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NEURON STAR  作者: リンダ


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12/50

二度目の点火

第12話 二度目の点火


 最初の火は、人を奪った。


 だからといって。


 人類は、火を捨てることができなかった。


 火を恐れれば、方舟は動かない。


 方舟が動かなければ、七十年後に未来は途絶える。


 亡くなった一人の技術者が守ったものを。


 再び動かさなければならない。


     ◇


 月面標準時。


 午前五時四十分。


 月の南極域。


 永久影に覆われた巨大クレーターの地下深くに、オデュッセウス推進研究所は築かれていた。


 地表には目立った建造物はない。


 複数の熱放射塔。


 資材搬入口。


 通信アンテナ。


 緊急脱出用の小型ハッチ。


 それだけだった。


 だが、厚い岩盤の下には。


 直径三百メートルを超える実験炉区画。


 全長一・八キロメートルの噴射試験坑道。


 燃料処理施設。


 磁場制御室。


 放射線遮蔽区画。


 そして。


 オデュッセウス・ドライブ零号機が眠っていた。


 高密度の岩盤は、放射線を遮る。


 月には大気がない。


 噴射された高温プラズマを、真空空間へ直接放出できる。


 地球上では不可能な実験を行うには、ここしかなかった。


     ◇


 中央管制室。


 壁面いっぱいに並ぶモニターには、零号機の状態が映し出されていた。


 燃料供給圧。


 超伝導コイル温度。


 真空度。


 反応室内壁温度。


 中性子束。


 プラズマ密度。


 磁場強度。


 すべての数値が、静かに待機状態を示している。


 主任研究者のアミナ・ハダッドは、管制卓の前に立っていた。


 四十六歳。


 核融合推進工学者。


 第一次点火実験では、副主任としてマリク・オセイの隣にいた。


 事故発生時。


 彼女は中央制御室から、彼が緊急投棄区画へ向かう姿を見ていた。


 止めた。


 何度も止めた。


 しかし、マリクは戻らなかった。


『ここで燃料を逃がさなければ、研究所全体が吹き飛ぶ』


 それが最後の通信だった。


 通信記録は、今もアミナの端末に残されている。


 聞き返したことはない。


 聞かなくても。


 一言一句、覚えていた。


     ◇


「再点火準備会議を開始します」


 管制AIの声が響いた。


 アミナの正面に、技術者たちの顔が並ぶ。


 磁場制御主任。


 ダニエル・チャン。


 燃料系統主任。


 イリーナ・ヴォルコワ。


 炉壁材料主任。


 カルロス・メンデス。


 緊急安全系主任。


 奈良橋圭吾。


 推進理論担当。


 ソフィア・エルナンデス。


 全員が、第一次実験の記録を何度も読み込んでいた。


 机の中央には。


 小さな金属板が置かれていた。


 そこには一人の名が刻まれている。


MALIK OSEI


HE KEPT THE FIRST FIRE ALIVE


 彼は、最初の火を守った。


     ◇


「最終確認に入ります」


 アミナが言った。


「今回の零号機は、第一次実験機とは別物です」


 正面スクリーンに、新旧の構造比較が表示される。


 以前の燃料供給系統は一系統だった。


 重水素。


 ヘリウム3。


 反応開始用の微量反物質。


 三種類の燃料が、一本の主供給管へ集められていた。


 異常が起きた際。


 主弁が閉じなければ、すべてが停止できなくなる。


 第一次実験では、その主弁が高熱によって変形した。


 自動投棄命令は出た。


 しかし、燃料は逃げなかった。


 マリクは放射線区画へ入り、手動弁を開いた。


 今回は違う。


「燃料供給系統は完全二重化」


 イリーナが説明する。


「主系統と副系統は、物理的に分離されています。一方が破損しても、もう一方から反応室内の燃料を排出できます」


「主弁は?」


「直列三重弁。異なる駆動原理を使用しています」


 電磁式。


 圧力式。


 火薬切断式。


 一つの原因ですべてが故障しないよう、あえて異なる仕組みが採用されていた。


