第十二話 道の向こうにいる人
ら
朝の街道には、まだ夜の涼しさが残っていた。
粕壁宿を出た鶴吉とイザベラ・バードは、杉戸宿を目指して歩いていた。
鶴吉は、ときどき手にした地図を確かめながら、道の先を見ていた。
「鶴吉、今日はどのくらい歩くのでしょう?」
「道の具合にもよりますが、杉戸宿までは、それほど遠くありません。ただ、途中で立ち寄る場所があれば、予定より時間がかかるでしょう」
「それは楽しみです。私は、急いで目的地に着くことだけが旅だとは思っていません」
「承知しています。ミス・バードは、途中の暮らしをご覧になりたいのですね」
「ええ。日本という国を知りたいのです。立派な建物や美しい景色だけではなく、そこに暮らす人々のことを」
鶴吉は、うなずいた。
「では、今日は少し寄り道をしましょう」
「ありがとう、鶴吉」
二人は、街道の脇に広がる田畑を眺めながら歩いた。
田んぼでは、農作業をする人の姿が見える。
その近くを、荷を背負った男が歩いていた。
バードは、その男に目を向けた。
「鶴吉、あの人は何を運んでいるのでしょう?」
「少し尋ねてみましょう」
鶴吉は男に近づき、声をかけた。
「お仕事中、申し訳ありません。こちらのお荷物は、どちらへ運ばれるのですか?」
男は、少し驚いたように振り返った。
「こいつかい。近くの町まで運ぶんだよ。頼まれもんでね」
「そうですか。お疲れさまです」
鶴吉は、男の言葉をバードに伝えた。
「近くの町まで、頼まれた荷物を運んでいるそうです」
「そうですか。街道には、いろいろな仕事があるのですね」
「ええ。旅人が歩くだけではありません。荷物を運ぶ人もいれば、馬を引く人もいます。宿場で働く人もいます」
バードは、手帳を取り出した。
「街道は、人と物を運ぶ道なのですね」
「そうです。人が行き来するから、町も栄えるのだと思います」
バードは、その言葉を書き留めた。
「あなたは、よくご存じですね」
「いえ。私は、知っていることをお話ししているだけです」
「でも、あなたの説明を聞くと、目の前の景色が違って見えます」
鶴吉は、少し照れたように笑った。
「それなら、通訳として役に立てているのでしょうか」
「もちろんです」
二人は、再び歩き始めた。
しばらく進むと、道端に小さな茶店が見えてきた。
店先には、腰を下ろして休む旅人の姿があった。
鶴吉は、バードに声をかけた。
「少し休みましょう。お茶をいただけるようです」
「ぜひ、そうしましょう」
店の者が二人に気づき、声をかけた。
「おや、外国のお客さんかい。どうぞ、こちらへ」
鶴吉は、店の者に礼を言い、バードを席へ案内した。
「ミス・バード、お茶をいただきましょう」
「ありがとうございます。歩いていると、こうした休憩がありがたいですね」
店の者が、湯気の立つ茶を運んできた。
バードは、茶碗を手に取った。
「これは、どのようなお茶ですか?」
「日本でよく飲まれているお茶です。土地によって味わいも違います」
「そうなのですね」
バードは、ゆっくりと口をつけた。
「温かくて、落ち着きますね」
「旅の途中には、こうした時間も必要です」
鶴吉も茶を飲んだ。
しばらくすると、店の者が鶴吉に尋ねた。
「ところで、お二人さんは、どこまで行くんだい?」
「杉戸宿を目指しています」
「そうかい。今日は天気が持つといいねえ。昨日の雨で、道が少しぬかるんでいるところがあるよ」
「それは助かります。教えていただいてありがとうございます」
鶴吉は、その話をバードに伝えた。
「昨日の雨で、道がぬかるんでいる場所があるそうです。足元に気をつけた方がよさそうです」
「分かりました。教えてくださって助かります」
バードは、店の者にも礼を述べた。
茶店を出ると、鶴吉は地図を確かめた。
