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NEURON STAR  作者: リンダ


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18/50

未来を急ぐ代償

第18話 未来を急ぐ代償


 未来を救うため。


 今日を急ぐ。


 今日を急ぐため。


 人を働かせる。


 人を働かせるため。


 限界を伸ばす。


 そして。


 限界を越えた時。


 最初に壊れるのは。


 機械ではなかった。


     ◇


 2251年7月。


 PROJECT HORIZON始動から三週間。


 世界中の産業地図が。


 急速に塗り替えられていた。


 軍用宇宙機工場。


 軌道輸送船工場へ転換。


 装甲材生産施設。


 方舟外殻用複合材工場へ。


 ミサイル誘導装置メーカー。


 無人採掘船の航法装置開発へ。


 潜水艦造船所。


 地下居住区用圧力隔壁の製造へ。


 戦争のために育てられてきた技術が。


 生き残るための技術へ変えられていく。


 一見すれば。


 理想的な転換だった。


 だが。


 現場では。


 違う時間が流れていた。


     ◇


 地球。


 旧北米圏第七航空兵器工場。


「今日から、弾頭制御装置の生産は停止する」


 工場長が告げる。


「代わりに」


「小惑星採掘船用姿勢制御ユニットを造る」


 作業員たちが顔を見合わせる。


「いつから切り替えるんですか」


「今日からだ」


「今日?」


「既存設備の一部は、そのまま使える」


「設計は」


「今朝届いた」


「訓練は?」


「今週中」


「生産開始は」


「九日後」


 誰かが笑った。


 冗談だと思ったからだ。


 だが。


 工場長は笑わなかった。


「納期は、変更できない」


「なぜです」


「月面建造計画が待っている」


「その前に、俺たちが壊れますよ」


 工場長は答えられなかった。


     ◇


 火星。


 地下居住区拡張工事。


 掘削機は。


 二十四時間停止しない。


 三交代制。


 さらに、第四臨時班。


 安全確認時間は。


 従来の半分。


「岩盤応力、上昇しています」


「補強材を追加」


「搬入が遅れています」


「次区画へ進め」


「まだ検査が」


「工程が遅れている」


「でも」


「ノクスは工程表を待たない」


 その言葉が。


 あらゆる現場で使われ始めていた。


 ノクスは待たない。


 だから。


 休めない。


 止められない。


 遅れられない。


 安全も。


 生活も。


 人間の体も。


 工程表の後ろへ押しやられていった。


     ◇


 月面南極資源採掘区。


 第九ヘリウム3・希少金属複合鉱区。


 地下深度。


 二千八百メートル。


 採掘責任者。


 イサーク・ロメロ。


 四十六歳。


 月面採掘に二十五年従事してきた。


 彼の端末には。


 新しい採掘目標が表示されていた。


月間採掘量


従来比 238%


「二倍以上?」


 副責任者のメイ・リンが画面を見る。


「無理です」


「上は可能だと言っている」


「誰が」


「HORIZON資源委員会」


「現場を見たことがある人ですか」


「知らない」


「採掘機を増やすんですか」


「三基追加」


「作業員は」


「一割増員」


「それで二・三倍?」


「自動化率を上げる」


「保守は」


「点検周期を延ばす」


 メイの表情が変わった。


「どれくらい」


「十四日から二十一日へ」


「無理です」


「俺もそう思う」


「では断ってください」


「断れば」


 イサークは端末を閉じる。


「方舟の外殻材が足りない」


「プロメテウスの磁場制御材も」


「地下都市の遮蔽材も」


「全部、ここから出る」


「だから人が死んでもいい?」


 イサークは。


 返事をしなかった。


     ◇


 月面鉱区で採掘されていたのは。


 ヘリウム3だけではない。


 超伝導コイルに必要な希少同位体。


 高温耐性合金。


 放射線遮蔽材。


 方舟。


 地下都市。


 プロメテウス。


