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NEURON STAR  作者: リンダ


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最初の火

第6話 最初の火


 火は、人類に文明を与えた。


 暗闇を照らし、寒さから身を守り、食べ物を変え、金属を溶かし、やがて蒸気を生み、電気を生み、ロケットを空へ押し上げた。


 だが、火はいつも、人間の命令に従ったわけではない。


 扱いを誤れば、家を焼き、都市を焼き、森を焼き、人の命を奪う。


 人類が太陽系から逃れるために灯した新しい火も、同じだった。


     ◇


 2250年6月17日。


 月の裏側。


 ルナ・ディープスペース推進研究所。


 地表から約三百メートル下に造られた実験区画は、通常よりもはるかに深い静けさに包まれていた。


 月には大気がない。


 外では風も吹かず、音も伝わらない。


 そのため、実験施設内の機械音は、かえって耳についた。


 冷却ポンプの低い振動。


 磁場制御装置の駆動音。


 真空容器の圧力調整。


 計測機器の短い電子音。


 そのすべてが、巨大な生き物の呼吸のように聞こえていた。


 実験炉《オデュッセウス零号機》は、地下中央区画に固定されている。


 全長百八十メートル。


 最大直径四十二メートル。


 外側を幾重もの超伝導磁場コイルが取り囲み、その中心には核融合反応室がある。


 反応室へ投入される燃料は、重水素とヘリウム3。


 そして核融合反応を始動させるため、極微量の反物質が触媒として使用される。


 主燃料に反物質を用いるわけではない。


 人類には、それほど大量の反物質を作る能力などなかった。


 わずかな反物質を燃料ペレットの中心へ注入し、対消滅で生じるエネルギーを使って核融合を点火する。


 理論上は、高効率。


 燃料節約。


 長時間運転可能。


 方舟の巨大な質量を、数十年かけて加速するための中核技術だった。


 だが、理論上という言葉は、まだ何も保証していなかった。


     ◇


「反応室温度、三億二千万ケルビン」


「磁場強度、設計値の九十八・六パーセント」


「燃料供給、安定」


「反物質注入系、待機」


 中央管制室で、オペレーターたちが次々と数値を読み上げる。


 推進部門主任ユン・ハンスは、正面スクリーンを見上げていた。


 画面には、零号機の内部構造とリアルタイムの磁場分布が表示されている。


 青い線が、反応室を包み込むように何重にも閉じている。


 その中心に、赤い光点が浮かんでいた。


 核融合プラズマ。


「前回出力の二倍まで上げる」


 ユンが言った。


 隣にいたイーライ・チェンが顔を向ける。


「予定では一・五倍です」


「一・五倍では、磁場歪みの発生条件に届かない」


「だから段階的に確認するんです」


「今日、条件を特定する」


「急ぎすぎです」


「方舟は待ってくれない」


 イーライは唇を噛んだ。


 零号機はすでに低出力試験に成功していた。


 ただし、それは推進装置として使える水準からは遠い。


 現在の出力では、小型探査船を動かすことさえ難しい。


 方舟一隻の質量は、数十億トン。


 その巨体を光速の一パーセント近くまで加速するには、桁違いの出力と、何十年もの安定運転が必要だった。


 低出力で成功しても意味はない。


 だが、高出力で一度暴走すれば、施設そのものが消える。


「イーライ」


 ユンは画面を見たまま言った。


「怖いか」


「怖いです」


 イーライは即答した。


「だから慎重になるべきです」


「私は怖くないと思うか」


 イーライは何も言わなかった。


 ユンの顔は、いつもと同じだった。


 険しく、疲れていて、感情をあまり見せない。


 だが、その右手は、ゆっくりと握られていた。


「私は、この炉が壊れることより」


 ユンは言った。


「完成しないことの方が怖い」


 イーライはスクリーンへ視線を戻した。


「二倍まで上げれば、磁場コイルに共振が起きる可能性があります」


「だから監視する」


「監視して止められる保証は」


「ない」


「なら」


「保証ができるまで待つ時間もない」


 管制室の空気が硬くなる。


 誰も二人の会話へ口を挟まなかった。