「この先は、少し注意して歩きましょう」
「鶴吉、あなたは、いつも道のことを考えていますね」
「それが私の仕事ですから」
「でも、道だけではありませんね。人のことも、よく見ています」
鶴吉は、すぐには答えなかった。
「旅をするには、道を知るだけでは足りません。どこで休むか、誰に尋ねるか、何を用意するか。そうしたことも大切です」
「なるほど」
「それに、相手が何を考えているのか、分からないこともあります」
バードは、鶴吉の顔を見た。
「それは、私にもありますよ」
「ミス・バードにも?」
「もちろんです。私は日本を見に来ました。でも、見ただけで、すべてを理解できるわけではありません」
鶴吉は、その言葉を聞いて、少し驚いた。
「ミス・バードほどの方でも、分からないことがあるのですね」
「ありますよ。だから、旅をするのです」
バードは、道の先を見た。
「知らないことに出会うために、旅をするのです」
鶴吉は、その言葉を心の中で繰り返した。
知らないことに出会うために、旅をする。
彼は、英語を学び、外国人と話し、通訳の仕事を始めた。
しかし、自分が生まれ育った日本について、どれほど知っているのだろう。
江戸で暮らしていたころには、当たり前だと思っていた景色が、明治になって少しずつ変わっていった。
外国人と接するようになってからは、日本のことを尋ねられる機会も増えた。
そのたびに、自分が知らないことに気づかされた。
「鶴吉?」
バードの声で、彼は我に返った。
「はい」
「何か考えていましたか?」
「ええ。私は日本人ですが、日本のことをすべて知っているわけではないのだと思いました」
バードは、静かにうなずいた。
「それは、素晴らしいことだと思います」
「どうしてですか?」
「知らないことがあると分かっている人は、これから何かを学ぶことができますから」
鶴吉は、少し笑った。
「ミス・バードは、時々、難しいことをおっしゃいますね」
「そうですか?」
「はい。でも、考えるのは嫌いではありません」
「それなら、これからも一緒に考えましょう」
二人は、再び街道を歩き始めた。
道の先には、まだ見たことのない町がある。
知らない人々の暮らしがある。
そして、鶴吉自身も知らなかった日本がある。
彼は、手帳を取り出し、今日のことを書き留めた。
通訳の仕事は、言葉を置き換えるだけではない。
人の話を聞き、その人が何を伝えたいのかを考える。
そして、自分が知らないことを、知ろうとする。
鶴吉は、そうした仕事を少しずつ覚え始めていた。
「ミス・バード、そろそろ先へ進みましょう」
「ええ、鶴吉」
二人の歩く道は、まだ続いている。
その先で、どんな人に出会うのか。
どんな言葉を交わすのか。
鶴吉には、まだ分からなかった。
けれど、分からないからこそ、歩いていく意味がある。
十八歳の通訳の旅は、少しずつ、その深さを増していった。
旅の記録について
今回の話では、粕壁宿を出た二人が杉戸宿を目指す道中を描いた。
バードの旅行記には、旅先で目にした道路、宿場、農村の様子や人々の暮らしが記録されている。一方、鶴吉が道中で誰とどのような会話を交わしたのか、どんなことを考えていたのかを直接伝える資料は限られている。
そこで今回は、当時の街道や宿場の役割を踏まえ、茶店での休憩や土地の人との会話を創作した。
鶴吉は、バードの言葉を英語に訳すだけの存在ではない。
彼女が見たものを理解し、日本の人々の言葉を聞き、その間に立つ青年である。
そして、バードと旅をすることで、彼自身もまた、自分の国を新しい目で見始めている。
旅の記録に残された事実と、その記録の向こう側にいた青年の姿。
その両方を大切にしながら、これからも伊藤鶴吉の旅を描いていきたい。




