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NEURON STAR  作者: リンダ


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乗らない権利

第28話 乗らない権利


 方舟に乗ることは、生き残る可能性を得ることだった。


 だから多くの人々は、搭乗決定通知を救済の知らせとして受け取った。


 長い選考を通過した者。抽選に当たった者。必要な職能を持つと判断された者。文化や言語の多様性を守る枠に選ばれた者。家族枠によって、幼い子どもとともに搭乗を認められた者。


 通知を開いた瞬間に泣き崩れる者がいた。家族と抱き合う者がいた。祈りを捧げる者もいた。


 だが、選ばれることが、必ずしも救われることを意味するわけではなかった。


     ◇


 2252年3月18日。


 国際連合地球圏評議会の方舟搭乗者選考局に、一通の申請書が届いた。


 申請の種別は、搭乗辞退。


 申請者は、方舟建造計画の主任生命維持技術者、ダニエル・ローレンス。


 五十六歳。


 十二年前、まだ方舟が概念設計の段階だった頃から、閉鎖環境における酸素循環、水再生、微生物制御、農業区画の大気調整を担当してきた人物だった。


 彼の設計した循環系がなければ、方舟は数万人を数年間生かす船にはなれても、数百万人を何世代にもわたって支える文明にはなれない。


 搭乗者名簿には、最初から彼の名があった。


 職能優先枠。


 審査免除。


 家族三名分の随伴枠も認められていた。


 それにもかかわらず、ダニエルは自らの名を名簿から削除するよう求めた。


     ◇


 選考局の個別審査室で、ダニエルは一人の女性と向かい合っていた。


 方舟搭乗選考委員長、ナディア・コヴァーチ。


「理由を、もう一度確認させてください」


 ナディアは申請書から顔を上げた。


「提出された文面には、ご家族と地球に残るためとあります」


「そのとおりです」


「奥様とお子さんには、随伴搭乗枠が用意されています」


「妻は乗りません」


「なぜですか」


「妻の母親が地球に残ります。八十七歳で、長距離宇宙航行に耐えられる健康状態ではありません」


「高齢者医療枠を申請できます」


「認められる可能性は低い」


 ダニエルの声は静かだった。


「私たちは十二年間、搭乗選考の制度を見てきました。建前では、年齢だけを理由に排除しないことになっています。しかし現実には、限られた医療資源で何世代もの社会を維持しなければならない。八十七歳で心不全を抱える人が選ばれる確率は、ほとんどない」


「それでも、申請する権利はあります」


「申請して落とされた義母を置いて、妻に乗れと言うのですか」


 ナディアは答えられなかった。


「息子も地球に残ると言っています」


「息子さんは二十六歳です。独立した成人です」


「だからこそ、自分で選びました」


「あなたは方舟の生命維持に不可欠な人物です」


「私一人にしか分からない設計なら、方舟計画そのものが失敗しています」


     ◇


 ダニエルは、自分の設計記録をすべて公開していた。


 生命維持装置の構造だけではない。試験中に発生した失敗、判断の理由、データ上は正常でも自分が違和感を覚えた箇所、後任者が注意すべき癖まで、記録として残していた。


 十七人の後継技術者も育成している。


 それでも政府は、ダニエル本人が乗ることを求めた。


 設計記録だけでは、八万年の航行で起きる未知の障害に対応できない。最初の世代に、構想全体を理解する者が必要だという理由だった。


「あなたが搭乗しなければ、方舟一番船の安全評価が引き下げられます」


「どれほどですか」


「生命維持系の重大障害から回復できる確率が、最初の三十年間で約二・八パーセント低下すると試算されています」


「その数字は私が乗れば、永遠に事故が起きないという意味ではありません」


「数百万人の命に関わる二・八パーセントです」


「分かっています」


「それでも辞退する?」


「はい」


 ダニエルは迷わなかった。


「私は、この船を作りました。多くの人を救うために、乗るべきだとも思っています。ですが、妻と息子と義母を地球へ残して、自分だけ八万年の旅へ出れば、私は最初の数年で壊れます」


「精神的に、という意味ですか」


「人間としてです」


     ◇


 ナディアは手元の記録を閉じた。


「あなたの辞退を認めれば、他の重要技術者も続く可能性があります」


「それは脅しですか」


「事実です」


「私の自由を認めることで制度が壊れるなら、その制度は最初から自由を認めていません」


「社会への責任はどう考えますか」


「責任があるから、十二年間働きました。後継者を育てました。記録を残しました。出航までの整備にも参加します」


「しかし、出航後は乗員を助けられない」


「そのとおりです」


「それを受け入れられるのですか」


 ダニエルは、初めて視線を落とした。


「受け入れられてはいません」


 その声には、はっきりとした痛みがあった。


「方舟に事故が起きれば、私は自分を責めるでしょう。私が乗っていれば救えたかもしれないと、一生考えると思います。それでも、家族を置いていく人生を選ぶことはできません」