「投棄経路は四方向」


「はい。どの経路からでも、反応室の燃料を三秒以内に排出できます」


「人間が近づく必要は?」


「ありません」


 その答えを聞いて。


 アミナは、一度だけ目を閉じた。


「絶対に?」


「絶対です」


 イリーナは、はっきりと言った。


「今回は、誰も弁を開けに行きません」


     ◇


 磁場コイルにも、大幅な変更が加えられていた。


 第一次実験機では、十二基の超伝導コイルが一つの制御系統へ接続されていた。


 一基でクエンチが起きると。


 急激な温度上昇が隣接コイルへ伝播する。


 磁場が崩れ。


 プラズマが反応室内壁へ接触する。


 高温化。


 炉壁損傷。


 燃料系統破損。


 一つの異常が、連鎖的に全系統へ広がった。


「新型コイルは二十四基」


 ダニエルが説明する。


「すべて独立制御です」


 スクリーン上で、環状に並ぶ二十四基のコイルが表示された。


「一基がクエンチしても、隣接コイルを切り離し、残るコイルで磁場形状を再構成します」


「反応を維持できるのか」


「短時間なら」


「停止までの時間は」


「〇・八秒」


 以前は、異常検知から反応停止まで三・四秒。


 今回は一秒を切る。


「それでも失敗する可能性はあります」


 ダニエルは続けた。


「理論上存在しない振動モードが発生する可能性があります」


「第一次実験のように?」


「はい」


 すべてを設計できるわけではない。


 核融合プラズマは生き物ではない。


 だが。


 強い磁場と高温の中で、予測不能な振る舞いを見せる。


 計算上は安定していても。


 現実の炉内では、小さな揺らぎが増幅される。


 乱流。


 磁気島。


 高エネルギー粒子の偏り。


 壁面から混入する不純物。


 どれか一つで、反応全体が崩れることがある。


     ◇


「反物質注入量は?」


 アミナが尋ねる。


 ソフィアが答えた。


「第一次実験の六十二パーセントです」


「それで点火できる?」


「点火時間は長くなります」


「どれくらい」


「予定では〇・〇〇八秒」


 八千分の一秒。


 人間には認識できない短さ。


 だが、反応室内では。


 それだけの時間に、膨大なエネルギーが放出される。


 反物質は燃料ではない。


 核融合反応を始めるための点火装置。


 極小量の反陽子を燃料ペレットへ打ち込む。


 物質と反物質が消滅し。


 生じた高エネルギー粒子が、燃料を瞬間的に加熱する。


 重水素とヘリウム3が融合。


 陽子とヘリウム原子核が放出される。


 その荷電粒子を磁場で後方へ導く。


 巨大な推進力へ変える。


 それが、オデュッセウス・ドライブだった。


「反物質を減らした理由は」


「安全域を広げるためです」


「推進力は落ちる」


「零号機の目的は、最大推力ではありません」


 ソフィアは言った。


「安定して燃やし続けられることを証明することです」


     ◇


 方舟を光速の一パーセントまで加速する。


 秒速約三千キロメートル。


 人類がこれまで建造した、どの宇宙船よりも速い。


 だが。


 巨大な船体を一度にその速度へ押し出すことはできない。


 人間が耐えられる加速度。


 船体構造。


 燃料消費。


 放熱。


 宇宙塵との衝突。


 すべてを考慮すれば。


 方舟は、極めて弱い加速を長期間続けなければならない。


 数日ではない。


 数か月でもない。


 数年。


 場合によっては、数十年。


 わずかな火を、絶やさず燃やす。


 瞬間的に強いエンジンより。


 壊れずに燃え続けるエンジンが必要だった。


     ◇


 午前六時二十分。


 実験開始まで、三時間四十分。


 研究所全域で退避訓練が始まった。


「炉区画、無人化確認」


「整備員二名、第三遮蔽区画を移動中」


「燃料施設、退避完了」


「試験坑道、封鎖」


「月面輸送路、閉鎖」


 第一次実験では。


 研究所の多くの職員が、通常配置のまま残っていた。


 今回は違う。


 炉から半径二キロメートル以内は、完全無人。


 整備ロボット。


 監視ドローン。


 遠隔操作装置。


 人間は厚い遮蔽壁の向こう側にいる。


「緊急時、炉区画への立ち入りは禁止」


