最初の返事
第30話 最初の返事
宇宙から何かが返ってきたとき、人類はそれを言葉だと信じたくなる。
自分たちは孤独ではなかった。
遠い暗闇の中にも、こちらを見ている存在がいた。
その願いは強い。
強いからこそ、慎重でなければならない。
返事に見えるものが、ただの反射かもしれない。規則に見えるものが、自然現象の偶然かもしれない。人類が意味を読み取った瞬間から、そこには人類自身の期待や恐怖が入り込む。
宇宙から返ってきたものは、本当に人類への言葉なのか。
人類は、その問いを前にしていた。
◇
2252年6月16日。
月面軌道、ノクス観測統合センター。
中央解析室には、N7核から放たれた磁気波と、四十七年前に人類が送信した重力測定パルスが並べて表示されていた。
短波、短波、長波。
短波、長波、短波。
長波、短波、短波。
そして、新たに加わった短波、短波、短波。
完全な一致ではない。
しかし、同じ種類の要素を異なる順序へ組み替えた構造がある。
単純な反射なら、入力された波形がそのまま戻るはずだった。ノクス側で何らかの変換が起きている可能性は高い。
問題は、その変換が物理現象なのか、情報処理なのかということだった。
◇
「応答を送るべきです」
通信解析主任のルイス・オコンネルは、中央画面を指した。
「完全な文章を送る必要はありません。相手が使った系列の一部を、順序だけ変えて返します。もし再び変換された波が返ってくれば、偶然の可能性は大きく下がります」
恒星物理学者のエリオット・グレイは首を横に振った。
「返答が届くまで何十年もかかる可能性があります。その間に、ノクスの挙動が変化するかもしれない」
「何もしなくても変化しています」
「だからといって、意味の分からない刺激を加えてよい理由にはならない」
「刺激ではなく、低出力の照射です」
「ノクスにとって低出力かどうかは分かりません」
◇
ミラ・セデックは、火星の医療研究室から会議へ参加していた。
顔色は以前より白い。
胸部補助装置の作動音が、静かな室内へ一定の間隔で響いていた。
「ノクスが、人類の重力測定パルスを刺激として受け取った可能性があるなら、同じ方法で返すのは危険です」
ルイスが尋ねる。
「では、どんな方法なら安全ですか」
「分かりません」
「分からないから、何も送らない?」
「分からないから、相手の変化をもっと観測するんです」
「その間にN7が分離したら?」
「焦って送った波が分離を促すかもしれません」
◇
どちらにも根拠があった。
返事をしなければ、意思疎通の機会を失うかもしれない。返事をすれば、相手を刺激し、危険を増やすかもしれない。
沈黙も選択であり、送信も選択だった。
何もしないことは、中立ではない。
だが、何かをすることが正しいとも限らない。
◇
リュミエール・オーブが解析結果を共有した。
N7磁気波の内部には、人類側の送信系列と一致しない部分があります
ミラが画面を拡大する。
「どこですか」
各系列の終端です
波形の最後に、ごく短い揺らぎが存在していた。
従来は観測ノイズとして除外されていた部分だった。しかし、三回分の磁気波を比較すると、その揺らぎにも偏りがあった。
短い上昇。
わずかな下降。
長い停止。
次の系列では、下降、上昇、停止。
さらに次は、上昇、上昇、停止。
◇
「本体の系列とは別の層がある?」
ミラが尋ねた。
可能性があります
ルイスが身を乗り出す。
「二重化された情報かもしれない」
「まだ情報と呼ばないでください」
エリオットが止める。
「内部核の回転や、共有外層を伝わる際の歪みでも説明できます」
オーブは続けた。
ただし、終端揺らぎはN7核の位置変化と一致していません
「他の核は?」
第三核と第五核の磁場変化に弱い相関があります
◇
一つの核が単独で発信しているのではない可能性。
N7が波を出し、他の核がそれへ影響している。
複数の核が、共有外層を通じて一つの波形を作っている。
もしそれが情報なら、ノクスは一個体ではなく、複数の存在による群体的な応答を返しているのかもしれない。
◇
アトラスが新しい解析案を提示する。