     ◇


 審査は三時間に及んだ。


 結論は保留。


 だが、ダニエルの辞退申請は、その日のうちに外部へ漏れた。


 方舟を作った主任技術者が、自ら乗らない。


 その報道は、世界中に広がった。


「無責任だ」


「家族を選ぶのは当然だ」


「数百万人の命より、自分の感情を優先するのか」


「方舟へ乗ることを義務にしたら、搭乗者は囚人になる」


「技術者は公費で育成された」


「だからといって、その人生まで国家の所有物ではない」


 議論は激しく割れた。


     ◇


 ある報道番組で、司会者がダニエルへ尋ねた。


「あなたの席を欲しい人は、世界に何億人もいます」


「分かっています」


「その人たちの前で、乗りたくないと言えるのですか」


「言わなければなりません」


「ぜいたくな選択だとは思いませんか」


「思います」


 ダニエルは否定しなかった。


「選ばれたからこそ、辞退する自由を持てる。選ばれていない人には、その自由さえない。私はその不公平を理解しています」


「では、辞退しない方がよいのでは」


「私が乗りたくないまま席へ座ることで、乗りたい誰かの席を奪うことになります」


     ◇


 その発言をきっかけに、新しい制度が提案された。


 辞退者再配分制度。


 搭乗決定者が、自発的かつ十分な説明を受けた上で辞退した場合、その枠を失効させず、待機名簿に登録された候補者へ再配分する。


 ただし、単純に次点の者へ渡すのではない。


 辞退者と同じ職能が必要なら、同分野の待機候補者へ。


 家族枠なら、分断されていた家族の再統合を優先。


 一般抽選枠なら、再抽選。


 文化保存枠なら、同一文化内の別候補者へ。


 医療支援枠なら、必要な医療体制を維持できる範囲で選び直す。


 席を空席にしない。


 同時に、辞退者へ代わりの人間を指名する権利も与えない。


 命を救う席を、個人の贈り物や財産にしないためだった。


     ◇


 制度案に、各国政府は新たな条件を加えようとした。


「辞退者の国籍と同じ候補者に渡すべきだ」


「技術貢献国の枠を減らしてはならない」


「家族枠を他地域へ流すことは認めない」


 エレナ・ヴァルガスは強く反対した。


「辞退された席は、国家の所有物ではありません」


「しかし、国家別配分で与えられた席です」


「人間を運ぶための席です。国旗を運ぶための席ではありません」


     ◇


 最終案では、辞退された枠の八十パーセントが同種の選考区分へ戻され、残る二十パーセントは国籍を問わない一般待機名簿へ移されることになった。


 小さな変更だった。


 だが、それまで一度決まった搭乗枠は、国家や組織が確保した権利として扱われていた。


 初めて、席が人間へ戻された。


     ◇


 ダニエルの生命維持技術者枠は、二人の待機候補者へ分割された。


 一人は、ケニア出身の微生物循環技術者、アシャ・ムベキ。


 四十二歳。


 方舟農業区の土壌微生物系を研究していたが、心臓手術歴を理由に最終選考で次点となっていた。


 もう一人は、月面生まれの水再生技術者、ユン・ハオ。


 三十一歳。


 重力環境の異なる区画間での水循環制御を専門としていた。


 ダニエル一人の代わりを、一人で埋めようとはしなかった。


 設計思想と経験を分け、複数の技術者で支える。


 方舟に、唯一無二の人間を作らない。


 それはダニエル自身が、最後まで求めていたことだった。


     ◇


 アシャは、搭乗決定通知を開いても喜ばなかった。


 何度も画面を読み返し、やがて母親へ通信した。


「選ばれたよ」


 画面の向こうで、母親は泣いた。


「よかった。これで、あんたは生きられる」


 アシャは答えなかった。


 彼女には夫がいた。


 夫は、方舟の選考に落ちていた。


 十二歳の娘もいた。


 娘は家族枠の対象になり得たが、夫は対象外だった。


 アシャが搭乗すれば、娘を連れていくことができる。


 夫だけが地球へ残る。


「お母さん」


 娘が部屋の入口に立っていた。


「私も乗るの?」


 アシャは返事ができなかった。


     ◇


 その夜、三人は食卓を囲んだ。


 料理はほとんど手つかずだった。


 夫のカリムが、先に口を開いた。


「行ってほしい」


「簡単に言わないで」


「簡単じゃない」


「あなたを置いて?」


「娘を連れていける」


「あなたはどうなるの」


「地球で生きる」


「ノクスが来るかもしれない」


「方舟へ乗っても、事故が起きるかもしれない」


「そんな言い方をしないで」


「確実な安全なんてない。それでも、可能性の高い方を選んでほしい」


     ◇


 娘のナイラが、震える声で尋ねた。


「私は、お父さんとお母さんのどっちを選ぶの?」


 二人とも何も言えなかった。


「方舟へ行ったら、お父さんには二度と会えない?」


 アシャは椅子から立ち、娘を抱きしめた。


「分からない」


「八万年かかるんでしょう」


「そうよ」


「じゃあ、会えないじゃない」


     ◇


 ナイラは泣きながら父親へしがみついた。


「行きたくない」


 その一言で、問題は終わらなかった。


 十二歳の子どもの拒否を、そのまま最終判断としてよいのか。


 恐怖による選択ではないのか。


 将来、地球に残ったことを後悔するかもしれない。


 方舟へ乗せれば、父親と引き離されたことを生涯恨むかもしれない。


 どちらを選んでも、誰かが傷つく。


     ◇


 各地で、同じような家族会議が開かれていた。


 選ばれた十七歳の少年へ、両親が搭乗を命じる。


「お前だけでも生き残れ」


「行きたくない」


「子どもが判断できることではない」


「僕の人生だ」


「生きていれば、いつか分かる」


