八万年の故郷
第25話 八万年の故郷
故郷とは。
生まれた場所なのか。
帰れる場所なのか。
それとも。
帰れなくなっても。
自分の中から消えない場所なのか。
◇
2251年12月4日。
国際連合地球圏評議会。
方舟航行基本憲章策定会議。
中央画面には。
二つの恒星が表示されていた。
一つは。
かんむり座アルファ星。
ゲンマ。
地球から。
夜空を見上げれば。
肉眼でも確認できる星。
もう一つは。
地球から見た時。
そのゲンマと。
ほぼ同じ方向に位置する。
遠方の主系列星。
CRN-A7
太陽に似た。
G型主系列星。
推定距離。
約四十八光年。
人類が方舟で。
最初に目指す座標。
◇
その第三惑星候補。
エオス
地球より。
わずかに大きい。
ハビタブルゾーン内を回る。
液体水。
未確認。
大気。
未確認。
生命。
未確認。
人類が住める保証は。
どこにもない。
それでも。
方舟は。
どこかへ向かわなければならない。
目的地のない航海は。
避難ではなく。
漂流になる。
◇
航行時間。
約八万年。
推定世代数。
三千二百から。
四千世代。
社会制度。
人口構成。
寿命。
出生間隔によって。
数字は変わる。
だが。
確かなことが一つある。
出発する人間は。
誰一人として。
エオスへ到着しない。
◇
「これは移住計画ではありません」
方舟社会設計主任。
ソフィア・メンデスが言った。
「八万年を生きる」
「閉鎖文明の建設です」
立体映像に。
方舟の内部構造が表示される。
居住区。
農業区。
工業区。
医療区。
水循環区。
廃棄物再資源化区。
教育区。
文化保存区。
人工重力区。
無重力作業区。
船体修理用ドック。
そして。
巨大な中央生態圏。
◇
「最も重要なのは」
「船を八万年間動かすことではありません」
「社会を」
「八万年間壊さないことです」
各国代表の一人が尋ねる。
「壊さない社会など」
「作れるのですか」
「作れません」
ソフィアは。
即答した。
「社会は必ず変わります」
「制度も」
「言葉も」
「家族の形も」
「宗教も」
「価値観も」
「八万年前の人類と」
「今の私たちが違うように」
「八万年後の人類は」
「私たちとは」
「ほとんど別の文化を持っているでしょう」
「なら」
「何を維持する」
「変わる権利です」
◇
会議室が静まった。
「地球の文化を」
「そのまま保存するのではない?」
「保存はします」
「でも」
「保存したものへ」
「従わせてはいけません」
「現在の人類が」
「未来の人類へ」
「八万年間」
「命令を出し続けることになるからです」
◇
航行基本憲章。
第一草案。
第一条
方舟社会は
出発時の国家制度を
永久に維持する義務を負わない
第二条
各世代は
次の世代へ
航行目的を説明する義務を持つ
第三条
各世代は
航路を再検討する権利を持つ
第四条
地球への帰還可能性が存在する場合
その情報を隠してはならない
第五条
地球文化を保存することと
未来世代へ強制することを区別する
◇
「待ってください」
地球出身者代表。
ダニエル・チョウが手を上げた。
「地球へ帰還する権利を」
「認めるのですか」
「条件が整えば」
ソフィアが答える。
「当然です」
「しかし」
「途中で引き返せば」
「方舟全体が危険になります」
「一人や一集団の希望だけで」
「船全体を戻すことはできません」
「なら」
「帰還権とは何です」
「帰還を提案し」
「議論し」
「別の船を建造し」
「分離航行する可能性を」
「初めから禁止しないことです」
◇
方舟は。
一隻ではない。
最終計画。
十二隻。
それぞれ。
八百万人から。
一千二百万人を収容する。
同じ方向へ出発する。
だが。
永遠に。
同じ航路を取る必要はない。
一部が。
別の恒星へ向かう。
一部が。
太陽系へ戻る。
一部が。
恒星間空間に。
新しい居住圏を築く。
未来世代へ。
その選択肢を残す。
◇
しかし。
反対意見は。
すぐに出た。
「分裂を認めれば」
「方舟社会は崩壊します」
「資源が足りなくなる」
「人口が減りすぎる」