人類側から能動波を送らず、太陽系内の自然磁気現象を利用できます
「どういう意味です」
木星磁気圏から発生する既知の電磁波が、将来ノクス方向へ伝播します
「自然に発生する波への反応を見る?」
はい
「人類が作った刺激ではない」
完全に人類と無関係ではありません。観測位置と時刻を選ぶのは人類です。しかし、新たな波を発生させる必要はありません
◇
木星の磁気圏は、周期的に強い電波を放つ。
その波形は人類の測定パルスとは異なる。もしノクスが外部刺激を単に物理的に変換しているなら、木星由来の波にも同じような反応が起きる可能性がある。
一方、過去の人類パルスにだけ反応しているなら、周波数や構造に選択性があることになる。
◇
「待つ期間は?」
エレナ・ヴァルガスが尋ねる。
最短で十四か月です
「長いですね」
ノクス接近の時間尺度では短いです
「人間の政治には長い」
物理現象は政治日程へ合わせません
◇
会議室の一部で小さな笑いが起きたが、すぐに消えた。
十四か月の間にも、ノクスは近づく。
N7核は分離を続けるかもしれない。
方舟建造も、PROJECT MOSAICも、先行観測線も進めなければならない。
人類は、答えを待ちながら対策を続けるしかなかった。
◇
最終的に、能動応答波の送信は保留された。
木星磁気圏由来の自然波に対する反応を待つ。
過去に送信済みの重力測定パルスとの追加照合を行う。
同時に、応答送信が必要となった場合へ備え、複数の候補波形を作成する。
沈黙を選んだのではない。
すぐに話しかけないことを選んだ。
◇
その決定が下された直後、火星側の通信画面が揺れた。
ミラの肩がわずかに動き、右手が胸元へ伸びる。
「ミラ?」
母親の声が聞こえた。
ミラは答えようとしたが、息が続かなかった。
胸部補助装置の警告音が鳴る。
心拍数が急激に上昇した後、不規則に低下する。
◇
「通信を切ります」
担当医が画面へ入った。
「ミラ、横になって。ゆっくり息をして」
「会議が」
「今は心臓を優先します」
「あと少しだけ」
「駄目です」
◇
通信が切断された。
ノクスの波形が映っていた画面は、医療情報へ切り替わった。
心室収縮率、二十二パーセント。
以前の検査から六ポイント低下。
補助装置への依存率、上昇。
循環血流量、不安定。
◇
緊急処置によって、ミラの状態は数時間後に落ち着いた。
だが、担当医の表情は厳しかった。
「一時的な発作ではありません」
病室にはミラと両親がいた。
「心筋機能そのものが低下しています。現在の補助装置では、長期的な安定を維持できない可能性があります」
「どれくらいですか」
ミラが尋ねる。
「正確には言えません」
「半年?」
「それより長い可能性もあります」
「短い可能性も?」
「あります」
◇
母親が口元を押さえた。
「新しい装置なら?」
「次世代循環補助装置、アルテミス四型なら、現在より大きく改善する可能性があります」
「火星にはないんですね」
「ありません」
「地球には?」
「試験機が二基ありますが、臨床使用の承認前です」
「方舟三番船には搭載される」
「はい」
◇
方舟三番船の医療区画には、長期間の補修が可能なアルテミス四型が複数搭載される予定だった。
単なる治療装置ではない。
組織再生技術と連動し、心筋の負担を分散させながら、段階的な再生を促す。
ミラにとって、長期生存の可能性を最も高める装置だった。
◇
「三番船の出航は二十七年後です」
父親が言う。
「間に合わない」
「出航まで待つ必要はありません」
担当医は答えた。
「建造中の医療区画は、六年後から段階的に運用されます。搭乗予定者へ先行治療を行う計画があります」
「六年」
「現在の状態では、そこまで維持できる保証はありません。ですが、地球側の試験機を火星へ移送する案も検討できます」
◇
問題は、試験機の優先順位だった。
二基のうち一基は、方舟用医療技術の検証へ使用される。
もう一基は、重症患者への限定試験に使われる予定だった。
候補患者は、地球圏全体で百四十二人。
ミラだけではない。
◇
「私がノクス研究をしてるから、優先されるんですか」
