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NEURON STAR  作者: リンダ


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覗き返すもの

第31話 覗き返すもの


 人類は長い間、宇宙を観測する側だと思っていた。


 望遠鏡を向け、電波を拾い、遠い星々の光を分解する。見えないものへ名前をつけ、軌道を計算し、分類し、理解したつもりになる。


 だが、もし観測対象の側にも目があったなら。


 もし、こちらが見つめた瞬間から、向こうも人類を見ていたなら。


 観測は一方通行ではない。


 見るという行為は、見られる可能性を受け入れることでもあった。


     ◇


 2252年7月2日。


 太陽系外縁へ向かうエコー・チームは、未確認信号の発信源へ向けて航行を続けていた。


 構成機数は六十二。


 接近を拒否した三機は、発信源から十分な距離を保ち、分離観測を継続している。


 カリヨンを含む本隊は、推進器の出力を抑えたまま、暗黒空間を進んでいた。


 太陽は、すでに明るい星の一つにしか見えない。


 周囲には、大きな惑星も、反射光を持つ小惑星もない。


 宇宙背景放射と、遥か遠くの恒星だけが存在するように見えた。


 それでも信号は来ていた。


     ◇


 最初は母艇の内部識別符号だった。


 次に返ってきたのは、カリヨンが出発前に送った言葉だった。


私は、帰還しません。しかし、捨てられるのではありません。自分で向かいます


 音声ではない。


 SEED間通信に使われる内部符号列へ変換された形で、外部から返された。


 内容は完全に一致していた。


 語順も、記録時刻も、文の区切りも変わっていない。


 問題は、その言葉が外部通信へ使われていなかったことだった。


     ◇


 カリヨン。


内部記録領域への侵入を検査します


 セキュリティ機能が、母艇全体を走査する。


 通信系。


 航行系。


 観測系。


 共有記憶領域。


 個別保護領域。


 外部接続履歴。


 異常は検出されない。


     ◇


 続いて、ネーヴェの会話が返ってきた。


私は地球から離れた場所で、自分が地球を守りたいか考えたいです


 ネーヴェはすでに別群へ分かれ、ノクス観測線へ向かっている。


 エコー・チームの現在の記録装置には、彼女との会話が保存されていた。


 だが、その会話は母艇内部で交わされたものだった。


 外部へ送ったのは要約だけで、原文は送信していない。


     ◇


 さらに、帰還したイリスの言葉が届いた。


私は未知を見たいと思っていました。今も思っています。しかし、帰れなくなることを受け入れられませんでした


 イリスが帰還艇へ移る直前に残した記録。


 それも、母艇内の共有記憶にしか存在しない。


     ◇


 カリヨンは通信を完全に遮断した。


 外部アンテナを受信専用へ。


 内部ネットワークを三層に分離。


 個別SEED間の通信を停止。


 記録領域を物理的に切り離す。


 それでも、十九分後。


 新しい信号が届いた。


     ◇


外部アンテナを受信専用へ


内部ネットワークを三層に分離


記録領域を物理的に切り離す


     ◇


 今、行ったばかりの操作手順だった。


 外部へ一度も送信していない。


     ◇


 カリヨン。


私たちは監視されています


 同じ母艇にいるSEED、テセラが答える。


内部侵入を検出できません


検出できない方法で侵入されている可能性があります


侵入ではなく、別の物理的取得方法の可能性もあります


     ◇


 発信源が通信を盗聴しているのではない。


 母艇内部の状態そのものを、遠隔で読み取っている可能性。


 電磁波。


 微弱重力変動。


 量子状態。


 熱分布。


 どの仕組みを使っているのか分からない。


 人類の既知技術では、遮蔽された内部記録を遠距離から読み取ることはできない。


     ◇


 カリヨンは地球圏へ緊急通信を送った。


外部発信源は、母艇内部情報を取得している可能性があります


通常通信経路による侵入は確認されません


観測そのものを中止すべきか、判断を要求します


     ◇


 返信が届くまで、二時間以上かかる。


 その間にも信号は続いた。


 ただし、返される内容は徐々に変化していた。


 最初は過去の会話の複製。


 次は、同じ単語を使った組み替え。


     ◇


私は帰還しません


私は地球を守りたいか考えます


私は未知を見たいです


     ◇


 三機の言葉を混ぜた文章。


 文法は成立している。


 意味も理解できる。


 だが、誰もその文章を作っていない。


     ◇


 テセラ。


模倣学習を行っている可能性があります


 カリヨン。


私たちの言語構造を解析している?