 奈良橋が確認する。


「いかなる状況でも?」


「いかなる状況でも」


「設備を失う可能性があっても?」


「設備を失ってください」


「零号機が破壊されても?」


「破壊させてください」


「研究所全体が危険でも?」


「完全隔離後、施設を放棄します」


 アミナは全員を見た。


「機械を守るために、人間を送らない」


 誰も目をそらさなかった。


「それが今回、最も重要な実験条件です」


     ◇


 午前七時。


 月面軌道上。


 レア・モーガンを乗せた連絡船が、研究所近傍のドッキング施設へ接近していた。


 窓の向こうに、月面が広がっている。


 灰色の大地。


 深い影。


 遠くには、まだ建設途中のルナ・アークヤード。


 巨大な船体骨格が、星空を背景に浮かんでいた。


 方舟第一号船。


 まだ外殻もない。


 内部区画もない。


 一本一本の骨組みが組み合わされているだけ。


 それでも。


 レアには、それが人類の未来をかたどる骨のように見えた。


「間もなく接続します」


 船内AIが告げる。


 レアは端末を確認した。


 今回の取材許可は、極めて限定されている。


 映像記録可能。


 技術者への質問可能。


 ただし、外部送信は禁止。


 公開時期は未定。


 彼女が世界へ与えた二週間の猶予。


 残り八日。


 第11話で見た未来。


 崩れていく惑星軌道。


 住めなくなる地球。


 それを知った今も。


 レアは、真実を公表すべきか決められずにいた。


 だが。


 今日の実験が失敗すれば。


 公表するべき未来そのものが、さらに狭くなる。


     ◇


 ドッキング施設。


 レアを出迎えたのは、奈良橋圭吾だった。


「レア・モーガンさんですね」


「はい」


「安全系統主任の奈良橋です」


「今日の実験について、すべて記録しても?」


「指定区域内なら」


「失敗した場合も?」


 奈良橋は、一瞬だけ答えを止めた。


「その場合こそ、記録してください」


「公開していいんですか」


「それを決めるのは私ではありません」


「では、なぜ」


「失敗を隠せば、同じ失敗が起きます」


 通路の向こうに。


 マリクの名を刻んだ記念壁が見えた。


 レアは足を止める。


「彼の事故も、世界には隠されている」


「はい」


「公式発表は冷却設備事故」


「はい」


「本当は?」


「オデュッセウス・ドライブの点火実験中に起きた事故です」


「彼は、計画を守るために亡くなった」


「人を守るためです」


 奈良橋は言い直した。


「計画ではありません」


「違いがありますか」


「あります」


 彼は記念壁を見た。


「計画は、人を救うための手段です。手段を守るために人が死んではならない」


     ◇


 午前八時。


 零号機の予冷が始まった。


「超伝導コイル、冷却開始」


「液体ヘリウム循環正常」


「コイル温度、四・八ケルビン」


「四・五」


「四・二」


 絶対零度に近い温度。


 磁場コイルの電気抵抗が消える。


 巨大な電流が流れ始める。


「第一コイル群、励磁」


「電流五パーセント」


「十パーセント」


「二十パーセント」


 炉区画の映像。


 巨大な円筒状の装置。


 その内部に、目には見えない磁場が形成されていく。


 モニター上では。


 青い磁力線が、反応室を包み込むように描かれていた。


「磁場形状、正常」


「局所歪みなし」


「コイル間位相差、許容範囲」


 アミナは数値を追い続ける。


 第一次実験でも。


 この段階では、すべて正常だった。


     ◇


 午前八時三十分。


 燃料系統試験。


「重水素供給ラインA、加圧」


「漏えいなし」


「ラインB、加圧」


「漏えいなし」


「ヘリウム3系統、正常」


「反物質封じ込め容器、磁場安定」


 反物質は、月面地下のさらに深い隔離区画に保存されている。


 極小量でも。


 通常物質と接触すれば、すべてがエネルギーへ変わる。


 今回使用される量は微量。


 だが、扱いを誤れば、点火装置そのものが消失する。


「反陽子輸送路を開放」


「一次磁気トラップ、正常」


「二次トラップ、正常」


「注入器へ移送」