 三計画すべてに必要な資源。


 第九鉱区は。


 人類の未来を支える場所として。


 世界中の報道で紹介された。


 作業員たちは。


 英雄と呼ばれた。


 英雄と呼ばれた後。


 勤務時間は増えた。


     ◇


 地球標準時。


 午前六時。


 第九鉱区。


 作業開始前点検。


「支柱六十四番、振動値が高い」


 若い保守技術者。


 ノア・アデバヨが報告する。


「前回も出ていたな」


 メイが確認する。


「はい」


「交換申請は」


「承認待ちです」


「いつから」


「五日前」


「承認が遅すぎる」


「予備支柱は?」


「第十二鉱区へ回されました」


「なぜ」


「増産区画の新設優先です」


 メイは通信を開く。


「六十四番周辺、採掘停止」


 管制室から返答。


『停止は許可できません』


「振動異常です」


『許容範囲内』


「現場基準では停止対象です」


『緊急生産基準では継続可能』


「そんな基準、いつできたんです」


『三日前です』


「誰が作った」


『HORIZON月面資源管理局』


「現場の承認は?」


 返答が少し遅れた。


『不要です』


     ◇


 メイは。


 イサークのところへ向かった。


「六十四番を止めます」


「管理局が認めない」


「知っています」


「なら」


「現場責任で止めます」


「全体工程が遅れる」


「崩れたら全部止まります」


「崩れなければ」


「その言い方を始めたら終わりです」


 メイは言った。


「崩れなければ大丈夫」


「死ななければ大丈夫」


「壊れなければ大丈夫」


「全部」


「事故の前に使われる言葉です」


     ◇


 イサークは。


 振動記録を見る。


 微増。


 微増。


 微増。


 急激ではない。


 即時崩落を示す値でもない。


 だが。


 二十五年の経験が。


 嫌な感覚を伝えていた。


「六十四番周辺を二時間停止」


「二時間では足りません」


「全体停止はできない」


「では周辺三ブロック」


「一ブロックだけだ」


「イサーク」


「俺が責任を取る」


「死んだ人に責任は返せません」


     ◇


 午前七時二十分。


 六十四番支柱周辺。


 一時停止。


 作業員が退避する。


 ノアは、振動センサーを直接確認していた。


「基部に亀裂」


 映像を送る。


「長さ、四十二センチ」


『拡大してください』


「内部にも進んでいる」


『補修材を注入』


「交換が必要です」


『交換には十八時間』


「最低でも」


『二時間停止しか承認されていません』


「じゃあ、どうしろと」


『応急補修後、採掘再開』


 ノアは。


 通信画面を見つめる。


「誰が現場へ来るんですか」


『何の話です』


「採掘再開を命じる人です」


『遠隔判断です』


「なら」


 ノアはカメラを亀裂へ向けた。


「これを見て言ってください」


「この下で人を働かせろって」


 沈黙。


『応急補修を実施してください』


     ◇


 正午。


 補修完了。


 採掘再開。


 メイは反対した。


 ノアも。


 複数の作業員も。


 だが。


 管理局から。


 正式な再開命令が出た。


 イサークは。


 最終的に署名した。


 現場責任者として。


「俺が中へ入る」


 メイが止める。


「責任者が先頭に立つ話じゃない」


「俺が署名した」


「だから?」


「安全だと判断したなら」


「自分もそこにいるべきだ」


     ◇


 午後一時。


 採掘機。


 再稼働。


 月面地下へ。


 低い振動が広がる。


 採掘ドリル。


 搬送機。


 粉砕装置。


 すべてが動き始める。


 最初の十分。


 異常なし。


 二十分。


 支柱振動。


 やや上昇。


 三十五分。


 亀裂拡大。


 センサー警告。


「停止!」


 ノアが叫ぶ。


 管制室。


 緊急停止操作。


 だが。


 増設された自動採掘機の一基が。


 制御信号へ応答しない。


「三号機、停止しません」


「主電源を切れ」


「別系統です」


「現地遮断!」


 作業員二名が。