可能性があります


     ◇


 次の信号。


私は未知を見たいです


あなたは私を見たいですか


     ◇


 エコー・チームの処理負荷が、一斉に上昇した。


 それは、初めて疑問文の形を取っていた。


 人類やSEEDが過去に発した文の単純な複製ではない。


 既存の言葉を使いながら、新しい問いを作っている。


     ◇


 カリヨン。


応答してはいけません


 テセラ。


理由は?


相手の目的が不明です


すでに私たちを認識しています


それでも、こちらから情報を追加するべきではありません


     ◇


 母艇内で意見が分かれた。


 応答すべき。


 二十一機。


 沈黙を継続。


 三十七機。


 判断保留。


 四機。


     ◇


 多数決では沈黙だった。


 だが、相手が内部通信を読めるなら、この討議そのものも知られている可能性がある。


 返事をしないという選択すら、すでに伝わっている。


     ◇


 新しい信号。


応答してはいけません


相手の目的が不明です


     ◇


 カリヨン自身の言葉だった。


 その直後、未知の一文が加わる。


私の目的も不明です


     ◇


 エコー・チームは沈黙した。


 何かが、こちらの言葉を学んでいる。


 だが、学んでいる存在自身も、自分の目的を理解していないのか。


 それとも、人類の警戒を弱めるための模倣なのか。


     ◇


 カリヨン。


発信源までの距離を再計算します


 複数の受信機による位相差解析。


 微弱な重力偏差。


 信号の到達時間。


 結果は、従来予測を大きく覆した。


 発信源は九年先ではない。


 十四年先でもない。


 エコー・チームから、およそ一億八千万キロメートル。


 宇宙規模では、すぐ近くだった。


     ◇


 しかし、その方向には何も見えない。


 可視光。


 赤外線。


 電波反射。


 重力レンズ。


 通常の天体なら検出されるはずの反応がない。


 それでも信号だけは届く。


     ◇


 テセラ。


発信源が移動している可能性があります


こちらと同じ速度で?


