第9章 鍵
宅配便を名乗る男は、荷物の番号を告げなかった。インターホン越しに、怜が一人かどうかだけを確かめようとする。画面の端にもう一人、同じ制服の男が立っていた。埠頭で見た、あの無表情な男たちを思い出した。
怜は天城の音声を止めた。「使うかどうかは、あなたが決めなさい」。その声がまだ耳に残っている。ノートパソコンと記憶チップを鞄に押し込み、母の遺影に目を向けた。額縁を持つ余裕はない。写真を端末に保存して、玄関とは反対側の非常階段へ走った。
階段を二つ下りたところで、上の階から鈍い破裂音が響いた。自宅の扉だろう。踊り場で隣室の住人とすれ違う。「おはようございます」と声をかけられ、怜は反射的に挨拶を返した。いつもと変わらない朝が、数歩先にあった。
*
森崎の古いワゴン車は、路地の角に停まっていた。怜が駆け込むと、運転席の小野寺が振り返らずに「ベルトを」と言った。助手席の森崎は後方を確かめ、「乗れ。話は走ってからだ」と短く告げた。
シートベルトを引く指がうまく動かなかった。小野寺は発進を待った。金具が鳴ると同時に、車が動き出す。怜は後部窓を見た。追ってくる者の姿は、まだなかった。
「どこへ行く?」と聞きかけた怜に、森崎は「まず安全な場所だ」と答えた。行き先を知らされないことが、今は不思議と怖くなかった。
*
車内で見せられた内部告発の資料には、保管庫の記憶が「移送資産」と記されていた。母の死を知って泣いた灯の夜も、ユキが父親を思い出せずにいる時間も、書類の上では同じ資産だった。怜は文字を指で押さえた。
「移すのを止めるだけでは、駄目なんですか」
小野寺が尋ねた。
怜は、止めるだけでも意味はある、と答えた。全部を変えなければ無意味だと思うと、できることまで見えなくなる。だが鍵がある以上、自分はもっと大きな決定を求められる。
森崎は、鍵を持つことを誰かに知らせるべきかと聞いた。怜は少し考え、天城の音声を二人に聞かせた。一人で決める前に、一人でしか知らない状態を終わらせたかった。
聞き終えた小野寺は、すごいですね、とは言わなかった。「それ、重すぎますね」と言った。怜はうなずいた。
「お前の部屋は、もう調べられているだろう。編集部のサーバーも押さえられた」森崎は前を見たまま言った。
「法案の採決は?」
「三日後です。可決はほぼ確実。それに、これを見てください」小野寺がタブレットを差し出した。
差出人不明のメールには、内部文書の写真が添えられていた。
『ユートピア区・記憶保管庫 大阪湾第2区へ移送予定 72時間後』
「保管庫ごと運ぶの?」怜は思わず画面に顔を寄せた。
「どういう意味だ」
「十年分の記憶が入ってる。移されれば、住民に返す道が断たれる」怜は言った。
「それだけじゃない。十年分の記録は、誰の悲しみをどう消すかを学習する材料になる。国は島の外でも同じことを始めるつもりなんだ」
「……戻るのか。あの島に」
「戻る」怜は鞄の中のチップを確かめた。
「戻ったら、今度こそ出てこられないかもしれないぞ」
「戻らなくてもいいと思う自分が、まだいるの。だから行く。ここで諦めたら、それが私の選択なのか分からなくなる」
*
怜が戻ると決めたあと、小野寺は車の後部座席で資料を整理した。行かない人間にも、仕事がある。残ることを、臆病と呼ばれなかったのがありがたかった。
森崎は古い取材先へ連絡し、当面の作業場所を借りた。編集部が使えなくても、編集の仕事は止められない。机と電源と、連絡を受ける人間が必要だった。
「僕も行ったほうがいいですか」
小野寺が聞くと、怜は首を振った。
「外で、確かめて。私が何か言っても、そのまま信じないで」
彼はうなずいた。先輩を助けることが、先輩の言葉を疑わないことではない。その役割を渡されたのだと分かった。
怜はノートの写しを彼に預けた。母や妹の個人的な話があるページには印がついていた。公開しないでほしい、と言った。小野寺は印の意味を別の紙に書いた。本人がいないときにも、本人の意思を守るための記録だった。
森崎は車を止め、三人で今後の連絡を確認した。届かなかった場合に、何をするか。いつまで待つか。どこまでを記事にするか。誰も、必ず戻るという約束を求めなかった。求めれば、言わなければならなくなる。