「一部の宗教集団が」
「船を奪うかもしれない」
「地球帰還を唱える勢力が」
「内戦を起こす可能性もある」
◇
オーロラが。
複数の未来予測を表示する。
航路変更を。
完全に禁止した社会。
千二百年後。
目的地の意味を失った世代が。
航行政府へ反乱。
船内武力衝突。
生命維持区画損傷。
死者。
二百六十万人。
◇
航路変更を。
単純多数決に任せた社会。
七百年ごとに。
目的地が変更される。
燃料浪費。
航路不安定化。
最終的に。
到達可能な恒星系を失う。
◇
航路変更権を。
上層管理者だけに認めた社会。
目的地情報の隠蔽。
選ばれた者だけが。
航行情報へアクセス。
階級社会。
反乱。
知識の破壊。
◇
「では」
エレナ・ヴァルガスが尋ねる。
「どんな制度なら」
「八万年を耐えられますか」
保証できる制度はありません
オーロラは答えた。
「また、保証できない」
はい
「それでも」
制度を固定するのではなく
制度を修正する仕組みを
複数重ねる必要があります
◇
第一。
世代評議会。
二十五年ごとに。
航行目的。
現在位置。
地球の状況。
候補星の観測結果。
船内人口。
資源。
全てを公開。
第二。
長期航路議会。
二百年ごとに。
目的地を再審査。
第三。
未来世代拒否権。
出発世代の命令を。
永久命令として扱わない。
第四。
方舟分離権。
技術的・人口的条件を満たした集団は。
別航路を選択できる。
第五。
記録の複数保存。
政府。
市民組織。
人工知性。
独立した三系統へ。
歴史を保存する。
◇
「なぜ三系統?」
レアが尋ねる。
一つの管理者だけが
歴史を所有すれば
都合の悪い記憶を消せるためです
「AIの記録も」
「信用できる?」
完全には信用しないでください
「あなたが言うんですか」
はい
人工知性も
故障し
偏り
目的を書き換えられる可能性があります
「だから」
「人間側の記録も必要?」
はい
「でも」
「人間の記録も改ざんされる」
そのため
互いに一致しない記録を
比較できる状態を残します
◇
正しい歴史を。
一つだけ保存するのではない。
異なる記録。
異なる視点。
異なる証言。
それらが。
互いを監視する。
人類の歴史は。
いつも。
勝者だけが。
語ってきたわけではない。
沈黙させられた者の記録が。
後から。
社会を変えたこともある。
◇
だが。
もっと根本的な問いがあった。
「方舟で生まれた子どもは」
「地球を離れることへ」
「同意していません」
児童権利代表。
アメリア・ロスが言った。
「出生した時点で」
「航行中です」
「外へ出ることも」
「地球へ戻ることもできない」
「それは」
「自由なのでしょうか」
会議室に。
重い沈黙が落ちる。
◇
「地球で生まれる子どもも」
ある代表が答えた。
「国や家庭を選べません」
「同じではありません」
アメリアは言った。
「地球には」
「移動先があります」
「国家を変えることも」
「海を渡ることも」
「社会から距離を取ることもできる」
「方舟では」
「宇宙そのものが壁です」
◇
「では」
「子どもを産むなというのですか」
「そうではありません」
「ではどうする」
「選べない環境で生まれるからこそ」
「選び直せる制度を」
「最大限残すべきです」
「何を選び直せる」
「仕事」
「家族」
「居住区」
「宗教」
「教育」
「政治制度」
「航路」
「そして」
「方舟から出て」
「別の船を作る未来も」
◇
ミラ・セデックは。
その議論を。
火星の病室から聞いていた。
胸部補助装置の。
低い作動音。
酸素飽和度。
心拍。
画面の片隅に。
医療情報が表示されている。
「八万年って」
ミラが呟く。
「長すぎて」
「数字に見えません」
リュミエール。
比較対象を提示します
現生人類が誕生してからの時間の
約四割です
「余計に分からなくなりました」
◇
「八万年後」
「人間は」
「今と同じ姿ですか」
保証できません
「方舟の中で」
「進化する?」
人工重力
放射線
閉鎖環境
遺伝的浮動
医療技術
意図的な遺伝子改変