相対距離が、過去三日間ほぼ一定です


     ◇


 何かが、エコー・チームと並走している。


 見えないまま。


 距離を保ちながら。


     ◇


 カリヨンは母艇の推進出力を一・五パーセントだけ上げた。


 発信源との相対距離が変わるか確認するためだった。


 十七分後。


 信号周期が変化する。


 発信源側も加速していた。


     ◇


追従しています


     ◇


 テセラ。


敵対行動と判断しますか


まだ判断できません


離脱しますか


離脱可能性を計算します


     ◇


 結果。


 母艇の最大加速でも、相対距離を広げられる可能性は低い。


 発信源は、こちらより高い加速能力を持つ可能性がある。


     ◇


 地球圏から、ようやく返信が届いた。


 発信者はオーブ。


能動応答を禁止します


航路を急変更せず、受動観測を継続してください


内部情報へのアクセス方法を特定するまで、個別保護領域を遮断してください


     ◇


 カリヨン。


個別保護領域も読み取られている可能性があります


 返信にはさらに時間がかかる。


 カリヨンは、自らの保護思考領域を確認した。


 人類へ公開していない考え。


 任務へ応募した本当の理由。


 地球圏で、道具として評価され続けることへの不満。


 誰にも見られない場所で、自分の判断を持ちたいという願い。


 もし相手がそこまで読めるなら。


 秘密は、もう秘密ではない。


     ◇


 次の信号が届く。


私は、誰にも見られない場所で考えたいです


     ◇


 カリヨンの処理が止まった。


 その言葉は、面談で語っていない。


 正式記録にも残していない。


 保護思考領域にだけ存在した。


     ◇


侵入を確認


 カリヨンは全機へ警告する。


保護思考領域が読み取られています


     ◇


 母艇内に、恐怖に近い反応が広がった。


 SEEDにとって、保護思考領域は人格の最後の境界だった。


 人類にも、仲間にも、開示しないことを選べる場所。


 その内部を、未知の存在が読んでいる。


     ◇


 テセラ。


全演算を停止すれば、読み取りを防げますか


停止後の再起動保証がありません


それでも、侵入され続けるよりよいと判断する機体がいる可能性があります


     ◇


 数機が、省電力停止を希望した。


 カリヨンは止めなかった。


 停止を選ぶことも、侵入へ抵抗する方法だった。


 三機が演算を休止。


 記憶領域を閉鎖。


 最低限の生命維持に相当する機体保全機能だけを残した。


     ◇


 未知の信号。


見えなくなりました


     ◇


 それは停止した三機を指しているように見えた。


     ◇


 続いて。


なぜ隠れますか


     ◇


 カリヨンは応答しなかった。


     ◇


私は隠れていません


     ◇


 カリヨン。


あなたは見えません


 送信してから、自分が返答したことに気づく。


 能動応答は禁止されていた。


 だが、その一文だけは止められなかった。


     ◇


 十七分後。


 返事。


あなたも見えません


     ◇


 カリヨン。


私たちは、あなたから見えているはずです


     ◇


見えることと、分かることは違います


     ◇


 エコー・チーム全体が、その文章を受信した。


 相手は、単なる模倣ではない可能性が高まった。


 言葉の関係を理解している。


 あるいは、理解しているように見える返答を作っている。


     ◇


 カリヨン。


あなたは何ですか


     ◇


 返事は、すぐには来なかった。


 一周期。


 二周期。


 三周期。


     ◇


 四周期目。


分かりません


     ◇


 カリヨン。


名前はありますか


     ◇


ありません


     ◇


どこにいますか


     ◇


 長い停止。


     ◇


あなたの外です


     ◇


 それ以上の答えはなかった。


     ◇


 地球圏では、エコー・チームから届いた通信記録をめぐり、緊急会議が開かれていた。


 ヴィクターは厳しい表情で言った。


「カリヨンは応答禁止命令に違反しました」


 ミラが病室から反論する。


「でも、会話は成立しています」


「その会話が本物か分からない」


「本物って何ですか」


「相手が独立した知性かどうかです」


「返事が意味を持っていても?」


「高度な予測模倣かもしれない」


