月の造船所
第7話 月の造船所
宇宙には、地面がない。
足を置けば支えてくれる大地もなければ、重機を据え付けるための安定した岩盤もない。
小惑星は、巨大な岩の塊に見える。
だが、そのすべてが一枚岩とは限らなかった。
内部に無数の亀裂を持つもの。
砂や小石が重力だけで寄り集まった、瓦礫の集合体。
表面に触れただけで崩れ始めるもの。
わずかな衝撃で、自転軸や軌道を変えてしまうもの。
地球上の鉱山とは、何もかもが違う。
それでも、人類は掘らなければならなかった。
方舟を造るために。
太陽系から逃げ出すために。
◇
2250年7月9日。
国際連合地球圏評議会の資源計画部門では、方舟船団に必要な物資の第一次試算が発表されていた。
構造材。
放射線遮蔽材。
推進剤。
水。
炭素。
希少金属。
超伝導体。
核融合燃料。
数十億トン級の恒星間方舟を、数十隻。
さらに建造ドック。
輸送船。
精錬施設。
居住区。
生命保存施設。
必要な資源量は、既存の月面・火星・小惑星産業の生産能力を、はるかに超えていた。
現在稼働中のすべての宇宙鉱山を最大出力で動かしても、方舟船団の半分にも届かない。
地球から打ち上げる方法は論外だった。
重力井戸の底にある地球から、何十億トンもの資材を軌道へ運ぶには、あまりにも多くのエネルギーと時間を必要とする。
資源は、最初から宇宙にあるものを使うしかない。
そして、候補として選ばれたのが、小惑星だった。
直径約二百四十キロメートル。
鉄とニッケルを主成分とする、巨大な金属質小惑星。
内部にはコバルト、白金族元素、炭素化合物、微量ながら水を含む鉱物も存在すると推定されていた。
一つの小惑星としては、方舟建造計画を大きく前進させられるほどの資源量を持っている。
だが、問題があった。
ヘファイストスは安定していなかった。
自転周期は二時間十九分。
大型小惑星としては異常な速さだった。
表面では、赤道付近の岩石が遠心力によって浮き上がり、断続的に宇宙空間へ放出されている。
さらに、過去の衝突によって内部には複雑な亀裂が走っていた。
表面へ船を着陸させても、地面そのものが崩れる可能性がある。
採掘によって質量分布が変われば、自転軸がずれる。
わずかな噴射の反動でも、軌道が変化する。
最悪の場合、ヘファイストスは採掘船を巻き込みながら分裂し、周辺航路へ大量の破片をばらまく。
「月面都市が危険にさらされるというのは、大げさではないのですか」
会議に参加していた政府代表が尋ねた。
軌道採掘計画主任のエヴァ・ロドリゲスは首を振った。
「直接月へ落下する可能性は低いです。しかし、採掘中に軌道を誤って変化させれば、地球・月圏を通過する破片群を生む可能性があります」
「軌道修正はできないのか」
「直径二百四十キロです」
エヴァは答えた。
「小型小惑星のように、推進機を取り付けて押せる質量ではありません」
「では、その場で解体する」
「解体そのものが、最大の危険です」
立体映像に、ヘファイストスの内部モデルが表示された。
表面は硬い金属岩盤。
その下に、衝突によって砕けた層。
さらに奥には、比較的密度の高い金属核。
「外側を無計画に削れば、内部応力の均衡が崩れます」
エヴァは説明を続ける。
「自転による遠心力と内部の重力、岩盤の摩擦。その三つが、現在の形状を辛うじて保っている」
「採掘すれば崩れる」
「掘り方を間違えれば」
「では、どう掘る」
「外側から削りません」
エヴァは立体映像を切り替えた。
小惑星の表面へ、複数の採掘船が接近する。
「まず、表面の岩盤へアンカーボルトを打ち込みます」
ボルトと呼ぶには巨大すぎる構造物だった。
全長八十メートル。
先端には高熱穿孔装置と衝撃吸収機構。
後部には、伸縮式の係留ケーブルが接続されている。
「アンカー一本だけでは固定できません。最低十二本。表面の異なる方向へ打ち込み、採掘船を蜘蛛の巣状に固定します」
「岩盤が崩れた場合は」
「表面層だけでは不十分です」
アンカーは岩盤を貫通し、さらに奥へ進んでいく。
