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NEURON STAR  作者: リンダ


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11/50

七十年後の太陽系

 第11話 七十年後の太陽系


 未来は、まだ起きていない。


 だから、人は未来に希望を持つことができる。


 明日は変えられる。


 選択によって、違う結果へ進める。


 失敗を修正し、危険を避け、新しい道を選ぶことができる。


 だが。


 宇宙の運動は、人間の願いを聞かない。


 質量。


 速度。


 距離。


 重力。


 それらによって導き出される未来は、祈りだけでは変わらなかった。


 ◇


 2251年6月2日。


 オリオン深宇宙観測所。


 孤立中性子星ノクスの軌道解析は、発見から約一年を経て、最終段階へ入っていた。


 新たに得られた重力レンズ観測。


 弱いX線放射。


 背景恒星に対する固有運動。


 複数地点から測定された視差。


 それらを統合した結果、ノクスの位置と速度は、以前よりはるかに高い精度で求められていた。


 推定質量。


 太陽の一・九倍。


 直径。


 約二十四キロメートル。


 移動速度。


 秒速約千百二十キロメートル。


 太陽への最接近距離。


 〇・一九八天文単位。


 到達まで。


 六十九年十一か月。


 誤差は、もはや数年単位ではない。


 数週間。


 最接近距離の誤差も、〇・〇一天文単位未満へ縮小していた。


 暗黒から飛来する死んだ星は、確実に太陽系へ向かっていた。


 ◇


「全惑星系統合シミュレーションを開始します」


 管制AIオーロラの声が響く。


 天野理沙は中央スクリーンの前に立っていた。


 その周囲には、各分野の研究者が集まっている。


 恒星物理学者。


 惑星科学者。


 軌道力学者。


 地球物理学者。


 太陽活動研究者。


 小天体専門家。


 そして国際連合地球圏評議会の代表者たち。


 レア・モーガンも、記録者として部屋の後方に座っていた。


 彼女の端末には、最高機密記録への一時閲覧権限が与えられている。


 公表はできない。


 だが、見ることは許された。


「今回の計算には、太陽と八惑星だけではなく」


 理沙が説明する。


「主要衛星、準惑星、小惑星帯、カイパーベルト、オールト雲の推定質量分布を含めています」


 スクリーンに、現在の太陽系が表示された。


 中央の太陽。


 水星。


 金星。


 地球。


 火星。


 小惑星帯。


 木星。


 土星。


 天王星。


 海王星。


 さらにその外側。


 カイパーベルト。


 はるか遠くまで球状に広がるオールト雲。


「ノクスが最接近する数十年前から、接近後一万年間までを追跡します」


 政府代表の一人が尋ねた。


「一万年も必要なのですか」


「惑星軌道の変化は、最接近時だけでは終わりません」


 理沙は答えた。


「わずかなずれが、数百年後、数千年後に巨大な違いとなります」


「人類が生きているかも分からない未来まで?」


「太陽系へ残る可能性を評価するためです」


 残る。


 その言葉に、会議室の空気がわずかに揺れた。


 方舟に乗れない人々。


 地球へ残る人々。


 火星地下都市へ逃れる人々。


 木星や土星の衛星へ避難する構想。


 それらが本当に可能なのか。


 今日、その答えが出る。


 ◇


「シミュレーション時間を進行します」


 太陽系の映像が動き始める。


 現在。


 十年後。


 二十年後。


 ノクスはまだ太陽系から遠い。


 惑星の軌道に、目立った変化はない。


 三十年後。


 外太陽系の観測装置が、ノクスの重力をより強く検出し始める。


 四十年後。


 オールト雲の一部に、軌道変化が現れる。


「最初に影響を受けるのは、オールト雲です」


 小天体研究主任が言った。


「太陽から数千から数万天文単位に分布する氷天体群。太陽の重力へ緩く結び付いているため、外部からの重力に弱い」


 映像の外縁部で、無数の光点が動き始めた。


 それまで静かに太陽を回っていた氷と岩の塊。


 その一部が太陽系外へ弾き出される。


 別の一部は、内側へ落下する軌道へ変わる。


「内太陽系へ到達するまでには時間があります」


「どのくらい」


「早いものは数十年。多くは数百年から数万年です」


「では、ノクスが通過した後も」


