第七話 旅立ちの日 地図の先へ―東京から粕壁宿へ 改訂版
東京の朝。
旅立ちの日がやってきた。
鶴吉は、宿の一室で地図を広げていた。
その隣には、イザベラ・バードが座っている。
「ミス・バード、今日は東京を出て、粕壁宿を目指します」
鶴吉は、地図の上に指を置いた。
「粕壁?」
「はい。(現在の埼玉県 春日部市) 日光街道沿いにある宿場町です」
「日光街道ですか」
「江戸の昔から、多くの人が行き来してきた道です。江戸から日光へ向かう街道ですが、途中にはいくつもの宿場があります」
バードは、地図をのぞき込んだ。
「この地図を見れば、道が分かるのですね」
「大まかな道筋は分かります。しかし、地図だけでは分からないこともあります」
「どんなことですか?」
「道の状態です。雨が降ればぬかるむ場所もあります。川や橋の様子も確認しなければなりません。馬や人力車が通れるかどうかも、実際に確かめる必要があります」
「地図に描かれた道と、実際の道は違うこともあるのですね」
「そうです。地図には道が描かれていますが、その道が歩きやすいか、車が通れるかまでは分かりません」
鶴吉は、地図の上を指でたどった。
「道に迷わないためには地図が必要です。しかし、道の様子を知るには、宿場や村の人々に尋ねることも大切です」
「なるほど。地図と、人々の話の両方が必要なのですね」
「はい。川が増水していないか、橋が通れるか、坂道がどのような状態か。そうしたことは、現地で確かめなければなりません」
バードは、興味深そうにうなずいた。
「伊藤、あなたはこの道を通ったことがありますか?」
「いいえ。私も初めてです」
「それでは、あなたも旅人ですね」
鶴吉は、少し笑った。
「そうですね。今日は私も、ミス・バードと一緒に日本を発見する旅人です」
バードは、楽しそうに笑った。
「それは、すてきなことです」
鶴吉は地図をたたみ、手帳を取り出した。
出発地、目的地、道筋、距離。
これから先、記録することはたくさんある。
以前は英語の単語を書き留めていた手帳が、今では旅のための道具になっている。
「では、参りましょう」
二人は荷物を確認し、宿を出た。
外には、人力車が用意されていた。
車夫たちが、荷物を積み込んでいる。
バードは、人力車を見て尋ねた。
「今日は、これで移動するのですね?」
「はい。長い距離を歩くより、早く進めます。ただし、車夫の方々にも休憩が必要です」
「そうですね。無理をさせてはいけません」
鶴吉は車夫たちに道順を伝え、荷物の積み方を確認した。
荷物が片側に寄っていないか。走るときに邪魔にならないか。必要なものをすぐに取り出せるか。
旅の準備は、出発すれば終わりというわけではない。
移動中にも、考えなければならないことがある。
鶴吉は、車夫たちと出発前の確認を済ませた。
そして、バードが乗り込むのを手伝った。
「ミス・バード、準備はよろしいですか?」
「ええ。出発しましょう」
人力車が動き始めた。
東京の町を抜け、日光街道へ。
街道には、行き交う人々の姿があった。
荷物を運ぶ人。旅姿の人。商いに出かける人。
道の両側には、家々や店が並んでいる。
バードは、車上から周囲を熱心に眺めていた。
「伊藤、あちらをご覧なさい。人々の服装が興味深いですね」
「はい。町を離れると、また違った暮らしが見えてくると思います」
「私は、そういうものを見たいのです」
「有名な建物だけではなく、普通の人々の生活も、ですね」
「そのとおりです。人々がどのような家に住み、何を食べ、どんな仕事をしているのか。それを知りたいのです」
鶴吉は、バードの言葉を手帳に書き留めた。
この人は、ただ名所を訪ねたいのではない。
そこに暮らす人々の生活そのものを見たいのだ。
鶴吉は、改めてそのことを理解した。
やがて、道は町並みから田畑の広がる景色へと変わっていった。
「ミス・バード、あちらは田畑です」
「このあたりでは、どのような作物を育てているのでしょう?」
「土地の人に尋ねてみましょう。私も詳しくは知りません」
「あなたも知らないのですか?」
「はい。私も初めて見る土地ですから」
「それなら、二人で尋ねてみましょう」
バードは、楽しそうに言った。
鶴吉はうなずいた。
日本人だからといって、日本中のことを知っているわけではない。
三浦半島の菊名村で生まれ、横浜で暮らしてきた鶴吉にとって、ここは知らない土地だった。
見慣れた海辺の風景とは違う。
