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NEURON STAR  作者: リンダ


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15/50

三百万年前の力

第15話 三百万年前の力


 原因のない運動は存在しない。


 速度が変わったのなら。


 何かが押した。


 方向が変わったのなら。


 何かが引いた。


 それが見えなくても。


 記録されていなくても。


 宇宙には、必ず理由が残されている。


 問題は。


 その痕跡を、人類が見つけられるかどうかだった。


     ◇


 2251年6月7日。


 ノクス公表から二日後。


 世界は、まだ混乱の中にあった。


 主要都市では、保存食や飲料水の買い占めが続いている。


 証券市場は、前日から取引時間を大幅に短縮。


 宇宙開発企業の株価は急騰し。


 観光、娯楽、不動産市場は急落した。


 各地の国連施設前には。


「方舟の選考を公開しろ」


「家族を分けるな」


「金で命を買わせるな」


 そう書かれた標識を掲げる人々が集まっている。


 その一方で。


 大学。


 研究機関。


 民間企業。


 個人研究者。


 世界中の計算資源が、ノクスの解析へ投入され始めていた。


 参加登録者数。


 八百六十万人。


 接続された演算装置。


 三億四千万基。


 人類史上最大の共同研究。


 名称。


NEURON STAR GLOBAL ANALYSIS


 通称。


NSGA


 その中央解析画面に。


 一つの異常が表示されていた。


     ◇


推定時刻 三百十二万年前


軌道偏向角 0.000041度


速度変化量 秒速0.72メートル


 宇宙の規模から見れば。


 ほとんど無視できる変化だった。


 人間が歩く速さにも満たない。


 だが。


 その変化が。


 三百万年以上積み重なった結果。


 ノクスは太陽系から遠く離れた軌道ではなく。


 太陽から〇・二天文単位を通過する軌道へ入っていた。


 もし、この変化がなければ。


 ノクスの最接近距離は。


 約四十三天文単位。


 海王星の外側。


 太陽系文明に、致命的な影響を与えることはなかった。


 わずか。


 秒速〇・七二メートル。


 それが。


 七十年後の終末を生み出していた。


     ◇


 ノーザン・ヨーロッパ宇宙科学大学院。


 エリオット・グレイは。


 共同解析室の中央で、軌道図を見つめていた。


 隣にはナディア・ラーマン。


 指導教授のマリア・ケスラー。


 そして、世界各地から接続された研究者たちの立体映像。


「計算誤差ではありません」


 エリオットが言った。


「公開された全観測データを使い、逆積分を十二回行いました」


「太陽系の運動誤差は?」


 フランスの軌道力学者が尋ねる。


「銀河中心に対する太陽の固有運動を三つのモデルで補正しました」


「周辺恒星の重力は」


「過去五百万年間に接近した既知恒星をすべて含めています」


「銀河潮汐は?」


「含めています」


「暗黒物質の密度分布」


「標準モデルと高密度モデルの両方を試しました」


「結果は?」


「同じです」


 エリオットは画面を切り替える。


 三百万年前。


 ノクスの軌道線が。


 ほんのわずかに折れている。


「何かが、この時点でノクスへ作用しています」


 マリアが言う。


「一瞬ではないわ」


「え?」


「速度変化の形を見て」


 拡大されたグラフ。


 ノクスは、ある一点で突然曲がったのではない。


 約十一年間にわたり。


 ゆっくりと速度と方向を変えていた。


「重力接近なら、もっと対称的な曲線になる」


 マリアは説明する。


「近づく時に加速され、遠ざかる時に減速される」


「でも、これは」


 ナディアが画面を見る。


「一方向へ押され続けている」


「そう」


「外から引かれたのではない?」


「ノクス自身から、何かが噴き出した可能性がある」


     ◇


 発言と同時に。


 複数の研究者が計算を始める。


「中性子星のジェット?」


「三億年以上前に形成された中性子星です」