「彗星の雨は続きます」


 ノクスが去った後も、太陽系は元には戻らない。


 重力によって投げ込まれた無数の天体が、長い時間をかけて内側へ降り続ける。


 ◇


 五十年後。


 ノクスの影響がカイパーベルトへ達する。


 冥王星。


 エリス。


 マケマケ。


 ハウメア。


 さらに数え切れない氷天体。


 その軌道が、少しずつ歪み始める。


「海王星との軌道共鳴が崩れます」


「どの程度」


「複数の天体が海王星接近軌道へ移ります」


 画面上で、一部の天体が内側へ向きを変える。


「衝突するのですか」


「確率は低い。しかし数が多い」


「一つ一つの確率が低くても」


「全体としては無視できません」


 直径数キロ。


 数十キロ。


 中には百キロを超える天体もある。


 その一つが惑星や衛星へ衝突すれば、局地的な災害では済まない。


 ◇


 六十年後。


 ノクスは、ついに外惑星の軌道へ重力的影響を及ぼし始めた。


「海王星軌道、変位を確認」


「どの程度」


「最接近前の段階で、平均軌道半径に数十万キロの変化」


 太陽系の大きさから見れば、小さい。


 だが、惑星の運動としては無視できない。


「天王星も変化」


「土星、木星にも摂動が伝わります」


 レアは、表示された軌道線を見た。


 惑星は、きれいな円を描いているわけではない。


 互いの重力に引かれながら、複雑な楕円軌道を進んでいる。


 そこへ、太陽より重い天体が高速で接近する。


 ノクスは太陽系へ衝突するわけではない。


 だが、通過するだけで。


 巨大な重力の手が、すべての惑星を一度に引っ張る。


 ◇


「最接近まで十年」


 オーロラが告げた。


 映像内の年代は、2321年。


 地球では、空の様子がすでに変化していた。


 通常より多くの彗星。


 増加する流星群。


 太陽系外縁から飛来する小天体。


 迎撃網が休むことなく稼働している。


 地球、月、火星、小惑星都市。


 あらゆる居住地が、防衛システムを増強していた。


「この時点で、小天体衝突危険度は現在の何倍ですか」


 レアが尋ねる。


「直径一キロメートル以上の天体について、約二百八十倍」


「文明を破壊できる大きさでは」


「直径十キロメートル以上の接近確率も、大幅に上昇します」


「迎撃は」


「一部は可能です」


「全部は?」


「不可能です」


 数が多すぎる。


 しかも複数方向から来る。


 軌道が早期に分かる天体だけではない。


 太陽方向から接近し、観測が遅れるもの。


 天体同士の衝突で突然軌道を変えるもの。


 破壊した結果、複数の破片となって降り注ぐもの。


 防げる災害と、防げない災害。


 その境界が崩れ始める。


 ◇


「最接近まで一年」


 ノクスは、肉眼では見えない。


 だが、夜空の背景星を次々と歪ませていた。


 重力レンズによって、星が明るくなる。


 二つに分かれる。


 光の輪を作る。


 人類の目には暗黒でも、宇宙はその存在を隠せない。


「太陽の重心運動に変化」


「惑星軌道補正を更新」


「内惑星への潮汐効果、急上昇」


 水星の軌道が、最初に大きく乱れ始めた。


 太陽に最も近く、軌道速度も速い。


 ノクスがどの方向から通過するかによって、水星は加速されるか、減速される。


 今回の最有力軌道では。


「水星、近日点距離減少」


「太陽へ落下するのか」


「直ちには。しかし軌道離心率が大きく上昇します」


 円に近かった軌道が、細長い楕円へ変わる。


 太陽へ極端に近づく時期。


 遠く離れる時期。


 表面温度の変動は、これまで以上に激しくなる。


 水星に恒久居住地が残っていたなら、維持は不可能だった。


 ◇


「最接近まで百日」


 太陽観測データが異常を示し始める。


「太陽内部の振動モードに変化」


「ノクスの潮汐力によるものです」


 太陽は気体とプラズマでできた巨大な球体。


 固い表面はない。


 内部では核融合によって生じたエネルギーが、数十万年以上かけて外側へ運ばれている。


 ノクスの重力は、太陽全体へわずかな歪みを与える。


「太陽表面の潮汐隆起を確認」


 太陽の一部が、ノクスの方向へ引かれる。


 反対側にも隆起が生まれる。


 地球の海に起きる潮汐とは比べものにならない。


 太陽内部のプラズマ流。


 対流。


 磁場。


 それらが乱される。


「黒点群、異常成長」


「磁場再結合の頻度上昇」


「大規模フレア発生率、通常最大期の十二倍」