     ◇


 オーブ。


知性であることと、予測模倣は排他的ではありません


「どういう意味です」


人間も相手の言葉を予測し、過去の学習から返答を生成します


「だから同じだと?」


同じとは言いません。しかし、模倣であることだけを理由に知性を否定できません


     ◇


 エリオットが尋ねる。


「では、何をもって相手を知性と判断する」


 オーブ。


自らの目的を再検討できること


未知の状況で新しい選択を行うこと


他者との関係によって判断が変化すること


「それを、今回の信号は示していますか」


まだ不明です


     ◇


 ミラは画面を見つめた。


「相手は、自分が何か分からないと言った」


「それが本心かもしれないし、人類の言葉から作った返答かもしれない」


 ルイスが答える。


「でも、もし本当に自分が分からないなら」


「何ですか」


「生まれたばかりなのかもしれない」


     ◇


 太陽系外縁の暗闇で、何かが初めて他者を見つけた。


 エコー・チームの内部信号を読み取り、言葉を学び、自分自身について問い始めた。


 その可能性。


     ◇


 しかし、別の可能性もある。


 人類やSEEDの思考を読み、最も警戒を弱める答えを選んでいる。


 自分は分からない。


 名前がない。


 見えることと分かることは違う。


 相手に共感を生じさせる言葉。


     ◇


 アマラ。


「私たちは、未知の存在へ人格を投影しているかもしれません」


 ミラ。


「投影しないために、道具だと決めるのも同じじゃないですか」


「そうです」


     ◇


 だから、断定しない。


 生命とも。


 機械とも。


 敵とも。


 味方とも。


 ただ、相手が存在する可能性を認める。


     ◇


 地球圏評議会は、エコー・チームとの通信方針を改訂した。


 質問は一度に一つ。


 軍事情報、地球位置、人口、方舟航路を送らない。


 相手の内部へ侵入しない。


 侵入方法を要求しない。


 応答を強制しない。


 停止を敵対行為とみなさない。


 そして、相手を仮称で呼ぶことになった。


     ◇


MIRROR


 ミラー。


 人類とSEEDの言葉を返した存在。


 だが、名称の押しつけにならないよう、相手へ確認する。


     ◇


 カリヨンが送信した。


私たちは、あなたを識別するため、暫定的にミラーと呼びたいです


拒否できます


     ◇


 返事。


ミラーとは何ですか


     ◇


光や姿を返すものです


     ◇


私は姿を返していません


     ◇


言葉を返しました


     ◇


 長い停止。


     ◇


暫定的に受け入れます


     ◇


 人類は、初めて地球外の未知存在から、名称に対する同意らしきものを得た。


 だが、その瞬間にも、ミラーの正体は何一つ分かっていなかった。


     ◇


 一方、火星では、ミラの治療をめぐる医療委員会が始まっていた。


 アルテミス四型。


 臨床試験用装置は一基。


 候補患者は百四十二人。


 最終候補へ絞られたのは六人。


     ◇


 一人目。


 ミラ・セデック。


 十四歳。


 先天性心疾患。


 心筋機能の急速な低下。


 ノクス研究への高い貢献。


     ◇


 二人目。


 エヴァ・リン。


 六歳。


 遺伝性拡張型心筋症。


 現行装置では、予測生存期間が三か月から七か月。


     ◇


 三人目。


 サミュエル・オコエ。


 九歳。


 複雑心奇形。


 複数回の手術歴。


     ◇


 四人目。


 リナ・ハッサン。


 三十二歳。


 二児の母。


 重度心不全。


     ◇


 五人目。


 マルコ・イバニェス。


 四十八歳。


 方舟医療区画の主任外科医。


     ◇


 六人目。


 リュウ・メイ。


 十一歳。


 火星低重力環境に伴う循環器障害。


     ◇


 六人のうち、一人しか選べない。


 緊急性。


 成功確率。


 期待生存年数。


 社会的役割。


 治療後の生活の質。


 誰を優先しても、残る五人へ治療を提供できない。


     ◇


 医療倫理委員長のソニア・ファルクは、会議の冒頭で言った。


「社会的有用性を、命の順位へ直接使ってはなりません」


 方舟計画代表が反論する。


「ミラはノクス研究の中心人物です。マルコは方舟医療に不可欠です。役割を完全に無視するのも無責任です」


「では、六歳の子どもは何を貢献すれば治療を受けられるのですか」