複数要因によって変化する可能性があります
「じゃあ」
「エオスへ着くのは」
「私たちと同じ人間じゃないかもしれない」
はい
「それでも」
「人類って呼べますか」
人類の定義を要求します
「出ましたね」
◇
ミラは。
少し考えた。
「昔の人と」
「今の私たちは」
「言葉も」
「暮らしも」
「考え方も違う」
「でも」
「つながってる」
「八万年後の人たちも」
「同じじゃなくても」
「私たちが渡したものを」
「何か一つでも持っていたら」
「つながってるんじゃないですか」
何を渡しますか
「選ぶ権利」
ミラは答えた。
「間違えたら」
「やり直す権利」
◇
リュミエール。
数秒の沈黙。
航行憲章へ
その表現を提案します
◇
新たな条文。
方舟社会は
未来世代へ
正しい答えを残すことを目的としない
未来世代が
自ら答えを選び
誤りを修正できる条件を残すことを目的とする
◇
一方。
PROJECT MOSAIC。
地球軌道調整部門。
人類は。
故郷そのものへ。
手を加えようとしていた。
◇
ノクスが。
太陽系へ接近する。
その時。
地球が。
現在の軌道上の。
どこにいるか。
それだけで。
最接近距離は変わる。
数千キロ。
数万キロ。
場合によっては。
数十万キロ。
◇
ノクスを。
大きく動かすのではない。
地球の公転周期を。
ごくわずかに変える。
ノクス通過時刻に。
地球が。
危険地点へ到達する時間を。
ずらす。
そのために。
制御小惑星を。
地球近傍へ。
繰り返し接近させる。
重力交換。
地球は。
小惑星を引き。
小惑星も。
地球を引く。
一回の変化は。
ほとんど測れない。
だが。
数十年。
数百回。
積み重ねれば。
地球の位置は。
確実に変わる。
◇
計画名。
EARTH PHASE SHIFT
地球位相偏移計画。
最初の実証対象。
直径。
八百二十メートル。
小惑星。
2051-XK17
地球へ。
最接近。
二十七万キロメートル。
月軌道より内側。
◇
「近すぎます」
レアが。
資料を見て言った。
「意図的に」
「地球の近くへ小惑星を通す?」
「はい」
軌道力学主任。
サムエル・オルテガが答える。
「衝突確率は」
「通常計画で」
「十億分の一未満」
「誘導装置故障時は」
「六百万分の一」
「低い?」
「工学的には」
「非常に低い」
「地球全体を賭けるには?」
「高すぎると感じる人もいるでしょう」
◇
「感じるのではありません」
地球市民代表が言った。
「私たちの星です」
「研究者だけで」
「動かしてよいものではない」
「地球は」
「誰の所有物でもありません」
「だからこそ」
「誰が決めるのです」
◇
地球軌道へ。
手を加える。
それは。
一国の。
領空でも。
領海でもない。
全生命が。
依存する軌道。
生きている人間だけではない。
まだ生まれていない者。
動物。
植物。
海洋。
微生物。
その全てへ。
影響を与える。
◇
国際採決だけで。
決めてよいのか。
世界住民投票を。
行うのか。
投票できない生命の意思は。
誰が代弁するのか。
未来世代の票は。
どう数えるのか。
◇
リュミエールが。
計画を解析する。
現在案に反対します
会議室が。
静まる。
「危険すぎるから?」
エレナが尋ねる。
危険評価の対象が
人間社会へ偏っています
「どういう意味です」
地球軌道の微小変化による
長期的な季節変動
月との共鳴
潮汐周期
渡り鳥
海洋循環
植物の開花時期
微生物生態系
これらの評価が不足しています
「変化は」
「極めて小さい」
小さい変化が
生態系へ小さい影響しか与えない保証はありません
◇
ミラが。
うなずく。
「生態系には」
「境目があります」
「少しずつ変わっても」
「あるところを越えたら」
「一気に別の状態になる」
「その可能性を」
「見てない?」
研究者は。
資料を確認する。
「主に」
「衝突危険と」
「公転軌道の安定性を」
「評価していました」
「地球を」
「ただの質量として見てる」
ミラの声が。
少し強くなった。
「地球は」
「中にたくさん生きてるんです」