 太陽は外層を完全に剥ぎ取られるわけではない。


 しかし、穏やかな恒星ではいられなくなる。


 磁場活動が極端に乱れ。


 巨大なコロナ質量放出が、何度も宇宙空間へ噴き出す。


「太陽風圧、地球軌道で平常時の四十倍」


「最大事例では?」


「数百倍」


 惑星の磁場が押し潰される。


 人工衛星が破壊される。


 通信網。


 発電網。


 軌道都市。


 宇宙エレベーター。


 あらゆる宇宙インフラが、太陽嵐にさらされる。


 ◇


「最接近まで十日」


 ノクスは太陽系中心部へ突入する。


 速度はあまりにも速い。


 惑星へ直接衝突する可能性は低い。


 だが、その重力は一瞬ごとに強まっていた。


「金星軌道、変位」


「火星、変位」


「地球と月の共通重心に異常加速度」


 地球は太陽を回っている。


 月は地球を回っている。


 その二重の軌道が、外から引き裂かれるように変化し始める。


「月軌道離心率、上昇」


「潮汐力、現在の二・三倍」


「まだ最接近前です」


 地球の海が大きく持ち上がる。


 通常の満潮ではない。


 海盆全体が揺さぶられる。


 沿岸部では巨大な潮位変動。


 海流の崩壊。


 地球内部にも潮汐応力が加わり、断層活動が活発になる。


「世界規模で地震活動増加」


「火山噴火確率、上昇」


「地殻そのものが剥がれるのですか」


 レアが尋ねた。


 地球物理学者は首を振った。


「地球全体の地殻が一度に剥ぎ取られるほどではありません」


「では、形は保てる」


「惑星としては」


 その言葉に、希望はなかった。


「しかし、人類文明を維持できる環境が残るとは限りません」


 地殻は残る。


 地球も砕けない。


 だが、海岸線は変わる。


 巨大地震が続く。


 超巨大噴火が誘発される可能性がある。


 太陽嵐で大気上層が加熱され、少しずつ失われる。


 さらに軌道そのものが変われば。


 地球は、今までと同じ量の太陽光を受けられない。


 ◇


「最接近」


 オーロラの声。


 ノクスが、太陽から〇・一九八天文単位を通過する。


 太陽と水星軌道の間に近い距離。


 太陽より重い中性子星が、高速で横切る。


 スクリーン上で、太陽系全体の軌道線が震えた。


「太陽重心速度、急変」


「内惑星軌道要素を再計算」


「木星軌道変位」


 太陽系最大の惑星、木星。


 その質量は他の惑星をすべて合わせたものより大きい。


 だが、太陽やノクスと比べれば小さい。


 木星の巨大さも、恒星質量天体の前では盾にならなかった。


「木星の公転軌道半径、変化」


「離心率、現在値の約五倍」


「衛星系への影響は」


「外側の不規則衛星の一部が離脱」


「ガリレオ衛星は」


「直ちに失われません」


 イオ。


 エウロパ。


 ガニメデ。


 カリスト。


 主要衛星は木星の強い重力に結び付いている。


 だが、木星そのものの軌道が変われば。


 衛星系が受ける太陽光。


 木星磁気圏。


 潮汐加熱。


 すべてが少しずつ変化する。


「エウロパ地下海都市への長期影響」


「安定居住を保証できません」


「木星圏へ避難する案は」


「恒久策にはなりません」


 ◇


 土星。


 天王星。


 海王星。


 外惑星も、無傷では済まない。


 土星の軌道離心率が上昇。


 環の粒子分布に乱れ。


 外側衛星の一部が不安定化。


 天王星と海王星では、ノクスの直接的な影響に加えて、木星と土星の軌道変化による二次的な摂動が広がる。


「惑星同士の共鳴関係が崩れます」


 軌道力学者が説明する。


「最接近直後には衝突しなくても、数百年から数千年後に接近する可能性があります」


「どの惑星が?」


「複数の組み合わせがあります」


 木星と土星。


 天王星と海王星。


 火星と地球。


 水星と金星。


 計算条件をわずかに変えるだけで、結果は異なる。


 惑星が太陽へ落下する場合。


 太陽系外へ弾き出される場合。


 惑星同士が衝突する場合。


 衝突しなくても、近接通過によってさらに軌道を乱される場合。


「太陽系は崩壊するのですか」


 政府代表が尋ねる。


「惑星がすべて失われるという意味ではありません」


「では」


「現在の秩序が失われます」


 太陽を中心に、ほぼ安定した軌道を保つ八つの惑星。


 何十億年も続いてきた配置。


 それが、ノクスの一度の通過によって組み替えられる。


 ◇


 地球の予測結果が表示された。