広がる田畑。街道沿いの家々。土地ごとに異なる人々の暮らし。
自分の国なのに、知らないことがこんなにもある。
それが、鶴吉には新鮮だった。
途中、人力車は休憩を取ることになった。
車夫たちは車を止め、汗をぬぐった。
長い距離を人の力で進むのだ。車夫たちの疲れは、乗っている人には分かりにくい。
鶴吉は、車夫たちの様子を確かめた。
「少し休みましょう。急ぐ必要はありません」
バードも人力車から降り、周囲を見回した。
「伊藤、ここからの景色も記録しておきたいですね」
「はい。場所と距離、それから見えたものも書いておきます」
鶴吉は手帳を開いた。
地名。
通った道。
休憩した場所。
その日の費用。
そして、目にした風景。
バードは、近くにいた人々の様子にも関心を向けた。
鶴吉は、彼女の質問を聞き、土地の人に尋ねる内容を考えた。
言葉を訳すだけなら、質問と答えをそのまま伝えればよい。
しかし、旅ではそれだけでは足りない。
相手に失礼のないように尋ねること。質問の意味を分かりやすく伝えること。答えの中にある土地の事情を理解すること。
それらも、通訳の仕事だった。
再び人力車に乗り、二人は北へ進んだ。
道の状態は、場所によって違っていた。
乾いた道もあれば、土が柔らかくなっているところもある。
車輪が通りにくい場所では、車夫たちも慎重に進まなければならない。
鶴吉は、道の様子を見ながら、必要に応じて車夫たちと相談した。
「ミス・バード、道が悪くなっています。少し速度を落として進みます」
「分かりました」
「雨が降れば、もっと滑りやすくなるでしょう」
「歩くときも気をつけなければなりませんね」
「はい。特に下り坂は注意が必要です。足を滑らせると危険ですから」
「あなたは、よく道を見ていますね」
「旅の途中で怪我をしては、先へ進めません」
バードは、うなずいた。
「そのとおりですね。旅を続けるためには、安全も大切です」
鶴吉は、少しほっとした。
バードは好奇心が旺盛で、興味を持ったものを見つけると、すぐに確かめたくなる。
それは、旅の楽しさでもある。
しかし、道の安全を確かめるのは鶴吉の役目だった。
「伊藤、あちらの家は何をしているのでしょう?」
「少し先で尋ねてみましょう。私も気になります」
「あなたも?」
「ええ。私も初めて見るものですから」
二人は顔を見合わせて笑った。
旅の途中で、知らないことに出会う。
それを一緒に確かめる。
鶴吉は、バードと旅をすることが、少しずつ楽しくなっていた。
やがて、目的地が近づいてきた。
粕壁宿。
江戸時代から続く日光街道の宿場町である。
人力車を降りたバードは、町の様子を眺めた。
「ここが粕壁ですか」
「はい。今日はここで宿を取ります」
「一日で、ずいぶん遠くまで来ましたね」
「そうですね。車夫の方々にも感謝しなければなりません」
鶴吉は、車夫たちに礼を述べた。
そして、宿の手配を始めた。
荷物を運び入れ、部屋を確認し、食事について相談する。
バードが落ち着いたころには、鶴吉の仕事もようやく一段落していた。
「伊藤、今日の記録はどうなりましたか?」
「はい。地名、道の様子、休憩した場所、費用などを書いています」
「見せていただけますか?」
鶴吉は手帳を開いた。
バードは、その記録を熱心に読んだ。
「よく書けていますね。これなら、あとで今日の旅を振り返ることができます」
「ありがとうございます」
「明日も、いろいろなものを見たいですね」
「はい。明日の道も、私にとっては初めてです」
「私たちは、同じ旅をしているのですね」
鶴吉は、静かにうなずいた。
地図には、道が描かれている。
けれど、その先に何があるのかは、実際に行ってみなければ分からない。
地図を見て、道を確かめる。
土地の人に尋ね、暮らしを知る。
そして、見たものを手帳に書き残す。
それは、バードにとっても、鶴吉にとっても、新しい発見の連続だった。
横浜で英語を覚えた若者は、今、日本を旅する通訳になった。
バードの言葉を訳すだけではない。
旅の道筋を考え、人々と交渉し、土地の様子を確かめ、記録を残す。
鶴吉は、自分の仕事が少しずつ広がっていくのを感じていた。
その夜、鶴吉は手帳に一日の記録を書き加えた。
今日通った道。
出会った人々。
見た風景。
そして、自分自身が初めて知ったこと。
手帳のページは、少しずつ増えていく。
旅は、まだ始まったばかりだった。
イザベラと鶴吉、草加せんべいを食べる!
