第九話 粕壁宿の夕飯と、明日の旅支度
粕壁宿の夜。
長い一日を終えた鶴吉とイザベラ・バードは、宿屋に落ち着いていた。
鶴吉は、荷物を整理しながら、宿の人が用意してくれた食事を待っていた。
「ミス・バード、お食事の用意ができたようです」
「ありがとう、鶴吉。あなたも一緒に食べるのでしょう?」
「はい。私も楽しみにしていました」
鶴吉は笑った。
若い彼にとっても、旅の一日の終わりに食べる夕飯は楽しみだった。
膳には、炊きたてのご飯と卵、それにお茶が用意されていた。
湯気の立つご飯を見て、鶴吉は思わず顔をほころばせた。
「おお、これはおいしそうだ」
「鶴吉、卵は新しいものですか?」
「宿の方に聞いてみましょう」
鶴吉が尋ねると、宿の人は答えた。
「今朝、近くの農家から届いた卵ですよ」
「それはいいですね。ありがとうございます」
鶴吉は、うれしそうにうなずいた。
「ミス・バード、今朝届いた卵だそうです」
「まあ、新鮮なのですね」
「はい。では、いただきましょう」
鶴吉は卵を器に割り入れ、醤油を少し垂らした。
さらに、刻んだ生姜とネギを添え、海苔も少しちぎってのせる。
「これで、いただきます」
鶴吉は卵を混ぜ、熱々のご飯にかけた。
「ミス・バードも、いかがですか?」
「卵を生のまま食べるのですか?」
「はい。私はこうして食べるのが好きなのです」
バードは、少し不思議そうに鶴吉の茶碗を眺めた。
「日本では、卵をこのように食べるのですね」
「ええ。醤油を加えると、ご飯によく合います」
鶴吉は、ひと口食べた。
「うん。やっぱりおいしい」
その表情を見て、バードも興味を持ったようだった。
「少し試してみましょう」
鶴吉は、バードのために卵とご飯を用意した。
バードは慎重にひと口食べた。
「まあ。卵の味と醤油の風味がよく合いますね」
「そうでしょう?」
鶴吉はうれしそうに笑った。
生姜の香りも、バードには興味深かった。
「これはジンジャーですか?」
「はい。日本でも料理に使います」
「私の国でも、生姜を使ったお菓子がありますよ。ジンジャーブレッドです」
「そうなのですか。お菓子にも使うのですね」
「ええ。でも、こうして食事に使うのは新鮮です」
二人は、食事を楽しんだ。
鶴吉は、あっという間に最初の茶碗を空にした。
「すみません。もう一杯いただけますか?」
宿の人が、ご飯をよそってくれた。
鶴吉は、二杯目にも卵をかけた。
「鶴吉、ずいぶんおいしそうに食べますね」
「はい。今日はよく動きましたから」
「まだ食べられるのですか?」
「もちろんです」
鶴吉は笑って、二杯目もきれいに平らげた。
そして、また茶碗を差し出した。
「すみません。もう一杯お願いします」
バードは目を丸くした。
「まあ、三杯目ですね!」
「ええ。炊きたてのご飯は、やはりおいしいです」
鶴吉は三杯目にも卵をかけ、醤油を少し足した。
生姜とネギ、海苔も忘れない。
その様子を見て、バードは楽しそうに笑った。
「鶴吉、あなたは本当に食欲旺盛ですね」
「今日は一日、旅の準備や案内で動き回りましたから」
「それなら、たくさん食べてください」
「ありがとうございます。いただきます!」
鶴吉は、三杯目のご飯もおいしそうに食べた。
食後には、温かい番茶を飲んだ。
「ふう。おいしかった」
鶴吉は満足そうに息をついた。
バードも、温かいお茶を口に運んだ。
「日本の食事には、まだまだ知らないものがありそうですね」
「そうですね。土地によって食べ物も違います。これから先も、いろいろなものを召し上がっていただけると思います」
「楽しみです」
二人は、食事を終えた。
やがて、鶴吉は手帳と地図を取り出した。
「ミス・バード。明日の予定を相談しておきましょう」
「そうですね。明日はどこまで進む予定ですか?」
鶴吉は地図を広げた。
「まずは杉戸宿を目指そうと思います。その先は、道の状態と時間を見て決めたいです」
「途中の村にも立ち寄りたいのです。大きな町だけでなく、普通の人々の暮らしを見てみたいのです」
「承知しました。では、途中で気になる場所があれば、立ち寄りましょう」
「ただ、あまり遅くならないようにしたいですね」
「そうですね。出発時刻を早めにして、途中で休憩を取りましょう」
鶴吉は地図を指でたどった。
「道の状態によっては、予定より時間がかかることもあります。雨が降れば、土の道はぬかるみますし、坂道では足元にも注意が必要です」
「分かりました。無理をしないようにしましょう」
「はい。途中で疲れたら、遠慮なくおっしゃってください」
バードは微笑んだ。
「鶴吉、あなたも疲れたら言ってくださいね」
「私ですか?」
「もちろんです。あなたも一緒に旅をしているのですから」
鶴吉は、少し驚いたような顔をした。
「ありがとうございます。では、私も遠慮なく休ませていただきます」
二人は笑った。
鶴吉は手帳に、翌日の予定を書き込んだ。
出発時刻。
目的地。
途中の休憩。
道の状態。
食事の手配。
旅は、ただ歩いて目的地に着けばよいというものではない。
バードが見たいものを見られるようにすること。
