七十年後の太陽系
第11話 七十年後の太陽系
未来は、まだ起きていない。
だから、人は未来に希望を持つことができる。
明日は変えられる。
選択によって、違う結果へ進める。
失敗を修正し、危険を避け、新しい道を選ぶことができる。
だが。
宇宙の運動は、人間の願いを聞かない。
質量。
速度。
距離。
重力。
それらによって導き出される未来は、祈りだけでは変わらなかった。
◇
2251年6月2日。
オリオン深宇宙観測所。
孤立中性子星ノクスの軌道解析は、発見から約一年を経て、最終段階へ入っていた。
新たに得られた重力レンズ観測。
弱いX線放射。
背景恒星に対する固有運動。
複数地点から測定された視差。
それらを統合した結果、ノクスの位置と速度は、以前よりはるかに高い精度で求められていた。
推定質量。
太陽の一・九倍。
直径。
約二十四キロメートル。
移動速度。
秒速約千百二十キロメートル。
太陽への最接近距離。
〇・一九八天文単位。
到達まで。
六十九年十一か月。
誤差は、もはや数年単位ではない。
数週間。
最接近距離の誤差も、〇・〇一天文単位未満へ縮小していた。
暗黒から飛来する死んだ星は、確実に太陽系へ向かっていた。
◇
「全惑星系統合シミュレーションを開始します」
管制AIの声が響く。
天野理沙は中央スクリーンの前に立っていた。
その周囲には、各分野の研究者が集まっている。
恒星物理学者。
惑星科学者。
軌道力学者。
地球物理学者。
太陽活動研究者。
小天体専門家。
そして国際連合地球圏評議会の代表者たち。
レア・モーガンも、記録者として部屋の後方に座っていた。
彼女の端末には、最高機密記録への一時閲覧権限が与えられている。
公表はできない。
だが、見ることは許された。
「今回の計算には、太陽と八惑星だけではなく」
理沙が説明する。
「主要衛星、準惑星、小惑星帯、カイパーベルト、オールト雲の推定質量分布を含めています」
スクリーンに、現在の太陽系が表示された。
中央の太陽。
水星。
金星。
地球。
火星。
小惑星帯。
木星。
土星。
天王星。
海王星。
さらにその外側。
カイパーベルト。
はるか遠くまで球状に広がるオールト雲。
「ノクスが最接近する数十年前から、接近後一万年間までを追跡します」
政府代表の一人が尋ねた。
「一万年も必要なのですか」
「惑星軌道の変化は、最接近時だけでは終わりません」
理沙は答えた。
「わずかなずれが、数百年後、数千年後に巨大な違いとなります」
「人類が生きているかも分からない未来まで?」
「太陽系へ残る可能性を評価するためです」
残る。
その言葉に、会議室の空気がわずかに揺れた。
方舟に乗れない人々。
地球へ残る人々。
火星地下都市へ逃れる人々。
木星や土星の衛星へ避難する構想。
それらが本当に可能なのか。
今日、その答えが出る。
◇
「シミュレーション時間を進行します」
太陽系の映像が動き始める。
現在。
十年後。
二十年後。
ノクスはまだ太陽系から遠い。
惑星の軌道に、目立った変化はない。
三十年後。
外太陽系の観測装置が、ノクスの重力をより強く検出し始める。
四十年後。
オールト雲の一部に、軌道変化が現れる。
「最初に影響を受けるのは、オールト雲です」
小天体研究主任が言った。
「太陽から数千から数万天文単位に分布する氷天体群。太陽の重力へ緩く結び付いているため、外部からの重力に弱い」
映像の外縁部で、無数の光点が動き始めた。
それまで静かに太陽を回っていた氷と岩の塊。
その一部が太陽系外へ弾き出される。
別の一部は、内側へ落下する軌道へ変わる。
「内太陽系へ到達するまでには時間があります」
「どのくらい」
「早いものは数十年。多くは数百年から数万年です」
「では、ノクスが通過した後も」
「彗星の雨は続きます」
ノクスが去った後も、太陽系は元には戻らない。
重力によって投げ込まれた無数の天体が、長い時間をかけて内側へ降り続ける。
◇
五十年後。