イザベラ・バードが日本を旅したのは、明治十一年(1878年)のことです。
東京を出発した彼女は、日光街道を北へ向かいました。
その道中にあるのが、草加です。
草加といえば、現在では草加せんべいが有名です。
米を原料にした生地を平たく整え、焼き上げる。醤油の香ばしさと、バリバリとした歯ごたえが特徴です。
では、バードは草加せんべいを食べたのでしょうか?
彼女の旅行記から、草加せんべいを食べたという事実までは確認できません。
しかし、旅の道中で二人がお腹を空かせたとしたら、どうでしょう。
東京を出発してから、すでにかなりの距離を進んでいます。
人力車に乗っているバードも、周囲の景色を眺めたり、鶴吉に質問したりと、退屈する暇はありません。
一方の鶴吉は、道順を確かめ、車夫たちの様子を気にかけ、バードの質問に答えています。
若いとはいえ、朝から気を配り続けているのです。
お腹が空くのは、二人とも同じでしょう。
### 焼きたての香り
草加の町に入った二人は、街道沿いの店先で、香ばしい匂いに気づきました。
鶴吉が足を止めます。
「ミス・バード、何か焼いているようですね」
「ええ。とても香ばしい匂いがします」
店先には、焼いた米の菓子が並んでいました。
鶴吉は店の人に尋ねました。
「これは何という食べ物ですか?」
「せんべいですよ。草加の名物です」
「せんべいですか」
鶴吉は、興味深そうに品物を眺めました。
横浜で暮らしてきた鶴吉ですが、草加のせんべいを食べたことがあるとは限りません。
日本の食べ物だからといって、どこの土地の名物も知っているわけではないのです。
「ミス・バード、このあたりの名物だそうです」
「どのような食べ物ですか?」
「米を使って焼いたものだそうです。こちらは醤油を塗ってあるようですね」
バードは、せんべいを手に取りました。
「ずいぶん硬そうですね」
「ええ。歯ごたえがありそうです」
鶴吉も一枚手に取りました。
二人とも、初めて味わう草加せんべいです。
### バリッ!
まず、鶴吉が一口かじりました。
バリッ!
思った以上に大きな音がしました。
「これは、なかなか硬いですね」
バードも、そっと一口かじりました。
バリッ!
「まあ!」
バードは驚いた顔をしました。
「ずいぶん大きな音がする食べ物ですね」
鶴吉は笑いました。
「焼いてありますからね。よく噛んでください」
「ええ。でも、この香ばしさは気に入りました」
醤油の風味が口の中に広がります。
バードは、もう一口かじりました。
「伊藤、これはおいしいですね」
「そうですね。私も気に入りました」
鶴吉も、もう一枚に手を伸ばしました。
案内役の自分が、バードと一緒に初めての味に出会っている。
それが、なんだかおかしくて、楽しくなりました。
### 食べ物も旅の記録
二人は、せんべいを食べながら、店の人に話を聞きました。
「このせんべいは、いつごろから作られているのですか?」
鶴吉が尋ねます。
店の人は、草加の名物として作られていることを話してくれました。
鶴吉は、その話を手帳に書き留めました。
地名、道の様子、宿泊先、費用。
これまで記録してきたことに、土地の食べ物も加わります。
バードは、食べ物についても興味を持っていました。
どのような材料を使い、どのように作り、どんな人々が食べているのか。
それを知ることも、日本の暮らしを知ることにつながるからです。
「伊藤、今日の記録には、このせんべいのことも書いてくださいね」
「はい。草加の名物として記録しておきます」
「それに、今日のおやつとしても」
「それも書いておきましょう」
二人は笑いました。
もちろん、これは史料に残された出来事ではありません。バードが草加せんべいを食べたことも、鶴吉が初めて食べたことも、確認できているわけではありません。
ここは、旅の様子を想像して描いた創作です。
けれど、長い道のりを進む二人がお腹を空かせ、街道沿いで土地の食べ物に出会う。そんな場面は、旅の物語によく似合うと思います。
旅というものは、名所や景色を見るだけではありません。
土地の人々と出会い、暮らしを知り、その土地で作られたものを味わう。
食べ物もまた、その土地の文化を知る手がかりになります。
鶴吉にとっても、バードにとっても、初めて訪れる土地には、まだ知らないものがたくさんあります。
地図には道が描かれています。
けれど、その道の先に何があるのかは、実際に行ってみなければ分かりません。
そして、ときには、その道の途中で出会った一枚のせんべいが、二人の旅の楽しい思い出になるのかもしれません。
バリッ。
もう一枚、食べたくなった二人なのでした。




