第一話 江戸時代に生まれた少年 改訂版
安政四年、十二月。
相模国三浦郡菊名村。
海に近い小さな村で、一人の男の子が生まれた。
名は、鶴吉。
海沿いには家々が並び、その向こうには緩やかな丘陵が広がっている。
村の暮らしは、海と畑に支えられていた。
朝になれば、海へ出る者がいる。
畑へ向かう者もいる。
人々は自然とともに暮らし、季節の移り変わりを感じながら日々を送っていた。
鶴吉も、そんな村で育った。
幼い頃から、外の世界に興味を持つ少年だった。
海を眺めていると、遠くに船が見える。
「あの船は、どこへ行くんだろう」
誰かに尋ねても、分かることには限りがある。
けれど、鶴吉は気になって仕方がなかった。
海の向こうには、どんな土地があるのだろう。
どんな人たちが暮らしているのだろう。
同じ日本の中でも、知らない土地はたくさんある。
まして、海の向こうの世界となれば、想像もつかなかった。
ある日、鶴吉は大人たちの話を耳にした。
外国の船が来ているという。
外国人という、自分たちとは違う言葉を話す人々がいるという。
「外国人って、どんな人なんだろう?」
鶴吉は、ますます興味を持った。
やがて、世の中は大きく変わり始める。
江戸幕府が終わり、明治という新しい時代が始まった。
それまで当たり前だった暮らしも、少しずつ変わっていく。
人々の服装や髪型が変わる。
新しい制度ができる。
外国との交流も広がっていく。
大人たちの中には、変化を歓迎する者もいれば、戸惑う者もいた。
長く続いてきた暮らしが変わるのだから、無理もない。
けれど、鶴吉は違っていた。
知らないものを見ると、知りたくなる。
分からないことがあると、誰かに尋ねたくなる。
そして、一度気になったことは、なかなか忘れられない。
読み書きについて、鶴吉がどこで、誰から、どのように学んだのかは、詳しく分かっていない。
ただ、後年の彼が、日本語と英語で記録を残し、旅先の地名や距離、費用、土地の様子まで書き留めていたことは、イザベラ・バードの旅行記に記されている。
この物語では、そんな鶴吉の学びの始まりを想像してみたい。
知らないことを、そのままにしない。
人に尋ね、耳を傾け、自分で確かめる。
それが、後の鶴吉を形づくっていく。
そして、少年はやがて横浜へ向かうことになる。
そこには、故郷の海とは違う景色が広がっていた。
大きな外国船。
異国の服装をした人々。
聞いたことのない言葉。
鶴吉は、そこで初めて、海の向こうの世界を身近に感じることになる。
そのとき、彼はまだ知らなかった。
外国人の言葉を覚えることが、自分の人生を大きく変えることになるとは。
三浦半島の小さな村で育った少年。
その好奇心が、やがて日本各地を旅する外国人を支える力になっていく。
伊藤鶴吉の物語は、ここから始まる。
◾️伊藤鶴吉の年齢について
本作では、伊藤鶴吉を十八歳の青年として描いています。
これは、イザベラ・バードの旅行記に、鶴吉が十八歳と記されていることを踏まえたものです。
一方、国立国会図書館などに掲載されている生没年の情報をもとに計算すると、バードの日本旅行が始まった明治十一年(1878年)の鶴吉は、二十歳となります。
このように、バードの記録にある年齢と、生年月日から計算される年齢には食い違いがあります。
本作では、バードの旅行記に記された十八歳という年齢を採用しました。
なお、本作は史実を土台とした創作です。鶴吉の日記や会話、幼少期の出来事など、現存資料で確認できない部分については、物語として再構成しています。
読者の皆さまには、史実と創作の両方を楽しんでいただければ幸いです。