「戻ったら、原稿を直してもらいます」
小野寺は言った。怜は少し笑った。
「直すところ、残しておいて」
冗談の形をした予定だった。小野寺はその予定を、ノートに書かなかった。書かなくても覚えていられるものが、自分にはまだある。
怜が車を降りると、森崎はしばらくハンドルを握ったままだった。小野寺は声をかけなかった。編集長が泣いているのかどうかを、確かめる必要はない。
借りた作業場所へ着くと、二人は資料を机へ並べた。桐生の古いメモ、怜の写し、公開情報。三人の時間が、同じ机の上で重なった。
小野寺は最初の行に、確認できたこと、と書いた。次に、まだ分からないこと、と書いた。怜から教わった方法だった。教わった方法を使うことが、今は彼女を待つことになった。
森崎が湯を沸かした。紙のカップが二つ置かれた。小野寺は3つ目を出しかけ、やめた。戻ってきたら、そのとき出せばいい。空のカップを置くことより、仕事を続けることを選んだ。
*
鷲尾は同じノートのページを、朝のうちに三度読んだ。忘れたからではない。「娘を探せ」と書いた自分の字に、気持ちが追いつかなかった。
案内人のユキなら知っている。顔も声も思い出せる。だが、その娘が自分の子だという実感だけがない。最後の行には「分からなくても会いに行け」とあった。
鷲尾は杖を持って立ち上がった。娘に会う父親として何を着るべきか、鏡の前で迷った。答えは出なかった。ノートを上着の内側へしまい、玄関を開けた。
*
朗読を終えたユキに、鷲尾はノートを差し出した。「お嬢さん、これを読んでくれんか」。ユキは椅子を勧めたが、老人は座らなかった。普通の客として話を終わらせたくなかった。
何度も開かれた紙は、指の脂で薄く光っていた。ユキは慎重にページをめくる。そこに書かれた日付も出来事も、自分の記憶とは結びつかなかった。
「三月四日。昨夜は妻の命日だった。なのに今朝の私は笑っていた。妻を思い出せ」。読み進める声が、少しずつ遅くなった。
「六月一日。娘を探せ。娘はまだ区内にいる」。次の行で、ユキの指が止まった。「娘の名前はユキ。雪の日に生まれたから、ユキ」。余白には、子どもの字で「ゆき」が何度も書かれていた。
*
読み終えても、ユキはノートを閉じられなかった。文字を見た瞬間に過去が戻ったわけではない。けれど、これを他人の物として返すこともできなかった。
鷲尾はようやく椅子に腰を下ろした。ユキは水を持ってきた。二人とも、客と案内人としてなら何を言えばよいか知っていた。父と娘としては、何から始めればよいのか分からなかった。
「私の名前、もう一度言ってください」
ユキが頼むと、鷲尾は、ユキ、と言った。いつもの案内人の名前と同じ音だった。だが今は、その前に名字がある。誰かとつながるための名字だった。
「鷲尾、ユキ」
彼女は自分で言った。声にすると、借りた名前のように聞こえた。昔の自分の名前であることと、今の自分がその名前を使えることは、同じではない。
鷲尾は、無理に呼ばんでええ、と言った。お父さんと呼べという意味ではなかった。名字も、今すぐ受け取らなくてよい。その猶予を、彼は言葉にせず渡した。
ユキはノートの余白を見た。子どもの字は、今の自分の字とは違う。違う字が自分のものだと、紙は主張している。彼女は指でなぞり、途中で止めた。涙で紙を濡らしたくなかった。
「これ、預かってもいいですか」
彼女が聞くと、鷲尾は困った顔をした。自分も、それがなければ分からなくなる。娘を探す理由も、今日ここへ来たことも。
ユキはすぐに謝った。父の記憶を、自分のために取り上げようとした。鷲尾は首を振り、写せばええ、と言った。
二人は机に紙を置き、同じページを写した。老人はゆっくり書き、ユキはその速さに合わせた。案内の仕事なら、待ち時間を短くすることがよいことだった。今は、待つ時間が必要だった。
写し終えると、鷲尾は自分のノートを閉じた。ユキは写しを持った。原本と写し。どちらにも、今日の二人の字がある。
「また来ても、ええか」
老人が尋ねた。ユキはうなずいた。父だから来てよいのか、客だから来てよいのか、まだ分からない。それでも、来てほしいと思った。