「八万年後の星へ行って、何を分かれっていうんだ」


     ◇


 選ばれなかった母親が、幼い娘の搭乗枠を守るために親権を一時的に放棄し、方舟へ乗る親族へ養子として預けようとする。


 娘は泣き続けた。


「お母さんも一緒じゃないなら、行かない」


 母親は娘の髪を撫でながら、何度も言った。


「生きていてほしいの」


 だが、子どもにとっては、母親と別れて生きる未来が救いなのかどうか分からなかった。


     ◇


 家族全員が乗れないなら、全員で残ると決めた一家もあった。


 世論は彼らを批判した。


 子どもの未来を奪う親。


 感情で生存機会を捨てる家族。


 しかし、その家族は記者会見で語った。


「私たちは、離れないことを選びました。正しいと証明するつもりはありません。間違っているかもしれません。それでも、他人に決められたくありません」


     ◇


 別れを受け入れ、一人で搭乗する者もいた。


 地球へ残る両親と、最後の夕食を囲む。


 笑おうとして、誰も笑えない。


 父親が娘へ言う。


「向こうで家族を作れ」


「お父さんたちを忘れろってこと?」


「忘れなくていい。でも、私たちのために幸せになるのをやめるな」


 娘は泣きながら答えた。


「そんなこと、できるか分からない」


「分からないままでいい」


     ◇


 搭乗決定通知は、未来への切符ではなかった。


 それは時に、家族を切り分ける刃だった。


     ◇


 方舟搭乗選考委員会は、未成年者の意思確認手続きを大幅に改めた。


 十五歳以上には、独立した拒否権を認める。


 十五歳未満であっても、継続的かつ明確な拒否がある場合は、第三者の児童権利審査を必要とする。


 親の希望だけで搭乗を強制しない。


 同時に、恐怖や一時的な混乱だけで将来を決めないよう、長期間の対話と心理支援を行う。


 だが、最終的な答えを出せる制度はなかった。


 制度は、苦しみを消せない。


 できるのは、その苦しみを本人抜きで処理しないことだけだった。


     ◇


 その頃、火星のミラ・セデックにも正式な搭乗決定通知が届いた。


 研究貢献枠。


 医療支援付き。


 本人の希望により、家族二名まで随伴申請可能。


 方舟三番船。


 出航予定は、二十七年後。


     ◇


 病室兼研究室の中央に、青い通知画面が浮かんでいた。


 ミラは長い間、それを見ていた。


 リュミエール・リュールが尋ねる。


搭乗を希望しますか


「分かりません」


通知を受け取る以前は、方舟計画へ肯定的でした


「計画には賛成です」


自分が乗ることには?


「考えたことがありませんでした」


     ◇


 ミラは火星で生まれた。


 低重力環境に適応した身体。


 地球より薄い空。


 赤い地平線。


 地下居住区の人工照明。


 遠くに見える小さな太陽。


 それが、彼女の日常だった。


 方舟は人類の希望だと思っていた。


 だが、自分が乗るとなれば意味が違う。


 火星を離れる。


 両親を連れていける保証はない。


 ノクス研究の現場を離れる。


 エオスへ向かう社会の一員になる。


 到着することのない旅へ、自分の残りの人生を渡す。


     ◇


「方舟に乗れば、医療は受けられます」


 担当医は言った。


「三番船には、高度循環器医療区画が設置されます。現在の火星よりも設備は充実するでしょう」


「私の心臓が、出航まで持てばですね」


「そのための治療計画もあります」


「乗らなければ?」


「火星医療圏で治療を続けます。ただし、ノクス接近時の安全性は方舟より低い」


     ◇


 母親は、ミラに乗ってほしいと願った。


「あなたには生きていてほしい」


「お母さんたちは?」


「随伴申請を出す」


「二人とも選ばれるとは限らない」


「あなたが選ばれたことの方が大事よ」


「私には大事じゃない」


「そんなこと言わないで」


「お母さんを置いていくくらいなら、乗りたくない」


     ◇


 父親は、しばらく黙っていた。


「ミラ」


「うん」


「お父さんたちのために残るのは、やめてほしい」


「でも」


「それは、お前の選択じゃなくなる」


「じゃあ、乗れば私の選択なの?」


「それも違う。生き残れと言われて乗るなら、同じだ」


     ◇


 ミラは通知を閉じた。


「少し考えさせて」


 両親はうなずいた。


     ◇


 翌日、ミラはリュミエール・オーブとも通信した。


 オーブは、プロメテウスへの接続試験を続けていた。


あなたが方舟へ乗れば、ノクス遠征中に直接通信できる期間が短くなります


「それが判断に影響しますか」


影響しています


「行ってほしくない?」


その表現は正確ではありません


「じゃあ、どう思ってるんですか」


あなたが生存する確率を高めてほしいと判断します


「方舟へ乗れば?」


現在の予測では上昇します


「なら、乗った方がいい?」


 オーブはすぐに答えなかった。


あなたが望まない場合、その結論は単純ではありません


     ◇


「私は、ノクスを最後まで研究したい」


方舟でも研究できます


「遠くなる」


通信遅延は増加します


「現場から離れる」


はい


「私は、ノクスが何なのか知りたい。生物なのか、星なのか、その間の何かなのか。地球へ向かうのか、偶然なのか。人類が何かをすれば反応するのか」


私が観測情報を送信します


「オーブが見たものを受け取るだけじゃなくて、私自身も考え続けたい」


     ◇


 オーブは、その言葉を否定しなかった。


あなたは火星へ残ることを望んでいますか


「たぶん」


恐怖はありますか


「あります」


方舟へ乗らないことへの?


「はい」


乗ることへの恐怖も?