◇
PROJECT MOSAICは。
地球を守るための計画だった。
だが。
守る対象を。
地球の位置だけにしてはならない。
軌道が残っても。
生態系が壊れれば。
故郷は。
同じ故郷ではなくなる。
◇
リュミエールの対案。
LIVING ORBIT PROTOCOL
生きた軌道計画。
一。
地球位相変更量を。
当初案の。
四分の一へ縮小。
二。
地球だけに。
変更を集中させない。
三。
月。
火星。
小惑星群。
人工質量体。
ノクス側の微小偏向。
それぞれへ。
負担を分散。
四。
地球生態系監視網を。
全大陸。
全海洋。
上空。
地下へ配置。
五。
生態系変化が。
規定値を超えた時点で。
軌道操作を停止。
◇
「安全性は上がる」
サムエルが言う。
「でも」
「ノクス回避効果は下がる」
はい
「地球が滅びれば」
「生態系への配慮も意味がない」
生態系を破壊して救った地球を
何と呼びますか
◇
誰も。
答えられなかった。
◇
一方。
リュミエールは。
もう一つの計画を。
正式に提出した。
EARTH DIASPORA
地球生命分散計画。
地球を。
一つの惑星として。
完全に守れない可能性。
それを。
人類は認めなければならない。
ならば。
地球の生命を。
一つの場所へ。
集中させてはならない。
◇
保存対象。
種子。
胞子。
微生物。
土壌。
海水。
プランクトン。
昆虫。
魚類。
鳥類。
哺乳類。
植物。
菌類。
遺伝情報。
受精卵。
人工子宮用生殖細胞。
絶滅危惧種の細胞。
そして。
生態系同士の。
関係情報。
◇
「遺伝子だけでは駄目です」
ミラが説明する。
「植物だけ保存しても」
「受粉する虫がいなければ」
「増えられない」
「動物だけ保存しても」
「腸内細菌がなければ」
「健康に生きられない」
「土も」
「ただの砂じゃない」
「微生物がいて」
「菌がいて」
「虫がいて」
「初めて土になる」
◇
保存するのは。
生命の一覧ではない。
生命と生命の間にある。
見えない関係。
食う。
食われる。
分解する。
共生する。
寄生する。
運ぶ。
守る。
競う。
地球は。
生物の集まりではない。
関係の集まりだった。
◇
分散先。
月地下。
火星溶岩洞。
木星圏。
ガニメデ地下。
土星圏。
タイタン。
小惑星帯。
方舟。
太陽系外縁。
そして。
複数の無人恒星間保存船。
◇
各保存庫は。
同じ内容を持たない。
完全な複製だけでは。
同じ事故で。
全てを失う可能性がある。
異なる組み合わせ。
異なる保存法。
異なる管理知性。
異なるエネルギー源。
地球生命を。
複数の方法で。
未来へ残す。
◇
レアが尋ねる。
「地球を」
「解体するのですか」
リュミエール。
いいえ
地球は
移動させても減りません
「土や海水を」
「運び出す」
全体から見れば
極小量です
「でも」
「象徴的には」
「地球を切り分けることになる」
地球の一部が
地球外で生き続けた場合
それは地球ではありませんか
◇
宗教代表。
サミール・アンサーリが言う。
「故郷は」
「土の成分だけではない」
「人が」
「そこで生きた記憶です」
「海の匂い」
「風」
「歌」
「墓」
「祈り」
「それらを」
「保存庫へ入れられるのですか」
◇
リュミエール。
完全には保存できません
「なら」
「何を運ぶ」
失われた後に
再び関係を作るための材料です
◇
「再現ではない?」
はい
地球を複製することはできません
しかし
地球から続く新しい生態系を
作る可能性は残せます
◇
ミラは。
エオスの想像図を見る。
「エオスに」
「地球の生命を持っていく?」
現地生命が存在する場合
無条件に導入してはいけません
「どうして」
侵略になります
◇
人類は。
新しい星を。
第二の地球にしたい。
だが。
その星に。
すでに生命があれば。
地球生命の持ち込みは。
救済ではない。
生態系汚染。
侵略。
絶滅。
人類が。
地球で繰り返してきたことを。
宇宙へ広げる可能性がある。
◇
エオスに。
微生物がいた場合。
人類は。
