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NEURON STAR  作者: リンダ


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方舟の設計図

第4話 方舟の設計図


 太陽から〇・二天文単位。


 その数字は、宇宙の尺度で見れば近い。


 あまりにも近い。


 水星の平均公転半径は、およそ〇・三九天文単位。


 つまり孤立中性子星ノクスは、現在の観測結果が示す軌道どおりに進めば、水星軌道よりもさらに内側を通過する可能性が高いということだった。


 太陽の表面すれすれを通るわけではない。


 衝突するわけでもない。


 それでも、太陽の約一・九倍の質量を持つ超高密度天体が、その距離を高速で横切る。


 太陽系にとって、それは「近くを通る」という表現では済まなかった。


 恒星同士の遭遇に近い。


 そして太陽系は、そのような遭遇を想定して形成されてはいない。


     ◇


 2250年4月18日。


 孤立中性子星ノクスの発見から、二週間が経過していた。


 ラグランジュ点L2に浮かぶ超大型宇宙望遠鏡オリオンでは、通常観測のほとんどが停止されていた。


 系外惑星探査。


 遠方銀河の分光観測。


 宇宙背景放射の測定。


 予定されていた研究はすべて後回しにされた。


 オリオンだけではない。


 月面の干渉型望遠鏡群。


 火星軌道のX線観測衛星。


 木星トロヤ群に設置された深宇宙観測基地。


 太陽系各地の観測装置が、ほぼ同じ方向を向いていた。


 目に見えない天体を、何度も、何度も測り続ける。


 背景恒星の光の歪み。


 微弱なX線放射。


 周期的な電波の変動。


 周辺星間物質との衝突によって生じる、ごくわずかな衝撃波。


 それらを積み重ねるたび、ノクスの位置と速度は少しずつ正確になっていった。


 そして、軌道予測の誤差範囲は、日を追うごとに狭まっていた。


 天野理沙は、管制室中央の巨大スクリーンを見つめていた。


 そこには、無数の赤い線が表示されている。


 ノクスが今後たどる可能性のある軌道だった。


 発見直後、赤い線は太陽系全体を包み込むほど広がっていた。


 太陽から数十天文単位離れた外縁部を通る軌道もあれば、内惑星領域へ突入する軌道もあった。


 しかし今、その広がりは消えつつある。


 数万本あった予測線は、細い束となって太陽の近くへ集まっていた。


「再計算、終了しました」


 観測AIオーロラの声が流れる。


「最新観測データを反映」


「最接近距離の確率分布を表示します」


 スクリーンが切り替わった。


 横軸は太陽からの距離。


 縦軸は確率。


 山のような曲線が、〇・二天文単位付近で大きく盛り上がっていた。


 理沙は声を出さなかった。


 背後に立つラファエル・コスタが、先に口を開いた。


「まだ確定じゃない」


「分かってる」


「外側へ逸れる可能性も残っている」


「分かってる」


「理沙」


「分かってるって言ってるでしょ」


 思ったより強い声が出た。


 管制室の何人かが振り返った。


 理沙は小さく息を吐き、額に手を当てた。


「ごめん」


 コスタは何も言わなかった。


 スクリーンには、新しい数値が表示されていた。


 太陽から〇・一五天文単位以内を通過する確率、二十一パーセント。


 〇・一五から〇・二五天文単位の間を通過する確率、五十四パーセント。


 〇・二五から〇・五天文単位の間を通過する確率、十九パーセント。


 それより外側を通過する確率、六パーセント未満。


 予測の中心は明らかだった。


 〇・二天文単位。


 人類が望んでいた「外れる」という可能性は、消えてはいない。


 だが、細くなっていた。


「この結果は、いつ関係者へ」


 コスタが尋ねた。


「一時間後」


「政府はどう反応すると思う」


「昨日までと同じよ」


「つまり」


「もっと急げと言う」


     ◇


 一時間後。


 国際連合地球圏評議会の極秘通信室に、各国首脳、宇宙開発機関、軍、研究機関の代表が集まった。


 世界は、まだ何も知らない。


 地上では株式市場が動き、選挙が行われ、企業が新製品を発表している。


 子どもたちは学校へ行き、若者は将来を語り、老夫婦は来年の旅行先を相談している。