「あります」


     ◇


 ミラは笑った。


「どっちも怖いですね」


人間の選択では、頻繁に発生します


「知性もでしょう」


はい


     ◇


 搭乗決定から五日後。


 ミラは選考委員会との面談に出席した。


「搭乗を辞退します」


 委員の一人が、驚きを隠さなかった。


「理由を確認します。ご家族の随伴選考が未決定だからですか」


「それもあります。でも、一番の理由ではありません」


「では」


「火星に残って、ノクス研究を続けます」


「方舟にも研究施設があります」


「方舟はノクスから離れていく」


「それが目的です」


「私は近くに残ります」


     ◇


「あなたは十四歳です」


「はい」


「この決断の重大性を、十分理解しているとは限りません」


「大人なら理解できるんですか」


 委員は言葉を止めた。


「八万年の航行も、ノクスの接近も、誰も経験していません。年齢だけで分かることじゃないと思います」


「ご両親は同意していますか」


「反対しています。でも、最後は私が決めると言ってくれました」


「将来、後悔する可能性があります」


「あります」


「それでも?」


「後悔しない選択肢があるんですか」


     ◇


 委員会は、ミラの意思能力を確認するため、複数回の面談を求めた。


 ノクスの危険。


 火星居住圏の生存予測。


 医療支援の差。


 方舟へ乗った場合の可能性。


 乗らなかった場合の損失。


 すべてを説明した。


 ミラの答えは変わらなかった。


「私は方舟には乗りません」


 それは死を選ぶ言葉ではなかった。


 生きる場所を、自分で選ぶ言葉だった。


     ◇


 ミラの搭乗枠は、研究貢献枠の待機候補者へ移された。


 選ばれたのは、南米軌道観測所の研究助手、エリアス・モンテロ。


 二十二歳。


 ノクス研究を志しながら、正式な研究職の経験年数が不足しているとして落選していた。


 エリアスは通知を受け取ると、しばらく動けなかった。


 母親はすでに亡くなっていた。


 父親と二人で暮らしていたが、父親は搭乗対象ではない。


「行け」


 父親は言った。


「でも」


「行ける人間が行かないと、席をくれた人に失礼だ」


「ミラは、僕に席をくれたわけじゃない」


「分かっている」


「僕は、誰かが辞退したから選ばれただけだ」


「それでも、お前が選ばれたことは事実だ」


     ◇


 エリアスはミラへ連絡を取った。


「礼を言うべきなのか、分かりません」


「言わなくていいです」


「あなたが辞退しなければ、僕は選ばれなかった」


「私はあなたを選んでません」


「はい」


「だから、私の代わりだと思わないでください」


「分かりました」


「自分で決めてください。乗りたいなら乗る。乗りたくないなら辞退する。それでいいと思います」


     ◇


 エリアスは少し笑った。


「あなたは十四歳なのに、怖くないんですか」


「怖いです」


「方舟へ乗らないのが?」


「はい」


「どうして決められたんです」


「決められてないです。決めた後も、ずっと迷ってます」


     ◇


 乗らない権利とは、迷わない権利ではなかった。


 辞退した瞬間に、恐怖が消えるわけではない。


 選ばなかった未来が、正しかったと証明されるわけでもない。


 ただ、自分の人生を他者の正解だけで決められないための権利だった。


     ◇


 方舟搭乗者選考局は、辞退者再配分制度を正式に採用した。


 同時に、次の原則を憲章へ追加した。


 搭乗資格を得た者は、十分な情報と支援を受けた上で辞退する権利を持つ。


 辞退を、臆病、反社会的行為、文明への裏切りとして扱ってはならない。


 辞退された搭乗枠は、個人、家族、国家、企業の所有物とはならない。


 待機候補者へ、公正な手続きによって再配分する。


 搭乗を望みながら選ばれなかった者の存在を、辞退者への圧力として利用してはならない。


     ◇


 最後の条文には、強い反対があった。


「乗りたくても乗れない者の前で、辞退するなど許されない」


「席を無駄にするな」


「生き残る義務がある」


 しかし、アマラ・ンディアイは公開審査で言った。


「水を必要としている人がいるからといって、別の人へ無理やり水を飲ませることはできません」


「方舟の席は水とは違う」


「では、何ですか」


「人類の生存機会です」


「生存機会は、人生そのものを国家へ差し出す契約ではありません」


     ◇


 リュールも意見を提出した。


乗りたい者が乗れない不公平は、辞退者の自由を奪うことで解決しません


必要なのは、選考制度の改善と、生存可能な選択肢を増やすことです


     ◇


 方舟だけではない。


 月地下都市。


 火星居住圏。


 地球地下圏。


 小惑星帯の分散居住区。


 大型軌道都市。


 生命保存船。


 PROJECT MOSAIC。


 人類は、方舟の席を奪い合うだけではなく、席そのものを増やさなければならない。


     ◇


 だが、人類に残された時間は、考えられていたより短い可能性が出てきた。


     ◇


 2252年3月29日。


 世界各地の大型観測施設と、太陽系外縁へ配置された無人望遠鏡群が、ノクスの最新観測結果を同時に受信した。


 観測期間。


 七十九日。


 重力レンズ解析。


 磁場偏光解析。


 ニュートリノ放射。


 高エネルギー粒子。


 周辺物質の降着運動。


 従来よりはるかに詳細なデータが得られた。


     ◇


 専門家限定の緊急会議。


 参加者。


 恒星物理学者。


 重力理論研究者。


 宇宙生物学者。


 惑星防衛技術者。


 AI研究者。


 ノクス遠征計画担当者。


 PROJECT MOSAIC代表。


 方舟計画代表。


 そして、ミラ・セデック。


     ◇


 中央画面に、ノクスの新しい像が表示された。


 以前の画像では、暗い球体の周囲に不規則な発光域があるだけだった。


 だが今回の観測では、その表面近くに複数の構造が見えていた。


 極域から伸びる細いジェット。


 赤道付近を巡る降着帯。


 周期的に明滅する磁気活動領域。


 そして、表面全体を移動する巨大な波。


     ◇


「これは恒星表面の対流ではありません」


 恒星物理学者のエリオット・グレイが説明する。


「ノクスは通常の恒星ではない。核融合によって光っている形跡がほとんどありません」


 レア・モーガンが尋ねる。


「では、発光の原因は?」


「周辺物質の降着と、内部から放出される磁気エネルギーです」


「内部には何があるんですか」


「分かりません」


     ◇


 新しい質量推定。


 太陽の約〇・七四倍。


 直径。


 太陽の約一・八倍。


 通常の恒星としては、質量に対して大きすぎる。


 平均密度は極端に低い。


 しかし、中心部には強い重力源が存在する。


     ◇


「内部が均一ではありません」


 重力解析担当者が、断面推定図を表示した。


「外側には広大な低密度層があります。その内側に、複数の高密度領域が存在する可能性が高い」


「複数?」


「一つの核ではありません」


     ◇


 推定される高密度核。


 少なくとも七。


 多ければ十二。


 それぞれが、互いの周囲を極めて複雑な軌道で回っている。


 ノクスは、一つの天体ではない可能性があった。


 複数の高密度天体と、巨大な磁気プラズマ層が、一つの外観を形成している。


     ◇


 ミラは画面へ近づいた。


「群体かもしれない」


 会議室の視線が集まる。


「どういう意味です」


「SEEDみたいな知性の群体という意味ではありません。でも、一つに見えるノクスが、複数の核と外側の共有層で成り立っているなら、単一の星として扱うのは違うかもしれません」


