第十三話 旅の仲間
早朝。
宿の者たちに見送られ、イザベラ・バードと鶴吉は人力車に乗り、宿を後にした。
昨夜まで賑やかだった宿場町も、朝のこの時間には、まだ眠たげな表情を残していた。
店先では、主人が戸を開け、女たちは水を汲み、男たちは荷を運び始めている。道の端には、朝の仕事に向かう人々の姿があった。
宿の主人が深々と頭を下げる。
「どうぞ、お気をつけて」
鶴吉はそれに応じ、バードにも主人の言葉を伝えた。
「よい旅を、とのことです」
「ありがとう。日本の宿では、いつも丁寧に見送ってくださいますね」
「旅人を送り出すのも、宿の仕事のひとつですから」
バードは、宿の主人に向かって小さく手を振った。
人力車の車輪が回り始める。
車夫たちは、朝の空気を切るように走り出した。
道の両側には田畑が広がり、ところどころに農家が見える。屋根からは、朝餉の煙が細く立ち上っていた。
バードは、車の上から周囲を眺めている。
「鶴吉さん。日本の農家では、朝から火を使うのですね」
「はい。朝食を作りますし、お湯も沸かします。火は暮らしに欠かせません」
「お湯を沸かすためにも?」
「もちろんです。お茶を飲むにも、食事を作るにも、火が必要です」
「では、水と火は、いつも一緒なのですね」
「そうかもしれません」
鶴吉は笑った。
「水は飲むものですが、そのまま飲めばよいとは限りません。土地によっては、気をつけなければなりませんから」
「水が悪いと、病気になるのですか?」
「ええ。腹を壊すこともあります」
バードは、道端の井戸に目を向けた。
「日本では、どこの家にも井戸があるのでしょうか」
「そういう家もあります。ただ、宿場では共同で使う井戸もあります。水を汲む場所は、土地によって違います」
「水道はないのですね」
「ええ。少なくとも、このあたりでは、今のように家まで水が届く仕組みはありません」
バードは興味深そうにうなずいた。
「水を手に入れることも、暮らしの仕事なのですね」
「そうです。水を汲む人がいて、火を起こす人がいて、食事を作る人がいる。どれも、誰かがしなければならない仕事です」
そのとき、前を走っていた人力車の速度が、急に落ちた。
車輪の音が途切れ、道の脇に人影が見えた。
「どうしたのでしょう?」
バードが尋ねる。
鶴吉は車を降り、先頭を走っていた車夫のもとへ急いだ。
そこには、一人の男が道端にしゃがみ込んでいた。
腹を押さえ、顔色は悪い。額には汗が浮かび、何度も吐き気をこらえるように口元を押さえている。
「おい、大丈夫か」
鶴吉が声をかける。
男は苦しそうに首を振った。
「申し訳ありません。どうにも、腹の具合が……」
「いつからだ?」
「朝からです。途中で、急に痛み出して……」
男は、少し休んだだけでも楽にならない様子だった。
鶴吉はバードのところへ戻った。
「車夫の一人が、腹痛と吐き気を訴えています」
「病気なのですか?」
「本人は、粕壁で飲んだ水が悪かったのではないかと言っています」
バードは車を降り、男の様子を見た。
「それは心配ですね。先へ進ませるべきではありません」
「私もそう思います」
男は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「お客様にご迷惑をおかけしてしまいました」
「迷惑などと考えなくていい。まずは身体を休めるんだ」
鶴吉は、男の言葉をバードに伝えた。
「彼は、私たちの旅を止めてしまったことを気にしているようです」
「旅は待つこともできます。でも、身体を壊してしまっては困ります」
バードの言葉を聞き、鶴吉は男に伝えた。
男は何度も頭を下げた。
それでも、仕事を放り出すつもりはないらしい。
彼は、代わりの車夫を手配しようとした。自分が走れなくなった以上、客を先へ運ぶ責任は果たしたいというのである。
鶴吉は、その様子を見ていた。
「そこまでしなくてもいい。まずは休め」
「いえ、約束がありますから」