 やがてイーライは、ゆっくりとうなずいた。


「異常振動が設計限界の七十パーセントへ達した時点で、即時停止」


「分かった」


「反物質注入は自動停止ではなく、二重手動系に切り替えます」


「それも認める」


「炉心閉鎖後、最低二十四時間は再起動しない」


 ユンは一瞬だけ黙った。


「認める」


 イーライは息を吐いた。


 それで安全になるわけではない。


 ただ、危険へ踏み出すための条件が整っただけだった。


     ◇


「高出力試験、開始まで六十秒」


 施設内へ自動音声が流れる。


 実験区画の作業員はすでに退避している。


 中央管制室は、厚い遮蔽壁と複数の耐圧扉によって反応区画から隔てられていた。


 万が一、炉が破損した場合、第一隔壁が閉鎖される。


 それでも止まらなければ第二隔壁。


 さらに地下施設全体が自動封鎖される。


 最悪の場合、反応区画は月の岩盤ごと爆破され、地上施設から切り離される設計だった。


「五十秒」


 イーライは端末へ手を置いた。


 反物質注入量。


 燃料密度。


 磁場強度。


 すべて確認する。


「四十秒」


 画面の向こうで、超伝導コイルが出力を上げていく。


「三十秒」


 青い磁力線が太くなる。


「二十秒」


 反応室へ、燃料ペレットが装填される。


「十秒」


 ユンが言った。


「全員、記録を取れ」


「九」


「失敗しても、原因を残せ」


「八」


「次に進めるように」


「七」


 イーライは目を閉じなかった。


「六」


「五」


「四」


「三」


「二」


「一」


「反物質触媒、注入」


     ◇


 反応室中心で、物質と反物質が衝突した。


 対消滅。


 粒子の質量が、純粋なエネルギーへ変わる。


 そのエネルギーが燃料ペレットを内側へ押し潰し、核融合反応を点火する。


 スクリーンが白く光った。


「核融合反応、成立」


「出力十八パーセント」


「二十二」


「二十七」


 数字が上昇する。


「磁場安定」


「冷却系正常」


「中性子放射、予測範囲内」


 管制室に、かすかな安堵が広がる。


 出力は上がり続けた。


「四十一パーセント」


「四十八」


「五十五」


 反応室を包む磁場が、激しく揺れながらプラズマを閉じ込めている。


 零号機そのものが、低く震え始めた。


 月には大気がない。


 だが、施設内部では構造材を通じて振動が伝わる。


 床の下から、唸るような感覚が足裏へ届いた。


「構造振動、二十二パーセント」


「許容範囲」


「出力六十三パーセント」


 イーライは波形を見た。


 振動は予想どおり増えている。


 ただし、周波数がわずかにずれていた。


「磁場コイル三番、位相遅延」


「自動補正中」


「補正値は」


「〇・〇四パーセント」


「小さい」


 ユンが言った。


「続行」


「出力七十パーセント」


 床の振動が強くなる。


「構造振動、三十六パーセント」


「磁場安定」


 イーライは、三番コイルの波形から目を離さなかった。


 位相遅延は消えていない。


 むしろ少しずつ広がっている。


「三番コイル、再補正」


「自動補正限界内です」


「手動で位相を〇・〇二戻して」


「指示を確認」


「実行」


 一瞬、波形が揃った。


 だが。


 次の瞬間。


 三番コイルの振動が跳ね上がった。


「異常振動」


 警告音。


「三番コイル、四十八パーセント」


「出力を下げろ」


 イーライが即座に言う。


 ユンが画面を見る。


「まだ限界以下だ」


「共振が始まっている」


「原因を確認する」


「確認している間に広がる」


 警報がもう一段階上がる。


「四番コイルに振動伝播」


「五番も上昇」


「構造振動、五十九パーセント」


 イーライは停止手順を入力した。


「反物質注入停止」


「待て」


 ユンが言った。


「磁場出力を上げれば押さえ込める可能性がある」


「上げたら共振が強くなる」


「プラズマを縮める」


「コイルが持ちません」


「出力七十七パーセント」


「構造振動、六十七」


 設定した停止基準まで、あと三パーセント。


 イーライはユンを見た。


「停止します」


 ユンは画面を見つめた。


 一秒。


 二秒。


 そのわずかな迷いの間に、数字が変わる。