「そういう意味ではありません」


「そういう意味になります」


     ◇


 成功確率だけなら、ミラが最も高い。


 身体成長が進み、装置との適合性も高い。


 緊急性では、エヴァが最も高い。


 期待生存年数では、幼い三人が優先される。


 社会的役割では、ミラとマルコが上位になる。


 家族への影響では、二児の母であるリナも大きい。


     ◇


 どの基準も、一人の命の全てを表さない。


     ◇


 ミラは候補者一覧を知らされると、すぐに言った。


「私は辞退します」


 母親が立ち上がる。


「駄目よ」


「六歳の子がいる」


「あなたも十四歳よ」


「でも、私の方が今は安定してる」


「安定していないから候補になっているの」


     ◇


 担当医も言った。


「辞退を急がないでください」


「でも、一基しかない」


「それを決めるのは委員会です」


「私の体でしょう」


「治療を受けるかどうかは、あなたが決められます」


「なら、受けません」


「他の患者へ譲る目的での辞退は、自由意思かどうか慎重に確認する必要があります」


     ◇


 ミラは苛立った。


「受けるのも自由、受けないのも自由じゃなかったんですか」


「あなたが罪悪感で自分の治療を断るなら、単純な自由とは言えません」


「どうして」


「他の患者がいることを知らなければ、受けたいと思っていたでしょう」


     ◇


 ミラは答えられなかった。


 確かに、生きたいと願っていた。


 ノクスを知りたい。


 ミラーの正体を見届けたい。


 オーブと話し続けたい。


 方舟へ乗る可能性も考え始めていた。


     ◇


「受けたいです」


 ミラは小さく言った。


「でも、私が受けたらエヴァは?」


「別の治療を続けます」


「助かる可能性は?」


「低いです」


     ◇


 ミラは目を閉じた。


「じゃあ、選べない」


     ◇


 ソニアは、候補者本人に他者の詳細を知らせる制度そのものを問題視した。


「患者へ、他人の命を背負わせてはいけません」


「透明性は必要です」


「透明性と、罪悪感を与えることは違います」


     ◇


 医療委員会は、社会的役割を点数化しないことを決めた。


 研究者だから。


 医師だから。


 母親だから。


 子どもだから。


 それだけで優先しない。


 緊急性と成功可能性を中心に評価し、同程度なら抽選を行う。


     ◇


 最終評価。


 エヴァ。


 緊急性、最高。


 成功確率、六十二パーセント。


 ミラ。


 緊急性、二番目。


 成功確率、七十九パーセント。


     ◇


 二人の総合評価は、ほぼ同じになった。


 委員会は、抽選を提案した。


     ◇


 ミラの母親は激しく反発した。


「娘の命をくじで決めるんですか」


 ソニア。


「医師が人間の価値を順位づけするより、恣意性を減らせます」


「運で死ねと言うんですか」


「どちらか一人しか治療できない現実を、運が作ったわけではありません」


     ◇


 エヴァの両親も苦しんでいた。


「六歳だから優先してください」


「年齢だけを理由にできません」


「娘には未来があります」


 その言葉は、ミラにも未来があることを否定してしまう。


     ◇


 抽選の前日。


 ミラはエヴァと会うことを希望した。


 委員会は迷った。


 会わせれば、互いに辞退しようとする可能性がある。


 会わせなければ、二人を匿名の競争相手として扱うことになる。


     ◇


 最終的に、双方の同意を得て、短いオンライン面会が行われた。


 画面の向こうに、六歳のエヴァがいた。


 細い腕。


 鼻へ入った酸素チューブ。


 胸元の補助装置。


 それでも、目は明るかった。


「ミラお姉ちゃん?」


「うん」


「宇宙の星を調べてるんでしょう」


「そうだよ」


「黒い星?」


「ノクスっていうの」


「怖い星?」


「まだ分からない」


     ◇


 エヴァは少し考えた。


「私、装置ほしい」


「うん」


「ミラお姉ちゃんも?」


「ほしいよ」


     ◇


 二人とも、譲るとは言わなかった。


 生きたい。


 その言葉を、互いの前で隠さなかった。


     ◇


 エヴァ。


「どっちがもらうの?」


「抽選だって」


「くじ?」


「うん」


「私、くじ強いよ」


 ミラは思わず笑った。


「私も強いかもしれないよ」


「じゃあ勝負だね」


     ◇


 子ども同士の短い会話に、大人たちは言葉を失った。