「通常の若いパルサーほど活動的ではない」


「磁場崩壊は?」


「推定磁場強度では不足します」


「星震による質量放出」


「中性子星の重力圏から物質を放出するには、莫大なエネルギーが必要です」


「超巨大フレアなら?」


「十一年間も続かない」


「では、何が押した?」


 答えは出ない。


     ◇


 同じ頃。


 月面ルナ・アークヤード。


 レア・モーガンは、NSGAの公開解析を見ていた。


 隣には、恒星物理学者の天野理沙。


「秒速〇・七二メートル」


 レアが言う。


「そんな小さな変化で、太陽系へ来るんですね」


「時間が長いからです」


「三百万年」


「宇宙では、小さな違いが未来を大きく変えます」


「蝶の羽ばたきみたいなもの?」


「似ていますが」


 理沙は首を振った。


「今回は、羽ばたきではありません」


「では?」


「恒星質量の天体を十一年間押し続けた力です」


 秒速〇・七二メートル。


 数字だけを見れば小さい。


 だが。


 太陽の一・九倍もの質量を持つ中性子星を、その速度だけ変えるには。


 想像を超える運動量が必要になる。


「人工的な力という可能性は?」


 レアが尋ねる。


「現時点では排除できません」


「誰かがノクスを太陽系へ向けた?」


「証拠はありません」


「でも、世界ではそう言われ始めています」


 一般SNSには。


 すでに無数の投稿が流れていた。


ノクスは兵器だった


地球外文明による攻撃


三百万年前から狙われていた


政府は異星文明を隠している


 科学的検証より。


 恐怖の方が速かった。


     ◇


 国際連合地球圏評議会。


 エレナ・ヴァルガスは、緊急会見の準備資料を見ていた。


「異星文明説への質問が集中しています」


 報道官が言う。


「回答は」


「証拠はない、としてください」


「否定は?」


「できません」


「否定しなければ、さらに広がります」


「根拠なく否定すれば、また同じことになります」


 情報を隠した。


 観測記録を削除した。


 マリクの死を正しく伝えなかった。


 その代償として。


 政府の言葉は、以前より重く疑われるようになっていた。


「科学者の解析を待ちます」


「どれくらい」


「分かりません」


 エレナは窓の外を見る。


 広場では。


 数万人が集会を続けている。


「分からない時は」


 彼女は言った。


「分からないと伝えるしかありません」


     ◇


 NSGAでは。


 原因候補が次々に検証された。


第一仮説


未知の恒星による近接遭遇


 周辺領域の恒星運動を逆算。


 該当なし。


 暗い褐色矮星。


 自由浮遊惑星。


 恒星質量ブラックホール。


 質量と軌道変化の形が一致しない。


 棄却。


第二仮説


銀河系円盤の密度波


 作用時間が長すぎる。


 方向も一致しない。


 棄却。


第三仮説


暗黒物質の高密度塊


 必要密度が標準宇宙論から大きく逸脱。


 周辺天体への影響が観測されない。


 棄却。


第四仮説


未知の人工推進力


 物理的には説明可能。


 ただし。


 推進装置。


 排熱。


 人工信号。


 構造物。


 いずれの痕跡もない。


 保留。


第五仮説


中性子星自身の異方的放射


 必要エネルギーが大きすぎる。


 通常のパルサー放射では不足。


 保留。


     ◇


 解析開始から十九時間。


 最初の手がかりを見つけたのは。


 オーストラリア西部の研究チームだった。


「ノクスの過去軌道上に、ガンマ線残光の痕跡があります」


 共同回線へ報告が入る。


 エリオットが顔を上げる。


「三百万年前のガンマ線を?」


「直接観測したわけではありません」


「では、どうやって」


「星間物質です」


 画面に、銀河系内のガス分布が表示される。


 ノクスが三百万年前に通過したと推定される領域。


 その周囲に。


 直径約二百光年の空洞があった。


「星間ガスが薄い」


「超新星残骸では?」


「通常の残骸なら、重元素分布が異なります」


「何があるんです」


「電子・陽電子対生成の痕跡」


「ガンマ線照射?」