 遮断盤へ走る。


     ◇


 午後一時三十八分。


 六十四番支柱。


 破断。


 最初の音は。


 小さかった。


 金属が。


 短く鳴る音。


 その直後。


 天井岩盤の一部が落下。


「全員退避!」


 警報。


 赤い照明。


 採掘坑道全体が揺れる。


 支柱六十五番。


 荷重超過。


 破断。


 六十三番。


 傾斜。


 岩盤圧力が。


 隣接区画へ移る。


 連鎖。


「東通路へ!」


「搬送路は駄目だ!」


「ノアは?」


「まだ遮断盤!」


     ◇


 イサークは。


 落下する粉塵の中を走る。


「ノア!」


 通信に雑音。


『三号機、止まりました』


「すぐ戻れ!」


『通路が』


 轟音。


 映像が乱れる。


『塞がれました』


「位置を送れ」


『遮断区画B7』


「酸素は」


『四十三分』


「待ってろ」


『責任者』


「待ってろ!」


     ◇


 第一崩落。


 第二崩落。


 第三崩落。


 地下採掘区画の三割が。


 数分で遮断された。


 作業員。


 四百十二名。


 退避確認。


 三百一名。


 行方不明。


 百十一名。


 負傷者。


 不明。


 地上管制は。


 採掘停止を宣言。


 緊急救助計画開始。


 だが。


 崩落は続いている。


「救助坑を掘る」


「二次崩落の危険」


「中に百人以上いる」


「救助隊を入れれば、さらに巻き込まれる」


「酸素が持たない」


「無人機は」


「通路幅が不足」


「小型掘削機を」


「到着まで三時間」


「三時間では遅い」


     ◇


 事故発生から。


 二十二分。


 映像が世界へ流出した。


 赤い坑道。


 逃げる作業員。


 崩れる岩盤。


 通信の叫び。


 PROJECT HORIZON開始後。


 最初の大規模事故。


 速報。


月面第九鉱区で大規模崩落


百名以上の安否不明


増産計画との関連を調査


 一般SNSには。


 すぐに怒りがあふれた。


未来のためなら何人死んでもいいのか


方舟の材料のために労働者を潰した


安全基準を変えたのは誰だ


また英雄扱いして終わらせるな


マリクから何も学んでいない


     ◇


 月面ルナ・アークヤード。


 アミナは。


 事故映像を見た瞬間。


 立ち上がった。


「採掘区画へ行きます」


「あなたは救助員ではありません」


 ソフィアが止める。


「高温超伝導材の構造解析ができる」


「採掘支柱の材質は別です」


「遠隔でできることがある」


「主任」


「また」


 アミナの声が震える。


「また、人が行かなければ止められない構造になっている」


 マリクの最後の言葉。


次は、人が行かなくても止められるようにしてください。


 だが。


 今度も。


 人が危険な場所へ入らなければ。


 救えない命がある。


     ◇


 国連地球圏評議会。


 緊急対策室。


「全月面採掘施設を停止します」


 エレナ・ヴァルガスが言った。


 資源委員会代表が反発する。


「全施設?」


「安全基準の緊急点検が終わるまで」


「方舟建造が止まります」


「止めます」


「プロメテウスも」


「止めます」


「地下都市向け資材も」


「止めます」


「議長」


「一週間停止すれば」


「全計画へ数か月の遅れが出ます」


「人が埋まっています」


「救助活動と他鉱区の操業は別問題です」


「同じ安全基準で運用されています」


「事故原因はまだ確定していない」


「だから止めるんです」


     ◇


「一鉱区の事故で」


「人類全体の計画を遅らせるのですか」


 代表の言葉に。


 部屋が凍る。


 エレナは。


 ゆっくり振り返った。


「一鉱区?」


「百人以上が閉じ込められている」


「言い方が不適切でした」


「言葉の問題ではありません」


「しかし」


「七十年後の百四十億人を救うには」


「今の損失を」


 代表は。


 そこで言葉を止めた。


 だが。


 続きは全員に聞こえた。


 受け入れなければならない。


     ◇


「今の損失?」