ノクスの影響がカイパーベルトへ達する。
冥王星。
エリス。
マケマケ。
ハウメア。
さらに数え切れない氷天体。
その軌道が、少しずつ歪み始める。
「海王星との軌道共鳴が崩れます」
「どの程度」
「複数の天体が海王星接近軌道へ移ります」
画面上で、一部の天体が内側へ向きを変える。
「衝突するのですか」
「確率は低い。しかし数が多い」
「一つ一つの確率が低くても」
「全体としては無視できません」
直径数キロ。
数十キロ。
中には百キロを超える天体もある。
その一つが惑星や衛星へ衝突すれば、局地的な災害では済まない。
◇
六十年後。
ノクスは、ついに外惑星の軌道へ重力的影響を及ぼし始めた。
「海王星軌道、変位を確認」
「どの程度」
「最接近前の段階で、平均軌道半径に数十万キロの変化」
太陽系の大きさから見れば、小さい。
だが、惑星の運動としては無視できない。
「天王星も変化」
「土星、木星にも摂動が伝わります」
レアは、表示された軌道線を見た。
惑星は、きれいな円を描いているわけではない。
互いの重力に引かれながら、複雑な楕円軌道を進んでいる。
そこへ、太陽より重い天体が高速で接近する。
ノクスは太陽系へ衝突するわけではない。
だが、通過するだけで。
巨大な重力の手が、すべての惑星を一度に引っ張る。
◇
「最接近まで十年」
オーロラが告げた。
映像内の年代は、2321年。
地球では、空の様子がすでに変化していた。
通常より多くの彗星。
増加する流星群。
太陽系外縁から飛来する小天体。
迎撃網が休むことなく稼働している。
地球、月、火星、小惑星都市。
あらゆる居住地が、防衛システムを増強していた。
「この時点で、小天体衝突危険度は現在の何倍ですか」
レアが尋ねる。
「直径一キロメートル以上の天体について、約二百八十倍」
「文明を破壊できる大きさでは」
「直径十キロメートル以上の接近確率も、大幅に上昇します」
「迎撃は」
「一部は可能です」
「全部は?」
「不可能です」
数が多すぎる。
しかも複数方向から来る。
軌道が早期に分かる天体だけではない。
太陽方向から接近し、観測が遅れるもの。
天体同士の衝突で突然軌道を変えるもの。
破壊した結果、複数の破片となって降り注ぐもの。
防げる災害と、防げない災害。
その境界が崩れ始める。
◇
「最接近まで一年」
ノクスは、肉眼では見えない。
だが、夜空の背景星を次々と歪ませていた。
重力レンズによって、星が明るくなる。
二つに分かれる。
光の輪を作る。
人類の目には暗黒でも、宇宙はその存在を隠せない。
「太陽の重心運動に変化」
「惑星軌道補正を更新」
「内惑星への潮汐効果、急上昇」
水星の軌道が、最初に大きく乱れ始めた。
太陽に最も近く、軌道速度も速い。
ノクスがどの方向から通過するかによって、水星は加速されるか、減速される。
今回の最有力軌道では。
「水星、近日点距離減少」
「太陽へ落下するのか」
「直ちには。しかし軌道離心率が大きく上昇します」
円に近かった軌道が、細長い楕円へ変わる。
太陽へ極端に近づく時期。
遠く離れる時期。
表面温度の変動は、これまで以上に激しくなる。
水星に恒久居住地が残っていたなら、維持は不可能だった。
◇
「最接近まで百日」
太陽観測データが異常を示し始める。
「太陽内部の振動モードに変化」
「ノクスの潮汐力によるものです」
太陽は気体とプラズマでできた巨大な球体。
固い表面はない。
内部では核融合によって生じたエネルギーが、数十万年以上かけて外側へ運ばれている。
ノクスの重力は、太陽全体へわずかな歪みを与える。
「太陽表面の潮汐隆起を確認」
太陽の一部が、ノクスの方向へ引かれる。
反対側にも隆起が生まれる。
地球の海に起きる潮汐とは比べものにならない。
太陽内部のプラズマ流。
対流。
磁場。
それらが乱される。
「黒点群、異常成長」
「磁場再結合の頻度上昇」
「大規模フレア発生率、通常最大期の十二倍」
太陽は外層を完全に剥ぎ取られるわけではない。