「構造振動、七十二パーセント」


「自動緊急停止を開始」


 警告音が赤色へ変わった。


     ◇


「反物質注入停止」


「停止確認」


「燃料供給遮断」


「遮断不完全」


「何?」


「主供給弁、応答なし」


 イーライの顔から血の気が引いた。


「予備弁を閉鎖」


「予備弁、閉鎖中」


「炉心圧力上昇」


「磁場コイル三番、温度急上昇」


 零号機全体が大きく揺れた。


 管制室の照明が瞬いた。


 天井から細かな塵が落ちる。


「超伝導状態が崩れる」


 技術者が叫んだ。


「三番コイル、クエンチ発生」


 超伝導が失われ、電気抵抗が急激に生じる。


 流れていた巨大電流は熱へ変わる。


「三番コイル温度、上昇」


「四番へ伝播」


「冷却剤放出」


「間に合いません」


 スクリーン上で、青い磁力線の一部が崩れた。


 閉じ込められていたプラズマが、外側へ膨らむ。


「磁場崩壊率、十八パーセント」


「二十九」


「四十二」


 反応室内のプラズマが壁へ接触すれば、炉材が瞬時に蒸発する。


 さらに燃料供給が続けば、反応は制御不能になる。


「予備弁は」


「閉鎖しました」


「燃料流入、なお継続」


「配管破損の可能性」


 ユンが怒鳴る。


「炉心投棄」


「投棄経路が開きません」


「手動開放」


「反応区画からしか操作できません」


 管制室が静まり返った。


 反応区画には誰もいない。


 遠隔操作が故障している。


 手動で弁を開くには、暴走する炉の近くへ行かなければならない。


「保守ロボットを送れ」


「通信が切れています」


「予備回線」


「電磁ノイズで使用不能」


 警報がさらに強くなる。


「炉心圧力、限界値の八十四パーセント」


「第一隔壁、自動閉鎖」


 厚い扉が次々に閉まっていく。


 施設は、自らを切り分け始めた。


     ◇


 その時、実験区画の保守主任、マリク・オセイが管制室へ入ってきた。


 四十九歳。


 月面設備の保守に二十年以上携わってきた技術者だった。


「手動弁の場所は」


 イーライが振り返る。


「何をするつもりです」


「開ける」


「無理です」


「場所を聞いている」


「反応区画二層目。炉心投棄配管の基部です」


「到達時間は」


「通常で四分」


「今なら」


「分かりません」


 マリクは壁の緊急装備を開いた。


 放射線防護服。


 冷却装置。


 耐熱外装。


 酸素供給。


「待ってください」


 イーライが立ち上がる。


「第一隔壁が閉まっています」


「保守用通路がある」


「炉心圧力が限界を超えたら、区画ごと爆破されます」


「その前に投棄弁を開ける」


「放射線量が」


「分かっている」


 マリクは防護服へ腕を通した。


 ユンが彼の前へ立つ。


「行かせられない」


「止めるなら、代わりに誰か行くのか」


 ユンは答えなかった。


「遠隔が死んだ。ロボットも動かない。だったら、人間が行くしかない」


「戻れない可能性が高い」


「戻るために行くんじゃない」


 マリクはヘルメットをかぶった。


「炉を止めるために行く」


 イーライが彼の腕をつかんだ。


「手動弁を開けても、プラズマが投棄路へ流れる保証はありません」


「開かなければ、ここで全員死ぬ」


「それでも」


「若いな」


 マリクは、ヘルメット越しにかすかに笑った。


「若いから、まだ全部助けられると思ってる」


「そんなことは」


「今は一つだけだ」


 彼は炉心の映像を見た。


「この施設を守る」


 そして、通信回線を接続した。


「保守主任マリク・オセイ。反応区画へ進入する」


     ◇


 保守用通路の扉が開く。


 その向こうには、赤い非常灯だけが点滅していた。


 施設全体が震えている。


 通路の壁からは冷却剤が白い霧となって噴き出していた。


 マリクは一歩ずつ進んだ。


「通信状態は」


 管制室からイーライが尋ねる。


「聞こえる」


「放射線量、上昇中です」


「表示されてる」


「三分以内に引き返してください」


「弁まで何メートル」


「百六十」


 マリクは走った。


 重い防護服が動きを鈍らせる。


 月面重力は地球の六分の一。


 だが、地下施設の人工重力区画では、転倒防止のため弱い回転重力が加えられている。