 エレナが低い声で言う。


「人間を」


「資源損失の欄へ入れるつもりですか」


「そういう意味では」


「マリクの事故から」


「私たちは何を学んだのです」


 代表は答えない。


「未来は」


「今日生きている人間を材料にして造るものではありません」


     ◇


 事故現場。


 救助隊。


 第一班。


 無人小型探査機を。


 崩落隙間へ投入。


 映像。


 粉塵。


 曲がった支柱。


 破壊された搬送路。


 熱反応。


「生存者です」


「何人」


「少なくとも七」


「位置は」


「B7遮断区画」


 ノアのいる場所。


 通信を試みる。


『こちら救助管制』


『聞こえますか』


 雑音。


 数秒後。


『聞こえます』


 ノアの声。


「人数は」


『八人』


「負傷者」


『二人重傷』


「酸素残量」


『二十七分』


「今、掘削を始める」


『二十七分で来られますか』


 救助管制は。


 答えられなかった。


     ◇


 イサークは。


 救助坑入口へ立っていた。


「俺が行く」


 メイが腕をつかむ。


「またそれ?」


「位置が分かる」


「救助隊も分かってる」


「内部構造を知ってる」


「二次崩落が起きる」


「中にノアがいる」


「中には百人いる」


「だから」


「だから一人で増やすの?」


 メイは怒鳴った。


「死者を」


「責任者一人分増やして」


「何の責任を取ったことになるの!」


     ◇


 イサークは。


 動けなかった。


「あなたがやることは」


 メイが続ける。


「中へ飛び込むことじゃない」


「全部話すこと」


「何を」


「点検周期を延ばしたこと」


「警告を無視したこと」


「再開命令が出たこと」


「あなたが署名したこと」


 イサークは顔を伏せる。


「それを今?」


「今だから」


「救助の邪魔になる」


「事故原因を隠したまま救助して」


「また同じ場所が崩れたら?」


     ◇


 イサークは。


 救助管制の記録端末を開いた。


 緊急声明。


「私は」


「第九鉱区責任者、イサーク・ロメロです」


「六十四番支柱には」


「五日前から振動異常がありました」


「交換申請は」


「増産計画を理由に保留されました」


「本日」


「亀裂を確認しました」


「現場では停止を求めました」


「しかし」


「管理局から応急補修後の再開命令が出ました」


「最終的に」


 声が詰まる。


「私は再開を承認しました」


「この事故は」


「予測できなかった事故ではありません」


「止められた事故です」


     ◇


 声明は。


 数分で世界へ広がった。


 月面資源管理局は。


 即座に否定声明を準備した。


 だが。


 エレナが止めた。


「事実確認前に否定しないでください」


「管理局の信頼が失われます」


「すでに失われています」


「責任者個人の判断ミスの可能性も」


「記録を公開してください」


「内部文書です」


「公開してください」


「機密が」


「人が埋まっています」


     ◇


 管理局の通信記録。


 再開命令。


 安全基準改定。


 点検周期延長。


 予備支柱の転用。


 すべてが。


 公開された。


 事故は。


 一人のミスではなかった。


 複数の小さな判断。


 少しの省略。


 少しの延長。


 少しの我慢。


 それらが積み重なっていた。


 どの判断も。


 単独なら。


 即座に事故を起こすものではなかった。


 だが。


 全部が重なった。


     ◇


 B7区画。


 酸素残量。


 十五分。


 救助掘削機。


 到達予測。


 二十三分。


 間に合わない。


「酸素を送れないか」


「通気管が潰れています」


「細管を通せ」


「掘削より早い?」


「可能性はあります」


「直径二センチの管を」


「隙間へ通す」


「曲がりが多すぎる」


「AI誘導」


「管が途中で折れる」


「やるしかない」


     ◇


 月面研究所。


 アミナたちが。


 配管誘導計算へ参加する。


 崩落構造。


 岩盤密度。