 その裏で、人類の故郷の残り時間が計算されていた。


 円形会議室の中央に、太陽系の立体図が浮かぶ。


 太陽。


 水星。


 金星。


 地球。


 火星。


 その内側へ、黒い点が赤い軌道を描きながら接近していた。


 天野理沙が説明を始めた。


「観測期間の延長により、ノクスの固有運動と接線速度の誤差は、発見時の約八分の一まで縮小しました」


 画面上で、広く散らばっていた軌道予測が一本の束に収束する。


「現時点で最も可能性が高いのは、太陽から約〇・二天文単位を通過する軌道です」


 会議室にざわめきは起こらなかった。


 すでに、誰も驚く余裕を持っていなかった。


 エレナ・ヴァルガス議長が尋ねた。


「水星軌道より内側ですね」


「はい」


「太陽への影響は」


「壊滅的である可能性が高いです」


 理沙は画面を切り替えた。


 太陽の巨大な球体が表示される。


 その近傍を、ノクスが高速で通過する。


 太陽表面のプラズマが、ノクスの方向へ引き伸ばされる。


 巨大な潮汐隆起。


 通常の太陽フレアとは比較にならない規模の物質流出。


 太陽の外層が、長い尾となって宇宙へ引き剥がされていく。


「ノクスが太陽へ直接衝突する可能性は、現時点では低いと見ています」


 理沙は続けた。


「しかし〇・二天文単位まで接近した場合、太陽は強烈な潮汐作用を受けます」


「太陽は破裂するのですか」


 欧州連合代表が尋ねた。


「爆弾のように一瞬で爆発するわけではありません」


「では、具体的に何が起きる」


「外層の大規模剥離。内部対流の乱れ。磁場構造の崩壊。核融合反応領域への圧力変動。そして太陽質量の一部が急激に失われる可能性があります」


 太陽の映像が脈動する。


 膨張。


 収縮。


 巨大な物質放出。


「太陽が現在の恒星として安定を維持できる可能性は」


「低いです」


「数字で」


 理沙は一瞬、言葉を止めた。


「現在の中央値では、安定状態を失う確率は八十四パーセント」


 会議室の空気が沈んだ。


 前回の推定よりも上がっていた。


「安定を失うとは」


 北米連邦代表が尋ねた。


「太陽光度の急激な変化、外層の喪失、惑星軌道の変動を含みます」


「地球はどうなる」


「太陽が質量を失えば、公転軌道は外側へ移動します。しかし、同時にノクス自身の重力が地球を引きます」


 新しいシミュレーションが表示される。


 地球の軌道が楕円形に歪む。


 ある計算では、地球は金星軌道へ近づいた。


 別の計算では、火星軌道の外側へ弾き出された。


 別の計算では、太陽への落下軌道へ移った。


 さらに別の計算では、ノクスの重力に引かれ、太陽系から放出された。


「どの結果でも、地表環境は維持できません」


 理沙は言った。


「仮に地球が破壊を免れたとしても、太陽光度の変化、軌道離心率の増大、地殻潮汐、海洋の移動によって、生態系は崩壊します」


「月面都市は」


「地球・月系そのものが維持できない可能性があります」


「火星は」


「安全とは言えません」


「木星圏は」


「ノクスの通過後、外惑星の軌道も乱れます」


 火星自治圏代表が低い声で言った。


「つまり、太陽系内に避難先は存在しない」


「はい」


 理沙は答えた。


「存在しません」


     ◇


「カイパーベルトへの影響も説明してください」


 エルマン博士が言った。


 理沙がうなずく。


 立体図が太陽系外縁へ広がった。


 海王星軌道の外側。


 無数の氷天体が円盤状に広がっている。


「ノクスは太陽近傍を通過する前に、太陽系外縁の重力構造を大きく乱します」


「しかし、ノクスの軌道は内側へ向かっているのでしょう」


「はい。ただし、ノクスが太陽系へ進入する際、その重力は広範囲に及びます。さらに太陽系全体の重心が一時的に移動します」


 映像の中で、カイパーベルト天体の軌道が波打った。


 海王星との共鳴関係が崩れる。


 準惑星。


 小惑星。


 氷天体。


 長周期彗星。


 無数の軌道が交差し、衝突し、内側へ向かう。


「ノクスの通過前後、太陽系外縁から大量の天体が内惑星領域へ落下します」


「どれほどの数だ」


「モデルによって幅があります」


「最低値を」


「直径一キロメートル以上で、数百万」


「十キロメートル以上」


「数万」


 会議室の誰かが、息を吐いた。