男は苦しい顔をしながらも、そう答えた。
やがて、代わりの車夫がやって来た。
男は自分の仕事を引き継ぐ者に必要なことを伝え、約束した運賃についても、余計な要求をしなかった。
バードは、その一部始終を見つめていた。
「鶴吉さん。彼は、誠実な人ですね」
「そうですね。自分の仕事を途中で投げ出したくないのでしょう」
「けれど、今は休むことが仕事です」
鶴吉は、その言葉を聞いてうなずいた。
「その通りです」
彼は、近くにあった宿の者に声をかけた。
「この人を休ませる場所はありませんか」
「それなら、こちらへ。奥の部屋を使ってください」
宿の者は、男を支えながら建物の中へ案内した。
鶴吉も後に続いた。
バードは、宿の入口で立ち止まった。
「鶴吉さん。私も一緒に行ってよいでしょうか」
「もちろんです」
二人は、薄暗い部屋に入った。
男は横になり、苦しそうに目を閉じている。
宿の女が、水を持ってきた。
鶴吉は、それを見て少し考えた。
「今は無理に飲ませない方がよさそうです。吐き気が落ち着くまで、様子を見ましょう」
バードも、男の顔色を気にしていた。
「医師を呼べませんか?」
「この近くに医者がいるか、宿の主人に聞いてみます」
鶴吉は主人を呼んだ。
「この近くに、医者はいませんか」
主人は少し考えたあと、答えた。
「少し離れた村に、先生がおります。呼びに行かせましょう」
「お願いします。腹を壊して、吐いているのです」
「分かりました。すぐに人をやります」
主人は若い者に声をかけた。
「先生のところへ行ってきておくれ。急いで頼むよ」
若者はうなずき、外へ走っていった。
バードは、その様子を見ていた。
「日本にも、村の医者がいるのですね」
「はい。町や村には、昔から医者が暮らしているところがあります。すべての場所にいるわけではありませんが、近くに先生がいれば、呼びに行くことができます」
「病院まで行かなくても、来てくださるのですか?」
「医者によって違うでしょうが、往診をする先生もいます」
「往診?」
「患者のいるところまで、医者が出向いて診察することです」
バードは、感心したようにうなずいた。
「それはありがたいことですね」
鶴吉は、男の様子を見ながら答えた。
「病気の人を遠くまで運ぶのは大変ですから」
しばらくすると、宿の女が湯を沸かし始めた。
かまどに薪がくべられ、炎が揺れる。
パチッ。
乾いた薪がはぜる音がした。
バードは、かまどの方を振り返った。
「火の音がしますね」
「薪がはぜる音です」
「火は、食事を作るだけではないのですね」
「はい。湯を沸かすこともできます。寒いときには暖を取ることもできます」
「そして、水を煮立たせることも」
「そうです」
鶴吉は、かまどの炎を見た。
「水は見た目がきれいでも、安心できるとは限りません。火にかけて、十分に煮立たせることは、病気を防ぐためにも大切です」
「水を煮るというのは、どこの国でも同じでしょうか」
「どうでしょう。国によって暮らし方は違うでしょうが、水を安全に飲みたいという気持ちは、同じではありませんか」
バードは微笑んだ。
「そうですね。人はどこにいても、水を必要とします」
やがて、宿の外から足音が聞こえた。
「先生をお連れしました」
主人の声に続いて、一人の年配の男が部屋に入ってきた。
小さな薬箱を携えている。
身なりは質素だったが、落ち着いた足取りだった。
「患者は、こちらですか」
「はい。こちらの方です」
医者は男のそばに座り、まず顔色を確かめた。
「いつから具合が悪いのかね」
車夫が答える。
「朝からです。腹が痛くなり、何度か吐きました」
「何を食べた?」
「昨夜は宿で食事をしました。今朝は、出発前に少しだけ」
「水は?」
「粕壁で飲みました」
医者は、男の話を聞きながら脈を取り、腹の具合を確かめた。
「痛むのは、どのあたりだね」
男は腹を押さえた。
医者は、しばらく考え込んだ。