「それも、極端に一方向から」


 ナディアが身を乗り出す。


「ノクスの軌道変化方向と一致していますか」


「ほぼ正反対です」


 部屋が静まる。


 一方向へガンマ線が放射された。


 反作用で。


 ノクスは逆方向へ押された。


     ◇


「しかし、エネルギーが足りません」


 マリアが言う。


「通常の磁気フレアでは、数桁不足する」


「一回のフレアなら」


 オーストラリア側の研究者が答える。


「一回ではない可能性があります」


「連続した?」


「十一年間」


 軌道変化の継続時間と一致する。


 ノクスは。


 三百万年前。


 約十一年間にわたって。


 一方向へ極端な高エネルギー放射を続けていた。


 だが。


 なぜ。


 突然その活動が始まり。


 なぜ、十一年後に止まったのか。


     ◇


 次の手がかりは。


 日本の月面粒子宇宙物理研究所から届いた。


「ノクスの推定磁場軸と、自転軸を再計算しました」


 画面に。


 中性子星の模型が表示される。


 高速で回転する星。


 磁場軸。


 自転軸。


 通常。


 両者は完全には一致しない。


 そのため。


 磁極から放たれる電波や粒子線が宇宙を掃く。


 地球へ向けば、パルサーとして観測される。


「現在のノクスは、ほとんどパルスを出していません」


「だから孤立暗黒中性子星として発見が遅れた」


「はい」


「しかし三百万年前」


 研究者が模型を回転させる。


「磁場軸が急激に移動した可能性があります」


「何が原因で?」


「内部超流動体の大規模な角運動量移動です」


「巨大グリッチ?」


「通常のグリッチをはるかに上回ります」


 中性子星の内部には。


 超流動状態の中性子が存在すると考えられている。


 外側の固体地殻とは異なる速度で回転する。


 その回転差が限界を超えると。


 角運動量が一気に移動。


 星の自転速度が突然変化する。


 パルサー・グリッチ。


 だが。


 ノクスで起きたのは。


 それだけではなかった。


「地殻全体がずれた?」


「可能性があります」


「直径二十四キロの星で?」


「厚さ一キロメートル前後の地殻が、全球規模で破断した」


     ◇


 中性子星の地殻。


 宇宙で最も硬い物質の一つ。


 鉄より何十億倍も強いと推定される。


 その地殻が。


 内部圧力と磁場応力によって。


 限界を迎えた。


 全球的星震。


 マグニチュードでは表現できない。


 地球のあらゆる地震を合わせても届かないエネルギー。


「しかし」


 エリオットが言う。


「星震だけで、十一年間も放射は続かない」


「そうです」


「では、何が」


 研究者は、ノクス周辺の古い物質分布モデルを表示した。


「星震で磁場配置が変化しました」


「それによって」


「ノクス周囲に残っていた物質が、片側の磁極へ集中した可能性があります」


「残っていた物質?」


「超新星爆発時に形成された、極めて薄いフォールバック円盤です」


     ◇


 フォールバック円盤。


 超新星爆発で吹き飛ばされた物質の一部が。


 完全には脱出せず。


 中性子星の周囲へ戻って形成する円盤。


 通常。


 長い年月の中で失われる。


 だが。


 ノクスは、三億年前に連星系から弾き出された。


 異常な速度で移動しながら。


 微量の金属質物質を周囲に残していた可能性がある。


「三百万年前の星震で磁場が傾いた」


「円盤物質の流入が片方の磁極へ集中」


「はい」


「それによって?」


「極端に非対称な降着柱が形成されました」


 物質が中性子星へ落下する。


 強大な重力によって加速。


 磁力線に沿って。


 一方の磁極へ集中する。


 衝突。


 高温化。


 X線。


 ガンマ線。


 高エネルギー粒子。


 そして。


 片側だけに形成された、細い相対論的ジェット。


「ジェットの反作用」


 エリオットがつぶやく。


「ロケットと同じだ」


「そうです」


 ノクスは。


 自身の一方から物質と放射を噴き出し。


 反対方向へ、わずかに加速した。


     ◇


「必要な運動量と一致しますか」


 マリアが尋ねる。