 残存空洞。


 小型蛇行管。


 先端センサー。


「ここ」


 アミナが経路を示す。


「支柱六十三番の基部を通す」


「完全に潰れている」


「隣に冷却配管跡がある」


「地図では閉鎖」


「旧設計図を確認」


 古い資料。


 二十年前の鉱区拡張図。


 使用されなくなった保守用細管。


「残っている」


「そこへ通せば」


「B7の壁裏へ届く」


     ◇


 細管投入。


 残り酸素。


 九分。


 蛇行管が。


 瓦礫の隙間を進む。


 一メートル。


 三メートル。


 七メートル。


 途中で停止。


「先端圧力上昇」


「右へ二度」


「曲がらない」


「一度引く」


「時間がない」


「押せば破損する」


「引いて回転」


 残り。


 六分。


 管が再び進む。


 旧保守路。


 錆びた壁。


 折れた金属片。


「あと四メートル」


「B7側で音を確認」


『壁の裏で何か動いてる』


 ノアの声。


「そこから離れて」


『了解』


 先端ドリル。


 回転。


 薄い隔壁を穿孔。


 残り。


 二分。


「貫通!」


 圧縮酸素。


 送気開始。


 B7内部。


 酸素濃度上昇。


『来た』


『酸素が来た!』


 救助管制室に。


 声が上がる。


 泣く者もいた。


 だが。


 八人が助かっただけ。


 まだ。


 他の区画に。


 百人近くが残されている。


     ◇


 救助は。


 三十六時間続いた。


 生存救出。


 七十四名。


 負傷者。


 二百三十八名。


 死亡確認。


 二十九名。


 行方不明。


 八名。


 最終的に。


 三十七名が帰らなかった。


 世界は。


 その数字を見た。


 三十七。


 百四十億から見れば。


 極めて小さい。


 だが。


 家族にとっては。


 世界のすべてだった。


     ◇


 事故翌日。


 月面採掘作業員による。


 全鉱区ストライキが始まった。


 要求。


 緊急生産基準の撤廃。


 現場安全委員会への拒否権付与。


 点検周期の復元。


 事故情報の全面公開。


 労働時間上限。


 危険手当ではなく。


 危険そのものの削減。


「今止まれば」


 資源管理局が警告する。


「三計画すべてが遅れます」


 作業員組合は。


 短い声明を出した。



死者を増やして進む計画は、未来を救う計画ではない。



     ◇


 世界の反応は割れた。


今はストライキをしている場合ではない


命を守れない計画に協力できるか


三十七人で百四十億人を危険にさらすのか


三十七人を数字にするな


ノクスは待たない


だからこそ事故を繰り返す余裕はない


 再び。


 誰も完全には間違っていなかった。


     ◇


 国際連合地球圏評議会。


 緊急労働・安全会議。


 作業員代表。


 資源管理局。


 各計画責任者。


 遺族代表。


 エレナ。


 そして。


 イサーク。


「事故は私の責任です」


 彼は言った。


「違います」


 メイが即座に否定する。


「あなたにも責任はある」


「でも、あなただけではない」


 管理局代表が口を開く。


「増産圧力があったことは認めます」


「圧力?」


 遺族代表が言う。


「夫は、支柱の交換を申請していた」


「その記録もある」


「それを保留した」


「結果として」


「結果ではありません」


 遺族は机を叩く。


「決定です」


「あなたたちが」


「今は交換しなくていいと決めた」


     ◇


 エレナは。


 新しい提案を示した。


人命優先停止権


 現場技術者。


 作業員。


 保守担当者。


 誰であっても。


 重大な危険を認めた場合。


 単独で作業を停止できる。


 管理局は。


 停止解除を命令できない。


 独立安全委員会の承認が必要。


安全基準独立化


 生産委員会と。


 安全委員会を完全分離。


 工程遅延を理由とした基準変更を禁止。


労働時間上限


 緊急計画であっても。


 連続勤務。


 休息。


 交代。


 最低基準を維持。