 足元が揺れるたび、身体が浮き上がりそうになる。


「構造振動、八十一パーセント」


 管制室から声が飛ぶ。


「炉心圧力、九十」


「爆破判定まで」


「二分四十秒」


 マリクは最初の角を曲がった。


 通路の一部が崩れている。


 配管が天井から垂れ下がり、火花が散っていた。


 彼は身体を低くし、その下をくぐる。


「残り百二十メートル」


「分かってる」


「防護服外装温度、上昇」


「まだ持つ」


「放射線量、致死域へ近づいています」


「数字を読むな」


「ですが」


「足が止まる」


 イーライは口を閉じた。


 マリクの呼吸音だけが通信へ入ってくる。


 荒く、短い。


 それでも前へ進む。


     ◇


 管制室では、ノクスのことなど誰も考えていなかった。


 七十年後の太陽系。


 恒星間方舟。


 百四十億人。


 そんな巨大な問題は、一時的に消えていた。


 今、彼らが見ているのは、一人の男の背中だった。


「炉心圧力、九十三パーセント」


「磁場崩壊率、六十一」


「第一隔壁内温度、上昇」


 ユンは拳を握った。


「マリク、引き返せ」


「弁まで七十メートル」


「もういい」


「よくない」


「区画を切り離す」


「ここで切り離したら零号機は失われる」


「炉より命だ」


「だったら最初から二倍に上げるな」


 その一言が、ユンを貫いた。


 誰も何も言えなかった。


 マリクは続けた。


「行けと言ったのは、あんただ」


「違う」


「同じだ」


 荒い呼吸の合間に、声が続く。


「急ぐと決めた時点で、誰かがこうなる可能性はあった」


 ユンは目を閉じた。


「すまない」


「謝るのは後にしろ」


「戻ってから聞く」


「そうしよう」


 マリクは短く笑った。


 だが、その笑いはすぐに咳へ変わった。


     ◇


「弁室へ到達」


 映像が大きく揺れる。


 手動投棄弁は、直径二メートルほどの円形機構だった。


 緊急時には、中央のハンドルを回し、最後に解除レバーを引く。


 だが、振動で機構全体が歪んでいる。


「ハンドルが動かない」


「補助動力を接続してください」


「接続口が潰れてる」


「工具で固定ピンを外せますか」


 マリクは腰の工具を取り出した。


 厚い手袋では細かな作業が難しい。


 施設が揺れるたび、身体が壁へ押しつけられる。


「爆破判定まで、一分三十秒」


「固定ピン一つ目、解除」


「二つ目」


「待て」


「マリク?」


「工具が」


 金属音。


 工具が床へ落ちた。


 振動で数メートル先まで転がっていく。


「取れますか」


「行く」


「時間がありません」


「分かってる」


 マリクは床を這った。


 防護服外装に警告表示が走る。


 放射線。


 熱。


 酸素消費。


 すべて危険域へ入っていた。


 彼は工具をつかむ。


 立ち上がる。


 再び弁へ戻る。


「残り一分」


「二つ目、解除」


「三つ目」


 工具が固定ピンへ差し込まれる。


「炉心圧力、九十七パーセント」


「磁場崩壊率、七十九」


「爆破準備、開始」


 管制室のスクリーンに、赤い表示が出た。


 EMERGENCY SECTION SEPARATION。


 緊急区画分離。


「自動爆破を止めろ」


 ユンが命じる。


「停止できません」


「手動承認を解除」


「安全規定により不可」


 イーライが端末を叩く。


「三十秒だけ延長する」


「炉心破裂の危険が」


「マリクが中にいる」


「延長すれば施設全体へ被害が及ぶ可能性があります」


「それでも」


 ユンが叫ぶ。


「三十秒だ」


 イーライはユンを見た。


 その顔には、もう迷いがなかった。


「延長します」


 緊急承認。


 二人の認証。


 爆破判定が三十秒延びる。


     ◇


「三つ目、外れた」


 マリクが言った。


「ハンドルを回してください」


 彼は両手で巨大なハンドルをつかんだ。


 動かない。


「回らない」


「反時計方向です」


「分かってる」


 力を込める。


 金属が軋む。


 腕が震える。


「防護服内温度、上昇」


「酸素残量、十八パーセント」


「マリク、あと二十五秒」


 ユンの声。