「現時点の計算では」


 数値が表示される。


必要放射エネルギー


約2.4×10の40乗ジュール


 人類の年間エネルギー消費など。


 比較にもならない。


 太陽が数千万年かけて地球へ送る量に匹敵する。


「これを十一年間で?」


「中性子星への降着エネルギーなら、可能です」


「必要な円盤質量は」


「月の質量の約三パーセント」


「それだけの物質が残っていた?」


「あり得ない量ではありません」


「活動が止まった理由は」


「円盤物質を使い果たした」


 単純だった。


 ノクスは。


 残されていた最後の物質を。


 十一年間で燃やし尽くした。


 ジェットは消えた。


 星は再び暗くなった。


 そして。


 わずかに変えられた軌道を。


 三百万年間進み続けた。


     ◇


 共同解析室で。


 誰もすぐには話さなかった。


 人工的な推進装置ではない。


 地球外文明の兵器でもない。


 未知の知性が。


 太陽系へ狙いを定めたわけでもない。


 一つの中性子星内部で起きた。


 全球規模の星震。


 磁場の再配列。


 片側降着。


 相対論的ジェット。


 それらが偶然重なった。


「自然現象」


 ナディアが言う。


「これが?」


「そうです」


 マリアが答える。


「信じられないほど珍しい」


「でも、自然に起こり得る」


     ◇


 解析結果は。


 すぐには公表されなかった。


 世界が異星文明説に傾いている。


 不完全な結論を出せば。


 再び混乱を広げる。


 NSGAは。


 独立した五つのチームへ検証を依頼した。


 欧州。


 アジア。


 アフリカ。


 北米。


 月面。


 それぞれが。


 別の計算コード。


 別の仮定。


 別の観測資料で検証する。


 十時間後。


 第一チーム。


整合


 十二時間後。


 第二チーム。


整合


 十五時間後。


 第三チーム。


フォールバック円盤質量に不確定性あり。ただし機構は成立可能


 十七時間後。


 第四チーム。


ジェット反作用による軌道変化量と観測値が一致


 二十一時間後。


 第五チーム。


星震・磁場再配列・非対称降着モデルを最有力原因と判断


 原因は。


 ほぼ確定した。


     ◇


 世界標準時。


 午後七時。


 NSGA共同記者会見。


 主説明者は。


 エリオット・グレイ。


 最初にノクスの存在を、公開データから指摘した大学院生。


 彼の隣には。


 マリア。


 ナディア。


 各研究チームの代表者。


 国連のエレナも同席している。


 世界中の視聴者が。


 再び画面を見つめていた。


「三百万年前」


 エリオットが説明を始める。


「ノクスの進行方向が、わずかに変化しました」


 軌道図。


 もし変化がなければ。


 太陽系の外側を通過していた赤い線。


 変化後。


 太陽へ〇・二天文単位まで接近する線。


「これまで」


「未知の天体による重力干渉」


「暗黒物質」


「人工的な推進力」


「複数の可能性が検証されました」


「現在」


「最も観測結果と一致する原因が判明しました」


 中性子星内部の模型。


「ノクスの地殻で」


「三百万年前、全球規模の星震が発生しました」


「その結果、磁場配置が大きく変化」


「周囲に残っていた微量の物質が、一方の磁極へ集中して落下しました」


「それにより」


「約十一年間にわたる、片側方向の高エネルギージェットが形成されたと考えられます」


「その反作用が」


「ノクス自身を、秒速〇・七二メートルだけ押しました」


     ◇


 会見場の記者が尋ねる。


「つまり、何者かがノクスを太陽系へ向けたのではない?」


「その証拠はありません」


 エリオットが答える。


「地球外文明の攻撃では?」


「現時点の観測結果は、自然現象だけで説明できます」


「断定できますか」


「科学に絶対はありません」


「ですが」


 彼ははっきりと言った。


「人工的な介入を仮定する必要はありません」


「では」


 別の記者が聞く。


「人類は、偶然によって滅びるのですか」


 エリオットは答えに詰まった。


