↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『十八歳の通訳、明治を歩く―伊藤鶴吉とイザベラ・バードの旅日記』  作者: C・T・ITOU


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/12

第七話 旅立ちの日 地図の先へ―東京から粕壁宿へ 改訂版



東京の朝。


旅立ちの日がやってきた。


鶴吉は、宿の一室で地図を広げていた。


その隣には、イザベラ・バードが座っている。


「ミス・バード、今日は東京を出て、粕壁宿を目指します」


鶴吉は、地図の上に指を置いた。


「粕壁?」


「はい。(現在の埼玉県 春日部市) 日光街道沿いにある宿場町です」


「日光街道ですか」


「江戸の昔から、多くの人が行き来してきた道です。江戸から日光へ向かう街道ですが、途中にはいくつもの宿場があります」


バードは、地図をのぞき込んだ。


「この地図を見れば、道が分かるのですね」


「大まかな道筋は分かります。しかし、地図だけでは分からないこともあります」


「どんなことですか?」


「道の状態です。雨が降ればぬかるむ場所もあります。川や橋の様子も確認しなければなりません。馬や人力車が通れるかどうかも、実際に確かめる必要があります」


「地図に描かれた道と、実際の道は違うこともあるのですね」


「そうです。地図には道が描かれていますが、その道が歩きやすいか、車が通れるかまでは分かりません」


鶴吉は、地図の上を指でたどった。


「道に迷わないためには地図が必要です。しかし、道の様子を知るには、宿場や村の人々に尋ねることも大切です」


「なるほど。地図と、人々の話の両方が必要なのですね」


「はい。川が増水していないか、橋が通れるか、坂道がどのような状態か。そうしたことは、現地で確かめなければなりません」


バードは、興味深そうにうなずいた。


「伊藤、あなたはこの道を通ったことがありますか?」


「いいえ。私も初めてです」


「それでは、あなたも旅人ですね」


鶴吉は、少し笑った。


「そうですね。今日は私も、ミス・バードと一緒に日本を発見する旅人です」


バードは、楽しそうに笑った。


「それは、すてきなことです」


鶴吉は地図をたたみ、手帳を取り出した。


出発地、目的地、道筋、距離。


これから先、記録することはたくさんある。


以前は英語の単語を書き留めていた手帳が、今では旅のための道具になっている。


「では、参りましょう」


二人は荷物を確認し、宿を出た。


外には、人力車が用意されていた。


車夫たちが、荷物を積み込んでいる。


バードは、人力車を見て尋ねた。


「今日は、これで移動するのですね?」


「はい。長い距離を歩くより、早く進めます。ただし、車夫の方々にも休憩が必要です」


「そうですね。無理をさせてはいけません」


鶴吉は車夫たちに道順を伝え、荷物の積み方を確認した。


荷物が片側に寄っていないか。走るときに邪魔にならないか。必要なものをすぐに取り出せるか。


旅の準備は、出発すれば終わりというわけではない。


移動中にも、考えなければならないことがある。


鶴吉は、車夫たちと出発前の確認を済ませた。


そして、バードが乗り込むのを手伝った。


「ミス・バード、準備はよろしいですか?」


「ええ。出発しましょう」


人力車が動き始めた。


東京の町を抜け、日光街道へ。


街道には、行き交う人々の姿があった。


荷物を運ぶ人。旅姿の人。商いに出かける人。


道の両側には、家々や店が並んでいる。


バードは、車上から周囲を熱心に眺めていた。


「伊藤、あちらをご覧なさい。人々の服装が興味深いですね」


「はい。町を離れると、また違った暮らしが見えてくると思います」


「私は、そういうものを見たいのです」


「有名な建物だけではなく、普通の人々の生活も、ですね」


「そのとおりです。人々がどのような家に住み、何を食べ、どんな仕事をしているのか。それを知りたいのです」


鶴吉は、バードの言葉を手帳に書き留めた。


この人は、ただ名所を訪ねたいのではない。


そこに暮らす人々の生活そのものを見たいのだ。


鶴吉は、改めてそのことを理解した。


やがて、道は町並みから田畑の広がる景色へと変わっていった。


「ミス・バード、あちらは田畑です」


「このあたりでは、どのような作物を育てているのでしょう?」


「土地の人に尋ねてみましょう。私も詳しくは知りません」


「あなたも知らないのですか?」


「はい。私も初めて見る土地ですから」


「それなら、二人で尋ねてみましょう」


バードは、楽しそうに言った。


鶴吉はうなずいた。


日本人だからといって、日本中のことを知っているわけではない。