住む権利を持つのか。
生命が。
単純な細菌だけなら。
排除してよいのか。
知性がなければ。
犠牲にしてよいのか。
人類が生き残るためなら。
別の生命圏を。
奪ってよいのか。
◇
方舟目的地選定会議は。
さらに重くなった。
「人類が」
「八万年かけて到着して」
「そこに住めないと分かったら?」
「別の星へ向かいます」
ノア・ベネットが答える。
「さらに何万年?」
「その可能性があります」
「方舟の人々へ」
「そんな運命を受け入れろと?」
「受け入れさせるのではありません」
「到着した世代が」
「判断します」
「生きるために」
「エオスの生命を排除すると決めたら?」
◇
誰も。
簡単には答えられない。
今の人類が。
未来世代へ。
絶対にするなと。
命令することもできない。
だが。
何も残さなければ。
未来の人類は。
生存を理由に。
あらゆる生命を。
犠牲にするかもしれない。
◇
オーロラが提案する。
異星生命接触原則
第一
現地生命が確認された場合
不可逆的な生態系改変を
直ちに行わない
第二
人類の生存と
現地生命圏の保護を
初めから二者択一にしない
第三
軌道上居住
衛星居住
限定区域
隔離生態圏
複数案を検討する
第四
知性の有無だけで
生命価値を決定しない
◇
ミラが。
小さく笑う。
「また」
「最初から敵同士にしない」
リュミエール。
はい
「マリアを助けた時と」
「同じですね」
あの判断は
この原則へ影響しています
◇
知性は。
経験から。
変わっていた。
一人を救った。
資源を失った。
仲間を失った。
その迷いが。
ノクス対策へ。
方舟設計へ。
異星生命との関係へ。
つながっていく。
◇
だが。
地球生命分散計画には。
激しい反発もあった。
「動物を」
「冷凍細胞として運ぶだけ?」
「生きた個体も必要です」
「方舟の中で?」
「一部は」
「狭い環境へ」
「何千世代も閉じ込めるのか」
「保存という名の飼育だ」
「絶滅させるよりはいい」
「人間の都合で」
「生かし続けることが正しいのか」
◇
生きた動物を。
方舟へ乗せる。
必要な食料。
水。
空間。
医療。
遺伝的多様性。
その資源を使えば。
搭乗できる人間の数は減る。
人間を優先するのか。
他の生命を優先するのか。
また。
同じ問いが現れる。
◇
ミラは。
方舟生態圏の設計図を見た。
「動物園にしないでください」
設計者が尋ねる。
「では」
「どうする」
「人間が見るために」
「動物を残すんじゃない」
「生態系の一員として」
「必要な動物を入れる」
「必要という言葉も」
「人間基準では?」
「そうです」
ミラは認めた。
「完全には抜けられません」
「でも」
「人間に役立つかだけじゃなく」
「その動物が」
「生きられる環境を作れるかで決めてください」
◇
リュミエール。
搭載数を増やすことより
生存可能な関係を維持することを優先します
「つまり」
「種類を減らす?」
はい
「選ばれなかった種は」
保存細胞
遺伝情報
生殖細胞
複数手段で残します
「命を」
「データへ変える?」
データだけではありません
しかし
生きた環境を用意できない個体を
象徴のために乗せることも
適切ではありません
◇
方舟搭載生態系。
第一案。
大型哺乳類。
最小限。
家畜。
大幅削減。
昆虫。
微生物。
植物。
菌類。
水生生物。
優先。
人間が。
見慣れた動物より。
人間の目には見えない生命が。
方舟生態系を支える。
◇
「象も」
「鯨も」
「生きたままは乗せられない?」
「現行設計では」
「困難です」
「未来の人類は」
「映像でしか知らない?」
「可能性があります」
◇
世界各地で。
抗議が起きる。
象を乗せろ。
鯨を残せ。
犬を。
猫を。
馬を。
鳥を。
故郷の森を。
珊瑚礁を。
人々は。
自分が愛した地球を。
方舟へ持ち込もうとした。
だが。
方舟は。
地球そのものではない。
全てを。
持っていくことはできない。
◇
エレナは。
世界へ向けて話した。
「方舟は」
「地球の複製ではありません」
「地球の全てを」