「最初の固定は仮固定です。その後、深部穿孔機を投入します」
無人掘削機が、アンカーの中心を通って小惑星内部へ潜っていく。
十メートル。
五十メートル。
百メートル。
外側の崩れやすい岩盤を越え、密度の高い層まで到達する。
「硬い岩盤の奥深くで、アンカーを展開します」
映像の中で、アンカー先端が枝分かれした。
金属製の固定爪が、四方へ広がる。
さらに高温の焼結材が周囲へ注入され、岩盤と一体化していく。
「深部固定が完了して初めて、採掘船を本格的にドッキングさせます」
「そこまでして、船を固定する必要があるのか」
「ヘファイストスは二時間十九分で一回転しています」
エヴァが言った。
「接触しただけでは、船が振り回されます」
会議室の誰かが、小さく息を吐いた。
採掘船は小惑星へ着陸するのではない。
暴れ続ける巨大な金属の山へ、自分の身体を縫い付けるのだった。
◇
「誰が行くのですか」
月面自治政府代表のリャン・ウェイが尋ねた。
「有人船ですか」
会議室が静かになる。
採掘そのものは、無人機で行うことができる。
人間よりも高温や放射線に強い。
酸素も食料も必要ない。
事故が起きても、人命は失われない。
ならば、すべて無人で行えばいい。
そう考えるのが自然だった。
エヴァは、すぐには答えなかった。
「基本作業は無人です」
「基本、ということは」
「有人監督船を同行させます」
複数の政府代表が顔を上げた。
「なぜ危険な現場へ人間を送る」
「通信遅延です」
エヴァが答えた。
「地球・月圏からヘファイストスまで、現在の位置関係では片道十二分から二十八分」
「無人機なら自律判断させればいい」
「通常作業なら可能です」
「では」
「岩盤崩壊、自転軸の変化、アンカー損傷、予測不能な亀裂。緊急事態では、事前に組まれた判断だけでは対応できない」
マリク・オセイを失った事故から、まだ一か月も経っていない。
自動系だけに依存する危険性を、研究者たちは身をもって知っていた。
無人機は速く、正確で、命令に忠実だ。
だが、想定外の状況では、その忠実さが致命傷になる。
「有人監督船は、小惑星表面へは接触しません」
エヴァが続ける。
「数百キロ離れた同期軌道から、無人機群を直接管理します」
「それでも、破片が飛散すれば」
「危険です」
「軌道が変われば」
「逃げ切れない可能性があります」
「なら、行かせるべきではない」
エヴァは立体映像を見た。
「行かなければ、方舟を造れません」
また、その言葉だった。
できない。
危険だ。
人が死ぬ。
それでも、やらなければ全員が死ぬ。
方舟計画におけるすべての決断は、同じ場所へ戻ってきた。
◇
ヘファイストス採掘計画の正式名称は、《プロジェクト・ヴァルカン》とされた。
第一段階。
無人偵察機による表面調査。
第二段階。
アンカーボルトの設置。
第三段階。
深部岩盤への固定。
第四段階。
採掘船のドッキング。
第五段階。
無人掘削機群による内部採掘。
第六段階。
資源の現地精錬。
第七段階。
月面造船所への輸送。
計画の規模は、これまでの宇宙鉱山とは比較にならなかった。
投入される無人機は、初期段階だけで三千六百機。
掘削機。
測量機。
運搬機。
破砕機。
溶融炉。
精錬設備。
軌道安定用の質量投射装置。
すべてが互いに通信し、一つの群れとして動く。
それは工事現場というより、機械でできた一つの生態系だった。
◇
2250年8月3日。
第一陣の無人偵察機が、ヘファイストスへ到着した。
黒い宇宙の中に、巨大な岩塊がゆっくりと回転している。
表面は灰色ではなかった。
鉄分を多く含む岩盤が、弱い太陽光を鈍い赤褐色に反射している。
至る所に衝突孔があり、その縁からは鋭い岩の突起が伸びている。
赤道付近では、細かな岩石が表面を離れ、ゆっくりと宇宙空間へ漂っていた。
重力が弱く、自転が速い。
小石一つでさえ、地面へ戻らない。
偵察機群は、小惑星から十キロ離れた位置で編隊を組んだ。
「表面形状、更新」
「自転軸、予測値より〇・〇三度ずれています」