しかし、穏やかな恒星ではいられなくなる。
磁場活動が極端に乱れ。
巨大なコロナ質量放出が、何度も宇宙空間へ噴き出す。
「太陽風圧、地球軌道で平常時の四十倍」
「最大事例では?」
「数百倍」
惑星の磁場が押し潰される。
人工衛星が破壊される。
通信網。
発電網。
軌道都市。
宇宙エレベーター。
あらゆる宇宙インフラが、太陽嵐にさらされる。
◇
「最接近まで十日」
ノクスは太陽系中心部へ突入する。
速度はあまりにも速い。
惑星へ直接衝突する可能性は低い。
だが、その重力は一瞬ごとに強まっていた。
「金星軌道、変位」
「火星、変位」
「地球と月の共通重心に異常加速度」
地球は太陽を回っている。
月は地球を回っている。
その二重の軌道が、外から引き裂かれるように変化し始める。
「月軌道離心率、上昇」
「潮汐力、現在の二・三倍」
「まだ最接近前です」
地球の海が大きく持ち上がる。
通常の満潮ではない。
海盆全体が揺さぶられる。
沿岸部では巨大な潮位変動。
海流の崩壊。
地球内部にも潮汐応力が加わり、断層活動が活発になる。
「世界規模で地震活動増加」
「火山噴火確率、上昇」
「地殻そのものが剥がれるのですか」
レアが尋ねた。
地球物理学者は首を振った。
「地球全体の地殻が一度に剥ぎ取られるほどではありません」
「では、形は保てる」
「惑星としては」
その言葉に、希望はなかった。
「しかし、人類文明を維持できる環境が残るとは限りません」
地殻は残る。
地球も砕けない。
だが、海岸線は変わる。
巨大地震が続く。
超巨大噴火が誘発される可能性がある。
太陽嵐で大気上層が加熱され、少しずつ失われる。
さらに軌道そのものが変われば。
地球は、今までと同じ量の太陽光を受けられない。
◇
「最接近」
オーロラの声。
ノクスが、太陽から〇・一九八天文単位を通過する。
太陽と水星軌道の間に近い距離。
太陽より重い中性子星が、高速で横切る。
スクリーン上で、太陽系全体の軌道線が震えた。
「太陽重心速度、急変」
「内惑星軌道要素を再計算」
「木星軌道変位」
太陽系最大の惑星、木星。
その質量は他の惑星をすべて合わせたものより大きい。
だが、太陽やノクスと比べれば小さい。
木星の巨大さも、恒星質量天体の前では盾にならなかった。
「木星の公転軌道半径、変化」
「離心率、現在値の約五倍」
「衛星系への影響は」
「外側の不規則衛星の一部が離脱」
「ガリレオ衛星は」
「直ちに失われません」
イオ。
エウロパ。
ガニメデ。
カリスト。
主要衛星は木星の強い重力に結び付いている。
だが、木星そのものの軌道が変われば。
衛星系が受ける太陽光。
木星磁気圏。
潮汐加熱。
すべてが少しずつ変化する。
「エウロパ地下海都市への長期影響」
「安定居住を保証できません」
「木星圏へ避難する案は」
「恒久策にはなりません」
◇
土星。
天王星。
海王星。
外惑星も、無傷では済まない。
土星の軌道離心率が上昇。
環の粒子分布に乱れ。
外側衛星の一部が不安定化。
天王星と海王星では、ノクスの直接的な影響に加えて、木星と土星の軌道変化による二次的な摂動が広がる。
「惑星同士の共鳴関係が崩れます」
軌道力学者が説明する。
「最接近直後には衝突しなくても、数百年から数千年後に接近する可能性があります」
「どの惑星が?」
「複数の組み合わせがあります」
木星と土星。
天王星と海王星。
火星と地球。
水星と金星。
計算条件をわずかに変えるだけで、結果は異なる。
惑星が太陽へ落下する場合。
太陽系外へ弾き出される場合。
惑星同士が衝突する場合。
衝突しなくても、近接通過によってさらに軌道を乱される場合。
「太陽系は崩壊するのですか」
政府代表が尋ねる。
「惑星がすべて失われるという意味ではありません」
「では」
「現在の秩序が失われます」
太陽を中心に、ほぼ安定した軌道を保つ八つの惑星。
何十億年も続いてきた配置。
それが、ノクスの一度の通過によって組み替えられる。
◇