三浦半島の菊名村で生まれ、横浜で暮らしてきた鶴吉にとって、ここは知らない土地だった。


見慣れた海辺の風景とは違う。


広がる田畑。街道沿いの家々。土地ごとに異なる人々の暮らし。


自分の国なのに、知らないことがこんなにもある。


それが、鶴吉には新鮮だった。


途中、人力車は休憩を取ることになった。


車夫たちは車を止め、汗をぬぐった。


長い距離を人の力で進むのだ。車夫たちの疲れは、乗っている人には分かりにくい。


鶴吉は、車夫たちの様子を確かめた。


「少し休みましょう。急ぐ必要はありません」


バードも人力車から降り、周囲を見回した。


「伊藤、ここからの景色も記録しておきたいですね」


「はい。場所と距離、それから見えたものも書いておきます」


鶴吉は手帳を開いた。


地名。


通った道。


休憩した場所。


その日の費用。


そして、目にした風景。


バードは、近くにいた人々の様子にも関心を向けた。


鶴吉は、彼女の質問を聞き、土地の人に尋ねる内容を考えた。


言葉を訳すだけなら、質問と答えをそのまま伝えればよい。


しかし、旅ではそれだけでは足りない。


相手に失礼のないように尋ねること。質問の意味を分かりやすく伝えること。答えの中にある土地の事情を理解すること。


それらも、通訳の仕事だった。


再び人力車に乗り、二人は北へ進んだ。


道の状態は、場所によって違っていた。


乾いた道もあれば、土が柔らかくなっているところもある。


車輪が通りにくい場所では、車夫たちも慎重に進まなければならない。


鶴吉は、道の様子を見ながら、必要に応じて車夫たちと相談した。


「ミス・バード、道が悪くなっています。少し速度を落として進みます」


「分かりました」


「雨が降れば、もっと滑りやすくなるでしょう」


「歩くときも気をつけなければなりませんね」


「はい。特に下り坂は注意が必要です。足を滑らせると危険ですから」


「あなたは、よく道を見ていますね」


「旅の途中で怪我をしては、先へ進めません」


バードは、うなずいた。


「そのとおりですね。旅を続けるためには、安全も大切です」


鶴吉は、少しほっとした。


バードは好奇心が旺盛で、興味を持ったものを見つけると、すぐに確かめたくなる。


それは、旅の楽しさでもある。


しかし、道の安全を確かめるのは鶴吉の役目だった。


「伊藤、あちらの家は何をしているのでしょう?」


「少し先で尋ねてみましょう。私も気になります」


「あなたも?」


「ええ。私も初めて見るものですから」


二人は顔を見合わせて笑った。


旅の途中で、知らないことに出会う。


それを一緒に確かめる。


鶴吉は、バードと旅をすることが、少しずつ楽しくなっていた。


やがて、目的地が近づいてきた。


粕壁宿。


江戸時代から続く日光街道の宿場町である。


人力車を降りたバードは、町の様子を眺めた。


「ここが粕壁ですか」


「はい。今日はここで宿を取ります」


「一日で、ずいぶん遠くまで来ましたね」


「そうですね。車夫の方々にも感謝しなければなりません」


鶴吉は、車夫たちに礼を述べた。


そして、宿の手配を始めた。


荷物を運び入れ、部屋を確認し、食事について相談する。


バードが落ち着いたころには、鶴吉の仕事もようやく一段落していた。


「伊藤、今日の記録はどうなりましたか?」


「はい。地名、道の様子、休憩した場所、費用などを書いています」


「見せていただけますか?」


鶴吉は手帳を開いた。


バードは、その記録を熱心に読んだ。


「よく書けていますね。これなら、あとで今日の旅を振り返ることができます」


「ありがとうございます」


「明日も、いろいろなものを見たいですね」


「はい。明日の道も、私にとっては初めてです」


「私たちは、同じ旅をしているのですね」


鶴吉は、静かにうなずいた。


地図には、道が描かれている。


けれど、その先に何があるのかは、実際に行ってみなければ分からない。


地図を見て、道を確かめる。


土地の人に尋ね、暮らしを知る。


そして、見たものを手帳に書き残す。


それは、バードにとっても、鶴吉にとっても、新しい発見の連続だった。


横浜で英語を覚えた若者は、今、日本を旅する通訳になった。


バードの言葉を訳すだけではない。


旅の道筋を考え、人々と交渉し、土地の様子を確かめ、記録を残す。


鶴吉は、自分の仕事が少しずつ広がっていくのを感じていた。


その夜、鶴吉は手帳に一日の記録を書き加えた。


今日通った道。


出会った人々。


見た風景。


そして、自分自身が初めて知ったこと。


手帳のページは、少しずつ増えていく。


旅は、まだ始まったばかりだった。

イザベラと鶴吉、草加せんべいを食べる!