「分かってる」


 ハンドルが、わずかに動いた。


「開度三パーセント」


「もう少し」


 五パーセント。


 八。


 十二。


 弁の向こうから、猛烈な振動が伝わる。


「投棄路圧力上昇」


「流れ始めています」


「開度二十パーセント必要です」


 マリクは歯を食いしばる。


 十五。


 十七。


「残り十秒」


「十九」


「あと一パーセント」


「動け」


 マリクが叫んだ。


「動け!」


 ハンドルが跳ねた。


「開度二十一パーセント」


「投棄路、開通」


「炉心プラズマ、排出開始」


 スクリーン上で、反応室のプラズマが緊急投棄路へ流れ込む。


 月面地下深くに設けられた犠牲区画へ。


 高温プラズマは厚い耐熱材を溶かしながら膨張し、反応密度を失っていく。


「炉心圧力低下」


「九十七から八十」


「六十六」


「磁場崩壊、停止」


「核融合反応、減衰」


 爆破判定が解除された。


 管制室から、誰かの泣くような息が漏れた。


「止まった」


 イーライがつぶやく。


「炉が止まった」


     ◇


「マリク」


 ユンが通信へ呼びかけた。


「聞こえるか」


 返事がない。


「マリク」


 雑音。


 かすかな呼吸音。


「……聞こえてる」


「そこを離れろ」


「足が動かん」


「救助班を送る」


「放射線が高すぎる」


「送る」


「扉が閉じてる」


「開ける」


「無理だ」


「必ず開ける」


 マリクはしばらく黙っていた。


「ユン」


「何だ」


「炉は」


「止まった」


「そうか」


「零号機も残った」


 また沈黙。


「なら、記録を消すな」


「何?」


「今日のことだ」


 マリクの声は弱くなっていた。


「成功だけ残すな」


「何を言っている」


「誰かが無理をしたことも、誰かが止められなかったことも、全部残せ」


「マリク」


「次の炉では、同じ失敗をするな」


 ユンは答えられなかった。


「方舟を造るんだろ」


「ああ」


「だったら」


 呼吸が途切れる。


「生きてるやつを、ちゃんと乗せろ」


「マリク」


「数字だけで……決めるな」


 通信に、長い雑音が入った。


「マリク」


 返事はなかった。


     ◇


 救助班が弁室へ到達したのは、四十三分後だった。


 マリク・オセイは、投棄弁のそばに倒れていた。


 防護服は熱で変色し、放射線警報は振り切れていた。


 生命反応は、すでになかった。


 彼の両手は、最後までハンドルを握っていた。


     ◇


 事故は外部へ公表されなかった。


 公式記録では、月面地下研究施設における冷却設備の故障。


 死者一名。


 詳細は非公開。


 オデュッセウス計画も、零号機の存在も伏せられた。


 だが、研究所の内部では、すべての作業が停止された。


 試験炉は冷却状態へ移行。


 全設計の再検討。


 原因解析。


 手順見直し。


 数百人の研究者と技術者が、言葉少なに作業へ入った。


 零号機の損傷は大きかった。


 磁場コイル三基が焼損。


 燃料配管破裂。


 反応室内壁の一部が蒸発。


 復旧には少なくとも一年。


 計画全体の遅延は避けられない。


 それでも、炉は残った。


 実験データも残った。


 そして、人類は初めて、高出力反物質触媒核融合反応を数分間維持した。


 成功なのか。


 失敗なのか。


 誰にも簡単には決められなかった。


     ◇


 事故から三日後。


 ユンは一人、マリクの作業記録を見ていた。


 点検報告。


 配管補修。


 若手技術者への指導記録。


 工具の使用履歴。


 家族への短い通信。


 最後の記録は、実験開始の二時間前だった。


『主供給弁の反応に〇・三秒の遅れ。許容範囲内だが、再点検推奨』


 ユンは画面を止めた。


 主供給弁。


 事故で閉じなかった弁。


 マリクは、事前に異常を見つけていた。


 報告は上げられていた。


 だが、高出力試験を優先するため、点検は翌週へ回された。


 承認者の欄には、ユンの名前があった。


 彼は椅子に座ったまま、長い時間動かなかった。


 イーライが部屋へ入ってきた。


「見つけたんですね」


 ユンは答えなかった。


「僕も読みました」


「私が止めなかった」