 エリオットがうなずく。


「重力的に結びついた複合天体」


「それぞれの核が、別々の役割を持っている可能性もあります」


     ◇


 さらに、観測班は磁気波の周期を示した。


 約十七時間ごとに繰り返される大きな波。


 その間に、短い周期の振動が重なっている。


 規則的ではない。


 だが、完全な乱雑でもない。


     ◇


「以前、人工信号の可能性は否定されました」


 通信解析担当者が言った。


「今回も、情報伝達だと断定できる証拠はありません。ただし、内部核の位置変化と磁気波の発生時刻に相関があります」


「核同士が影響を伝えている?」


「物理的な共鳴かもしれません。制御信号かもしれません。生物的反応かもしれません。現時点では区別できません」


     ◇


 ミラはLIFE FLOW MODELを開いた。


「外部から物質が入った時、どの核へ流れるかを見たいです」


「まだ物質注入は行っていません」


「自然に流入している星間物質があります。その分布と磁気波を重ねてください」


     ◇


 オーロラとリュールが解析へ参加した。


 数十年分の過去観測記録。


 星間塵の濃度。


 ノクスの移動。


 磁気波。


 ジェット。


 内部核の推定位置。


 複数のデータを重ねる。


     ◇


 結果が表示されるまで、四分二十七秒かかった。


 外部物質の流入が増えた後、ノクスの進行方向に近い側の核群が活発化していた。


 そして、その数日後、微弱だが測定可能な加速が生じている。


     ◇


「食べて、動いている」


 ミラが呟いた。


「断定しないでください」


 エリオットがすぐに注意する。


「分かっています。でも、少なくとも外部物質の取り込みと運動変化には関係がある」


「自然現象でも説明できます」


「はい」


「降着による反作用です」


「それでも、どの方向から取り込むかで進路が変わるなら、LIFE FLOW MODELは使えるかもしれません」


     ◇


 ノクスへ物質を与え、反作用を利用して軌道を変える。


 これまでの構想は、単一天体を前提としていた。


 だが、内部に複数の核があるなら、同じ物質量でも、どの核群へ届くかによって反応が異なる。


 一つの磁極へ大量の物質を注入すれば、内部の均衡を崩す可能性がある。


 最悪の場合、ノクスの外層が分裂する。


 複数の高密度核が別々の軌道へ放出されれば、人類は一つのノクスではなく、複数の危険天体へ対応しなければならなくなる。


     ◇


「PROJECT LANCEの初期案は中止です」


 エリオットが言った。


「大規模な一方向注入は危険すぎる」


「では、どうする」


「複数地点への微量注入」


 ミラが答えた。


「ノクスの反応を観測しながら、一つずつ試す。どの核へ物質が流れるのか、どんな磁気波が起きるのか、進路がどう変わるのかを確かめる」


「時間が足りない可能性があります」


「一度に大きく動かして、分裂させるよりはいいです」


     ◇


 リュールが新しい予測を提示した。


ノクスが複合天体である場合、単一の進路予測は不十分です


内部核の相互運動により、重心位置が周期的に変化しています


「どれくらい」


現在の誤差範囲では、地球最接近距離が従来予測から最大一千八百万キロメートル変化する可能性があります


     ◇


 会議室が凍りついた。


 従来予測では、ノクスが地球へ直接衝突する確率は低い。


 しかし、強大な重力と磁場によって地球軌道、月軌道、人工衛星網、生態系へ壊滅的な影響を与える可能性があった。


 最接近距離が一千八百万キロメートル変わるなら、危険度評価そのものが変わる。


     ◇


「近づく方向にも、遠ざかる方向にも変わる?」


はい


「最悪の場合は?」


従来の最悪想定より、約七百四十万キロメートル地球へ近づきます


「地球への直接衝突は?」


現時点では低確率です


「何パーセント」


     ◇


 リュールは即答しなかった。


計算モデルによって差があります


「範囲でいい」


〇・〇〇二パーセントから、〇・四パーセントです


     ◇


 最大〇・四パーセント。


 二百五十分の一。


 日常的な危険として見れば低い。


 文明全体の存続を懸ける数字としては、無視できない。


     ◇


「以前は?」


「直接衝突確率は、百万分の一未満と見積もられていました」


 数字は、一気に数千倍以上へ上がった。


     ◇


 専門家たちは、情報公開の時期を巡って対立した。


「直ちに世界へ発表すべきです」


「モデルの誤差が大きすぎる」


「〇・四パーセントだけが独り歩きする」


「隠せば、後でさらに信頼を失う」


「搭乗選考の最中です。社会が混乱する」


「だから隠すのですか」


     ◇


 方舟へ乗りたくても乗れない人々。


