第六話 母と三人の妹への報告 改訂版
横浜の家に戻った鶴吉は、いつもより少し緊張していた。
母と三人の妹たちに、話さなければならないことがある。
「母さん、話があるんだ」
夕食の支度をしていた母が、手を止めた。
「どうしたんだい。何かあったのかい?」
「仕事が決まったんだ」
「仕事?」
三人の妹たちも、いっせいに鶴吉のほうを向いた。
「外国の女性の旅に、通訳として同行することになったんだ」
「外国の女性?」
母は、少し驚いた顔をした。
「そう。イザベラ・バードさんという人で、日本各地を旅するんだ。横浜を出て、北のほうまで行く予定だよ」
「日本の中を旅するんだね?」
「そうだよ。外国へ行くわけじゃない」
鶴吉は笑った。
「言葉を通訳するだけじゃない。道を調べたり、宿を探したり、移動の手段を考えたりする。旅の間、ずっと一緒に行動する仕事なんだ」
「移動の手段?」
母は首をかしげた。
「歩いて行くのかい?」
「歩くこともあるよ。でも、全部徒歩というわけではないんだ。馬に乗ることもあるだろうし、人力車や船を使うこともあると思う」
「そんなにいろいろな方法があるんだね」
「うん。どこへ行くか、道がどうなっているかによって違うんだ。だから、バードさんに希望を聞いて、無理のない旅程を考えなくてはいけない」
「そんなことまで、あんたがするのかい?」
「そうだよ。通訳だけじゃなく、旅の手配も大切な仕事なんだ」
母は、しばらく黙っていた。
やがて、心配そうに尋ねた。
「どれくらい家を空けることになるんだい?」
「何か月かかかると思う」
「何か月も……」
母の表情が曇った。
三人の妹たちも、顔を見合わせた。
「お兄ちゃん、遠くまで行くの?」
一番上の妹が尋ねた。
「そうだよ。東京から北へ向かって、いろいろな町や村を訪ねるんだ」
「山も行くの?」
「行くかもしれないね」
「海も?」
「海の近くを通ることもあるだろう。船に乗ることもあるかもしれない」
妹たちは、旅の話に興味を持ち始めた。
けれど、母の心配は消えなかった。
「知らない土地を、外国の人と一緒に歩くんだろう? 道に迷ったり、病気になったりしたらどうするんだい」
「そのために、道や宿を調べておくんだよ。馬や人力車を使う場所も、事前に考えておく。危ない場所や、無理な行程にならないように気をつける」
「そうかい……」
鶴吉は、母の顔を見た。
自分が仕事を得たことを喜んでほしかった。
けれど、家族を心配させるために報告したのではない。
「母さん。給金も出るんだ」
「給金?」
「月に十二ドルだよ」
母は、聞き慣れない金額に首をかしげた。
「ドルというのは、外国のお金だね」
「そう。日本のお金とは違うけれど、横浜では使われている。仕事を続ければ、家のことにも役立てられると思う」
「お前が働いてくれるのはありがたいよ。でも、無理はしないでおくれ」
「分かっているよ」
鶴吉は、母にうなずいた。
三人の妹たちが、今度は次々に質問を始めた。
「そのバードさんって、どんな人?」
「英語しか話さないの?」
「外国の服を着ているの?」
鶴吉は、少し考えてから答えた。
「好奇心の強い人だよ。日本の町や村の暮らしを、自分の目で見たいんだそうだ。話をしていると、次々に質問が出てくる」
「お兄ちゃん、それに答えられるの?」
「だから、もっと勉強しないとね」
鶴吉が笑うと、妹たちも笑った。
その夜、鶴吉は自分の手帳を開いた。
英語の単語や短い会話を書き留めてきた手帳。
これからは、旅先の地名や道のり、宿のこと、かかった費用も記録していくことになる。
どこまで歩くのか。どこで馬を使うのか。船に乗る場所はあるのか。
バードに確認しなければならないことは、まだたくさんある。
母や妹たちに、旅先の様子を伝えることもできるだろう。
鶴吉は、手帳の新しいページに、ゆっくりと書き始めた。
旅の準備。
その文字を見つめながら、彼は思った。
自分が横浜を離れている間、家族はここで暮らしていく。
だからこそ、この仕事をきちんとやり遂げたい。
翌朝。
母は、鶴吉の荷物を確かめていた。
「忘れ物はないかい?」
「大丈夫だよ」
「手帳は持ったかい?」
「もちろん」
母は、少し笑った。
「それならいい。気をつけて行っておいで」
三人の妹たちも、玄関先まで見送りに出てきた。
「お兄ちゃん、帰ってきたら旅の話を聞かせてね!」
「うん。いっぱい話してあげるよ」
「外国の人の話も?」
「もちろんだ」
鶴吉は、家族に手を振った。
横浜の町には、港から吹いてくる風が流れていた。
これから始まる旅は、彼にとって新しい仕事であり、知らない土地を知る機会でもある。
そして、家族の暮らしを支えるための、大切な一歩でもあった。
鶴吉は、手帳を懐にしまった。
言葉を覚えるために使ってきた手帳は、これから旅を記録する手帳へと変わっていく。
彼の旅は、まだ始まったばかりだった。