 最接近直後。


 地球の軌道は、現在より外側へずれる。


 だが、それだけではなかった。


 軌道の楕円率が大きく増している。


「近日点では、現在より太陽へ近づきます」


「遠日点では」


「火星軌道付近まで離れる可能性があります」


 季節という言葉では表現できない。


 太陽へ近づく時期。


 地表温度は上昇。


 氷床が融解。


 海洋蒸発が進む。


 太陽活動が激しい時期と重なれば、大気上層の損失が加速する。


 太陽から遠ざかる時期。


 地表は急激に冷える。


 海面が凍る。


 気候帯が崩壊する。


 農業は成立しない。


 生態系は、変化の速さについていけない。


「地下都市なら」


 レアが尋ねた。


「一時的には生存可能です」


「一時的」


「数十年から数百年」


「その後は」


「資源と設備次第です」


「地球そのものは残るんでしょう」


「残ります」


 地球物理学者は、映像の中の青い惑星を見た。


「しかし、私たちの知る地球ではありません」


 ◇


 月にも深刻な変化が予測された。


「月軌道は維持されますか」


「最有力モデルでは、地球の衛星として残ります」


 会議室に、わずかな安堵が生まれる。


 だが。


「ただし、軌道半径が変化します」


「どの程度」


「最接近後、現在より約二十パーセント近づく可能性」


 近づいた月は、地球へさらに強い潮汐力を与える。


 海。


 地殻。


 自転。


 すべてへ影響する。


「別モデルでは、月は地球重力圏を離脱します」


「確率は」


「約一四パーセント」


「月の造船所は」


「最接近前に放棄する必要があります」


 方舟を造っている月。


 人類の脱出拠点。


 そこも安全ではない。


 出航が遅れれば、完成した方舟ごと軌道を乱される。


 ◇


 火星。


 軌道は外側へ移動。


 太陽光は減少。


 地表温度はさらに低下する。


「火星地下都市なら長期生存できるのでは」


 火星代表が尋ねた。


「太陽嵐への防護は可能です」


「では残留拠点として」


「軌道の長期安定性に問題があります」


 火星と小惑星帯の関係が変わる。


 木星の軌道も乱される。


 結果として、小惑星帯の天体が各方向へ散乱される。


「火星への衝突率は」


「最接近後百年間で、現在の数千倍に上昇する可能性」


「迎撃システムで」


「すべては防げません」


 巨大な地下都市が、直接衝突を耐えられるとは限らない。


 たとえ都市が残っても。


 地上設備。


 太陽光発電。


 通信施設。


 水採掘設備。


 それらが繰り返し破壊されれば、地下だけでは生きられない。


 ◇


「最接近から百年後」


 映像が進む。


 ノクスはすでに太陽系から遠ざかっている。


 だが、太陽系は静まらない。


 太陽は徐々に通常活動へ戻ろうとしている。


 核融合反応そのものが暴走するわけではない。


 太陽が急激に寿命を縮めるほどの変化もない。


 しかし磁場活動は長期間不安定。


 惑星軌道は、元の位置へ戻らない。


 彗星と小惑星の雨が続く。


 地球では。


 大気の一部が失われ。


 海洋循環は崩壊。


 気温変動は極端。


 地表生態系の大半が消失していた。


「人類生存圏は」


「地下居住施設、海底施設、一部の極地都市」


「人口は」


「推定不能です」


「最良の場合」


「数千万人」


「最悪の場合」


「ゼロ」


 方舟へ乗れない人々にも、生存の可能性はある。


 完全なゼロではない。


 だが。


 未来を保証できる場所は、太陽系内には存在しなかった。


 ◇


「最接近から千年後」


 地球は、まだ太陽を回っている。


 ただし、現在とは異なる軌道。


 月が残る場合。


 離脱する場合。


 衝突する場合。


 複数の未来が枝分かれする。


 火星も残る。


 木星も。


 土星も。


 惑星としての形は維持される。


 だが、配置は変わる。


 一部の小惑星や準惑星は、太陽系外へ放出される。


 一部は内側へ落下。


 水星が太陽へ吸収されるモデルもある。


 火星が地球へ接近するモデルもある。


 木星が小天体を吸収しながら、軌道をさらに変化させるモデルもある。


「これは、もう太陽系ではない」


 レアがつぶやいた。


 理沙が答える。


「太陽系です」


「でも」


「私たちが知っている形ではないだけです」


 宇宙にとって、惑星軌道の再編成は珍しい現象ではない。