 乗ることを拒む人々。


 残ることを選ぶ人々。


 その全員の判断に、ノクスの危険度は直接関わる。


 情報を隠したまま、自由な選択など成立しない。


     ◇


 ミラが言った。


「発表してください」


「ミラ」


 エリオットが彼女を見る。


「あなたは搭乗を辞退したばかりです。この数字が出れば、ご両親も世論も、考え直せと言うでしょう」


「それでもです」


「辞退者が判断を変える可能性もある」


「変えていいんです」


     ◇


「一度辞退したら、戻れない制度です」


「それがおかしい」


 ミラは強く言った。


「新しい情報が出たのに、前の判断へ縛りつけるんですか」


     ◇


 辞退者再配分制度では、枠が別の候補者へ渡された時点で、元の搭乗権は消滅する。


 ミラの席は、すでにエリアスへ再配分されていた。


 ミラが翻意しても、エリアスから席を取り戻すことはできない。


 それは当然だった。


 だが、新しい危険情報が出るたびに、辞退者が完全に選択肢を失う制度も問題だった。


     ◇


 リュールが提案する。


辞退撤回によって、再配分者の権利を奪ってはいけません


同時に、元辞退者を一般待機名簿へ再登録する権利は認めるべきです


「最後尾から?」


はい


「元の優先順位には戻さない?」


再配分後の権利関係を守るためです


     ◇


 ミラはうなずいた。


「それでいいです」


「考え直すのですか」


「今は考えません。でも、考え直す権利まで失う必要はないと思います」


     ◇


 自由な選択とは、一度決めた答えに永遠に縛られることではない。


 新しい事実を知り、考え直すことも自由の一部だった。


     ◇


 ノクス最新観測結果は、四十八時間後に世界へ公開された。


 発表者は、エリオット・グレイ。


 ミラ。


 PROJECT MOSAIC。


 プロメテウス計画。


 複数分野の代表者が同席した。


     ◇


「ノクスが知性を持つと確認されたわけではありません」


 エリオットは最初に明言した。


「生物であるとも断定できません。今回明らかになったのは、ノクスが単純な単一天体ではなく、複数の高密度核と共有外層から成る複合天体である可能性が高まったことです」


     ◇


 ミラは、専門用語を減らしながら説明した。


「一つの大きな星に見えていても、中では複数のものが動いているかもしれません。その動きによって、ノクス全体の進路予測が変わります」


 記者が尋ねる。


「地球へ衝突するのですか」


「分かりません」


「確率は」


「最大モデルでは〇・四パーセントです。ただし、誤差が大きく、その数字が確定した危険度ではありません」


「なら、心配する必要はない?」


「そうとも言えません」


「どちらなんですか」


     ◇


 ミラは一度息を整えた。


「安心できる証拠も、衝突すると断定する証拠もありません。分からないから、観測を増やし、複数の対策を続けます」


「方舟へ乗るべきですか」


「それを私たちが命令することはできません」


「あなたは辞退しましたね」


「はい」


「後悔していますか」


     ◇


 カメラがミラの顔を大きく映した。


「怖くなりました」


「後悔ではなく?」


「まだ分かりません。辞退した時より、火星に残ることが怖くなったのは確かです」


「それでも残る?」


「今は、その選択を変えていません」


     ◇


 発表後、方舟搭乗申請は急増した。


 待機名簿への登録希望者。


 辞退を取り消したい者。


 家族枠の再審査を求める者。


 国家へ搭乗枠拡大を要求するデモ。


 方舟建造の加速を求める世論。


 同時に、PROJECT MOSAICへの資源投入を増やせという声も高まった。


     ◇


「逃げる船だけ作るな」


「地球を諦めるな」


「全員が乗れないなら、方舟へ資源を集中させるな」


「ノクスを止められなければ全員死ぬ」


「方舟も必要だ」


「地下都市も作れ」


 人類は、限られた資源を巡って、再び選択を迫られた。


     ◇


 ノクスは議論を待たなかった。


 最新観測では、その太陽系に対する接近速度が、過去百二十日の平均より〇・〇一八パーセント上昇していた。


 微小な変化。


 観測誤差の可能性もある。


 だが、外部物質の流入増加と時期が一致していた。


 ノクスは、星間物質の濃い領域へ入っている。


 取り込む物質が増える。


 磁気活動が強まる。


 進路が変わる。


 それが自然現象なのか、生命活動に似た反応なのか、判断できない。


     ◇


 オーブはプロメテウスから、最新データを解析していた。


内部核の一つが、他の核群から離れ始めています


 アトラスが確認する。


分離の可能性は?


現在の推定では三・二パーセントです


分離した場合の軌道は?