「岩石放出率、想定の一・八倍」
月面管制室に、次々と報告が入る。
有人監督船は、まだ地球・月圏にあった。
最初の偵察は完全無人で実施されている。
軌道採掘主任エヴァ・ロドリゲスは、月面から映像を見守っていた。
「アンカー候補地点を探して」
「赤道域は除外します」
「自転軸付近を優先」
「北極域に大規模亀裂を確認」
「南極は」
「表面は安定。ただし地下密度が不均一」
小惑星の内部を調べるため、偵察機が低周波レーダーを照射する。
電波は岩盤の奥へ入り、反射して戻ってくる。
断層。
空洞。
高密度領域。
内部構造が少しずつ浮かび上がった。
ヘファイストスは、一枚岩ではなかった。
過去に何度も衝突を受けながら、完全には砕けずに残った天体。
外側には、破砕された岩石層が数百メートル。
その奥に、高密度の金属質岩盤。
さらに中心部には、巨大な亀裂が走っている。
「中心核が二つに分かれている」
解析担当者が言った。
「完全分離ではありません。細い岩盤でつながっています」
「そこで掘削したら」
「分裂する可能性があります」
エヴァは黙った。
巨大な山を掘るのではない。
すでに割れかけている山を、形を崩さずに中から削り取る。
計画の難易度は、さらに上がった。
◇
偵察開始から十一日後。
アンカー設置地点が決定した。
北緯六十八度。
自転軸に比較的近く、遠心力の影響が少ない領域。
表面の下、約四百メートルに高密度岩盤が存在する。
十二本の主アンカーを円形に配置し、その中央へ第一採掘船を固定する。
アンカー設置用無人船《スパイダー1》が接近した。
船体から六本の長い脚が伸びている。
先端には、接触衝撃を吸収する磁気パッド。
だが磁力だけでは、金属成分が不均一な岩盤へ確実に固定できない。
最終的には、物理的に穴を開ける必要がある。
「接触まで百メートル」
月面管制室。
「相対速度、毎秒三センチ」
「自転同期、誤差〇・〇〇二」
スパイダー1は、小惑星の回転に合わせて姿勢を変える。
相手は止まっていない。
巨大な回転体の表面へ、同じ速度で横並びになる。
「五十メートル」
岩盤が近づく。
画面いっぱいに、赤褐色の崖が広がった。
「二十」
「十」
「接触」
六本の脚が、岩盤へ触れた。
わずかな衝撃。
表面の小石が浮き上がり、宇宙へ飛んでいく。
「脚部荷重、均等」
「仮固定開始」
磁気パッドが作動する。
船体は小惑星へ張り付いた。
だが、それはまだ、指先で触れているにすぎない。
「第一アンカー、装填」
船体中央から、巨大な穿孔機が降りる。
先端のレーザーが岩盤を熱する。
高温で脆くなった場所へ、回転ドリルが食い込む。
宇宙では、掘削によって生じた粉塵は地面へ落ちない。
そのまま周囲へ広がり、機械を傷つける。
吸引装置と静電捕集機が、削りかすを回収する。
「深度十メートル」
「岩盤硬度、予測範囲」
「二十」
「三十」
掘削は順調に進んだ。
だが、深度四十七メートル。
振動計が異常を検知した。
「亀裂音」
「停止」
掘削機が止まる。
音のない宇宙で、岩盤の内部を伝わった振動だけがセンサーへ届いていた。
「周辺を再走査」
レーダーが岩盤を調べる。
予測されていなかった空洞。
直径六メートル。
掘削軸のすぐ横に存在している。
「このまま進めば崩落します」
「アンカー位置を変更」
「船体を移動させますか」
エヴァは画面を見た。
スパイダー1は仮固定されている。
今なら離脱できる。
だが、再接触には時間がかかる。
「三メートル東へ掘削軸をずらす」
「脚部を動かせません」
「船体はそのまま。穿孔装置の角度を変更」
「斜めに入ります」
「深部で目標岩盤へ戻す」
地球からの遠隔操作なら、判断と実行の間に数十分の遅れが出る。
だが今は、月面からでも通信遅延がある。
現場の無人機は、エヴァの指示を受けながら自律的に細部を調整した。
穿孔機が一度引き抜かれる。
角度を変える。
再び岩盤へ食い込む。
それから七時間。
第一アンカーは、深度四百十二メートルへ到達した。
「高密度岩盤を確認」