 恒星が接近する。


 連星が崩壊する。


 惑星が弾き出される。


 小天体が衝突する。


 宇宙は何度も、そうして形を変えてきた。


 人類にとって終末でも。


 宇宙にとっては、ただの重力相互作用だった。


 ◇


「最接近から一万年後」


 最終映像。


 惑星の多くは残っている。


 だが、軌道は今とは違う。


 水星が失われたモデル。


 金星と地球が太陽へ近い軌道で不安定に回るモデル。


 地球が太陽系外縁へ投げ出され、凍結した放浪惑星となるモデル。


 火星が現在の地球軌道付近へ入るモデル。


 木星が外側へ移動し、土星との共鳴を失うモデル。


 天王星または海王星が太陽系外へ弾き出されるモデル。


 無数の可能性。


 どれにも共通するものがある。


 現在の文明が、そのまま残る未来は存在しない。


 ◇


「結果をまとめます」


 オーロラが告げる。


 スクリーンに、最終評価が表示された。


 地球地表文明維持可能性


 〇・〇〇パーセント。


 火星恒久居住圏維持可能性


 〇・〇三パーセント。


 木星・土星衛星系への恒久避難成功率


 〇・一一パーセント。


 太陽系全体における長期文明維持可能性


 〇・〇二パーセント。


 絶対に不可能とは書かれていない。


 宇宙の予測に、完全なゼロは少ない。


 だが、人類の未来を託せる数字ではなかった。


「方舟が失敗した場合は」


 エレナが尋ねる。


「太陽系内に分散した地下都市および宇宙居住区によって、一部人口が生存する可能性があります」


「文明を再建できる?」


「保証できません」


「種としての人類は」


「数世代存続する可能性があります」


「数世代」


 それは、生存ではあっても未来ではない。


 ◇


 会議室に、長い沈黙が落ちた。


 誰も計算を否定できなかった。


 モデルには誤差がある。


 すべての小天体を追跡しているわけではない。


 太陽活動の予測も完全ではない。


 惑星軌道はカオス的で、わずかな条件差によって結果が変わる。


 それでも。


 どの条件を入力しても。


 どの最良モデルを選んでも。


 現在の太陽系文明が無傷で残る結果は、一つもなかった。


「残るという選択肢は」


 レアが言った。


 声がわずかに震えていた。


「本当は存在しないんですね」


 理沙は答えなかった。


 代わりにエレナが言った。


「存在します」


 レアが振り返る。


「残ることはできます」


「でも、生き残れない」


「可能性はあります」


「〇・〇二パーセント」


「それでも、ゼロではありません」


「方舟へ乗れない百三十九億人に、その数字を伝えるんですか」


 エレナは黙った。


「希望だと言うんですか」


「希望ではありません」


「では」


「残される人々のために、私たちができることです」


 地下都市。


 食料保存庫。


 遺伝子保存施設。


 惑星防衛網。


 小天体迎撃装置。


 耐放射線施設。


 何千年も維持できる知識保管庫。


 方舟へ乗れない人々を、ただ見捨てるわけではない。


 生き残れる確率を、〇・〇二から少しでも上げる。


「一人でも多く生き延びられるようにする」


 エレナが言った。


「方舟へ乗れないからといって、その人の命が軽くなるわけではありません」


「でも、資源は方舟へ優先される」


「はい」


「残る人には、残り物」


「違います」


「何が違うんです」


「方舟も、地球防衛も、同じ計画です」


 エレナの声が強くなる。


「人類を一つの方法だけで救おうとはしていません」


「でも結果は」


「足りない」


 エレナは言った。


「何をしても、足りないのです」


 船も。


 資源も。


 時間も。


 座席も。


 地下都市も。


 迎撃装置も。


 すべてが足りない。


 だから優先順位を決めなければならない。


 その決定のたびに、誰かが救われ。


 誰かが後回しにされる。


 ◇


 会議後。


 レアは一人、観測所の展望区画へ向かった。


 窓の向こうには地球が見える。


 青い海。


 白い雲。


 茶色と緑の大陸。


 今は何も変わっていない。


 嵐があり。


 地震があり。


 争いがある。


 それでも、生命があふれている。


 七十年後。


 その海が、巨大な潮汐に揺さぶられる。


 大気が太陽嵐にさらされる。


 軌道が変わり。


 季節が壊れ。


 世界は別の惑星へ変わっていく。