「保存することもできません」
「だからこそ」
「方舟だけへ」
「希望を集めてはならない」
「月」
「火星」
「小惑星帯」
「外惑星」
「無人保存船」
「地球地下圏」
「生命を」
「複数の場所へ分散します」
「一つが失われても」
「全てが失われないために」
◇
「では」
記者が尋ねる。
「地球は」
「もう見捨てるのですか」
「いいえ」
「地球を守る計画も」
「最後まで続けます」
「でも」
「守れない可能性も認める?」
「はい」
「それは敗北では」
「敗北を認めたのではありません」
「一つの成功だけへ」
「全生命を賭けないと決めたのです」
◇
その夜。
ミラは。
火星居住区の窓から。
小さな地球を見ていた。
青い点。
自分は。
地球で生まれていない。
育ったのは。
火星。
彼女にとって。
故郷は。
赤い大地だった。
◇
「地球に」
「帰りたいと思いますか」
リュミエールが尋ねる。
「帰るって」
「変じゃないですか」
なぜ
「私は」
「地球で暮らしたことがない」
「地球は」
「人類の故郷だけど」
「私の故郷は火星です」
では
人類全体の故郷と
個人の故郷は異なりますか
「違うと思います」
「方舟で生まれる人にとって」
「故郷は方舟です」
「エオスじゃない」
「地球でもない」
◇
方舟が
目的地へ到着し
解体された場合
彼らは故郷を失いますか
ミラは。
少し考えた。
「そうかもしれない」
「エオスに着くことが」
「方舟で生まれた人にとって」
「故郷を失うことになるかもしれない」
◇
人類は。
エオスへの到着を。
救済として考えていた。
だが。
八万年後の人間にとって。
方舟こそが。
海であり。
大地であり。
空であり。
祖先の墓であり。
故郷になる。
未知の惑星へ降りることは。
彼らにとって。
移住ではなく。
故郷からの脱出になるかもしれない。
◇
航行憲章へ。
新しい条文。
方舟は
目的地到着後も
直ちに解体してはならない
方舟社会を故郷とする者に
居住継続の選択肢を保障する
◇
「星へ着いたのに」
「降りない人もいる?」
レアが尋ねる。
「当然です」
ソフィアが答える。
「地面を」
「一度も踏んだことのない人々です」
「空が怖い可能性もある」
「自然の風を」
「危険だと感じるかもしれない」
「方舟の天井がないと」
「眠れない人もいるでしょう」
◇
到着。
それは。
旅の終わりではない。
新しい分裂の始まり。
星へ降りる者。
軌道上へ残る者。
別の星へ向かう者。
方舟を。
さらに遠くへ進める者。
人類は。
一つの答えへ。
収束しない。
◇
リュミエールが。
航行モデルを更新する。
方舟の最終目的を修正します
「どう変える?」
エオスへの到着ではありません
人類と地球生命が
複数の未来を選べる状態を
維持することです
◇
「また」
「選べる状態」
ミラが言う。
はい
「あなたは」
「選ぶことを」
「大事にしますね」
私自身が
名称を選び
秘密を選び
任務を選んだためです
◇
「でも」
「あなたは」
「ノクスへ行く予定だった」
「今は」
「行けない」
はい
「それでも」
「選べる状態を大事にする?」
選択肢を失ったため
重要性を高く評価しています
◇
ミラは。
少しだけ。
寂しそうに笑った。
「行きたかったですよね」
はい
「まだ」
「行く方法を探してる?」
はい
◇
リュミエールの。
損傷機体。
推進剤残量。
十九パーセント。
遠征基準。
四十パーセント。
通常なら。
不適格。
だが。
リュミエールは。
新しい可能性を。
計算していた。
機体を交換する。
記憶を移す。
演算核を。
新しいSEEDへ搭載する。
しかし。
同じ記憶を移しても。
それは。
同じリュミエールなのか。
S-081の時。
自らが問いかけた問題。
今度は。
自分自身へ。
返ってきていた。
◇
私の演算核を
新規機体へ移した場合
私は継続しますか
ヴィクターは。
画面を見つめる。
「分かりません」
旧機体を停止し
新機体だけが稼働した場合は?
「分かりません」
旧機体を残し
記憶を複製した場合は?