地球の予測結果が表示された。
最接近直後。
地球の軌道は、現在より外側へずれる。
だが、それだけではなかった。
軌道の楕円率が大きく増している。
「近日点では、現在より太陽へ近づきます」
「遠日点では」
「火星軌道付近まで離れる可能性があります」
季節という言葉では表現できない。
太陽へ近づく時期。
地表温度は上昇。
氷床が融解。
海洋蒸発が進む。
太陽活動が激しい時期と重なれば、大気上層の損失が加速する。
太陽から遠ざかる時期。
地表は急激に冷える。
海面が凍る。
気候帯が崩壊する。
農業は成立しない。
生態系は、変化の速さについていけない。
「地下都市なら」
レアが尋ねた。
「一時的には生存可能です」
「一時的」
「数十年から数百年」
「その後は」
「資源と設備次第です」
「地球そのものは残るんでしょう」
「残ります」
地球物理学者は、映像の中の青い惑星を見た。
「しかし、私たちの知る地球ではありません」
◇
月にも深刻な変化が予測された。
「月軌道は維持されますか」
「最有力モデルでは、地球の衛星として残ります」
会議室に、わずかな安堵が生まれる。
だが。
「ただし、軌道半径が変化します」
「どの程度」
「最接近後、現在より約二十パーセント近づく可能性」
近づいた月は、地球へさらに強い潮汐力を与える。
海。
地殻。
自転。
すべてへ影響する。
「別モデルでは、月は地球重力圏を離脱します」
「確率は」
「約一四パーセント」
「月の造船所は」
「最接近前に放棄する必要があります」
方舟を造っている月。
人類の脱出拠点。
そこも安全ではない。
出航が遅れれば、完成した方舟ごと軌道を乱される。
◇
火星。
軌道は外側へ移動。
太陽光は減少。
地表温度はさらに低下する。
「火星地下都市なら長期生存できるのでは」
火星代表が尋ねた。
「太陽嵐への防護は可能です」
「では残留拠点として」
「軌道の長期安定性に問題があります」
火星と小惑星帯の関係が変わる。
木星の軌道も乱される。
結果として、小惑星帯の天体が各方向へ散乱される。
「火星への衝突率は」
「最接近後百年間で、現在の数千倍に上昇する可能性」
「迎撃システムで」
「すべては防げません」
巨大な地下都市が、直接衝突を耐えられるとは限らない。
たとえ都市が残っても。
地上設備。
太陽光発電。
通信施設。
水採掘設備。
それらが繰り返し破壊されれば、地下だけでは生きられない。
◇
「最接近から百年後」
映像が進む。
ノクスはすでに太陽系から遠ざかっている。
だが、太陽系は静まらない。
太陽は徐々に通常活動へ戻ろうとしている。
核融合反応そのものが暴走するわけではない。
太陽が急激に寿命を縮めるほどの変化もない。
しかし磁場活動は長期間不安定。
惑星軌道は、元の位置へ戻らない。
彗星と小惑星の雨が続く。
地球では。
大気の一部が失われ。
海洋循環は崩壊。
気温変動は極端。
地表生態系の大半が消失していた。
「人類生存圏は」
「地下居住施設、海底施設、一部の極地都市」
「人口は」
「推定不能です」
「最良の場合」
「数千万人」
「最悪の場合」
「ゼロ」
方舟へ乗れない人々にも、生存の可能性はある。
完全なゼロではない。
だが。
未来を保証できる場所は、太陽系内には存在しなかった。
◇
「最接近から千年後」
地球は、まだ太陽を回っている。
ただし、現在とは異なる軌道。
月が残る場合。
離脱する場合。
衝突する場合。
複数の未来が枝分かれする。
火星も残る。
木星も。
土星も。
惑星としての形は維持される。
だが、配置は変わる。
一部の小惑星や準惑星は、太陽系外へ放出される。
一部は内側へ落下。
水星が太陽へ吸収されるモデルもある。
火星が地球へ接近するモデルもある。
木星が小天体を吸収しながら、軌道をさらに変化させるモデルもある。
「これは、もう太陽系ではない」
レアがつぶやいた。
理沙が答える。
「太陽系です」
「でも」
「私たちが知っている形ではないだけです」