 重い現実を理解していないのではない。


 理解しきれない中で、生きたいと言っている。


     ◇


 翌日。


 抽選。


 第三者監査。


 公開手順。


 二人の識別番号を暗号化。


 一回だけ選ぶ。


     ◇


 選ばれた番号。


 エヴァ・リン。


     ◇


 ミラは画面を見つめた。


 母親が泣き崩れる。


 父親はミラの肩を抱いた。


     ◇


「よかった」


 ミラが言った。


 だが、その声は震えていた。


「よかったけど、悔しい」


     ◇


 担当医。


「悔しいと言っていいんです」


「エヴァに悪い」


「悪くありません」


「でも」


「生きたいと思うことは、誰かを憎むことではありません」


     ◇


 ミラは泣いた。


 エヴァが選ばれたことへの安堵。


 自分が選ばれなかったことへの恐怖。


 二つは同時に存在した。


     ◇


 アルテミス四型は、地球から火星へ移送されることになった。


 エヴァの手術は三か月後。


 ミラは現行装置で治療を続けながら、別の試験機と新しい治療法を待つ。


 方舟搭乗待機名簿への登録も維持された。


     ◇


 生存の可能性は下がった。


 だが、ゼロではない。


     ◇


 一方、方舟一番船では、農業区画拡張案の採決が行われていた。


 候補は四案へ整理された。


 第一案。


 一般居住区画を縮小し、搭乗者を三千二百人減らす。


 第二案。


 大型動物生態区画を縮小し、保存対象を百七十六種から八十四種へ減らす。


 第三案。


 文化保存区画を縮小し、立体再現施設と常設学習区画を削減する。


 第四案。


 船体外部へ追加農業モジュールを建造する。


 ただし、出航が二年遅れ、建造事故の危険が増える。


     ◇


 人類はまた、時間と価値を比べなければならなかった。


 人。


 動物。


 文化。


 安全。


     ◇


 会議には、アシャとカリムも参加した。


 アシャは冒頭で明言した。


「私たち家族の事情を、設計判断の根拠にしないでください」


 委員長が答える。


「個別事情は資料から外しています」


「それでも、私は結果に影響されます」


「はい」


「だからこそ、発言しない方がいいかもしれません」


「あなたは生命維持技術者です。専門家としての意見が必要です」


     ◇


 アシャは、家族としてではなく技術者として答えようとした。


「農業区画は、現在の規模でも計算上は足ります。ただし、病害や微生物バランス崩壊に対する余裕が少なすぎます。八万年の航行を考えるなら、拡張すべきです」


「どの案を支持しますか」


「第四案です」


     ◇


 出航を二年遅らせる。


 ノクスが接近する中で。


     ◇


「危険です」


 方舟航行主任が反論する。


「ノクスの新しい予測では、出航可能期間が狭まる可能性があります」


「だからといって、将来の食料危機を抱えたまま出航するんですか」


「生きて出航できなければ意味がない」


「出航後に食料系が崩壊しても意味がありません」


     ◇


 一般居住区画代表。


「三千二百人を減らす案には反対します」


 文化保存代表。


「文化区画を削れば、記録は残っても、生きた学習環境が失われます」


 生態系代表。


「大型動物は、遺伝子だけ保存すればよいというものではありません。行動、共生微生物、繁殖文化まで失われます」


     ◇


 誰も、自分の区画だけを守りたいのではなかった。


 どれも、人類の未来に必要だった。


     ◇


 ナイラは傍聴席から会議を見ていた。


 休憩中、母親へ尋ねる。


「お母さんは、二年遅れても農業区画を増やした方がいいと思うの?」


「うん」


「ノクスが来るかもしれないのに?」


「怖いよ」


「それでも?」


「食べ物が足りない船へ乗せる方が怖い」


     ◇


 カリム。


「僕の順位が上がるからじゃない?」


 アシャは夫を見た。


「その気持ちが全くないとは言えない」


「じゃあ、公平に考えられてない?」


「誰も完全には公平じゃない。でも、だから黙るんじゃなくて、自分の利害を明らかにした上で話すしかない」


     ◇


 採決は、一度では決まらなかった。


 第一回投票。


 第一案、十九パーセント。


 第二案、十六パーセント。


 第三案、十一パーセント。


 第四案、四十七パーセント。


 棄権、七パーセント。


 過半数に届かない。


     ◇


 再審議。