鷲尾が去ったあと、彼女は完了の記録を入力しなかった。終わった仕事ではない。始まったことを記録する欄を、端末の中に見つけられなかった。
*
物資船の船倉は、海がうねるたびに床が軋んだ。怜は木箱に背をつけ、眠らないよう揺れの間隔を数えた。天城の鍵を持っていると伝えると、船長はしばらく黙った。
「あの人が島を作る前から知ってる」と船長は言った。「図面を見せられたときは、人が休める場所にしたいってな」。船長は懐中電灯を伏せた。「どこから、休むことと閉じ込めることが同じになったんだろうな」
「区長は、もう私を覚えていません」。怜がそう言うと、船長は小さく笑った。「俺のこともだ。三十年の付き合いなのにな。でも、あんなに穏やかな顔は初めて見た」。怜は答えなかった。
*
接岸した船の前に、澪と慧が立っていた。怜は挨拶より先に灯のことを尋ねた。「一週間、泣いていました」と慧は答えた。「でも昨日、初めてお母さんの話を笑いながらしたんです」
「レモンケーキ、甘すぎたよねって」。怜は目を閉じた。母の味を思い出すことが、妹を壊すばかりではなかった。そのことに、胸の奥が痛んだ。
澪は父について何も言わなかった。怜も聞かなかった。代わりに「研究室へ行く前に、灯に会わせて」と頼んだ。澪はうなずいた。
*
住居区画へ向かう途中、慧は怜に、灯が母へ手紙を書いていると話した。出す場所がないから、引き出しに入れているという。怜は、読んだのかと尋ねた。彼は首を振った。
「読んでほしいと言われたところだけです」
怜はうなずいた。悲しみを共有することと、全部を見せることは違う。慧はその違いを、暮らしの中で覚え始めていた。
道の脇で、共同工房の住民が器を運んでいた。怜が最初に会った人だった。相手は彼女を覚えていないようだったが、器の話をすると、棚にあるかもしれないと答えた。
怜は今は取りに行けないと言った。住民は、急がなくてよいと答えた。島には、急がなくてよいものもある。そのことを忘れるほど、彼女は急いでいた。
慧は、ここが全部悪い場所になったわけではないですよね、と聞いた。怜は、そうです、と答えた。器を作る時間、食べるものが届く安心、住む場所があること。それらを失わせるために戻ったのではない。
「でも、今のままでは、守れないものがあります」
彼女は続けた。慧は、自分と灯のことだと思ったのか、家の方角を見た。怜は、それだけではないと言った。工房の住民にも、案内人にも、自分が何を選んだかを知る機会が必要だ。
「知りたくない人も、いると思います」
慧は言った。怜はうなずいた。その人を、間違っていると決めることはできない。だが知りたくないという返事が、何を知らされていないかを知らないままの返事なら、どこまで本人の意思と呼べるのか。
二人は歩く速さを落とした。答えのない話を、急いで終わらせないためだった。
灯の家の前で、慧は足を止めた。
「僕、灯が泣くと、何かしなきゃと思ってしまうんです」
「何を?」
「泣きやませることです。でも、昨日は、何もしないで隣にいたら、灯が自分で話し始めました」
怜は、何もしなかったわけではないと思います、と答えた。隣にいることを選んだ。離れず、急かさず、直そうとしなかった。それも、したことだった。
慧は少し考え、玄関を開けた。家の中から、紙を動かす音がした。灯は、母のいない世界で、まだ書き続けていた。
*
灯はテーブルに向かい、母への手紙を書いていた。目の縁は赤かったが、ペンを持つ手は落ち着いている。怜は手紙をのぞかず、向かいの椅子に座った。
「慧くんにも、全部は話せないんだ」
灯は言った。
「お母さんのこと、慧くんは知らないから。でも、聞いてくれる」
怜は黙って聞いた。妹がどこまで話すかを決める時間を、急かしたくなかった。
「お姉ちゃん、私が外に出なかったの、まだ怒ってる?」
怜は首を振った。
「怖かった」
そう答えると、灯は少し笑った。
「私も」
二人の怖さは同じではなかった。だが、どちらも怖かったと言えるようになった。怜は妹を連れ帰るという言葉を、今夜は使わなかった。
灯が、テーブルで手紙を書いている。目は腫れているが、表情は穏やか。