「食べ物にあたったのか、水が悪かったのか。それとも、別の原因か。今の話だけでは決められん」
鶴吉は、その言葉を聞いてバードに伝えた。
「原因は、まだ分からないそうです。食べ物か水か、あるいは別のことかもしれないと」
「そうですか。水が原因だと決まったわけではないのですね」
「はい。本人は水が悪かったと言っていますが、それだけでは判断できません」
医者は、男に無理をして仕事を続けないように言った。
「今日は走ってはいかん。まずは休むことだ。吐き気があるうちは、飲み食いも無理をせず、少しずつ様子を見なさい」
さらに、症状が続くようなら、もう一度診察する必要があると告げた。
宿の主人は、医者に礼を言い、診察の礼金を渡した。
医者は薬箱を閉じ、帰り支度を始めた。
バードは、鶴吉に尋ねた。
「この先生は、いつもこのあたりの人々を診ているのでしょうか」
「そうだと思います。村や宿場の人々にとって、近くに医者がいるのは心強いことです」
「日本の医療は、今、変わっているのでしょう?」
「ええ。明治になってから、医者の制度も新しくなってきています。けれど、昔からの医者もおりますし、地方では土地ごとの事情もあるでしょう」
「新しい制度と、昔からの暮らしが一緒にあるのですね」
「そうですね。すぐに全部が変わるわけではありませんから」
バードは、医者が去っていく後ろ姿を見送った。
「日本を知るには、こうした人々の暮らしを知らなければなりませんね」
鶴吉は、静かにうなずいた。
「名所や大きな町だけが、日本ではありません。道の途中にある宿や村にも、人々の暮らしがあります」
「あなたは、それを私に教えてくれているのですね」
「私は、ただ見たことをお話ししているだけです」
「それが大切なのです」
バードは、少し笑った。
「私は日本を旅していますが、あなたもまた、私と一緒に旅をしている。二人で同じものを見ていても、感じることは違うのでしょうね」
鶴吉は、すぐには答えなかった。
窓の外では、宿の者が水を汲んでいる。
かまどには、まだ火が残っていた。
薪が燃え、湯が静かに温められている。
「そうかもしれません」
鶴吉は答えた。
「でも、違うからこそ、話す意味があるのだと思います」
バードは、その言葉を聞き、満足そうにうなずいた。
その後、車夫は宿で休むことになった。
代わりの車夫が、バードたちの人力車を引き継いでくれる。
出発の支度が整うと、鶴吉は休んでいる男のところへ戻った。
「無理をするなよ。身体がよくなってから仕事に戻ればいい」
男は、横になったまま頭を下げた。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではない。旅は、急ぐばかりではないからな」
男は、少しだけ笑った。
鶴吉は部屋を出た。
バードが待っていた。
「彼は、きっとよくなるでしょう」
「そう願います」
「鶴吉さん。あなたは、彼のことをずいぶん気にかけていましたね」
「一緒に旅をしている人ですから」
「一緒に旅をする人……」
バードは、その言葉を繰り返した。
「旅の道連れとは、同じ目的地へ向かう人だけをいうのではないのかもしれませんね」
鶴吉は、道の先を見た。
「そうですね。途中で出会う人も、助けてくれる人も、みんな旅の道連れなのかもしれません」
人力車が動き出す。
車輪の音が、再び街道に響いた。
道の両側には田畑が広がり、遠くには人々の暮らす村が見える。
旅は続く。
水を汲む人がいる。
火を起こす人がいる。
食事を作る人がいる。
病気になった人を診る医者がいる。
そして、誰かを目的地まで運ぶ人がいる。
鶴吉は、前を走る車夫の背中を見つめていた。
自分もまた、この旅を支える一人なのだ。
言葉を訳すだけではない。
人と人の間に立ち、互いの思いを伝える。
その仕事の意味を、十八歳の鶴吉は、少しずつ知り始めていた。
人力車は、街道を進んでいく。
二人の旅は、まだ始まったばかりだった。