「全員で判断しました」


「最終承認は私だ」


「マリクは、あなた一人を責めていませんでした」


「それで何が変わる」


 イーライは机の向かいへ立った。


「次を変えます」


「次」


「マリクが言ったとおりです」


 ユンは画面を見る。


 記録を消すな。


 同じ失敗をするな。


「零号機を造り直します」


 イーライが言った。


「燃料供給系を完全二重化。手動弁は遠隔機械式に変更。磁場コイルは独立分離式。どれか一基がクエンチしても、他へ伝播しない構造にします」


「一年遅れる」


「一年で済ませます」


「五十年しかない」


「だから、急いで同じ事故を起こす余裕はない」


 ユンは初めてイーライを見た。


「私を計画から外したいか」


「いいえ」


「なぜ」


「あなたが必要だからです」


「人を死なせた責任者が?」


「責任を知った責任者が必要です」


 部屋に沈黙が落ちる。


 やがてユンは、マリクの記録を保存領域へ移した。


 極秘事故記録。


 永久保存。


 削除不可。


「零号機の設計を全部見直す」


「はい」


「予定ありきで進めない」


「はい」


「異常報告は、どれほど小さくても止める理由にする」


「分かりました」


 ユンは立ち上がった。


「それでも間に合わせる」


 イーライはうなずいた。


「間に合わせます」


     ◇


 地球では、レア・モーガンが月面の事故を追っていた。


 公式発表。


 冷却設備故障。


 作業員一名死亡。


 だが、事故が起きた施設は、存在自体が公開されていない区域だった。


 事故時刻には、月面の複数都市で一瞬の電力変動が記録されている。


 さらに、深宇宙推進開発庁の研究責任者たちが、一斉に予定を取り消していた。


 レアは匿名情報提供者へ通信を送った。


『冷却設備の事故ではないですね』


 返事はなかった。


『新型エンジンの試験ですか』


 沈黙。


『誰かが亡くなった』


 数分後。


 短い返信が届いた。


『彼は炉を止めた』


 レアは画面を見つめた。


『何の炉ですか』


 返事はない。


『何を動かすための炉なんですか』


 長い時間が過ぎた。


 やがて、もう一通だけ届いた。


『世界を運ぶための炉だ』


 通信は、そこで切れた。


     ◇


 その夜。


 月面研究所の追悼室には、マリク・オセイの写真が置かれていた。


 公式には、彼が何を守ったのか語ることはできない。


 方舟も。


 オデュッセウス・ドライブも。


 中性子星ノクスも。


 すべて秘密だった。


 彼の家族へ伝えられたのは、設備事故の際、同僚を守るために亡くなったという事実だけ。


 それは嘘ではない。


 だが、真実のすべてでもなかった。


 ユンは写真の前に立った。


「間に合わせる」


 誰にも聞こえない声で言った。


「今度は、誰かを置き去りにするような急ぎ方はしない」


 写真の中のマリクは、作業服姿で笑っていた。


 その笑顔に、答えはない。


 ただ、研究所の遠くで、冷却中の零号機が低い音を立てていた。


 暴走した最初の火。


 人の命を奪った火。


 それでも人類は、その火を捨てることはできなかった。


 方舟を動かすためには、もう一度灯さなければならない。


 次は、壊さずに。


 次は、殺さずに。


 そして、太陽が壊れる日より前に。



第6話 終


次回予告


 オデュッセウス零号機の事故で、一人の技術者が命を落とした。


 極秘にされた死。


 隠された実験。


 しかし、レア・モーガンは匿名の情報から、事故の向こうにある巨大計画へ近づいていく。


 一方、方舟計画は止まれない。


 月面では新しい建造ドックの候補地が選定され、小惑星帯では資源量の調査が始まる。


 だが、必要な鉄、ニッケル、炭素、水。


 すべてを集めても、計画された船団の半分にも届かない。


 そこで人類は、一つの危険な小惑星へ目を向ける。


 金属資源の塊。


 直径二百四十キロ。


 高い自転速度。


 不安定な軌道。


 採掘に失敗すれば、月面都市そのものが危険にさらされる。


 次回、


第7話「月の造船所」


 方舟を造るため、人類は宇宙の山を切り崩す。

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