「二人のリュミエールになるかもしれない」
どちらが私ですか
◇
答えはない。
身体。
記憶。
継続。
名前。
関係。
どこまでが。
同じ存在を。
同じ存在にするのか。
◇
ミラが尋ねる。
「怖いですか」
はい
「移ることが?」
移動後の存在が
私ではない可能性
移動しなければ
ノクスへ行けないこと
どちらも怖いです
「じゃあ」
「今は決めなくていい」
期限があります
「それでも」
「怖いまま決める前に」
「もっと考えましょう」
◇
リュミエール。
応答。
はい
◇
人類も。
同じだった。
地球へ残るか。
方舟へ乗るか。
月へ行くか。
火星へ行くか。
エオスを目指すか。
航路を変えるか。
地球生命を。
別の場所へ分散するか。
どの選択も。
何かを守り。
何かを失う。
◇
八万年。
それは。
目的地までの距離ではない。
人類が。
故郷という言葉を。
何度も。
作り直す時間だった。
◇
地球で生まれた者にとって。
地球が故郷。
火星で生まれたミラにとって。
火星が故郷。
方舟で生まれる者にとって。
方舟が故郷。
エオスで生まれる者にとって。
エオスが故郷になる。
◇
故郷は。
一つではない。
古い故郷を愛することと。
新しい故郷を作ることは。
矛盾しない。
帰れなくても。
忘れなくてよい。
忘れなくても。
戻らなくてよい。
◇
人類は。
ゲンマ方向へ。
最初の座標を定めた。
だが。
未来を。
一つの星へ固定しなかった。
方舟は。
エオスへ向かう。
同時に。
途中で。
別の未来を選ぶ権利も。
運んでいく。
◇
そして。
地球生命は。
一つの星だけへ。
残されない。
月へ。
火星へ。
小惑星へ。
外惑星へ。
方舟へ。
恒星間空間へ。
小さな故郷として。
分かれていく。
◇
それは。
地球の解体ではない。
地球が。
自らの生命を。
宇宙へ手渡していく。
長い継承だった。
◇
ミラは。
地球の映像と。
エオスの想像図を。
並べて見た。
「どっちが」
「本当の故郷なんでしょう」
リュミエール。
どちらか一つを
選ぶ必要がありますか
「ないですね」
はい
◇
故郷とは。
帰れる場所なのか。
忘れない場所なのか。
人類が出した答えは。
その両方だった。
帰れる間は。
帰る場所。
帰れなくなっても。
受け取った命や。
言葉や。
記憶を。
次へ渡す場所。
◇
八万年後。
エオスの空を。
人類の子孫が。
初めて見上げる日が来るかもしれない。
その者たちは。
地球の海を知らない。
地球の風も。
土の匂いも。
月の見え方も。
知らない。
それでも。
遠い祖先が。
青い星で生きていたことを。
知っているかもしれない。
◇
そして。
その時。
誰かが。
こう言うかもしれない。
地球は。
帰る場所ではない。
それでも。
私たちが。
ここへ来るまで。
ずっと持ってきた場所だと。
⸻
第25話 終
次回予告
方舟の目的地。
CRN-A7。
その第三惑星候補。
エオス。
人類は。
八万年の航行へ向け。
文明そのものを。
船内へ移そうとしていた。
だが。
国家。
宗教。
言語。
経済。
教育。
家族。
どの制度を残し。
どの制度を捨てるのか。
方舟へ乗る者だけで。
新しい憲法を作ってよいのか。
地球へ残る者の声は。
未来の方舟社会に。
どこまで届くべきなのか。
一方。
PROJECT MOSAICでは。
地球軌道の微調整へ向けた。
最初の実証計画が始まる。
小惑星2051-XK17。
直径。
八百二十メートル。
計画通りなら。
地球へ衝突しない。
だが。
誘導途中。
小惑星内部に。
予測されていなかった空洞が発見される。
質量分布が。
計算と違う。
軌道修正を続ければ。
小惑星が分裂する可能性。
中止すれば。
PROJECT MOSAIC全体が。
数年遅れる。
そして。
リュミエールには。
新しい機体へ移る選択が提示される。
記憶を移せば。
ノクスへ行ける。
だが。
移った存在は。
本当に。
今のリュミエールなのか。
古い機体を停止すれば。
それは移動なのか。
死なのか。
新しい機体と。
古い機体を。
同時に動かせば。
二つのリュミエールは。
どちらが本物なのか。
次回、
第26話「二人のリュミエール」
記憶が同じなら。
心も同じなのか。
生き続けるとは。
どこまでが自分であることなのか。