疲れすぎないようにすること。
そして、予定どおりに宿へ到着できるようにすること。
それも、鶴吉の大切な仕事だった。
「では、明日は杉戸宿ですね」
「はい。楽しみにしています」
バードは、手帳を閉じる鶴吉を見て言った。
「今日もありがとう、鶴吉」
「こちらこそ。明日もよろしくお願いします」
こうして、粕壁宿の夜は更けていった。
翌朝。
宿屋には、朝の光が差し込んでいた。
鶴吉は、旅の荷物を確かめていた。
手帳、筆記用具、地図。それから、バードの荷物。
忘れ物がないか、一つずつ確認する。
「ミス・バード、おはようございます」
「おはようございます、鶴吉。よく眠れましたか?」
「はい。ミス・バードはいかがでしたか?」
「ええ。少し宿の音が気になりましたけれど、休めましたよ」
「それはよかったです。今日は杉戸宿を目指します」
鶴吉は、もう一度地図を広げた。
「昨日、宿の人に道の状態を尋ねておきました。大きな問題はないそうですが、ところどころ土が柔らかくなっているようです」
「では、気をつけて進みましょう」
「はい。途中で道の様子を見ながら、休憩場所も考えます」
二人は朝食を済ませ、出発の準備を整えた。
宿の人に挨拶をして、粕壁宿を後にする。
朝の街道には、荷物を運ぶ人や、仕事へ向かう人の姿があった。
バードは、道の両側に広がる家々や畑を眺めていた。
「鶴吉、あの畑では何を育てているのでしょう?」
「あちらは稲を育てる田んぼです。こちらには野菜も植えられています」
「この地域の人々は、農業で暮らしているのですね」
「はい。ただ、町には商いをする人もいますし、街道沿いには旅人を相手にする仕事もあります」
「なるほど。街道は、旅人だけのものではないのですね」
「そうです。荷物を運ぶ人も、宿屋の人も、茶店の人もいます。街道があるからこそ、いろいろな仕事が生まれます」
バードは、その話を興味深そうに聞いていた。
「それも記録しておきたいですね」
鶴吉は手帳を取り出した。
「では、村の名前と、見たものを書いておきます」
「ありがとう」
しばらく進むと、道端に休憩できそうな場所が見えてきた。
鶴吉はバードに尋ねた。
「少し休みませんか?」
「そうですね。ここで休みましょう」
二人は足を止めた。
鶴吉は、これからの道のりを考えていた。
「この先も、歩きやすい道ばかりとは限りません。雨が降れば、土の道は滑りやすくなります」
「分かりました。無理をしないようにしましょう」
「はい。途中で疲れたら、遠慮なくおっしゃってください」
バードは笑った。
「鶴吉、あなたも疲れたら言ってくださいね」
「はい。昨夜のお約束ですからね」
二人は再び街道を歩き始めた。
その日の目的地は杉戸宿。
しかし、鶴吉にとって大切なのは、宿場に着くことだけではなかった。
道の状態を確かめ、休憩場所を考え、食事を手配し、バードが見たいものを見られるようにする。
そして、見聞きしたことを手帳に残す。
それが、彼の新しい仕事だった。
「鶴吉!」
バードが前方を指さした。
「あちらに見えるものは何でしょう?」
鶴吉は、その方向を見た。
「行ってみましょう。近くの人に尋ねてみます」
二人の旅は、また一つ、新しい発見へと向かっていった。
粕壁宿、高砂屋旅館の一夜
1878年6月10日、イザベラ・バードと伊藤鶴吉は、東京を出発した最初の日の宿泊地として、粕壁宿に到着した。
バードの旅行記『Unbeaten Tracks in Japan』には、この夜に泊まった宿について、宿名は記されていない。
彼女は、ただ「大きな宿屋」と書いている。
しかし、その宿の様子は詳しい。
一階にも二階にも部屋があり、旅人でいっぱいだった。台所では、およそ三十人もの使用人が働いていたという。バードは二階の部屋に泊まり、隣室には日本人の家族や男性客がいた。
一方、春日部市の郷土資料館の解説では、この宿を粕壁宿の「高砂屋旅館」と特定している。
つまり、高砂屋旅館という名前は、バード自身が旅行記に書き残したものではなく、後世の地域資料による特定である。
この違いは大切にしておきたい。
今回の物語では、鶴吉とバードが高砂屋旅館に泊まり、夕食を囲む場面を描いた。
旅行記には、ご飯と卵、お茶が用意されたことが記されている。鶴吉自身が何を食べたか、卵をどのように食べたかまでは分からない。
そこで、若い鶴吉が炊きたてのご飯に卵と醤油をかけ、三杯もおかわりする姿を想像してみた。
生姜やネギ、海苔を添える場面も、当時の食卓を思い描いた創作である。
旅は、目的地に着けば終わりではない。
宿を探し、食事を用意し、翌日の道のりを相談する。そうした一つ一つの仕事を担う鶴吉にとって、夕食は自分自身もほっとできる時間だったのではないだろうか。
バードが記録したのは、宿の大きさや人々の様子、そして旅先での不便さだった。
その記録の隙間に、鶴吉の食事や二人の会話を想像してみる。
歴史に残された事実を大切にしながら、そこに生きていた人々の姿を思い描く。
それもまた、この物語の旅の楽しみである。




