は油断できねえ。上流で雨が降りゃ、こっちの空が晴れていても水が増えることがある」


鶴吉は、その言葉をイザベラに伝えた。


彼女は川の上流を見た。


「遠くの雨が、この場所の旅にも影響するのですね」


「そうです。川は、この場所だけのものではありませんから」


やがて、渡し賃の話になった。


舟頭は、人だけの場合と、人力車や馬を伴う場合では料金が違うと説明した。


鶴吉はそれを確認し、イザベラにも伝えた。


「川を渡るにも、料金が必要なのですね」


「はい。舟を維持し、舟頭たちが仕事を続けるためにも必要です」


イザベラは、岸辺に置かれた荷物や、次の渡しを待つ人々を見た。


旅人だけではない。


商人も、農民も、荷を運ぶ者もいる。


この川を渡ることが、日々の暮らしの一部になっているのだ。


やがて、一行の乗る舟が岸を離れた。


舟頭が竿を川底に差し込み、舟を押し出す。


水面が揺れた。


岸が少しずつ遠ざかっていく。


イザベラは、舟の縁に手を添えた。


「鶴吉さん。あなたは、この川を怖いと思いますか?」


「怖いですよ」


鶴吉は、川面を見つめた。


「川は、人の命を奪うこともあります。大雨が降れば水かさが増しますし、流れに呑まれれば、泳ぎの得意な者でも助からないことがあります」


「それなら、なぜ日本の人々は、こんな大きな川のそばに暮らしているのでしょう」


「川がなければ、田畑も潤いません。魚も獲れません。水は人の暮らしに欠かせませんから」


鶴吉は、少し間を置いた。


「それに、日本には八百万の神さまがいるといいます」


「八百万?」


「数えきれないほど、たくさんという意味です。山には山の神さま、川には川の神さま、風には風の神さま。自然のあちらこちらに神さまがいらっしゃると考えてきました」


「川にも、神さまが?」


「ええ。田畑を潤してくれる川も、時には洪水を起こす川も、人間の都合だけでは動いてくれません。だから、川を敬い、恐れ、恵みに感謝するのです」


鶴吉は、流れる水を見た。


「山も、風も、森も同じです。人間がすべてを思いどおりにできるわけではありません」


イザベラは、静かに川を眺めた。


「あなた方は、自然を征服するのではなく、自然とともに暮らしているのですね」


「そう言えるかもしれません」


鶴吉は少し笑った。


「もっとも、川の神さまが、いつも人間に優しいとは限りませんけれど」


イザベラは小さく笑った。


「それは、どこの国でも同じかもしれませんね」


「イギリスにも、川や山にまつわる言い伝えがあるのですか?」


「ええ。妖精や精霊の話は、昔からあります。土地ごとに、さまざまな物語が残っています」


「そうですか」


鶴吉は、少し嬉しそうに頷いた。


「国が違っても、自然を前にして感じることには、似たところがあるのかもしれませんね」


イザベラは、川面を見つめた。


舟の後ろには、水の跡が長く伸びている。


「日本の道は、陸だけでできているのではありませんね」


「そうですね。川も道の一つです」


鶴吉は、対岸を見た。


「船がなければ渡れない場所もあります。だから、舟頭たちも旅には欠かせない人たちなんです」


舟は流れを読みながら、ゆっくりと対岸へ近づいていった。


岸に着くと、舟頭たちが再び人力車と馬を降ろし始めた。


馬は少し落ち着かない様子だったが、無事に岸へ上がった。


イザベラは舟頭たちに礼を述べた。


「ありがとう。あなた方のおかげで、川を渡ることができました」


鶴吉が通訳すると、舟頭は照れくさそうに笑った。


「なあに、これが仕事ですから」


イザベラは、その返事にも微笑んだ。


川を渡る。


それは、ただ向こう岸へ移動するだけのことではない。


人々が暮らしを続けるために、誰かが舟を出し、誰かが竿を操り、誰かが馬や荷物を運ぶ。


旅人が見過ごしてしまうような仕事が、旅を支えている。


イザベラは、もう一度、利根川を振り返った。


「坂東太郎……」


その名を、静かに口にした。


恐ろしく、豊かで、人々の暮らしを支える大河。


その水は、今日も関東の大地を流れている。


鶴吉は、彼女の少し後ろを歩きながら思った。


日本には、まだ自分の知らない景色がある。


生まれ育った国なのに、旅をして初めて気づくことがある。


この旅は、イザベラに日本を見せる旅であると同時に、自分が日本を見直す旅でもあるのかもしれない。


一行は、再び街道を進み始めた。

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