イザベラ・バードが日本を旅したのは、明治十一年(1878年)のことです。


東京を出発した彼女は、日光街道を北へ向かいました。


その道中にあるのが、草加です。


草加といえば、現在では草加せんべいが有名です。


米を原料にした生地を平たく整え、焼き上げる。醤油の香ばしさと、バリバリとした歯ごたえが特徴です。


では、バードは草加せんべいを食べたのでしょうか?


彼女の旅行記から、草加せんべいを食べたという事実までは確認できません。


しかし、旅の道中で二人がお腹を空かせたとしたら、どうでしょう。


東京を出発してから、すでにかなりの距離を進んでいます。


人力車に乗っているバードも、周囲の景色を眺めたり、鶴吉に質問したりと、退屈する暇はありません。


一方の鶴吉は、道順を確かめ、車夫たちの様子を気にかけ、バードの質問に答えています。


若いとはいえ、朝から気を配り続けているのです。


お腹が空くのは、二人とも同じでしょう。


### 焼きたての香り


草加の町に入った二人は、街道沿いの店先で、香ばしい匂いに気づきました。


鶴吉が足を止めます。


「ミス・バード、何か焼いているようですね」


「ええ。とても香ばしい匂いがします」


店先には、焼いた米の菓子が並んでいました。


鶴吉は店の人に尋ねました。


「これは何という食べ物ですか?」


「せんべいですよ。草加の名物です」


「せんべいですか」


鶴吉は、興味深そうに品物を眺めました。


横浜で暮らしてきた鶴吉ですが、草加のせんべいを食べたことがあるとは限りません。


日本の食べ物だからといって、どこの土地の名物も知っているわけではないのです。


「ミス・バード、このあたりの名物だそうです」


「どのような食べ物ですか?」


「米を使って焼いたものだそうです。こちらは醤油を塗ってあるようですね」


バードは、せんべいを手に取りました。


「ずいぶん硬そうですね」


「ええ。歯ごたえがありそうです」


鶴吉も一枚手に取りました。


二人とも、初めて味わう草加せんべいです。


### バリッ!


まず、鶴吉が一口かじりました。


バリッ!


思った以上に大きな音がしました。


「これは、なかなか硬いですね」


バードも、そっと一口かじりました。


バリッ!


「まあ!」


バードは驚いた顔をしました。


「ずいぶん大きな音がする食べ物ですね」


鶴吉は笑いました。


「焼いてありますからね。よく噛んでください」


「ええ。でも、この香ばしさは気に入りました」


醤油の風味が口の中に広がります。


バードは、もう一口かじりました。


「伊藤、これはおいしいですね」


「そうですね。私も気に入りました」


鶴吉も、もう一枚に手を伸ばしました。


案内役の自分が、バードと一緒に初めての味に出会っている。


それが、なんだかおかしくて、楽しくなりました。


### 食べ物も旅の記録


二人は、せんべいを食べながら、店の人に話を聞きました。


「このせんべいは、いつごろから作られているのですか?」


鶴吉が尋ねます。


店の人は、草加の名物として作られていることを話してくれました。


鶴吉は、その話を手帳に書き留めました。


地名、道の様子、宿泊先、費用。


これまで記録してきたことに、土地の食べ物も加わります。


バードは、食べ物についても興味を持っていました。


どのような材料を使い、どのように作り、どんな人々が食べているのか。


それを知ることも、日本の暮らしを知ることにつながるからです。


「伊藤、今日の記録には、このせんべいのことも書いてくださいね」


「はい。草加の名物として記録しておきます」


「それに、今日のおやつとしても」


「それも書いておきましょう」


二人は笑いました。


もちろん、これは史料に残された出来事ではありません。バードが草加せんべいを食べたことも、鶴吉が初めて食べたことも、確認できているわけではありません。


ここは、旅の様子を想像して描いた創作です。


けれど、長い道のりを進む二人がお腹を空かせ、街道沿いで土地の食べ物に出会う。そんな場面は、旅の物語によく似合うと思います。


旅というものは、名所や景色を見るだけではありません。


土地の人々と出会い、暮らしを知り、その土地で作られたものを味わう。


食べ物もまた、その土地の文化を知る手がかりになります。


鶴吉にとっても、バードにとっても、初めて訪れる土地には、まだ知らないものがたくさんあります。


地図には道が描かれています。


けれど、その道の先に何があるのかは、実際に行ってみなければ分かりません。


そして、ときには、その道の途中で出会った一枚のせんべいが、二人の旅の楽しい思い出になるのかもしれません。


バリッ。


もう一枚、食べたくなった二人なのでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。