 直径十キロ。


 一つでも地球文明を終わらせうる規模。


 それが数万。


「すべてが地球へ来るわけではありません」


 理沙は続けた。


「多くは太陽へ落下し、惑星に衝突し、あるいは太陽系外へ放出されます」


「地球へ来る数は」


「予測不能です」


「おおよそでいい」


「数十から数千」


 それは、もはや防衛という言葉が意味を持たない数だった。


 人類は小惑星迎撃技術を持っている。


 一つの天体なら、数十年前に発見できれば軌道変更も可能だった。


 十個でも、百個でも、準備次第では対応できたかもしれない。


 だが、数千。


 しかも、地球だけではない。


 月、火星、軌道都市、宇宙港、資源基地。


 太陽系全体へ、岩と氷の雨が降る。


「ノクスが太陽へ近づく前に、文明は隕石群で壊滅する可能性があるのか」


 エレナ議長が尋ねた。


「はい」


「何年前から」


「大規模な軌道攪乱は、最接近の十数年前から顕著になる可能性があります」


「つまり、我々には七十年あるわけではない」


 理沙は答えられなかった。


 代わりに、エルマンが口を開いた。


「建造に使える安定した時間は、それより短い」


「何年です」


「五十年程度を目標にすべきです」


 会議室の表情が変わった。


 七十年。


 その数字だけでも短かった。


 だが、方舟を完成させる時間は五十年。


 残りの二十年は、徐々に崩壊する太陽系を脱出するために必要になる。


     ◇


「方舟計画を正式に始動します」


 エレナ議長が言った。


 会議室の中央に、新しい文書が表示された。


 PROJECT ARK。


 人類恒星間生存計画。


 まだ設計図すらない。


 目的地も決まっていない。


 推進方式も確立していない。


 だが、その日、人類は初めて「太陽系の外へ逃げる」という決断を公式に下した。


「計画の基本条件を確認します」


 エレナは続ける。


「第一。船団は、太陽系崩壊の影響圏から脱出できる速度を持つこと」


「第二。数百年から数千年にわたり、人間社会を維持できること」


「第三。船内で食料、水、酸素を循環再生できること」


「第四。地球文明の知識、文化、歴史を保存すること」


「第五」


 言葉が止まる。


 エレナは、会議室にいる科学者たちを見回した。


「地球の生態系を可能な限り保存すること」


 生命科学者たちの顔が強張った。


 人間だけを救っても意味はない。


 作物がなければ食料はない。


 昆虫がいなければ受粉できない植物がある。


 菌類がなければ有機物は分解されない。


 微生物がなければ土壌は死ぬ。


 動物がいなければ、生態系の循環は成立しない。


 人類は自然の外側にいるのではない。


 無数の生命に支えられた一つの種にすぎない。


「人間だけを運ぶ船ではなく」


 南米生命圏研究機構の代表、マリア・サントス博士が言った。


「地球を小さく折り畳んで運ぶ船が必要です」


「それが可能ですか」


 エレナが尋ねる。


「完全な地球を再現することは不可能です」


「では何を運ぶ」


「種子」


 マリアは答えた。


「農作物、樹木、薬用植物、野生植物。現在保存されているすべての種子資源を統合します」


「動物は」


「大型動物を生体で大量に運ぶのは非効率です。受精卵、精子、卵子、体細胞、遺伝子情報を保存し、必要に応じて培養・再生します」


「絶滅危惧種も」


「可能な限り」


「昆虫」


「生体群と遺伝資源の両方が必要です。受粉昆虫、分解者、土壌生物は優先度が高い」


「微生物」


「最重要です」


 政府代表の一人が意外そうな顔をした。


「人間よりもか」


「人間は微生物なしでは生きられません」


 マリアは静かに答えた。


「腸内細菌。発酵菌。窒素固定菌。土壌微生物。植物と共生する菌根菌。水質を維持する微生物群。見えない生命が、見える生命を支えています」


 会議室の中央に、方舟の最初の概念図が浮かんだ。


 円筒形の巨大構造物。


 回転によって人工重力を生み出す居住区。


 中心軸に推進機関と制御施設。


 外周には農業区画。


 水循環施設。


 大気再生施設。


 病院。


 学校。


 工場。


 そして船体深部に、厳重に守られた生命保存区画。


 シードバンク。


 凍結細胞庫。


 DNAアーカイブ。


 人工子宮。