事故情報即時公開


 重大事故。


 異常値。


 点検遅延。


 すべて公開。


「これでは」


 資源委員が言う。


「生産目標を達成できません」


「では」


 エレナが答える。


「生産目標を下げます」


「方舟が遅れる」


「遅らせます」


「LANCEも」


「遅らせます」


「地下都市も」


「遅らせます」


「七十年しかない」


「だから」


「事故で人と設備を失う時間はありません」


     ◇


 アミナが発言した。


「安全と速度は」


「必ずしも反対ではありません」


「今回」


「支柱交換に十八時間かかることを嫌い」


「採掘を再開しました」


「結果」


「鉱区全体が停止」


「復旧には最低一年」


「三十七人が亡くなった」


「十八時間を惜しんで」


「一年以上を失った」


 議場が静まる。


「安全は」


「遅れではありません」


「長く進み続けるための条件です」


     ◇


 作業員組合は。


 新制度の即時施行を条件に。


 ストライキ解除へ合意した。


 ただし。


 全鉱区の点検完了まで。


 生産量。


 従来の六十パーセント。


 PROJECT HORIZONの初期計画は。


 大幅な修正を迫られた。


 方舟第一号船。


 完成予測。


 十一か月遅延。


 プロメテウス。


 打ち上げ予測。


 八か月遅延。


 地下都市。


 初期収容能力。


 七パーセント減少。


 世界から。


 また批判が起きた。


 だが。


 エレナは。


 変更を撤回しなかった。


     ◇


 犠牲者の追悼式。


 月面。


 第九鉱区地上施設。


 低重力の広場。


 三十七個の灯り。


 一人につき。


 一つ。


 名前が読み上げられる。


 作業員。


 保守技術者。


 搬送員。


 救助隊員。


 そこには。


 ノアの名前もあった。


 B7へ酸素を送る前。


 遮断盤を止めた若い技術者。


 彼自身は。


 最初の崩落で重傷を負い。


 救出後。


 亡くなった。


     ◇


 イサークは。


 ノアの家族の前へ立った。


「申し訳ありません」


 父親が答える。


「その言葉を」


「何回言うつもりですか」


 イサークは。


 何も言えない。


「息子は」


「危険だと報告した」


「はい」


「あなたも知っていた」


「はい」


「でも再開した」


「はい」


「なぜ」


「遅れが怖かった」


 父親は。


 長い間。


 イサークを見ていた。


「あなたも」


「怖かったんでしょう」


「はい」


「人類が間に合わないことが」


「はい」


「息子も同じでした」


 父親の声が震える。


「だから働いていた」


「でも」


「死ぬためじゃない」


     ◇


 追悼式の最後。


 クワメ・オセイから。


 短い映像メッセージが届いた。


「僕の父も」


「未来のための仕事で亡くなりました」


「大人の人たちは」


「未来のためと言います」


「でも」


「未来にいるのは」


「今日を生きた人たちです」


「今日の人を壊したら」


「未来へ行く人がいなくなります」


 十二歳の少年の言葉。


 広場に。


 静かに響いた。


     ◇


 その夜。


 PROJECT HORIZONの基本原則へ。


 一文が追加された。


未来の生存は、現在の人命を消耗品として扱うことによって達成されてはならない。


 理想論。


 現場では守れない。


 そう批判する者もいた。


 だが。


 書かなければ。


 最初から存在しないのと同じだった。


     ◇


 月面造船所。


 作業再開。


 以前より遅い。


 点検時間は増えた。


 停止も増えた。


 作業員は。


 危険を感じれば。


 本当に機械を止めた。


 最初の一週間だけで。


 十七回。


 工程は遅れた。


 だが。


 事故は起きなかった。


     ◇


 アミナは。


 オデュッセウス・ドライブの試験計画を見直していた。


 連続燃焼目標。


 一時間。


 百時間。


 一万時間。


 それぞれの間に。


 新しい停止基準。