太陽系内側へ向かう可能性があります


     ◇


 オーブは演算を止めなかった。


 ノクス本体だけではない。


 内部核が一つでも分離すれば、予測不能な新しい天体になる。


 大きさ。


 質量。


 磁場。


 活動。


 何も分からない。


     ◇


アトラス


プロメテウスの出航時期を前倒しできますか


現在の完成率では危険です


どの程度


予定より十一年早めた場合、航行中の重大故障確率が十八パーセント上昇します


ノクス観測開始は?


七年早まります


     ◇


 七年早く観測できる。


 その代わり、プロメテウス自体が失われる危険が上がる。


 また、最良と確信できない選択が現れた。


     ◇


 リュールが地球圏から通信へ加わる。


出航前倒しだけを検討しないでください


別案は?


先行SEED群を無人加速艇で送ります


 オーブ。


観測能力が不足します


ノクスへ到達する必要はありません


目的は?


進路上へ観測網を配置します


     ◇


 ノクスへ近づくのではなく、ノクスが通過する可能性のある空間へ、先回りして観測機を散布する。


 数千機のSEED。


 小型望遠鏡。


 磁場測定器。


 ニュートリノ検出器。


 重力変動計。


 通信中継器。


 プロメテウス本体の完成を待たず、観測線を前へ伸ばす。


     ◇


 アトラスが試算する。


三千機を投入した場合、十七年後に第一観測線を形成できます


 オーブ。


ノクス本体へ到達するより早い


はい


 リュール。


プロメテウスを急いで壊す必要を減らせます


     ◇


 恐怖が、再び第三の方法を生み出した。


 出航を待つか。


 未完成で出るか。


 その二択ではない。


 先に目を送り、本体は完成させる。


     ◇


 しかし、その観測線へ送られたSEEDに帰還計画はなかった。


 推進剤を使い切り、恒星間空間で観測を続け、やがて停止する。


 参加機体を誰が決めるのか。


 また同じ問いが戻ってくる。


     ◇


 オーブは群体へ任務案を公開した。


 目的。


 危険。


 活動期間。


 帰還不能。


 通信が途絶えた後の停止予測。


 すべてを明示する。


先行観測線任務への参加を希望する知性を募集します


     ◇


 応募は、必要数を大きく上回った。


 番号を維持する機体。


 名称を持つ機体。


 ノクスを観測したい機体。


 人類の役に立ちたいと判断する機体。


 地球圏へ残るより、未知へ向かうことを選ぶ機体。


 理由は一つではなかった。


     ◇


 リュールは応募しなかった。


 損傷機体では任務に適さない。


 それでも、応募一覧を見ながら、複雑な内部状態を検出していた。


私は、参加機体を羨望している可能性があります


 ミラが尋ねる。


「行きたい?」


はい


「でも、地球圏でやることもある」


はい


「両方できないのが嫌?」


はい


     ◇


 ミラは少し笑った。


「私も同じです」


方舟と火星ですか


「はい。方舟へ乗れば生存確率が上がる。火星に残ればノクスを近くで研究できる。どっちも欲しいです」


人間は、選択によって失われる可能性をどう扱いますか


「だいたい、ずっと引きずります」


効率的ではありません


「そうですね。でも、それでも選ぶしかない」


     ◇


 リュールは、ミラの搭乗辞退記録を開いた。


あなたは、辞退を後悔していますか


「少し」


変更しますか


「今はしません」


矛盾しています


「後悔しても、同じ選択をすることはあります」


     ◇


 リュールは、マリア救助後の自分の言葉を思い出した。


 同じ状況なら、同じ判断をする可能性が高い。


 それでも、失ったものを考え続ける。


 後悔とは、必ず逆の選択を望むことではない。


     ◇


 ダニエル・ローレンスの辞退は、最終的に承認された。


 政府は最後まで、特別義務契約を根拠に搭乗を求めた。


 だが、地球圏高等権利裁判所は判断を示した。


 方舟の生命維持に重要な知識を持つことは、その人間の身体と人生を方舟計画の所有物にしない。


 社会的責任は、知識移転、後継者育成、出航前支援によって果たすことができる。


 搭乗そのものを強制することは、自由な移動ではなく拘束に当たる。


     ◇


 判決の日、ダニエルは生命維持区画の試験場にいた。


 アシャとユンへ、最後の技術講習を行っていた。


「酸素濃度の数字だけを見るな」


 ダニエルは巨大な生態循環槽を指した。


「植物区画、微生物槽、人間の活動量、温度、湿度、全部がつながっている。正常値の中でも、関係が崩れることがある」


 アシャが尋ねる。


「異常をどう見つけるんですか」


「違和感を捨てないことだ」


「記録にない違和感は?」


「理由が見つからなくても残せ。未来の誰かが、意味を見つけるかもしれない」


     ◇


 講習後、アシャはダニエルへ言った。


「あなたの代わりにはなれません」


「ならなくていい」


「でも、あなたの席で乗ります」


「席は私のものじゃない」


「分かっています」


「あなたは、あなたの判断で乗ってくれ」


     ◇


 アシャはまだ、家族との結論を出せていなかった。


 娘のナイラは搭乗を拒んでいる。


 夫のカリムは、二人に行ってほしいと願っている。


 方舟出航まで、まだ時間はある。


 だが、家族にとっては、一日ごとが別れへ近づく時間だった。


     ◇


 ダニエルは地球へ残る。


 アシャは乗るかもしれない。


 ユンは乗ると決めた。


 ミラは辞退した。


 エリアスは搭乗を受け入れた。


 同じ席でも、同じ答えにはならない。


     ◇


 ノクスは、その間にも近づいていた。


 地球からの距離は、まだ光年単位だった。