「お姉ちゃん」灯は言った。
「灯」怜は言った。
二人は抱き合う。
「お母さんの夢、見たよ。調律の夢じゃなくて、本物の夢。……すごく下手な夢だった。順番もぐちゃぐちゃで、お母さん怒ってて」灯は言った。
「うん」怜は言った。
「でも、本物だった」
灯は怜を見上げる。
「お姉ちゃん、何しに戻ってきたの」灯は言った。
「この島の人たちに、預けたものを返す方法を探しに」。怜は言い直した。「でも、全員に返していいのか、まだ分からない」
「私は、返してもらってよかったよ。つらいけど」灯は言った。
「でも、みんながそうだとは思わない」
*
研究室へ向かう前、怜は灯に、これから何をするかを話した。すべての記憶を返すか、返さないか。その決定を求められるかもしれない。妹は姉の顔を見た。
「私が返してほしいって言ったら、お姉ちゃんはそうする?」
怜は、あなたの分なら、あなたが決めてほしい、と答えた。
「じゃあ、ほかの人の分は?」
灯は続けた。怜は答えられなかった。妹の問いは、技術の仕組みより単純で、重かった。
「私、まだ、全部覚えていたいか分からないよ」
灯は言った。
「お母さんのことは覚えていたい。でも、ほかに何を忘れたか、知らないから」
怜はうなずいた。知らないものを取り戻すかどうかを、知る前に決める。その難しさを、妹は自分の言葉で話した。
「怖いなら、やめてもいいと思う?」
「思う」
「途中でやめても?」
「うん」
灯は少し息を吐いた。正しい答えを言わなければならないと思っていたのかもしれない。母を覚えていたいと言った人間は、すべての記憶を引き受けなければならない。そんな約束をしたわけではない。
怜はノートに、途中で止める、と書いた。灯はその文字を見て、あとでまた始めてもいい、と付け加えた。姉は書き足した。
「私が言ったからって、みんなに同じことをしないでね」
灯は言った。怜は、しない、と答えた。約束を守る方法は、まだ分からない。それでも、守るべきことは分かった。
慧が水を持ってきた。三人は少しずつ飲んだ。灯は姉の鞄を見て、重そうだと言った。怜は、紙が多いから、と答えた。
「全部、持っていかなくてもいいんじゃない」
妹は言った。怜は鞄を開き、資料を分けた。母の写真は、灯に預けた。妹は両手で受け取り、机の上へ置いた。写真を預けることと、記憶を預けることは違う。返してほしいと言えば、返ってくる。
出発するとき、灯は姉を抱きしめた。強くはなかった。行かせないためではなく、帰ってきたらまた触れられるように、今の感触を覚える抱き方だった。
怜は、行ってきます、と言った。取材へ行くときにも、島へ来るときにも、言わなかった言葉だった。灯は、いってらっしゃい、と答えた。
*
ノアの予測には、小さな注記があった。「全員に一斉返還」「支援体制は現状のまま」「外部医療の受け入れなし」。怜はその三行を読み上げた。
「条件を変えれば、数字も変わるんですね」
澪はうなずいた。
「でも、今の命令には条件を変える機能がない」
怜は「三百十二」とノートに書いた。数字を囲もうとして、ペンを止めた。一人ずつに名前があるはずの人数だった。
「予測を疑うことと、危険を無視することは違う」
彼女は自分に言うように話した。
澪は支援の準備を始めると言った。医療班へ連絡し、眠っている人を急に起こさないよう手順を伝える。鍵を使うかどうかが決まる前にも、できる準備はあった。
中枢室へ向かう廊下で、澪が端末を開いた。「移送は明日の午前零時。九条がノアから直接指示を出す」。怜は足を止めた。
「全記憶返還は、どこで実行できるの」
「中枢室よ。あなたの脳波で認証すれば実行できる。ただし、その前に見てほしい数字がある」澪は画面を切り替えた。
画面に予測値が並んだ。
『全記憶返還実行時 予測結果』
『重度の急性ストレス反応 居住者の41%』
『返還後72時間以内の推定自死者 312名』
怜は画面を見つめた。三百十二という数字が、なかなか人間の数に変わらなかった。
「三百十二人……」慧の声はかすれていた。
「10年分の悲しみを、一晩で背負わせるんだもの。耐えられない人が出る」