 科学的な質問ではない。


 だが。


 世界中の人々が聞きたいのは。


 そこだった。


「ノクスが太陽系へ接近する原因は」


 彼はゆっくり答える。


「複数の自然現象が重なった結果です」


「それを偶然と呼ぶなら」


「はい」


「偶然です」


     ◇


 その言葉は。


 異星文明説を否定する安心より。


 別の恐怖を世界へ与えた。


 誰かの悪意なら。


 止める相手がいる。


 交渉できるかもしれない。


 意図を読み。


 対抗策を考えられるかもしれない。


 だが。


 自然現象には。


 怒りを向ける相手がいない。


 謝罪を求める相手も。


 翻意を促す相手も。


 存在しない。


「そんなことで?」


 街頭中継で。


 一人の女性が泣きながら言った。


「星が少し震えただけで」


「私たちの子どもたちの世界がなくなるの?」


 答えられる者はいなかった。


     ◇


 アクラ。


 クワメは。


 母親と会見を見ていた。


「父さんは」


 少年が言う。


「偶然起きた事故を止めようとして死んだ」


「そうね」


「ノクスも、偶然こっちに来る」


「そうみたい」


「偶然って」


 クワメは画面を見る。


「怖いね」


 アデウォアは。


 息子の肩を抱いた。


「そうね」


「でも」


 少し考えてから続ける。


「私たちが何をするかは、偶然ではない」


     ◇


 月面。


 アミナ・ハダッドも会見を見ていた。


 ノクスを動かしたもの。


 相対論的ジェット。


 物質を一方向へ噴き出すことで。


 本体が反対方向へ進む。


 原理だけなら。


 オデュッセウス・ドライブと同じだった。


 一方は。


 偶然生まれた自然の推進。


 もう一方は。


 人類が意志をもって造る推進。


 ノクスを太陽系へ向けた力と。


 人類を太陽系から逃がす力。


 その両方が。


 作用と反作用という。


 同じ物理法則によって動いていた。


「皮肉ですね」


 ソフィアが言った。


「何が?」


「ノクスをこちらへ向けた仕組みを」


「私たちは脱出に使おうとしている」


 アミナは、建設中の方舟を見る。


「物理法則は」


「敵でも味方でもない」


「ただ存在するだけ」


     ◇


 その夜。


 ノクスの過去に関する詳細データが公開された。


 全球星震。


 フォールバック円盤。


 非対称降着。


 相対論的ジェット。


 世界中の学校では。


 翌日から、この現象を説明する特別授業が始まった。


 ある教室。


 教師が、風船を使った実験を見せる。


 膨らませた風船。


 口を放す。


 空気が一方向へ噴き出し。


 風船は反対方向へ飛ぶ。


「ノクスでも」


「これと同じようなことが起きました」


 一人の子どもが尋ねる。


「じゃあ、反対向きにもう一回噴き出せば」


「元に戻る?」


 教師は。


 すぐには答えなかった。


「理屈の上では」


 教室が静まる。


「ノクスへ反対方向の力を与えれば、軌道は変えられます」


「じゃあ、できる?」


「今の人類には」


 教師は言う。


「まだ、その方法がありません」


 まだ。


 その言葉を。


 一人の子どもは聞き逃さなかった。


     ◇


 同じ疑問は。


 世界中の研究者にも生まれていた。


 ノクスを動かした力が分かった。


 必要な運動量も。


 作用時間も。


 方向も。


 ならば。


 同じだけの力を。


 反対方向へ与えることができれば。


 最接近距離を変えられるのではないか。


 〇・二天文単位。


 それを。


 〇・三へ。


 一へ。


 十へ。


 わずかでも遠ざけられれば。


 太陽系への被害を減らせる。


 NSGAの新しい計算課題が立ち上がる。


PROJECT DEFLECT


ノクス軌道変更可能性調査


     ◇


 エリオットの研究室。


 会見を終えた彼は。


 新しい計算画面を開いていた。


「休まないの?」


 ナディアが尋ねる。


「眠れそうにない」


「原因は分かったよ」


「だから次へ進める」


「軌道変更?」


「うん」


 エリオットは。