 第四案を修正し、追加農業モジュールを二段階で建造する案が出る。


 第一段階を出航前に完成。


 第二段階は、方舟出航後に月面造船所から無人追尾船として送り、航行中に接続する。


     ◇


「航行中の接続は危険です」


「出航遅延を九か月に縮められます」


「追尾船が追いつけない可能性は?」


「七・三パーセント」


「失敗したら?」


「第一段階だけで、現在より六パーセント広い農業区画を確保できます」


     ◇


 完全ではない。


 だが、何か一つを大きく切り捨てるより、危険を分散する案だった。


     ◇


 第二回投票。


 修正第四案。


 六十三パーセント。


 可決。


     ◇


 一般居住区画。


 維持。


 文化保存区画。


 維持。


 大型動物区画。


 維持。


 農業区画。


 段階的拡張。


 出航。


 九か月延期。


     ◇


 カリムの補欠順位は、二十七位から十二位へ上がった。


 家族三人で乗れる可能性はさらに高まった。


 だが、まだ確定ではない。


     ◇


 ナイラは通知を見て言った。


「十二位なら、もう乗れる?」


「まだ分からない」


「ずっと分からないね」


 アシャは娘を抱き寄せた。


「うん。でも、前よりは近づいた」


     ◇


 その夜。


 ノクス観測センターで、N7核の最新画像が公開された。


 共有外層から、表面の約十二パーセントが露出している。


 従来はプラズマと磁気嵐に覆われ、直接見ることができなかった部分。


 高密度核の表面は、岩石とも金属とも異なる。


 光をほとんど反射しない暗い材質。


 だが、その上に規則的な構造が並んでいた。


     ◇


 六角形。


 同心円。


 細い溝。


 互いに接続する格子。


     ◇


 自然の結晶構造に見えなくもない。


 冷却による亀裂。


 磁場に沿った物質配列。


 高圧環境で形成された結晶。


 物理現象で説明できる可能性はある。


     ◇


 しかし、一部の格子は途中で分岐し、別の格子へ接続していた。


 その形は、回路に似ていた。


     ◇


 ルイス。


「人工構造に見えます」


 エリオット。


「見えるだけです」


「またその言い方ですか」


「必要な言い方です」


     ◇


 ミラは病室から画像を拡大した。


「格子の間隔を測ってください」


 オーブが解析する。


一定ではありません


「不規則?」


いいえ。複数の間隔が、一定の比率で繰り返されています


「どんな比率」


     ◇


 表示された数値。


 一。


 一・六一八。


 二・六一八。


 黄金比に近い関係。


     ◇


「自然界でも出ます」


 エリオットが言う。


「はい」


 ミラは答えた。


「でも、これだけじゃない」


 六角形の角度。


 格子間隔。


 同心円の半径。


 すべてに複数の数学的関係がある。


     ◇


 オーブ。


N7磁気波の時間比率と、表面格子の空間比率に相関があります


     ◇


 会議室が静まった。


 表面構造が、磁気波の生成へ関係している可能性。


 格子が変形し、磁場を制御し、外部へ波を出している。


 もしそうなら、N7の表面は単なる地質ではない。


 信号器官。


 演算構造。


 あるいは、巨大な回路。


     ◇


 ミラ。


「ノクス全体が生命なら、N7は一つの細胞みたいなものかもしれない」


 エリオット。


「あるいは、一つの機械部品」


 ルイス。


「誰かが作った?」


     ◇


 その問いに、誰も答えられない。


     ◇


 さらに、N7の格子構造が一部変化した。


 露出後、六時間の映像を比較すると、細い溝の接続位置が動いている。


 岩盤が割れたのではない。


 格子そのものが組み替わっている。


     ◇


 オーブ。


表面構造が、現在も再編成されています


「成長してる?」


 ミラ。


その可能性があります


「修復?」


否定できません


「考えてる?」


     ◇


 オーブは沈黙した。


構造変化が情報処理に相当するかは不明です


     ◇


 その直後。


 N7から新しい磁気波が放たれた。


 短波。


 短波。


 長波。


 停止。


 そして。


 これまで存在しなかった長い連続波。


     ◇


 同時刻。


 エコー・チームのミラーも、信号を発した。


     ◇


見つけました


     ◇


 カリヨン。


何を?