 画面上で、赤い点がゆっくり移動する。


 人類が造った最も危険な火種。


     ◇


 午前九時。


 実験開始まで一時間。


 アミナは全職員へ最後の訓示を行った。


「第一次点火で、私たちは一人の仲間を失いました」


 管制室。


 整備区画。


 避難施設。


 月面軌道船。


 すべての端末に、彼女の姿が映る。


「今日の実験は、彼の死を正当化するために行うものではありません」


 職員たちは黙って聞いている。


「成功すれば、彼の犠牲に意味があったと証明できる。そう考えている人もいるでしょう」


 アミナは首を振った。


「違います」


「人の死に、技術的成功を使って意味を与えてはいけない」


「マリクは戻ってきません」


「今日成功しても、失敗しても」


「その事実は変わりません」


 彼女は一度、息を吸った。


「私たちができるのは、同じことを二度と起こさないことです」


「今日の最優先事項は、点火ではありません」


「人命です」


「異常が起きた場合、迷わず停止してください」


「炉を守ろうとしないでください」


「研究所を守ろうとしないでください」


「誰も、マリクの代わりになろうとしないでください」


 声が少しだけ震えた。


 それでも、言い切った。


「生きて帰ること」


「それが、全員に課せられた最初の任務です」


     ◇


 午前九時三十分。


 レアは観測室から、零号機の映像を見ていた。


 隣にはソフィアが座っている。


「怖くないんですか」


 レアが尋ねた。


「怖いです」


 ソフィアは即答した。


「でも、科学者は怖がらないものかと」


「そんなことはありません」


「失敗すると思っている?」


「成功すると考えて設計しました」


「でも」


「成功すると信じることと、失敗を想定しないことは違います」


 ソフィアは、モニターの磁場分布を見た。


「私たちは失敗する可能性を、できる限り多く想像しました」


「全部?」


「いいえ」


「想像できない失敗もある」


「必ずあります」


「それでも点火する?」


「それでも」


「なぜ」


 ソフィアは窓の向こうを見た。


 遠くに、青い地球が浮かんでいる。


「点火しなければ、確実に間に合わないからです」


     ◇


 午前九時五十分。


「全区画、最終状態報告」


「炉区画、無人」


「試験坑道、無人」


「燃料施設、無人」


「遮蔽扉、閉鎖」


「緊急投棄経路、全四系統開放可能」


「自動停止系統、正常」


「遠隔切断装置、正常」


「施設放棄シーケンス、待機」


 最後に。


 オーロラと接続された安全判断AIが報告する。


「点火実験実行可能性、承認」


 アミナは時計を見た。


「開始十分前」


     ◇


 午前九時五十五分。


 研究所内の照明が、通常の白から青へ変わった。


 実験モード。


 不要な設備は停止。


 すべての電力が、零号機へ優先供給される。


「コイル磁場、九十パーセント」


「九十五」


「百」


 磁場強度が定格へ到達した。


「真空度、目標値」


「炉壁温度、正常」


「燃料ペレット装填」


 微小な燃料ペレットが、反応室中心へ移動する。


 重水素とヘリウム3。


 冷たく。


 小さく。


 静かな燃料。


 数秒後には。


 太陽中心部を超える温度へ達する。


     ◇


 午前九時五十八分。


「反物質注入器、待機位置へ」


「磁気トラップ安定」


「注入誤差、〇・〇〇二ミリメートル以内」


「点火レーザー同期」


「プラズマ排出ノズル、開放」


 試験坑道の先。


 厚い遮蔽扉が開く。


 その向こうは、月面の真空へつながっている。


 点火に成功すれば。


 高温の荷電粒子が、磁気ノズルを通って宇宙へ放出される。


 目には見えない。


 だが、周囲の観測装置が、その推力を測定する。


     ◇


 午前九時五十九分。


 アミナの端末に、最終承認画面が表示された。


ODYSSEUS ZERO


SECOND IGNITION TEST


FINAL AUTHORIZATION


 承認者。


 アミナ・ハダッド。


 指先を認証板へ置く。


 画面が赤から白へ変わる。


「最終承認」


 管制室にカウントダウンが響く。