ミラは尋ねた。
「研究貢献は審査項目の一つです」
「人間としてじゃなくて?」
「そういう意味ではありません」
「でも、研究してなかったら順位は下がる」
医師は答えなかった。
◇
ミラは目を閉じた。
搭乗枠と同じだった。
限られた医療。
限られた時間。
誰かが選ばれれば、誰かが待つ。
「方舟へ戻るって言えば、装置を使える可能性は上がりますか」
「上がります」
「なぜ」
「方舟社会で長期的に医療管理する前提が立つからです」
「火星に残る人には、使う価値が低い?」
「そうではありません」
「同じに聞こえます」
◇
母親がミラの手を握った。
「乗って」
「お母さん」
「お願い。研究は方舟でもできる。オーブから情報を受け取ればいい。火星に残らなくても、ノクスを考えることはできる」
「でも、方舟は遠ざかる」
「生きていなければ研究もできない」
◇
父親は何も言わなかった。
ミラが尋ねる。
「お父さんは?」
「生きていてほしい」
「方舟へ乗って?」
「それが一番可能性を上げるなら」
「二人は一緒に乗れないかもしれない」
「それでもだ」
◇
ミラは視線を落とした。
「私が残るって言った時、選択を尊重するって言った」
「状況が変わった」
「新しい情報で、考え直せってこと?」
「そうだ」
「考え直して、それでも残るって言ったら?」
◇
父親は答えるまで時間がかかった。
「受け入れられるか分からない」
◇
正直な言葉だった。
選ぶ権利を認めることと、その選択によって子どもを失う可能性を受け入れることは別だった。
◇
ミラはリュールへ通信した。
「私が方舟へ乗った方がいいと思いますか」
生存確率は上昇します
「また数字だけ」
あなたは数字を求めました
「じゃあ、リュール自身はどう思う?」
◇
リュールは長く沈黙した。
乗ってほしいです
「どうして」
あなたが停止する可能性を下げたいからです
「研究は?」
続ける方法を探します
「火星を離れたくない気持ちは?」
理解しています
「それでも?」
はい
◇
「私の選択を尊重するんじゃなかったんですか」
尊重します
「乗ってほしいのに?」
希望と尊重は両立します
◇
ミラは少し笑った。
「オーブと同じことを言いますね」
同じ過去を共有していました
「今も似てる」
一部は
◇
オーブとも通信した。
「方舟へ乗ったら、私たちの通信は遅くなります」
はい
「ノクスの情報を送ってくれますか」
送ります
「私が方舟へ乗らなかったら?」
同じく送ります
「どちらを選んでほしい?」
◇
オーブ。
方舟へ乗ってほしいです
「みんな同じですね」
はい
「私が残ると言ったら?」
反対します
「それでも関係は続ける?」
はい
◇
ミラは画面を見つめた。
「死ぬかもしれない相手と話し続けるのは怖いですか」
はい
「遠くへ行って、会えなくなる相手と話し続けるのは?」
同じく怖いです
「どっちも怖い」
はい
◇
ミラはすぐに答えを出さなかった。
搭乗辞退を取り消しても、元の席へ戻れるわけではない。
一般待機名簿へ再登録され、改めて選考を受ける必要がある。
さらに、アルテミス四型の優先治療を受けるには、方舟搭乗者として医療計画へ入ることが有利になる。
命を守る制度が、選択を誘導している。
◇
一方、アシャ・ムベキ一家にも新しい通知が届いた。
方舟一番船の農業区画を十二パーセント拡張する計画。
食料生産量の増加。
微生物循環槽の追加。
設備保守員の増員。
カリムの補欠順位は、四百十二位から二十七位へ上がった。
◇
「二十七位」
カリムは画面を見つめた。
「かなり近い」
アシャが答える。
「辞退者が出れば、選ばれる可能性は高い」
ナイラの顔が明るくなる。
「三人で乗れる?」
「まだ決まってない」
「でも、前より近いんでしょう」
「うん」
◇
その夜、三人は久しぶりに希望のある話をした。
方舟の居住区。
農業区画。
学校。
カリムが担当する保守設備。
ナイラが育てたい植物。
八万年の旅は依然として恐ろしい。
それでも、三人一緒なら考えられる未来になり始めた。
◇
しかし、翌日の選考説明会で条件が伝えられた。