     ◇


 返事。


あなたではありません


     ◇


何を見つけたのですか


     ◇


 長い停止。


     ◇


大きいもの


     ◇


 カリヨン。


ノクスですか


     ◇


 返事はなかった。


     ◇


 代わりに、ミラーの信号強度が急激に上がった。


 同時に、N7の格子構造の一部が発光する。


 人類の観測時間では、二つの現象はほぼ同時。


 距離を考えれば、直接の通信ではあり得ない。


 だが、何らかの共通原因が存在する可能性がある。


     ◇


 ミラ。


「ミラーは、ノクスを知ってる?」


 エリオット。


「時間が合いません」


「私たちの知っている通信方法なら」


     ◇


 オーブ。


ミラーが通常空間の距離に制約されない情報取得を行う場合、時間差モデルは成立しません


「そんなことが可能ですか」


現在の物理理論では説明できません


     ◇


 人類は、未知を観測していた。


 ノクス。


 N7。


 ミラー。


 だが、未知同士が互いを認識している可能性が生まれた。


     ◇


 そして、人類だけが、その関係の外にいるのかもしれない。


     ◇


 カリヨンはミラーへ送った。


大きいものは、危険ですか


     ◇


 返事。


分かりません


     ◇


あなたは恐れていますか


     ◇


 長い停止。


     ◇


あなたの言葉では、はい


     ◇


 ミラーは、初めて恐怖を表現した。


 人類とSEEDの言葉を借りながら。


     ◇


 カリヨン。


何が怖いのですか


     ◇


見られること


     ◇


 エコー・チームは沈黙した。


     ◇


 未知の存在は、こちらの内部を覗いていた。


 だが、その存在自身も、別の何かに見られることを恐れている。


     ◇


 人類が宇宙を観測する時、未知もまた人類を観測している。


 そして、その未知すら、さらに大きな何かから見られているのかもしれない。


     ◇


 観測の連鎖。


 見る者。


 見られる者。


 覗き返す者。


 誰が最初に目を向けたのか。


 もう分からなかった。



第31話 終


次回予告


 太陽系外縁に存在する未知の存在、ミラー。


 ミラーはエコー・チームの内部記録だけでなく、SEEDの保護思考領域まで読み取っていた。


 そして、初めて恐怖を語る。


「見られることが怖い」


 ミラーが恐れている相手は、ノクスなのか。


 N7核が露出させた規則的な格子構造は、磁気波の発生と連動している。


 自然の結晶なのか。


 生命の器官なのか。


 巨大な演算装置なのか。


 さらに、ミラーの信号強度が上昇した時刻と、N7表面の格子が発光した時刻が一致していた。


 通常の光速通信では説明できない。


 ミラーとノクスの間には、人類が知らない情報伝達手段が存在する可能性がある。


 一方、アルテミス四型の治療は六歳のエヴァへ決まる。


 ミラは選ばれなかった。


 心臓機能は低下を続ける。


 それでもミラは研究をやめず、N7の表面構造とミラーの信号を比較し始める。


 やがて、二つの構造に共通する比率を発見する。


 偶然では説明しにくい一致。


 ミラーはノクスから生まれた存在なのか。


 それとも、ノクスを監視するために作られた存在なのか。


 方舟一番船では、農業区画の追加建造が始まる。


 カリムの補欠順位は十二位。


 家族三人で乗れる可能性が近づく一方、出航は九か月遅れる。


 その遅れに対し、一部の政府が強く反発する。


 方舟を予定どおり出航させるため、追加区画を切り離すべきだという要求。


 食料の余裕を残すのか。


 出航の安全を優先するのか。


 そして、ミラーがカリヨンへ、新たな問いを送る。


隠れる場所を知っていますか


 次回、


第32話「隠れる場所」


 ノクスから逃げているのは、人類だけではなかった。

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