「六十」


 誰も動かない。


「五十」


 冷却装置の低い振動。


「四十」


 磁場コイルの電流値が、わずかに揺れる。


「三十」


 レアは記録装置を起動する。


「二十」


 ソフィアが両手を握りしめる。


「十五」


 アミナは、マリクの金属板を見た。


「十」


 誰も祈っているとは言わない。


 だが。


 全員が、同じものを願っていた。


「九」


「八」


「七」


「六」


「五」


「四」


「三」


「二」


「一」


「点火」


     ◇


 反陽子が放たれた。


 燃料ペレットへ衝突。


 物質と反物質が消滅する。


 光。


 高エネルギー粒子。


 瞬間的な加熱。


 重水素とヘリウム3が融合を始める。


「反応発生」


「プラズマ温度、三億ケルビン」


「磁場封じ込め確認」


「核融合出力、上昇」


 零号機内部に、人工の太陽が生まれた。


 青白いプラズマが、磁場の中で激しく回転する。


「出力十パーセント」


「二十」


「三十」


「ノズル排出開始」


 月面の試験坑道から。


 細い光の柱が宇宙へ伸びる。


 高温の荷電粒子が磁場に導かれ。


 推進力となって放出される。


「推力発生」


「測定値、予測範囲内」


「出力四十パーセント」


 管制室の空気が、わずかに緩んだ。


 しかし。


 実験は始まったばかりだった。


     ◇


「磁場振動を検出」


 ダニエルの声が飛ぶ。


 モニターに黄色い警告が表示された。


「位置は」


「第七コイルと第八コイルの間」


「振幅」


「〇・四パーセント」


「許容範囲です」


 アミナは答える。


「監視を継続」


 第一次実験でも。


 最初の異常は小さかった。


「出力五十パーセント」


「振動、〇・七」


「増幅しています」


「原因は」


「プラズマ端部の不安定性」


 ダニエルが高速で操作する。


「第七コイル、位相補正」


「補正量〇・三」


「反応は」


「安定化傾向」


 振動が下がる。


 〇・七。


 〇・五。


 〇・三。


「収束しました」


 誰も喜ばない。


 まだ早い。


     ◇


「出力六十パーセント」


 プラズマ密度が上がる。


 推力も増加。


 試験坑道の観測装置が、想定どおりの数値を示している。


「エネルギー変換効率、四十八・六パーセント」


「予測値より一・二高い」


「炉壁への熱流束、正常」


「中性子束、許容範囲」


 重水素とヘリウム3の核融合は、他の反応方式より中性子が少ない。


 だが、完全にゼロではない。


 副反応によって中性子が生じ。


 長期間運転すれば、炉壁を劣化させる。


 方舟のエンジンには。


 数十年分の交換部品と、自己修復機能が必要になる。


     ◇


「出力七十パーセント」


 予定では、ここから五分間維持。


 第一次実験は。


 七十二パーセント付近で崩壊した。


 管制室の全員が、その数字を覚えている。


「七十一」


「各系統正常」


「七十二」


 誰かの呼吸音が、通信回線へ入る。


「七十三」


 第一次実験を超えた。


 だが。


 その瞬間。


「第十三コイル、温度上昇」


 警告が赤へ変わる。


「クエンチ兆候」


「上昇速度」


「毎秒〇・八ケルビン」


「第十三コイルを切り離せ」


 アミナが命じる。


「切り離し開始」


「隣接コイルへ磁場再配分」


「プラズマ偏位」


「炉壁方向へ二・一センチ」


「許容限界は」


「三センチ」


「急げ」


 第十三コイルの電流が落ちる。


 代わりに第十二、第十四、第十五コイルへ電流が流れる。


 磁場形状が歪む。


 プラズマが揺れる。


「偏位二・五センチ」


「二・七」


「再構成完了まで〇・二秒」


「二・九」


 警報音。


「三・〇」


 炉壁接触限界。


 その直前。


「磁場再構成完了」


 プラズマが中心へ戻る。


「偏位減少」


「二・四」


「一・三」


「〇・四」


 管制室に張り詰めていた空気が、一気に動いた。


「第十三コイル、完全隔離」


「残存二十三基で運転継続可能」


「反応出力、六十六パーセントへ低下」