「先端固定機構、展開」
アンカー先端から、四本の爪が広がる。
岩盤へ食い込み、さらに焼結材が注入される。
高熱によって周囲の岩石を溶かし、アンカーと一体化させる。
「第一アンカー固定」
管制室に、小さな拍手が起きた。
まだ一本。
必要なのは十二本。
それでも、人類は初めて、暴れる宇宙の山へ一本の杭を打ち込んだ。
◇
十二本すべてのアンカー固定には、四十三日を要した。
二本目は、穿孔中にドリルが破損。
四本目は、地下亀裂を避けるため深度を六百メートルへ変更。
七本目では、表面岩盤が崩れ、スパイダー2が一時的に宙へ投げ出された。
十本目の固定中、小惑星の自転速度が〇・〇〇〇八パーセント変化した。
わずかな変化。
だが、それだけでも採掘船の同期計算をすべてやり直す必要があった。
採掘は、まだ始まってすらいない。
固定するだけで、これほど難しい。
◇
2250年10月1日。
有人監督船アルゴスが、月面軌道造船所を出発した。
乗員は百二十名。
採掘技術者。
軌道力学者。
無人機制御技師。
医師。
事故対応員。
船長は、ナディア・カリモフ。
四十五歳。
火星と小惑星帯を結ぶ資源輸送船で、二十年以上の航行経験を持っていた。
出発前の記者会見は行われなかった。
公式には、アルゴスは「深宇宙資源調査船」。
目的地も、任務内容も非公開。
乗員たちの家族には、長期調査任務とだけ伝えられていた。
船内の展望区画から、ナディアは月を見ていた。
灰色の地表。
光る都市ドーム。
軌道上に建設中の巨大構造物。
方舟用造船所の基礎だった。
まだ骨組みしかない。
それでも全長は百キロを超える予定だった。
「船長」
副長が呼びかける。
「最終航路確認、完了しました」
「ヘファイストス到着まで」
「百八十七日」
ナディアはうなずいた。
半年以上の航行。
到着した先には、不安定に回転する巨大小惑星。
すでに無人機が固定を進めている。
だが、採掘が始まれば何が起きるか分からない。
「本当に人間が行く必要があると思いますか」
副長が尋ねた。
「今さら聞く?」
「出発した後だから聞けることもあります」
ナディアは月から目を離さなかった。
「必要かどうかは、現場に着くまで分からない」
「なら」
「でも、必要になった時にいなければ遅い」
副長は黙った。
「無人機だけで全部できれば、それが一番いい」
ナディアは言った。
「私たちは何もせず、半年後に帰る。それが最高の結果」
「そうなると思いますか」
「ならないでしょうね」
彼女は小さく笑った。
「宇宙は、いつも予定表を読まないから」
◇
一方、地球では。
レア・モーガンが、月面から出発したアルゴスの航路を調べていた。
公式資料では深宇宙資源調査。
だが、船体に積み込まれた装備は、単なる調査船ではない。
高出力無人機制御装置。
小惑星内部探査レーダー。
大規模精錬施設との通信規格。
緊急軌道修正用の核パルス装置。
そして、乗員百二十名分の一年を超える物資。
「調査にしては、本気すぎる」
編集長ナディームが言った。
「採掘するつもりよ」
レアは答えた。
「何を」
「方舟の材料」
「まだ方舟だと決まったわけじゃない」
「世界を運ぶ炉。完全閉鎖都市。種子と細胞。そして今度は、金属小惑星」
レアは資料を並べる。
「全部が同じ方向を向いている」
「記事にする?」
「まだ名前がない」
「小惑星の?」
「計画の」
レアはアルゴスの航路図を見た。
「誰かが、世界を捨てる準備をしてる」
「世界を救う準備かもしれない」
「救われる側に、何も知らせずに?」
ナディームは答えなかった。
◇
アルゴスの航行中も、無人機による準備は進んだ。
十二本のアンカーから、係留ケーブルが伸ばされる。
その中央へ、第一採掘船が接近した。
全長一・六キロメートル。
船首には大型掘削機。
船体後部には精錬炉。
採掘した岩石をその場で溶かし、鉄、ニッケル、炭素、不要物へ分離する。
精錬された金属は、輸送用の規格ブロックへ成形される。
採掘廃棄物は無造作に捨てられない。