 必要な速度変化量を計算する。


 最接近距離を。


 〇・二から一・〇天文単位へ変える場合。


 必要な横方向速度変化。


 ノクス到達まで、約七十年。


 早く力を加えるほど。


 小さな速度変化で済む。


 計算結果。


「……思ったより小さい」


「どれくらい?」


「数センチ毎秒」


「それなら可能?」


 エリオットは。


 ノクスの質量を入力する。


 太陽の一・九倍。


 必要な運動量。


 必要エネルギー。


 表示された数値を見て。


 表情が変わる。


「速度は小さい」


「でも」


「押す相手が重すぎる」


     ◇


 必要エネルギー。


 人類文明が、数百万年かけても生み出せない規模。


 しかも。


 ノクスは秒速千百二十キロメートルで接近している。


 そこへ到達するだけでも。


 現在の宇宙船では不可能。


「無理?」


 ナディアが尋ねる。


 エリオットは画面を見つめる。


「今の方法では」


「また、その言い方」


「何?」


「今は無理」


 ナディアは少し笑った。


「でも、まだ七十年ある」


 七十年。


 終末までの時間。


 同時に。


 人類へ残された研究時間。


     ◇


 国際連合地球圏評議会。


 エレナの端末へ。


 NSGAから新しい提案書が届く。


方舟計画と並行し、ノクス軌道変更研究を正式に開始することを提案する


 成功確率。


 現時点。


 〇・〇〇〇〇一パーセント未満。


 ほぼゼロ。


 だが。


 完全なゼロではない。


 エレナは提案書を最後まで読み。


 承認欄へ指を置いた。


「人類は」


 誰に聞かせるでもなく言う。


「本当に、ゼロが嫌いですね」


 承認。


 方舟による脱出。


 太陽系内での生存。


 そして。


 ノクスそのものの軌道変更。


 人類は。


 三つ目の道へ手を伸ばした。


     ◇


 深夜。


 月面から。


 巨大な観測レーザーがノクスの方向へ向けられる。


 届くまで。


 何年もかかる。


 返事はない。


 信号を送る相手でもない。


 それでも。


 人類は暗黒の星を測り続ける。


 質量。


 自転。


 磁場。


 地殻。


 残存円盤。


 わずかな放射。


 軌道変更の可能性を探すため。


 これまで。


 ノクスは終末そのものだった。


 逃げるしかない存在だった。


 だが。


 その夜から。


 人類は初めて。


 ノクスを動かす対象として見始めた。


 中性子星を太陽系へ向けたものは。


 神でも。


 異星文明でも。


 悪意でもなかった。


 一度の星震。


 一方向へ噴き出した光と粒子。


 そして。


 三百万年という時間。


 ならば。


 人類にも。


 同じ宇宙の法則を使う権利がある。


 終末を運んできた物理法則で。


 終末を押し返すために。


第15話 終

次回予告


 ノクスの軌道を変えた原因は判明した。


 全球規模の星震。


 磁場の再配列。


 片側へ集中した物質降着。


 そして、十一年間続いた相対論的ジェット。


 それは、誰かの意図ではなかった。


 宇宙で偶然重なった、自然現象。


 だが。


 原因が分かったことで。


 新しい可能性が生まれる。


 ノクスが一度動いたのなら。


 もう一度、動かすことはできないのか。


 核融合爆弾。


 反物質推進体。


 超高出力レーザー。


 質量投射。


 重力トラクター。


 考え得るすべての方法が検討される。


 しかし。


 太陽の一・九倍の質量を持ち。


 秒速千百二十キロメートルで接近する中性子星。


 その軌道を変えるには。


 人類が扱ったことのない規模のエネルギーが必要だった。


 そして。


 最初の試算が示す。


 ノクスを地球から遠ざけるためには。


 方舟計画をはるかに上回る資源が必要になる。


 逃げるのか。


 押し返すのか。


 限られた資源を。


 人類は、どちらへ使うのか。


 次回、


第16話「押し返す力」


 希望は、また新しい選択を突きつける。

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