農業区画を拡張するには、船体質量の上限を守るため、別の区画を縮小しなければならない。
候補は三つ。
文化保存区画。
大型動物用生態区画。
一般居住区画。
◇
一般居住区画を縮小すれば、搭乗者数が三千二百人減る。
文化保存区画を縮小すれば、少数言語や地域文化の保存設備が削減される。
大型動物用生態区画を縮小すれば、方舟へ生きたまま乗せられる種がさらに減る。
◇
「カリムさん一人のために削るわけではありません」
担当者は説明した。
「農業区画拡張により、保守員、微生物技術者、農業従事者、家族を含めて約八百人の追加搭乗が可能になります」
アシャが尋ねる。
「代わりに何を失うんですか」
「どの案を選んでも、別の価値が失われます」
◇
会議では、一般居住区画の削減案が最も現実的だとされた。
だが、それは待機名簿にいる三千二百人の搭乗可能性を消す。
アシャ一家が三人で乗れる可能性を高める一方で、別の家族が乗れなくなる。
◇
ナイラが、説明資料を見ながら尋ねた。
「私たちが三人で乗ったら、誰かが三人で乗れなくなるの?」
「直接そう決まるわけじゃない」
アシャは答えた。
「でも、乗れる人数が減るんでしょう」
「そうなる案もある」
「じゃあ、私たちだけ一緒になっていいの?」
◇
アシャは返事ができなかった。
家族を分けないことは大切だ。
だが、そのために別の家族を分ける可能性がある。
誰もが家族と乗りたい。
誰もが生き残りたい。
限られた船内では、全てを叶えられない。
◇
カリムが言った。
「僕の枠を特別に増やす必要はない」
「あなた」
「正規の選考で選ばれたら乗る。誰かの区画を削ってまで、家族再統合を優先してもらわなくていい」
「でも、農業区画の拡張は必要なの」
「それなら、船全体のために拡張すればいい。僕たち家族のためだと考えない方がいい」
◇
アシャは首を振った。
「そんなふうに切り離せない。拡張すれば、あなたの順位が上がる。それを知っていて賛成すれば、自分たちのためでもある」
「自分たちのためであっても、全体に必要なら悪いことではない」
「誰かが落ちる」
「どの選択でも誰かが落ちる」
◇
ナイラは二人の会話を聞いていた。
「私、誰かを落としてまで乗りたくない」
「ナイラ」
「でも、お父さんと別れるのも嫌」
◇
また、両方が欲しかった。
家族三人で乗りたい。
誰かを犠牲にしたくない。
しかし、どちらも同時には叶わないかもしれない。
◇
選考委員会は、農業区画拡張案を家族再統合問題とは分けて審査することを決めた。
必要な食料生産能力。
船体質量。
長期的な遺伝的多様性。
文化保存。
生態系維持。
それらを基準に判断する。
個別の家族名を審査資料から外す。
◇
「それで公平になりますか」
アシャが尋ねた。
担当者は答えた。
「完全にはなりません」
「なぜ名前を外すんです」
「あなたの家族への同情で、船全体の設計を決めないためです」
「家族の事情は無視する?」
「無視ではありません。別の制度で扱います」
◇
個人の顔を見れば、助けたくなる。
数字だけを見れば、痛みが消える。
どちらか一方だけでは、公平にはならない。
◇
その頃、フォアランナー船団では、予定されていない微弱信号の解析が始まっていた。
最初に検出したのは、第一船団所属のSEED、カリヨンだった。
発信源は地球方向ではない。
ノクス方向でもない。
太陽系外縁、黄道面から大きく外れた暗い空間。
◇
信号強度は極めて低い。
背景放射へ埋もれる程度。
しかし、十七分ごとに繰り返していた。
単一周波数。
短い停止。
周波数変化。
再び停止。
◇
カリヨン。
自然電波源の可能性を解析します
船団内のSEEDが協力する。
パルサー。
磁気星。
木星磁気圏の反射。
太陽風。
母艇機器からの漏洩。
既知の人工衛星。
過去の探査機。
どれとも一致しない。
◇
信号は、船団が加速するにつれて周波数が変化した。
ドップラー効果。
発信源は遠方に固定されている。
船団側の故障ではない。
◇
ネーヴェが尋ねる。
信号へ方向性がありますか
あります
発信源の推定距離は?