反動で小惑星の軌道が変わるからだ。
不要物も質量投射装置で慎重に射出し、小惑星の自転と軌道を調整するために使われる。
掘る。
精錬する。
運び出す。
そのすべてが、天体のバランスを崩さないよう計算される。
「フォージ、アンカー網へ進入」
無人管制AIが報告する。
十二本のケーブルが張られる。
船体が小惑星の回転に同期する。
「係留張力、均等化」
「主ドッキング機構、展開」
フォージの船首から、巨大な円筒形の固定部が伸びる。
小惑星表面に設置された基部へ接続。
「ドッキング完了」
採掘船は、ついにヘファイストスへ縫い付けられた。
◇
第一掘削地点は、アンカー円の中央。
表面から垂直に穴を開けるのではない。
深部の亀裂を避けながら、螺旋状に掘り進む。
一本の巨大な坑道。
掘削機は直径二十メートル。
先端のレーザーとプラズマカッターで岩盤を熱し、超硬度ドリルで破砕する。
砕かれた鉱石は、坑道内の搬送機へ送られる。
無人掘削機が動き始めた。
「深度五メートル」
「掘削速度、毎時〇・八メートル」
「岩盤硬度、予測値の一・二倍」
ゆっくりだった。
だが、速さよりも安定が優先された。
十メートル。
二十。
五十。
無人機は休まない。
食事も睡眠も必要ない。
部品を交換しながら、二十四時間掘り続ける。
百メートル。
二百。
三百。
掘削によって生じた振動は、十二本のアンカー網へ分散される。
船体と小惑星が一体となって震える。
フォージの精錬炉へ、最初の鉱石が運び込まれた。
高温で溶解。
成分分離。
鉄。
ニッケル。
コバルト。
シリコン。
炭素。
方舟の骨格となる金属が、初めて抽出された。
「第一精錬ブロック、成形完了」
長さ十メートル。
幅四メートル。
厚さ二メートル。
鈍い銀色に輝く巨大な金属塊。
月の造船所へ送られる、最初の材料だった。
◇
だが、採掘開始から十九日目。
異変が起きた。
「自転周期変化」
管制AIが報告する。
「変化量は」
「〇・〇一一秒短縮」
わずかな変化。
だが、採掘開始前の予測を超えている。
「原因解析」
「採掘質量の偏り」
「補正投射を実施」
廃棄岩石を反対方向へ射出し、自転を元へ戻す。
一度目。
変化は小さい。
二度目。
自転周期は戻り始めた。
しかし、その直後。
小惑星内部の振動センサーが、一斉に反応した。
「深部亀裂拡大」
「位置」
「中心核接続部」
ヘファイストスを二つに分ける巨大亀裂。
採掘地点からは遠い。
直接掘ってはいない。
それでも、質量分布の変化が内部応力へ影響した。
「掘削停止」
無人機群が一斉に止まる。
「係留張力上昇」
「アンカー四番、七番、九番に負荷集中」
「小惑星形状変化を確認」
表面モデルが更新される。
北半球と南半球が、ほんのわずかにずれていた。
数センチ。
だが、天体全体が動いた証拠だった。
「分裂確率」
「現時点で十二パーセント」
無人管制AIは冷静に答えた。
「掘削再開時、最大三十八パーセント」
月面管制室が静まり返った。
まだ、有人監督船アルゴスは到着していない。
通信には遅延がある。
現場の判断を下す人間はいない。
「採掘は停止」
エヴァが命じた。
「全無人機を安定化作業へ」
「方舟計画への影響は」
政府監督官が尋ねる。
「最低三か月の遅延」
「三か月」
「内部調査が必要です」
「止められない」
「このまま掘れば、小惑星が割れます」
「別の採掘地点へ移れないのか」
「原因は穴の位置ではありません。質量を取り出す行為そのものです」
「では、資源は使えない」
「方法を変えます」
「どのように」
エヴァは内部モデルを見た。
外から掘るだけでは、偏りが生まれる。
一か所から資源を抜けば、その方向だけが軽くなる。
「複数地点から同時に掘ります」
「採掘船は一隻しかない」
「増やす」
「何隻」
「最低四隻」
「建造に一年かかる」
「アルゴス到着後、現地でフォージの生産設備を使って簡易採掘船を組み立てます」
「それまで停止?」
「はい」
政府監督官は苛立ちを隠さなかった。
「時間がないのです」