 アミナは数値を見た。


「停止しますか」


 奈良橋が尋ねる。


 安全基準では。


 一基のコイルを失っても、実験を継続できる。


 だが。


 第一次実験の記憶が、全員の中にある。


 ここで止めれば。


 安全に終了できる可能性は高い。


 続ければ。


 さらに異常が起きるかもしれない。


「判断まで十秒」


 AIが告げる。


 アミナは全系統を確認した。


 燃料供給。


 正常。


 反応室。


 正常。


 炉壁温度。


 正常。


 プラズマ偏位。


 正常。


 残存コイル。


 安定。


「主任」


 ダニエルが言う。


「新しい独立コイルは機能しました」


 第一次実験なら。


 一基のクエンチが全体へ広がっていた。


 今回は止めた。


 事故は連鎖しなかった。


「実験を継続します」


 アミナは決断した。


「ただし出力は六十五パーセントで固定」


「了解」


「一つでも追加異常が出たら即時停止」


「了解」


     ◇


「六十五パーセント維持開始」


 残り四分五十秒。


 時間が、異様にゆっくり進む。


「四分」


「燃料供給、正常」


「三分三十秒」


「磁場安定」


「三分」


「炉壁熱流束、正常」


 レアは画面を見つめていた。


 炎は見えない。


 巨大な爆発もない。


 ただ、数字が並んでいる。


 だが。


 この静かな数字の向こうで。


 人類が初めて、恒星間船を動かせる火を燃やしている。


「二分」


 アミナの指は、緊急停止スイッチの近くに置かれたまま。


「一分三十秒」


 第十三コイルの温度は下がり始めている。


 クエンチの伝播はない。


「一分」


 推力は安定。


 燃料消費率も予測範囲内。


「三十秒」


 誰も声を出さない。


「十」


 第一次実験をはるかに超える運転時間。


「九」


「八」


「七」


「六」


「五」


「四」


「三」


「二」


「一」


「維持試験完了」


 まだ終わりではない。


「反応停止シーケンス」


「反物質注入停止」


「燃料供給停止」


「プラズマ密度低下」


「出力五十パーセント」


「三十」


「十」


「核融合反応停止」


 青白いプラズマが消える。


「磁場縮退開始」


「ノズル排出停止」


「残留熱、冷却系へ移送」


「炉区画、安定」


 すべての数値が、安全域へ戻る。


 オーロラが告げた。


「第二次点火実験」


「成功です」


     ◇


 管制室は。


 すぐには歓声に包まれなかった。


 全員が、表示された文字を見ている。


 成功。


 本当に終わったのか。


 誰も死んでいない。


 誰も炉区画へ走っていない。


 燃料は自動で止まった。


 磁場は再構成された。


 異常は連鎖しなかった。


 やがて。


 誰かが小さく息を吐いた。


 その音をきっかけに。


 拍手が始まった。


 小さな拍手。


 次第に広がる。


 整備区画。


 観測室。


 月面軌道船。


 世界各地の関連研究施設。


 誰かが泣いている。


 誰かが机へ突っ伏している。


 誰かが隣の人と抱き合う。


 だが。


 アミナだけは、すぐには動かなかった。


 彼女は机の上の金属板を手に取った。


 マリクの名前。


「点いたよ」


 小さく言った。


「今度は」


 声が詰まる。


「誰も死ななかった」


     ◇


 レアは、その姿を撮影しなかった。


 記者としてなら、記録すべき瞬間だった。


 世界が知るべき表情だった。


 だが。


 今だけは。


 一人の友人を失った人間の時間だった。


 カメラを下ろし。


 静かにその場を離れた。


     ◇


 三時間後。


 技術評価会議。


「実験結果を報告します」


 ソフィアがスクリーンを切り替える。


「最大出力七十三パーセント」


「安定維持出力六十五パーセント」


「連続運転時間、五分十二秒」


「推力値、設計予測の九七・八パーセント」


「エネルギー変換効率、最大四九・一パーセント」


「燃料供給系統、正常」


「緊急投棄系統、未使用」


「第十三コイルで局所クエンチ発生」


「独立分離および磁場再構成に成功」


 成功。