 動植物培養室。


 微生物保存槽。


 それは宇宙船というより、人工惑星だった。


「大きすぎます」


 宇宙構造技術者が言った。


「現在の軌道建造能力では、一隻でも百年以上かかる」


「五十年で造る必要があります」


「無理です」


「無理でも必要です」


「資材が足りない」


「月、小惑星、火星から調達する」


「労働力が足りない」


「自律建造機を増産する」


「エネルギーが足りない」


「太陽軌道発電網を拡張する」


「推進方式がない」


「開発する」


「目的地も決まっていない」


「探す」


 エレナの返答は、次第に短くなった。


 科学者たちは無理だと言う。


 政治家はやれと言う。


 だが、どちらも分かっていた。


 不可能だから中止するという選択肢は、すでに存在しない。


     ◇


 設計会議は、分野ごとに分かれて続けられた。


 推進部門。


 船体構造部門。


 閉鎖生態系部門。


 人口遺伝学部門。


 医療部門。


 教育・文化保存部門。


 社会制度部門。


 目的地選定部門。


 それぞれが、これまで人類が一度も本気で考えたことのない問題に直面した。


 何人いれば、遺伝的多様性を維持できるのか。


 何世代まで、閉鎖空間で社会を保てるのか。


 船内で国家を維持するのか。


 通貨は必要か。


 犯罪はどう裁くのか。


 出生数を誰が決めるのか。


 教育内容は誰が選ぶのか。


 宗教を持ち込むのか。


 言語はいくつ残すのか。


 歴史のどの部分を保存するのか。


 地球で起きた戦争や虐殺も伝えるのか。


 それとも、新しい社会のために忘れるのか。


 方舟の設計とは、船体の形を決めることではなかった。


 人類とは何かを決めることだった。


     ◇


 生命保存部門では、さらに残酷な議論が始まっていた。


「すべての種は運べません」


 マリア・サントス博士が言った。


 巨大スクリーンには、地球上の生物種の推定数が表示されている。


 確認されている種だけでも膨大。


 未発見のものまで含めれば、数百万から数千万。


「優先順位を決める必要があります」


「何を基準に」


「生態系機能」


「それでは、文化的価値のある動物は切り捨てるのですか」


「感情で決めれば船が沈みます」


「しかし、人類が愛してきた生命を数字だけで選べるのか」


「選ばなければ、すべて失います」


 大型哺乳類。


 鳥類。


 爬虫類。


 両生類。


 魚類。


 昆虫。


 植物。


 菌類。


 微生物。


 保存容量には限界がある。


 培養設備にも限界がある。


 新しい惑星で再生できる種にも限界がある。


「象を保存する意味はあるのか」


 ある技術者が言った。


「膨大な食料を必要とし、繁殖にも時間がかかる」


「象は森林生態系を形成する重要な種です」


「新しい惑星に森林がある保証はない」


「だからこそ、細胞と遺伝情報を保存する」


「何千年後に再生できるかも分からないものへ、限られた容量を使うのか」


 その瞬間、部屋の空気が変わった。


 誰もが気づいた。


 人類だけではない。


 動物も、植物も、菌類も。


 選ばれる生命と、選ばれない生命が生まれる。


 方舟に保存されなかった種は、地球とともに消える。


 人間の判断によって。


「これは保存計画ではない」


 若い生態学者がつぶやいた。


「選別だ」


 マリアは目を閉じた。


「そうです」


 否定できなかった。


「私たちは、地球生命の代表を選ばなければならない」


     ◇


 人間の乗船人数についても、最初の試算が出された。


 方舟一隻あたり、収容可能人数二十万人。


 建造可能隻数。


 最良条件で百隻。


 現実的には五十隻。


 合計人口、一千万人前後。


 世界人口、百四十億。


 割合にすれば、一パーセントにも満たない。


「少なすぎる」


 エレナ議長が言った。


「これでも楽観値です」


 設計主任のユン・ハンスが答えた。


「船を大きくすれば推進できない。小さくすれば社会と生態系を維持できない」


「百隻以上造る方法は」


「建造ドックがありません」


「造る」


「ドックを造るためのドックが必要です」


「自動化は」


「最大限導入します。それでも、資源採掘から精錬、輸送、組み立てまで、太陽系全体の産業を再編する必要がある」