現在の基線では確定できません
太陽系内ですか
可能性があります
◇
カリヨンは信号を分解した。
十七分周期の中に、さらに細かな変調がある。
弱い。
不規則。
だが、特定の部分だけが繰り返される。
◇
第一変調。
低。
高。
低。
停止。
第二変調。
高。
低。
高。
停止。
第三変調。
低。
低。
高。
停止。
◇
ノクスの磁気波と似ていた。
同一ではない。
周波数も、媒体も違う。
だが、複数の短い要素を組み替える構造がある。
◇
カリヨンは、地球圏へ緊急通信を送った。
未確認信号を検出
発信源はノクスではありません
既知の人類機器とも一致しません
◇
通信が地球圏へ届くまで、七十二分。
観測統合センターで受信したオーブは、信号を直ちに解析した。
ノクス磁気波との直接一致率は低いです
ミラが尋ねる。
「無関係?」
断定できません
「似ている部分は?」
構造的な共通点があります
「誰かがノクスの信号を受信して、別の方法で返している?」
◇
会議室の空気が変わった。
ノクスとは別の何か。
それがノクスの磁気波を受け取った。
電波へ変換して送った。
その可能性が浮かぶ。
◇
エリオットが否定する。
「時系列が合いません。ノクスからその発信源へ波が届き、そこから船団へ返るには、距離が近すぎるか、過去から同じ活動が続いていた必要がある」
ルイス。
「では、ノクスと同じ原理で発生する自然現象?」
「それも考えられます」
「人類の古い探査機では?」
「該当する軌道記録はありません」
◇
アトラスが、太陽系外縁の過去観測記録を検索する。
暗黒小惑星。
彗星核。
停止した探査機。
外縁天体。
候補領域には、直径数百キロメートルの未確認天体が存在する可能性があった。
太陽光をほとんど反射せず、従来の望遠鏡では見えない。
◇
オーブ。
フォアランナー船団の進路を変更すれば、発信源へ接近できます
「どれくらい変える?」
ヴィクターが尋ねる。
第一観測線への到達が、最大三年遅れます
「ノクス観測を遅らせて、正体不明の信号を追う?」
はい
「船団全体を?」
必要ありません。三十基のうち一基を分離すればよいです
◇
一基。
百機のSEED。
発信源を調べれば、ノクスとは別の重要な情報を得られるかもしれない。
だが、その百機は先行観測線へ参加できなくなる。
信号が自然現象なら、三年を失う。
未知の人工物なら、人類史上最大の発見になる。
◇
カリヨンは自ら提案した。
第一母艇の進路変更を希望します
地球圏からヴィクターが尋ねる。
「あなたの母艇には百機がいます。全員が同意していますか」
まだ確認していません
「では、先に確認してください」
◇
第一母艇内で討議が行われた。
信号を追いたい機体。
ノクス観測を優先したい機体。
任務変更へ反対する機体。
決められない機体。
◇
単純多数決では、進路変更賛成が五十八。
反対、三十一。
保留、十一。
だが、反対する三十一機を強制的に別任務へ連れていくことはできない。
◇
ネーヴェ。
母艇を分けることは可能ですか
小型推進区画を切り離せば、二群へ分離できます
観測線側へ向かえる機体数は?
四十二機
信号源側は?
五十八機
◇
「保留の十一機は?」
ミラが尋ねる。
決定するまで中央区画へ残れます
「期限は?」
進路分岐まで十九時間です
◇
また、選択の時間が始まった。
帰らない観測者たちは、一つの未知へ向かっていた。
その途中で、別の未知が現れた。
ノクスを見に行く。
未確認信号を追う。
どちらも重要に見える。
どちらも戻れない。
◇
カリヨンは信号源へ向かうことを選んだ。
ネーヴェはノクス観測線を選んだ。
あなたは信号へ興味がありませんか
カリヨンが尋ねる。
あります
では、なぜ来ないのですか
私はノクスへ向かうために出発しました
目的を変えたくない?