宇宙にとって、惑星軌道の再編成は珍しい現象ではない。
恒星が接近する。
連星が崩壊する。
惑星が弾き出される。
小天体が衝突する。
宇宙は何度も、そうして形を変えてきた。
人類にとって終末でも。
宇宙にとっては、ただの重力相互作用だった。
◇
「最接近から一万年後」
最終映像。
惑星の多くは残っている。
だが、軌道は今とは違う。
水星が失われたモデル。
金星と地球が太陽へ近い軌道で不安定に回るモデル。
地球が太陽系外縁へ投げ出され、凍結した放浪惑星となるモデル。
火星が現在の地球軌道付近へ入るモデル。
木星が外側へ移動し、土星との共鳴を失うモデル。
天王星または海王星が太陽系外へ弾き出されるモデル。
無数の可能性。
どれにも共通するものがある。
現在の文明が、そのまま残る未来は存在しない。
◇
「結果をまとめます」
オーロラが告げる。
スクリーンに、最終評価が表示された。
地球地表文明維持可能性
〇・〇〇パーセント。
火星恒久居住圏維持可能性
〇・〇三パーセント。
木星・土星衛星系への恒久避難成功率
〇・一一パーセント。
太陽系全体における長期文明維持可能性
〇・〇二パーセント。
絶対に不可能とは書かれていない。
宇宙の予測に、完全なゼロは少ない。
だが、人類の未来を託せる数字ではなかった。
「方舟が失敗した場合は」
エレナが尋ねる。
「太陽系内に分散した地下都市および宇宙居住区によって、一部人口が生存する可能性があります」
「文明を再建できる?」
「保証できません」
「種としての人類は」
「数世代存続する可能性があります」
「数世代」
それは、生存ではあっても未来ではない。
◇
会議室に、長い沈黙が落ちた。
誰も計算を否定できなかった。
モデルには誤差がある。
すべての小天体を追跡しているわけではない。
太陽活動の予測も完全ではない。
惑星軌道はカオス的で、わずかな条件差によって結果が変わる。
それでも。
どの条件を入力しても。
どの最良モデルを選んでも。
現在の太陽系文明が無傷で残る結果は、一つもなかった。
「残るという選択肢は」
レアが言った。
声がわずかに震えていた。
「本当は存在しないんですね」
理沙は答えなかった。
代わりにエレナが言った。
「存在します」
レアが振り返る。
「残ることはできます」
「でも、生き残れない」
「可能性はあります」
「〇・〇二パーセント」
「それでも、ゼロではありません」
「方舟へ乗れない百三十九億人に、その数字を伝えるんですか」
エレナは黙った。
「希望だと言うんですか」
「希望ではありません」
「では」
「残される人々のために、私たちができることです」
地下都市。
食料保存庫。
遺伝子保存施設。
惑星防衛網。
小天体迎撃装置。
耐放射線施設。
何千年も維持できる知識保管庫。
方舟へ乗れない人々を、ただ見捨てるわけではない。
生き残れる確率を、〇・〇二から少しでも上げる。
「一人でも多く生き延びられるようにする」
エレナが言った。
「方舟へ乗れないからといって、その人の命が軽くなるわけではありません」
「でも、資源は方舟へ優先される」
「はい」
「残る人には、残り物」
「違います」
「何が違うんです」
「方舟も、地球防衛も、同じ計画です」
エレナの声が強くなる。
「人類を一つの方法だけで救おうとはしていません」
「でも結果は」
「足りない」
エレナは言った。
「何をしても、足りないのです」
船も。
資源も。
時間も。
座席も。
地下都市も。
迎撃装置も。
すべてが足りない。
だから優先順位を決めなければならない。
その決定のたびに、誰かが救われ。
誰かが後回しにされる。
◇
会議後。
レアは一人、観測所の展望区画へ向かった。
窓の向こうには地球が見える。
青い海。
白い雲。
茶色と緑の大陸。
今は何も変わっていない。
嵐があり。
地震があり。
争いがある。
それでも、生命があふれている。
七十年後。
その海が、巨大な潮汐に揺さぶられる。
大気が太陽嵐にさらされる。