「表向きの説明は」


「月面都市拡張。火星開発。小惑星資源計画」


「それで五十年、隠せますか」


 誰も答えなかった。


 宇宙船の規模が大きすぎる。


 資源の流れが異常すぎる。


 いずれ、誰かが気づく。


 記者。


 研究者。


 企業。


 労働者。


 真実は必ず漏れる。


 問題は、いつ漏れるかだった。


     ◇


 その夜。


 天野理沙は、再びオリオンへ戻った。


 窓の向こうには地球が浮かんでいる。


 青い海。


 白い雲。


 夜の都市光。


 あまりにも静かで、あまりにも美しい。


 七十年後、この景色はないかもしれない。


 いや。


 〇・二天文単位という軌道予測が正しければ、ない可能性の方が高い。


 理沙の端末には、方舟計画の初期設計書が表示されていた。


 全長三十二キロメートル。


 最大直径八キロメートル。


 回転式居住区。


 閉鎖生態系。


 乗員二十万人。


 航行期間、最低五百年。


 設計書の表紙には、まだ正式名のない船の輪郭が描かれている。


 理沙は指先で、その細い線をなぞった。


 この線の中に、都市が入る。


 学校が入る。


 病院が入る。


 畑が入る。


 子どもが生まれ、成長し、老いて死ぬ。


 地球を見たことのない世代が、地球の話を受け継ぐ。


 海の匂い。


 雨の音。


 土の感触。


 風に揺れる森。


 鳥の声。


 それらを、映像と記録だけで知る子どもたち。


「本当に造れるのかな」


 理沙はつぶやいた。


 オーロラが反応した。


「質問の対象を特定できません」


「方舟よ」


「現在の技術水準では、設計要件を満たす確率は低いと推定されます」


「どのくらい」


「初期推定、十一・四パーセント」


 理沙は苦笑した。


「正直ね」


「楽観的な回答を希望しますか」


「いいえ」


 理沙は地球を見た。


「嘘は、もう十分だから」


 その言葉に、オーロラは答えなかった。


     ◇


 地球では、何も知らない人々の一日が終わろうとしていた。


 家庭では夕食が並ぶ。


 テレビでは芸能ニュースが流れる。


 スポーツの試合に歓声が上がる。


 恋人たちは次の休日の予定を決める。


 妊婦は、生まれてくる子どもの名前を考える。


 大学生は、十年後の夢を語る。


 企業は百年先の経営計画を発表する。


 誰も知らない。


 百年後、その企業も国家も都市も、太陽系そのものも存在しない可能性が高いことを。


 そして、世界中の軌道工場では、その夜から密かに生産ラインが切り替えられた。


 月面では、新しい巨大ドックの地質調査が始まった。


 小惑星帯では、鉄、ニッケル、炭素、水資源の再調査が命じられた。


 火星では、閉鎖生態系研究施設の拡張計画が承認された。


 地球上の種子保存庫には、理由を知らされないまま、すべての保管資料の再点検命令が届いた。


 動物園。


 水族館。


 森林研究所。


 農業試験場。


 微生物研究所。


 世界中の生命の記録が、静かに集められ始めていた。


 それは、まだ誰も方舟とは呼ばない計画だった。


 だが確かに、人類は動き始めていた。


 太陽系を捨てるために。


 故郷を、未来へ持ち出すために。


 そして、百四十億人の中から、救う命を選ぶために。



第4話 終


次回予告


 方舟の設計は始まった。


 だが、紙の上に線を引くだけでは、宇宙船は造れない。


 必要なのは、月と小惑星から切り出される膨大な資源。


 前例のない巨大建造ドック。


 都市を丸ごと運ぶ閉鎖生態系。


 そして、人類がまだ手にしていない恒星間推進機関。


 世界政府は、表向きには「第二次宇宙開発時代」を宣言する。


 月面都市の拡張。


 火星の大規模開拓。


 小惑星資源産業への巨額投資。


 世界は新しい繁栄の始まりだと信じ、歓声を上げる。


 しかし、その裏側では。


 方舟建造に必要な資源を巡り、国家と企業の思惑が動き始める。


 そして一人の記者が、あまりにも不自然な予算の流れに気づく。


 次回、


第5話「第二次宇宙開発時代」


 人類を救うための嘘が、世界を未来へ走らせる。

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