 人間が判断する前に。


 AIが自動停止。


 停止命令を。


 工程管理側が解除できない構造。


「また遅れます」


 ソフィアが言う。


「ええ」


「それでも?」


「五分の成功を」


「六分目の事故で失いたくない」


     ◇


 地球。


 各地の工場でも。


 HORIZON安全原則が導入される。


 その結果。


 当初の生産予測。


 二十年後、百六十四。


 修正。


 百四十七。


 未来に使える資源は減った。


 だが。


 事故率予測。


 六割減。


 熟練作業員の離職。


 半減。


 設備寿命。


 延長。


 長期的には。


 差が縮まる可能性も示された。


 速く走ることと。


 遠くまで進むことは。


 同じではなかった。


     ◇


 エレナは。


 第九鉱区の復旧現場を訪れた。


 崩落地点。


 折れた支柱。


 潰れた採掘機。


 壁面に。


 三十七人の名前。


 その前で。


 彼女は一人立っていた。


 レアが尋ねる。


「また計画を遅らせましたね」


「はい」


「批判されています」


「知っています」


「後悔は」


「あります」


「どちらに?」


「もっと早く止めなかったことに」


     ◇


 レアは。


 崩落跡を見る。


「ノクスは待たない」


「ええ」


「でも、人間も壊れる」


「ええ」


「間に合わなかったら?」


 エレナは。


 すぐには答えなかった。


「それでも」


「人を使い潰して間に合わせた未来を」


「私は成功とは呼びません」


     ◇


 深夜。


 オーロラは。


 新しい条件で。


 人類生存計画を再計算していた。


 安全基準。


 労働時間制限。


 点検義務。


 停止権。


 生産速度は低下。


 方舟完成数。


 減少。


 地下都市収容数。


 減少。


 プロメテウス打ち上げ。


 遅延。


 予測される生存者数。


 減少。


 だが。


 現在から七十年間に。


 産業事故で失われる命。


 大幅減少。


 画面には。


 二つの数字が並ぶ。


未来の推定生存者


現在から七十年間の推定犠牲者


 どちらを最大化し。


 どちらを最小化するのか。


 人間なら。


 片方だけを見ない。


 だが。


 計算機には。


 目的関数が必要だった。


 オーロラは。


 新しい問いを生成する。


現在の一人と


未来の一人は


同じ重みか


 回答。


 未定義。


     ◇


 七十年後の命。


 今日の命。


 どちらも。


 まだ数字ではなかった。


 誰かの親。


 誰かの子。


 誰かの友人。


 誰かの恋人。


 未来を急ぐことは。


 必要だった。


 だが。


 急ぐことと。


 踏みつけることは。


 同じではない。


 人類は。


 三十七人を失って。


 ようやく。


 その違いを学び始めていた。



第18話 終


次回予告


 月面崩落事故を受け。


 PROJECT HORIZONは、安全優先へ方針を転換した。


 計画は遅れる。


 方舟も。


 地下都市も。


 プロメテウスも。


 だが。


 事故で失われる命を、未来のための必要経費にはしない。


 その原則が掲げられる。


 一方。


 オーロラは、新しい矛盾へ直面していた。


 現在の一人と。


 七十年後の一人。


 どちらを優先するのか。


 未来の生存者数を最大化すれば。


 今を生きる人々へ、より大きな負担を強いることになる。


 現在の安全だけを優先すれば。


 七十年後に救える命が減る。


 そして。


 世界各地で。


 方舟搭乗候補者の予備選考が始まる。


 本人の希望。


 技能。


 健康。


 年齢。


 家族。


 遺伝的多様性。


 誰を乗せ。


 誰を残すのか。


 ついに。


 数字ではなく。


 人間の名前が選別表へ並び始める。


 次回、


第19話「選ばれる名前」


 人類は初めて、未来へ連れていく者を選び始める。

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