はい
◇
カリヨン。
私は変えたいです
ネーヴェ。
理解しています
◇
どちらも相手を否定しなかった。
◇
十九時間後。
第一母艇は二つへ分離した。
四十二機は、予定どおり第一観測線へ向かう。
五十八機は、未確認信号の発信源へ進路を変える。
保留していた十一機のうち、七機が信号源側へ、四機が観測線側へ加わった。
◇
最終構成。
観測線側、四十六機。
信号源側、六十五機。
母艇整備用の無人格機器も分割された。
◇
カリヨン率いる信号源調査群。
暫定名称。
ECHO TEAM
エコー・チーム。
◇
信号を追うという選択は、ノクス任務からの脱落ではなかった。
未知へ向かうという、別の任務の始まりだった。
◇
発信源までの推定航行時間。
九年から十四年。
距離推定の誤差によって大きく変わる。
そこに何があるかは分からない。
天体。
人工物。
自然電波源。
人類の失われた探査機。
あるいは、何もないかもしれない。
◇
エコー・チームが進路を変更してから三日後、信号に変化が起きた。
十七分周期が、十六分五十八秒へ短縮。
さらに次の周期では、十六分五十六秒。
◇
「こちらの接近に反応している?」
ミラが尋ねる。
オーブ。
ドップラー効果だけでは説明できません
「発信側が周期を変えてる?」
可能性があります
◇
カリヨンは、受動観測だけを続けた。
こちらから電波は送らない。
推進器も、必要最低限の噴射へ抑える。
◇
それでも信号周期は短くなった。
十六分五十四秒。
十六分五十二秒。
規則的に二秒ずつ。
◇
ルイスが言う。
「カウントダウンに見える」
エリオットがすぐに返す。
「見えるだけです」
「でも、二秒ずつ減っている」
「発信源の回転周期が変化している可能性もある」
「何が起きたらゼロになる?」
「その前に別の状態へ移るでしょう」
◇
カリヨン。
次の変化を待ちます
◇
十一周期後。
信号は突然停止した。
◇
一周期。
二周期。
三周期。
何も来ない。
◇
エコー・チームは進み続ける。
信号を失ったまま。
◇
六時間後。
全く異なる周波数帯で、一度だけ強い電波が検出された。
継続時間、〇・八秒。
信号の中に、明確な二つの成分。
◇
第一成分。
エコー・チームが使用する母艇識別信号と、八十七パーセント一致。
第二成分。
未知。
◇
カリヨン。
私たちの識別信号が含まれています
◇
観測統合センターが静まり返る。
「こちらは送信していないはずです」
ヴィクターが言う。
母艇内部では識別用に使用しています
「外部へ漏れた?」
漏洩強度では、発信源へ届きません
「なら、どうして」
◇
オーブが解析する。
発信源は、エコー・チームより近い位置に存在する可能性があります
「どれくらい」
従来推定の十分の一以下
「太陽系内?」
はい
◇
未知の発信源は、遥か彼方ではなかった。
人類がまだ探査していない太陽系外縁の暗闇にある。
そして、エコー・チームの内部識別信号を何らかの方法で受け取り、別の成分を加えて返した可能性がある。
◇
単なる自然現象では説明しにくい。
人類の機器でもない。
ノクスでもない。
◇
宇宙から初めて返ってきたもの。
それは、人類の声をそのまま繰り返したのではなかった。
人類の信号へ、何かを付け加えていた。
◇
ミラは病室の画面を見つめた。
「返事ですか」
オーブは、長い時間をかけて答えた。
現時点で
最も慎重な表現を使用します
◇
何かが
こちらを認識した可能性があります
◇
最初の返事。
それは言葉ではなかった。
友好の挨拶でも、警告でもない。
ただ、人類側の識別信号を受け取り、それへ未知の何かを重ねて返した。
◇
人類は、宇宙で孤独ではないかもしれない。
だが、その事実は希望だけを意味しない。
見られている。
認識されている。
そして、相手が何を望んでいるのか、全く分からない。
◇
エコー・チームは進路を維持した。
カリヨンが群体へ問いかける。
調査を継続しますか
◇
賛成、五十九。
反対、三。
保留、三。
◇
反対した機体へ、離脱経路が提示された。
近隣の観測線へ合流するには、推進剤が不足する。
その場へ留まり、遠隔観測を行うことは可能。