 だが、完成ではない。


「問題点は」


 アミナが尋ねる。


「コイル支持構造に、想定以上の微振動」


「長期運転では疲労破壊の可能性」


「炉壁に局所的な熱集中」


「反物質注入精度に〇・〇〇六パーセントの偏差」


「ノズル出口でプラズマ乱流」


「推力変動幅、最大二・四パーセント」


 五分なら耐えられた。


 数十年は、まるで違う。


「方舟用エンジンへ移行できますか」


 国連代表が尋ねる。


「まだです」


 アミナは明確に答えた。


「次の目標は一時間」


「その次は?」


「百時間」


「その後」


「一万時間」


「方舟に搭載できるのはいつです」


「最短で十二年後」


 会議室の表情が固まる。


「十二年」


「順調に進んだ場合です」


「もっと早くできないのか」


「できます」


「では」


「安全試験を削れば」


 アミナは国連代表を見た。


「方舟の乗員十二万人を、実験対象にする覚悟があるなら」


 代表は黙った。


「零号機が五分燃えたことと、方舟を数十年間推進できることは同じではありません」


「しかし、ノクスまで七十年しかない」


「だからこそ壊れないエンジンを造ります」


「間に合わなければ」


「急いで壊れるエンジンを造っても、間に合ったとは言いません」


     ◇


 会議終了後。


 レアはアミナへインタビューを申し込んだ。


 二人は、研究所の小さな展望室へ移動した。


 窓の外には、地球。


 その手前には、ルナ・アークヤード。


「成功した気分は?」


 レアが尋ねる。


「ほっとしています」


「うれしくはない?」


「うれしいです」


「そう見えない」


「成功という言葉が、少し怖いんです」


「なぜ」


「成功したと思った瞬間、人は危険を忘れるからです」


 アミナは遠くの方舟骨格を見た。


「今日は五分間、火を維持できた」


「歴史的な成功です」


「でも、方舟が必要とするのは数十年です」


「最初の五分がなければ、数十年もない」


「その通りです」


「では、今日の意味は?」


 アミナは少し考えた。


「出発点に立てたこと」


「人類は、まだ出発点?」


「はい」


「すでに方舟を造っているのに」


「船体は造れます」


「生態系も?」


「少しずつ」


「エンジンも火が点いた」


「でも」


 アミナは地球を見た。


「誰を乗せるのか決まっていない」


 レアは言葉を止めた。


「技術だけでは、方舟は完成しません」


「選考のことですね」


「方舟は、人間社会を運ぶ船です」


「社会を?」


「医師や技術者だけでは文明になりません」


「では誰が必要ですか」


「それを決めるのは、私ではありません」


「あなたなら?」


 アミナはすぐには答えなかった。


「家族を分けないでほしい」


「それでは乗船人数が減る」


「分かっています」


「技能選考が難しくなる」


「分かっています」


「それでも?」


「マリクには、地球に家族がいました」


 妻。


 息子。


 母親。


 彼が方舟に選ばれていたとして。


 家族が選ばれなかったなら。


 彼は乗っただろうか。


「たぶん、乗らなかったと思います」


 アミナは言った。


「人間を救う船が、人間に最も大切なものを切り捨てるなら」


「それは方舟ではない?」


「私は、そう思います」


     ◇


 レアは取材記録を閉じた。


 公開までの猶予。


 残り八日。


 彼女の中で、二つの真実が向かい合っている。


 世界には、知る権利がある。


 だが。


 公開によって計画が崩壊すれば。


 方舟は完成しない。


 人類は生き残れない。


「あなたは」


 アミナが尋ねる。


「本当に公表するつもりですか」


「分かりません」


「記者なのに?」


「記者だからです」


「真実を伝えるのが仕事では」


「伝えればいいだけなら、簡単です」


 レアは地球を見た。


「真実を伝えた後、何が起きるのか」


「そこまで責任を持つ必要が?」


「持たなければならないと思っています」


 報道は。


 情報を投げるだけではない。


 その情報で人が動く。


 怒る。


 恐れる。


 争う。


 救われる。


 準備を始める。


「隠す責任と」