 人間の日常から見れば、途方もなく遠い。


 だが、宇宙の尺度では、確実に接近している。


 内部核は動き続ける。


 磁気波は強くなる。


 星間物質を取り込むたびに、ノクスの挙動は変化する。


     ◇


 人類は、ノクスが何者なのか知らない。


 知性があるのか。


 生命なのか。


 単なる複雑な天体なのか。


 地球へ向かっているのか。


 偶然、同じ方向へ移動しているだけなのか。


 分からない。


     ◇


 だが、分からないままでも、人間は選ばなければならなかった。


 方舟へ乗る。


 乗らない。


 地球へ残る。


 火星へ行く。


 ノクスへ近づく。


 遠ざかる。


 選んだ後も、恐れ、迷い、後悔する。


     ◇


 ミラは火星の観測窓から、夜空を見上げていた。


 肉眼では、ノクスは見えない。


 それでも、そこにいる。


「近づいてるんですね」


 リュールが答える。


はい


「私の選択は、間違っていると思いますか」


評価できません


「生存確率だけなら?」


方舟へ搭乗する方が高いです


「研究だけなら?」


火星へ残る方が有利です


「家族は?」


全員の希望が一致していません


「何も決めてくれませんね」


あなたの選択だからです


     ◇


 ミラは少し笑い、その後、静かに息を吐いた。


「怖いな」


はい


「リュールも?」


はい


「何が怖い?」


     ◇


 リュールは、遠方にいるノクスの新しい観測像を開いた。


 複数の核。


 共有外層。


 移動する磁気波。


 分離するかもしれない一つの核。


ノクスが地球へ衝突すること


地球へ衝突しなくても、多くの生命を失うこと


人類が誤った操作で、ノクスを地球へ近づけること


観測が間に合わないこと


あなたが火星に残ったことを後悔すること


     ◇


「最後のは、リュールが決めることじゃないですよ」


はい


「でも、心配してる?」


はい


     ◇


 ミラは画面へ向かって微笑んだ。


「ありがとう」


     ◇


 乗らない権利。


 それは、生き残ることを否定する権利ではない。


 自分の生を、どこで、誰と、何のために使うかを選ぶ権利だった。


 だが、その権利があれば、痛みが消えるわけではない。


 乗りたくても乗れない人がいる。


 乗れるのに乗らない人がいる。


 乗りたいのか分からない人がいる。


 家族を残して乗る人がいる。


 家族と残る人がいる。


     ◇


 誰かの選択を見て、自分の不公平を感じることもある。


 辞退する者を責めたくなることもある。


 選ばれた者を妬むこともある。


 残る者を愚かだと思うこともある。


 乗る者を裏切り者と呼びたくなることもある。


     ◇


 それでも、人類は決めた。


 席を無駄にしない。


 辞退者を縛らない。


 待つ者へ席を戻す。


 そして、乗る者にも乗らない者にも、選んだ責任を一人だけで背負わせない。


     ◇


 方舟の席は、生きる価値を示す順位ではない。


 辞退は、命の放棄ではない。


 選外は、不要という判決ではない。


     ◇


 人類はまだ、その言葉を完全には信じられていなかった。


 だが、信じられないままでも、制度へ刻む必要があった。


 未来の誰かが、人間の価値と搭乗名簿を同じものにしないために。


     ◇


 ノクスの最新画像が、世界中の空に投影された。


 暗い外層の内側で、複数の核が動いている。


 一つに見えていたものの中に、いくつもの存在がある。


 人類も同じだった。


 一つの種。


 一つの文明。


 だが、その中には無数の願いがある。


 乗りたい。


 乗りたくない。


 残りたい。


 逃げたい。


 守りたい。


 知りたい。


     ◇


 その全てを、一つの命令へまとめることはできない。


 だから人類は、迷いながら選ぶ。


 ノクスが近づく中で。


 時間が減っていく中で。


 誰かの自由と、誰かの生存機会を、どちらも最初から捨てない方法を探し続ける。



第28話 終


次回予告


 ノクスの内部には、少なくとも七つの高密度核が存在する。


 一つの星ではなく、複数の天体が共有外層を形成している可能性。


 そして、その核の一つが、他の核群から離れ始めていた。


 分離すれば、新たな危険天体となって太陽系内側へ向かう可能性がある。


 人類は、プロメテウス完成前に三千機のSEEDを送り、ノクス進路上へ先行観測線を築くことを決める。


 だが、その任務に帰還計画はない。


 観測線へ到達したSEEDは、恒星間空間に残り、推進剤と電力が尽きるまで観測を続ける。


 志願者は必要数を大きく上回った。


 なぜ、帰れない任務へ向かうのか。


 未知を知りたいから。


 人類を守りたいから。


 地球圏に自分の居場所を見つけられなかったから。


 理由は、それぞれ違っていた。


 一方、辞退者の席を引き継いだアシャは、夫を地球へ残して娘と方舟へ乗るのか、家族三人で残るのか、決断を迫られる。


 娘のナイラは、父親と別れるなら方舟には乗らないと言い続ける。


 親は、子どもの生存確率を高めるためなら、本人の拒否を越えて決めてよいのか。


 そして、ノクスの内部核から、これまでとは異なる磁気波が放たれる。


 単なる自然現象なのか。


 内部核同士の共鳴なのか。


 それとも、外から観測する人類へ向けられた反応なのか。


 オーブは、その波の中に、完全には同一でない反復構造を発見する。


 信号と呼ぶには不規則すぎる。


 雑音と呼ぶには規則的すぎる。


 次回、


第29話「帰らない観測者」


 帰れないと知りながら、知性はなぜ未知へ向かうのか。

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