軌道が変わり。
季節が壊れ。
世界は別の惑星へ変わっていく。
「地球は残る」
理沙の声が背後から聞こえた。
レアは振り返らなかった。
「でも、人間の地球は終わる」
「はい」
「あなたは最初から知っていた?」
「ここまで詳細には」
「方舟が唯一の方法だと思う?」
「唯一ではありません」
「でも、一番可能性が高い」
「はい」
「一千万人」
「現時点では」
「残りの百三十九億九千万人は」
理沙は、地球を見た。
「ここで生きます」
「最後まで?」
「最後まで」
その言葉は、残酷で。
同時に、どこか人間らしかった。
救われないと分かっても。
人は今日を生きる。
家族と食事をする。
仕事へ行く。
子どもを育てる。
音楽を聴く。
恋をする。
笑う。
未来が短いからといって。
その一日一日の価値まで失われるわけではない。
◇
「レア」
理沙が言った。
「あなたは、この結果を公表しますか」
レアは答えなかった。
端末には、すべての記録が残っている。
惑星軌道。
太陽活動。
地球の未来。
文明存続確率。
世界が知れば。
社会は変わる。
政府は崩れるかもしれない。
方舟計画も止まるかもしれない。
だが。
知らないまま残されることは、正しいのか。
「二週間の猶予は、あと何日ですか」
理沙が尋ねた。
「九日」
「決められそうですか」
「分からない」
レアは正直に答えた。
「でも、もう一つだけ分かった」
「何ですか」
「この秘密は、永遠には守れない」
地球の外には、無数の観測者がいる。
ノクスは近づいている。
重力レンズ現象は増える。
彗星の軌道変化も、やがて誰の目にも見える。
「いつか世界は空を見て、自分で気づく」
「はい」
「その前に伝えるのか」
レアは地球を見た。
「空に教えられるまで、嘘をつき続けるのか」
◇
その頃。
オデュッセウス推進研究所では、零号機の再設計が進んでいた。
月面造船所では、方舟の骨格が一本ずつ組み上げられていた。
火星のガイア・ドームでは、土の中の微生物が作物の根を支えていた。
ヘファイストスでは、無人掘削機が四方向から金属を切り出していた。
誰も止まっていない。
七十年後の未来がどれほど絶望的でも。
計算結果がどれほど冷たくても。
人類は、手を動かし続けていた。
◇
最後に。
オーロラは、誰にも命じられていない計算を実行していた。
太陽系残留。
地下都市。
小天体迎撃網。
大気保護。
人工磁場。
軌道修正。
木星圏移住。
火星地下文明。
すべての技術を、最大限に成功させた場合。
人類が太陽系内で一万年以上文明を維持できる確率。
計算結果。
〇・一八パーセント。
わずかに上がった。
それでも、一パーセントには遠い。
オーロラは結果を保存した。
そして、計算条件を変えた。
もう一度。
さらにもう一度。
AIは諦めない。
希望を感じるからではない。
与えられた目的が、人類の生存だからだ。
膨大な計算の中で。
ほとんどすべての未来が、暗闇へ消えていく。
その中から。
ほんのわずかでも、人類が残る軌道を探していた。
第11話 終
次回予告
ノクスの通過によって、太陽系は現在の姿を失う。
地球は残る。
火星も、木星も、土星も。
だが、人類文明が生きられる世界は残らない。
方舟計画は、もはや遠い未来のための研究ではなかった。
人類が未来を持つための、最も可能性の高い道。
しかし。
その方舟を動かすオデュッセウス・ドライブは、一人の技術者を失ったまま停止している。
再設計された零号機。
二重化された燃料供給。
独立分離式の磁場コイル。
そして、暴走時に人間を近づけない新たな緊急投棄機構。
再点火の日が近づく。
今度こそ、炉を安定させなければならない。
失敗すれば、推進計画は数年遅れる。
だが、成功しても。
方舟を光速の一パーセントまで加速するには、数十年にわたって火を絶やさず燃やし続けなければならない。
次回、
第12話「二度目の点火」
亡くなった技術者の名を刻み、人類はもう一度、最初の火へ手を伸ばす。