「実行しなければ?」怜は尋ねた。
「保管庫は大阪へ。来年から、全国で調律が始まる。……その場合の自死者は、ノアの試算では、むしろ減る」
沈黙。
「正しいと思うことを選んで、人が死ぬかもしれない」怜はつぶやいた。
「ノアは、そう言ってる」
*
澪は保管庫の手前で、怜に少し待つよう頼んだ。作業員が棚を運び出している。止める権限は、今の彼女にはない。以前なら、父の名前を使えば止められた。その方法を失って初めて、住民が何も止められなかったことを身体で知った。
彼女は搬出の記録を見た。番号、数量、移動先。記憶の中身は書かれていない。中身を知らない作業員を責めても、移送の決定は変わらない。
「これは、誰のものか知っていますか」
澪が尋ねると、作業員は、区の管理物です、と答えた。間違った説明をしているつもりはない。渡された書類に、そう書かれている。
澪は、住民の個人記録です、と言った。作業員は手を止めた。彼女は移送を止めろとは言わなかった。本人の承諾を確認した記録があるかと聞いた。
相手は書類を見直した。管理者の承認はある。本人の欄はない。作業員は上司へ確認すると言い、棚をいったん置いた。
ほんの短い時間だった。だが、誰のものかを言い直すことで、手順が止まることもある。澪はそのことを、もっと早く試すべきだったと思った。
怜は隣で黙っていた。研究者の言葉が、管理の言葉から変わる瞬間を見ていた。
「私、技術を作れば、あとは正しく使われると思ってた」
澪は小声で言った。
「正しく使うための手順も、作らなければならなかった」
怜は、今からでも、と言いかけた。簡単な励ましになる気がして、やめた。代わりに、今止まった棚の番号を記録した。
作業員の確認が終わる前に、二人は中枢室へ向かった。扉の前で、澪は怜のリングを見た。鍵を持つ人間が一人だけいる。その仕組み自体が、問題の一部だった。
「私が、あなたに決めさせようとしてる」
澪は言った。怜はうなずいた。
「分かってます。だから、決め方も考えます」
澪は扉を開けた。機械の低い音が聞こえた。答えを出す場所へ来たはずなのに、怜のノートには、問いばかりが増えている。
彼女は最後に、灯の言葉を読んだ。途中で止める。あとでまた始める。誰かが考え直すための時間を、仕組みの中に残せるか。それが、これから自分が確かめることだった。
*
中枢室の中央には、光を内側に閉じ込めた巨大な柱が立っていた。近づくと表面から熱が伝わる。怜が触れる前に、背後の扉が閉じた。澪と慧の声が、厚い扉の向こうで途切れた。
柱のそばに九条静馬が立っていた。「お待ちしていました、真柴さん」。その声は、取材に応じるときと少しも変わらなかった。
九条は娘の話を始めた。七歳で病死したこと、開区前にその記憶を天城に預けたこと。娘の名前も顔も、もう思い出せないという。
「それでも毎朝、起きて働ける。眠ることもできる」。九条は自分の胸に手を当てた。そこに痛みがないことを確かめるように。
「それが幸せですか」と怜が問うと、九条は「分かりません」と答えた。「分からないことが、どれほど楽か。あなたならご存じでしょう」
怜は父が落ちた夜を思い出した。九条の言葉は残酷だった。だが、眠りたいという願いまで嘘にはできなかった。
「鍵を使わず帰るなら、あなたのお父様の記憶を預かりましょう」。九条は言った。「三時十七分に目を覚ます夜は、終わります」。怜は思わず手首のリングを見た。
『認証者 真柴怜を確認』
『全記憶返還を実行しますか』
『はい / いいえ』
怜の右手が、柱へ伸びる。九条は、止めない。ただ静かに見ている。
「あなたが『はい』を押せば、三百十二人が死ぬかもしれない。『いいえ』を押せば、あなたは今夜から、ぐっすり眠れる」九条は言った。
柱の表示が二択を示した、そのときだった。光が乱れ、記録映像が浮かび上がる。ずぶ濡れの桐生が、柱に手を置いていた。「ノア。俺の分の鍵をここに置いていく。レイが来たら、見せてやってくれ」
「レイ。どっちを押してもいい。ただし……」
映像が途切れた。時計は午前零時を指す。地下から低い唸りが広がり、島の夜の調律が始まった。怜は、柱に伸ばした指を止めた。