 レアは言った。


「伝える責任」


「どちらが重いですか」


「まだ分かりません」


     ◇


 その夜。


 研究所内の小さな追悼室。


 再点火成功を祝う会は開かれなかった。


 代わりに。


 職員たちは一人ずつ、マリクの記念壁の前へ花を置いた。


 月面に生花はほとんどない。


 火星のガイア・ドームで育てられた、小さな白い花。


 人工照明の下で咲いた。


 地球では珍しくもない花。


 だが、月では。


 命そのものだった。


 アミナが最後に花を置く。


「零号機は燃えました」


 静かな声。


「第十三コイルが止まりました」


「でも、連鎖しませんでした」


「あなたが命をかけて教えてくれた場所を」


「私たちは造り直しました」


 彼女は金属板へ触れた。


「次は一時間です」


「その次は百時間」


「まだ終わりません」


「でも」


「もう誰も、あなたと同じ場所へ行かせません」


     ◇


 同じ頃。


 零号機から取得されたデータは、地球、火星、月、軌道研究所へ送られていた。


 オーロラは、数兆通りの改良案を生成する。


 コイル支持構造。


 プラズマ制御。


 反物質注入。


 炉壁冷却。


 推進ノズル。


 燃料効率。


 故障時の自己修復。


 AIは、五分十二秒の中で起きたすべての揺らぎを解析する。


 人間が見落とした微細な変化。


 点火後〇・〇二秒。


 第十三コイルに、ごく小さな位相遅れ。


 〇・七秒後。


 支持構造の共振。


 二十六秒後。


 冷却流量に微小な偏り。


 四分三秒後。


 炉壁から微量の不純物混入。


 成功の中には。


 次の失敗の種が無数に残されていた。


 オーロラは、それらを一つずつ拾い上げる。


     ◇


 午前三時。


 誰もいない設計室。


 オーロラが、新しい計算結果を表示した。


連続運転目標 一時間


現行設計での成功確率 61.4%


 低い。


 設計を修正。


 再計算。


67.8%


 さらに修正。


72.1%


 別案。


74.6%


 磁場コイル配置を変更。


 燃料注入周期を調整。


 冷却材流量を再配分。


81.3%


 まだ足りない。


 AIは計算を続ける。


 休まない。


 眠らない。


 成功を喜ばない。


 失敗を恐れない。


 ただ、人類の生存確率を上げ続ける。


     ◇


 月面の地平線から。


 地球が昇る。


 青い惑星。


 七十年後には。


 同じ軌道を回っていないかもしれない。


 海も。


 雲も。


 文明の光も。


 失われているかもしれない。


 その地球を背に。


 ルナ・アークヤードでは、作業が再開された。


「第一号船、中央推進梁を搬入」


「接続角度、〇・〇一度修正」


「固定開始」


 巨大な金属骨格の後方。


 まだ空白だったエンジン区画へ。


 新しい設計線が描き加えられる。


 オデュッセウス・ドライブ。


 今はまだ零号機。


 五分しか燃えない、小さな人工の太陽。


 だが。


 人類は、二度目の火を消さなかった。


 最初の火は、一人の命によって守られた。


 二度目の火は。


 誰も失わずに、未来へ引き継がれた。



第12話 終


次回予告


 零号機の再点火は成功した。


 しかし、五分の燃焼では方舟を星へ運べない。


 一時間。


 百時間。


 一万時間。


 人類は、壊れない火を造らなければならない。


 その一方で。


 レア・モーガンが与えた二週間の猶予は、残り八日。


 秘密を知る者は増え始めていた。


 消された観測記録。


 不自然な国家予算。


 月へ運ばれる膨大な金属。


 火星で進む閉鎖生態系実験。


 そして。


 世界各地の天文台で観測される、同じ方向へ動く重力レンズ現象。


 一人の大学院生が。


 公開観測データの中に、決して偶然では説明できない軌道を見つける。


 政府が隠している間にも。


 科学は、世界を真実へ導いていた。


 次回、


第13話「広がる観測網」


 秘密は、一人の記者だけのものではなくなる。

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