エヴァは、まっすぐ相手を見た。
「小惑星を割れば、もっと時間を失います」
その言葉に、マリクの事故を知る者たちは黙った。
急いだ結果、一人が死んだ。
同じことを、今度は宇宙の山全体で起こすわけにはいかなかった。
◇
アルゴスがヘファイストスへ到着したのは、翌年の春だった。
半年の航行を終え、有人船は巨大小惑星から五百キロ離れた同期軌道へ入った。
乗員たちは、初めて肉眼でヘファイストスを見た。
窓の向こうに、世界の半分を覆うほどの岩壁が広がっている。
「大きいな」
誰かがつぶやいた。
直径二百四十キロ。
地球上なら、一つの地域を丸ごと覆う大きさ。
その表面に、フォージが小さな金属片のように張り付いている。
そこから十二本の係留ケーブルが伸び、小惑星へ食い込んでいた。
ナディア船長は、管制席へ座った。
「無人機群との直接回線を確立」
「接続完了」
「全内部センサーをこちらへ」
これまで月面からは、数十分前の状態しか見られなかった。
今は違う。
ほぼリアルタイム。
ヘファイストスの振動。
亀裂。
自転。
アンカーの張力。
すべてが目の前で動いている。
「これが、今にも割れそうな山か」
副長が言った。
「割れそうなんじゃない」
ナディアは答えた。
「もう割れてる。離れてないだけ」
◇
有人監督班は、内部構造を再解析した。
結果は、月面の予測より深刻だった。
中心部の接続岩盤は、最も薄い場所で幅七百メートル。
直径二百四十キロの天体をつなぐには、あまりにも細い。
高速自転によって、常に引き裂く力が加わっている。
「採掘を続ければ、何年で分裂する」
ナディアが尋ねた。
軌道力学者が答える。
「現在の掘削速度なら、二年以内」
「方舟に必要な資源量を採り終えるには」
「最低十五年」
誰も笑わなかった。
「自転を遅くする」
ナディアが言った。
「可能です」
「どうやって」
「採掘廃棄物を、自転方向と逆向きに射出します」
「どれだけ」
「総質量の約〇・〇二パーセント」
「量は」
「数兆トン」
「射出に何年」
「三年から五年」
また時間。
何をするにも、年単位で時間が必要になる。
「もっと速くできないの」
「核パルス装置を表面へ設置し、逆方向へ連続噴射する方法があります」
「危険性は」
「衝撃で分裂する可能性」
「却下」
ナディアは即答した。
「別案」
「複数の質量投射装置を設置し、掘削と同時に廃棄岩石を射出」
「採掘船四隻案と組み合わせる」
「はい。四方向から均等に資源を抜き、同時に自転を減速させます」
「それなら何年」
「採掘完了まで十八年」
「長くなってる」
「分裂させないためです」
ナディアは椅子へ背を預けた。
方舟建造に使える時間は五十年程度。
そのうち十八年を、資源採掘だけで使う。
「他の小惑星も同時に掘るしかない」
「はい」
「ヘファイストスだけに賭ける計画は終わり」
ナディアは決断した。
「ここは主要鉱山の一つに下げる。月面へ伝えて」
「計画の縮小ですか」
「分散よ」
彼女は小惑星の映像を見た。
「宇宙の山一本に、人類の未来全部を背負わせる方が間違ってる」
◇
その後、アルゴスの乗員たちは、現地で簡易採掘船の建造を始めた。
フォージが精錬した鉄とニッケルを利用し、無人組立機が船体骨格を作る。
二隻目。
三隻目。
四隻目。
地球から完成品を運ぶのではない。
採掘した場所で、次の採掘機械を造る。
機械が資源を掘り、その資源から新しい機械を生み出す。
方舟計画に必要なのは、単なる鉱山ではなかった。
自ら増殖する宇宙産業だった。
◇
最初の四地点同時掘削が始まった日。
ナディアはアルゴスの管制室から、全無人機へ命令を送った。
「掘削速度は予定値の六十パーセント」
「四地点の質量差、常時監視」
「亀裂拡大が〇・一ミリでも確認されたら停止」
技術主任が顔を向ける。
「〇・一ミリですか」
「小さすぎます」
「小さいうちに止める」
「効率が落ちます」
「割れるよりいい」
無人掘削機が、四方向から岩盤へ食い込んでいく。
北。
南。
東。
西。