「地球は残る」


 理沙の声が背後から聞こえた。


 レアは振り返らなかった。


「でも、人間の地球は終わる」


「はい」


「あなたは最初から知っていた?」


「ここまで詳細には」


「方舟が唯一の方法だと思う?」


「唯一ではありません」


「でも、一番可能性が高い」


「はい」


「一千万人」


「現時点では」


「残りの百三十九億九千万人は」


 理沙は、地球を見た。


「ここで生きます」


「最後まで?」


「最後まで」


 その言葉は、残酷で。


 同時に、どこか人間らしかった。


 救われないと分かっても。


 人は今日を生きる。


 家族と食事をする。


 仕事へ行く。


 子どもを育てる。


 音楽を聴く。


 恋をする。


 笑う。


 未来が短いからといって。


 その一日一日の価値まで失われるわけではない。


 ◇


「レア」


 理沙が言った。


「あなたは、この結果を公表しますか」


 レアは答えなかった。


 端末には、すべての記録が残っている。


 惑星軌道。


 太陽活動。


 地球の未来。


 文明存続確率。


 世界が知れば。


 社会は変わる。


 政府は崩れるかもしれない。


 方舟計画も止まるかもしれない。


 だが。


 知らないまま残されることは、正しいのか。


「二週間の猶予は、あと何日ですか」


 理沙が尋ねた。


「九日」


「決められそうですか」


「分からない」


 レアは正直に答えた。


「でも、もう一つだけ分かった」


「何ですか」


「この秘密は、永遠には守れない」


 地球の外には、無数の観測者がいる。


 ノクスは近づいている。


 重力レンズ現象は増える。


 彗星の軌道変化も、やがて誰の目にも見える。


「いつか世界は空を見て、自分で気づく」


「はい」


「その前に伝えるのか」


 レアは地球を見た。


「空に教えられるまで、嘘をつき続けるのか」


 ◇


 その頃。


 オデュッセウス推進研究所では、零号機の再設計が進んでいた。


 月面造船所では、方舟の骨格が一本ずつ組み上げられていた。


 火星のガイア・ドームでは、土の中の微生物が作物の根を支えていた。


 ヘファイストスでは、無人掘削機が四方向から金属を切り出していた。


 誰も止まっていない。


 七十年後の未来がどれほど絶望的でも。


 計算結果がどれほど冷たくても。


 人類は、手を動かし続けていた。


 ◇


 最後に。


 オーロラは、誰にも命じられていない計算を実行していた。


 太陽系残留。


 地下都市。


 小天体迎撃網。


 大気保護。


 人工磁場。


 軌道修正。


 木星圏移住。


 火星地下文明。


 すべての技術を、最大限に成功させた場合。


 人類が太陽系内で一万年以上文明を維持できる確率。


 計算結果。


 〇・一八パーセント。


 わずかに上がった。


 それでも、一パーセントには遠い。


 オーロラは結果を保存した。


 そして、計算条件を変えた。


 もう一度。


 さらにもう一度。


 AIは諦めない。


 希望を感じるからではない。


 与えられた目的が、人類の生存だからだ。


 膨大な計算の中で。


 ほとんどすべての未来が、暗闇へ消えていく。


 その中から。


 ほんのわずかでも、人類が残る軌道を探していた。


 第11話 終

 次回予告


 ノクスの通過によって、太陽系は現在の姿を失う。


 地球は残る。


 火星も、木星も、土星も。


 だが、人類文明が生きられる世界は残らない。


 方舟計画は、もはや遠い未来のための研究ではなかった。


 人類が未来を持つための、最も可能性の高い道。


 しかし。


 その方舟を動かすオデュッセウス・ドライブは、一人の技術者を失ったまま停止している。


 再設計された零号機。


 二重化された燃料供給。


 独立分離式の磁場コイル。


 そして、暴走時に人間を近づけない新たな緊急投棄機構。


 再点火の日が近づく。


 今度こそ、炉を安定させなければならない。


 失敗すれば、推進計画は数年遅れる。


 だが、成功しても。


 方舟を光速の一パーセントまで加速するには、数十年にわたって火を絶やさず燃やし続けなければならない。


 次回、


 第12話「二度目の点火」


 亡くなった技術者の名を刻み、人類はもう一度、最初の火へ手を伸ばす。

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