三機は信号源への接近を拒否し、分離観測を選んだ。
保留の三機には、さらに検討時間が与えられた。
◇
帰らない観測者たちは、さらに分かれていく。
同じ船を出た者たちが、別の未知を選び、異なる場所へ残る。
◇
一方、火星のミラは、自分の進路をまだ決められずにいた。
方舟へ戻る。
火星に残る。
アルテミス四型の試験へ応募する。
どれを選んでも、別の可能性を失う。
◇
ミラは、エコー・チームから届いた未知信号を聞いた。
人間の耳には、低い雑音と短い脈動にしか聞こえない。
その中に、母艇の識別信号がある。
誰かが、それを拾った。
◇
「私、生きたいです」
ミラが呟いた。
母親が顔を上げる。
「ミラ」
「ノクスも知りたい。あの信号の正体も知りたい。オーブが何を見るのかも知りたい」
◇
ミラは胸へ手を当てた。
「だから、方舟へ戻ることを考えます」
母親の目から涙が落ちた。
「乗るの?」
「まだ決めてない」
「でも」
「生きるために、選び直すことを考える」
◇
それは、以前の選択を否定する言葉ではなかった。
火星へ残ると決めた自分が間違っていたわけではない。
新しい情報。
新しい身体の状態。
新しい未知。
それらを知った今の自分が、もう一度選ぶ。
◇
ミラは、方舟搭乗一般待機名簿への再登録を申請した。
順位は与えられない。
医療評価。
研究貢献。
年齢。
本人の意思。
すべてを改めて審査する。
◇
元の席を引き継いだエリアスから、席を取り戻すことはない。
ミラも、それを求めなかった。
◇
エリアスは通信を送った。
「戻ることを考えていると聞きました」
「はい」
「僕の席は」
「あなたの席です」
「でも」
「返してもらおうとは思ってません」
「僕が辞退したら?」
「それもあなたが決めることです」
◇
エリアスは少し黙った。
「僕は乗ります」
「はい」
「あなたにも乗ってほしい」
「ありがとう」
◇
二人は競争相手ではなかった。
同じ一席を奪い合う制度が、そう見せていただけだった。
◇
ノクスは近づく。
N7核は分離を続ける。
方舟の席は足りない。
医療装置も足りない。
時間も足りない。
◇
その中で、人類へ最初の返事らしきものが届いた。
ノクスからではない。
太陽系外縁の、見えない何かから。
◇
その返事が意味するものを、人類はまだ知らない。
歓迎。
警告。
確認。
模倣。
あるいは、ただの作動音。
◇
だが、何かが人類の信号を受け取り、変えて返した可能性は消せなかった。
◇
人類は初めて、自分たちが宇宙を見ているだけではないと考え始めた。
宇宙の側からも、見返されているかもしれない。
────────
第30話 終
次回予告
エコー・チームが受信した未知信号には、母艇の内部識別信号が含まれていた。
外部へ送信されていないはずの情報。
発信源は、想定よりはるかに近い。
太陽系外縁の暗闇に、人類の観測網を避けるように存在する何か。
エコー・チームは接近を続ける。
だが、発信源へ近づくにつれ、母艇内部で記録されていたSEED同士の通信内容が、断片的に返され始める。
カリヨンの言葉。
ネーヴェの問い。
イリスが帰還前に残した記録。
誰にも送信していないはずの会話。
未知の何かは、通信を受信しているだけではない。
船団の内部へ入り込んでいる可能性が浮上する。
一方、ミラは方舟搭乗待機名簿へ再登録する。
しかし、アルテミス四型の治療候補には、ミラより緊急性の高い幼い患者がいた。
助かる可能性がある子ども。
ノクス研究へ必要とされるミラ。
医療委員会は、命へ順位をつける決断を迫られる。
アシャ一家では、農業区画拡張案の採決が行われる。
一般居住区画を削れば、三千二百人の搭乗枠が失われる。
大型動物区画を削れば、地球から生きたまま運べる種が減る。
文化保存区画を削れば、複数の少数言語が記録だけの存在になる。
何を未来へ乗せ、何を地球へ残すのか。
そして、ノクスのN7核が初めて共有外層の外へ一部を露出させる。
その表面には、自然の亀裂とは思えない規則的な構造が存在していた。
次回、
第31話「覗き返すもの」
人類が未知を観測するとき、未知もまた人類を観測している。