それぞれの坑道が、内部の高密度金属層へ向かって進む。
採取された鉱石は精錬される。
廃棄岩石は自転を抑える方向へ射出される。
小惑星の回転が、少しずつ遅くなる。
二時間十九分。
二時間二十分。
二時間二十三分。
わずかな変化。
だが、内部へかかる引き裂き力は確実に弱まっていった。
「亀裂幅、安定」
「アンカー張力、均等」
「自転軸変化、許容範囲」
数日。
数週間。
掘削は続いた。
そして、第一輸送船へ積み込む金属ブロックが完成した。
総重量二百万トン。
方舟一隻に必要な量から見れば、ほんの一部。
それでも、人類が宇宙の山から切り出した、最初の本格資材だった。
◇
輸送船《キャリア1》がヘファイストスを離れる。
巨大な金属ブロックを抱え、月面造船所へ向かう。
アルゴスの乗員たちは、その後ろ姿を見送った。
「これで方舟のどこが造れる」
副長が尋ねた。
技術主任が計算する。
「外殻フレーム、約百二十分の一」
「二百万トンで?」
「方舟は大きいですから」
ナディアは苦笑した。
「先は長いな」
「十八年です」
「それで済めばね」
◇
月面造船所。
正式名称、《ルナ・アークヤード》。
キャリア1が到着すると、金属ブロックは巨大な電磁クレーンで建造区画へ運ばれた。
真空中では、重量ではなく慣性が問題になる。
二百万トンの塊を、ゆっくり、慎重に移動させる。
わずかな速度でも、止めるには同じだけの力が必要になる。
ブロックは高温炉へ送られ、再び溶かされた。
不純物を除去。
特殊合金へ調整。
巨大な梁へ成形。
長さ八百メートル。
方舟の中央骨格、その最初の一本。
梁が建造ドック内へ運ばれる。
無人組立機が位置を調整する。
固定。
溶接。
検査。
それまで空間しかなかった場所に、人類最初の恒星間方舟の骨が生まれた。
作業員たちは、離れた管制区画からその映像を見ていた。
誰も歓声を上げなかった。
まだ一本。
何万本も必要になる。
それでも、一人の若い作業員が小さくつぶやいた。
「始まった」
月の向こうには、青い地球が浮かんでいる。
誰も知らない。
その地球を捨てるための船が、すでに造られ始めていることを。
◇
同じ頃。
レア・モーガンの端末に、匿名の画像が届いた。
月面軌道。
巨大な建造ドック。
その中央に固定された、一本の長大な梁。
画像には説明がなかった。
ただ一行。
『これは都市ではない』
レアは画像を拡大した。
梁の寸法。
周囲の設備。
ドックの大きさ。
通常の宇宙船ではあり得ない。
彼女はすぐに返信した。
『何を造っているの』
しばらくして、短い答えが届いた。
『帰ってこない船』
レアは画面を見つめた。
帰ってこない。
探査船だからではない。
戻る場所がなくなるから。
その考えが、初めて明確な言葉となって彼女の中に浮かんだ。
レアは壁に貼られた資料を見た。
生命保存。
閉鎖都市。
恒星間エンジン。
巨大鉱山。
月の造船所。
すべてが一つの結論へ近づいている。
「地球に、何か起きる」
彼女はつぶやいた。
ナディームが振り返る。
「何て?」
「宇宙へ行きたいんじゃない」
レアは画像から目を離さなかった。
「ここにいられなくなるんだ」
第7話 終
次回予告
ヘファイストスから切り出された最初の金属が、月の造船所へ届いた。
方舟の中央骨格。
その最初の一本が、宇宙空間に固定される。
だが、巨大な船体を造るだけでは、人類は生き残れない。
数百年にわたって循環する水。
再生され続ける空気。
限られた光と土で育つ作物。
微生物、昆虫、植物、動物。
どれか一つでも均衡を失えば、船内世界は崩壊する。
火星では、方舟に搭載する閉鎖生態系の実験が始まる。
外部からの補給を完全に断ち、五千人が人工環境の中で一年間暮らす。
しかし開始からわずか三十七日。
作物の成長が止まり、酸素濃度が低下。
原因不明の菌類が、農業区画へ広がり始める。
人間だけを閉じ込めればよいのではない。
生命は、計算どおりには生きない。
次回、
第8話「小さな地球」
方舟の中に、もう一つの世界を造る。




