第10章 選択
柱の奥で低い唸りが続いていた。白い光が脈を打つたび、怜の指の影が床を滑る。触れる寸前で止めた手の向こうに、桐生の姿がノイズ混じりに浮かび上がった。
「……ただし、押すのはお前一人じゃなくていい」
「この島の人間は、みんな一度、自分で選んでここに来た。だったら、もう一度、自分で選ばせてやれ。……それが、俺が2年かけてノアに覚えさせた、3つ目のボタンだ」
映像はそこで途切れた。柱の表面を走っていた文字が消え、代わりに三つの選択肢が現れた。
『はい / いいえ / 問う』
「……桐生が、こんなものを」九条の声がかすれた。
その顔から、いつもの確信が消えていた。
「『問う』って、どういうこと?」
柱の文字が流れる。
『全居住者に、調律中の夢の中で、一度だけ問いかけます』
『あなたが預けた記憶があります。取り戻しますか』
『返還を望む者には、覚醒後の説明と再確認を経て、時間をかけて返します。途中で停止できます』
『望まない者の記憶は、本人以外が開けられない状態で保管します。保留と再申請を認めます』
『この命令の実行後、調律の実行機能と全学習データは消去されます。個人の保管記録と返還機能は維持されます。本設備から調律を再構築することはできません』
「調律は今夜で終わる。忘れたままでいたい人の記憶は、勝手に返されない。でも、明日から生まれる悲しみは、もう誰にも消せない」怜は表示を読み終えた。
「それでは、楽園ではなくなる」
「ええ。ただの島になる」
「住民を苦しめることになりますよ」
「そうかもしれない。でも、それを決めるのは私でも、あなたでも、国でもない」
九条は答えなかった。柱の光だけが、二人の顔を交互に照らしていた。
「……私にも、問われるのですか」
「あなたも、住民でしょう」
怜は『問う』の文字に触れかけて、手を引いた。眠っている人間の返事を、本当の同意と呼べるのか。扉の向こうから、端末を読み上げる澪の声が届いた。
「最初の問いで返還は始まらない。希望を登録して、目覚めてからもう一度説明する。返還の途中でも止められる」
怜は説明文をもう一度追った。夢の中では希望を登録するだけ。目覚めてから説明を受け、もう一度決める。桐生が残したのは答えではなく、考え直すための時間だった。
「今夜、答えられない人は?」
「保留になる。答えないことを、承諾にはしない」
怜はその1行を、何度も読んだ。
怜は九条を見た。彼はうなずきも、首を振りもしなかった。怜は柱へ向き直り、『問う』に手のひらを重ねた。光が天井へ走り、地下の配線を伝って島じゅうへ広がっていった。
*
地下の眠りの区画には、何千ものカプセルが並んでいた。ひとつ、またひとつと、枕元の表示が灯る。
『あなたが預けた記憶があります。取り戻しますか』
金色の光が残るカプセルもあれば、青へ変わるものもあった。どの顔もまだ眠っている。選んだだけで、失った年月が一度に戻るわけではなかった。
医療班の端末には、支援の準備を求める通知が届いた。澪は、急いで全員を起こさないよう繰り返し伝えた。終わりを急げば、救うつもりの決定が、別の強制になる。
*
自宅のベッドで、灯は端末の光に目を細めた。母の記憶の欄には「返還済み」とある。その下には、慧と口論した夜や、入区直後に帰りたいと思った朝が並んでいた。悲しみだけではなく、迷いまで預けていたのだ。
灯は「保留」を選んだ。母の死を思い出したばかりの今、これ以上を受け止められるか分からない。端末は、返事を急がせなかった。
慧は中枢室から戻り、寝室の入口で灯の返事を待った。彼女は手を伸ばした。夫が何を預けているのか、まだ知らない。知るかどうかも、二人で話して決めることになる。知らない部分があることを、今夜は不安だけとは思わなかった。
*
鷲尾は自宅の布団で、胸元の機器が刻む小さな振動を感じながら眠っていた。夢の中に、問いが現れた。
「……返してくれ。全部だ。女房も、娘も」
老人は夢の中で、ノートを開いていた。ページが白い。書くことがなくなったのではない。これから書くことがある。彼はペンを探し、見つからないまま目を覚ました。
枕元に本物のノートがあった。鷲尾はそれを抱え、窓の外を見た。まだ暗い。朝になるまでに、今日の自分へ書くことがある。娘に会いたい。彼はその1行を書いた。命令ではなく、自分の願いとして書けた。
*
案内人の宿舎にも問いは届いた。白いベッドの上で、ユキは鷲尾のノートを胸に抱いていた。
「……ユキ」自分の名を、確かめるように口にした。
ユキの光が、青く灯る。
ノートを抱く手に力が入った。返してほしいと思ったあとで、怖いとも思った。怖いという気持ちが、消えずに残った。ユキはその気持ちを、初めて自分の返事の一部にした。
*
天城は窓辺の椅子で眠っていた。問いの光が頬を照らすと、口元がわずかに動いた。
「……ああ。重いほうを、頼むよ」
傍らにいた澪は、外されていた家族写真を机の上に置いた。父が目を覚ましても、すぐに説明しなくてよいように、裏返して置いた。見るかどうかも、父に尋ねるつもりだった。
*
九条の手首にも、問いが浮かび上がった。
『あなたが預けた記憶があります。取り戻しますか』
九条は表示を見つめたまま、動かなかった。
「……十年も、知らずに生きてきた。今さら、何を」
「7歳の娘さんの名前、知りたくないんですか」
九条は震える指をリングへ近づけた。選択を確定すると、医療班による確認と説明の予約が表示された。彼は、返還が始まるまで娘の名前を思い出せないことを知り、その場に膝をついた。
「……名前を、取り戻したい」
九条は床に手をついた。まだ思い出せない娘に向けて、声を殺さずに泣いた。
戻った記憶は、まだない。それでも、名前を知りたいと願うことの重さに、九条は立っていられなかった。
怜は床に座り、少し離れて待った。背中に触れる前に、触れてもよいかと聞いた。九条は返事をしなかった。彼女は手を下ろした。助けたいという気持ちが、触れる許可にはならない。
やがて彼がうなずいたので、怜はそっと手を置いた。九条は、返還の日程が記された画面を見つめた。思い出すまでの時間を、今度は自分の意思で待つことになる。
柱には、調律の実行機能と学習データの消去が表示されていた。個人の保管記録と返還機能は残る。怜は、消えたものと残ったものを一字ずつ確かめた。
この島の装置を壊しても、世界のどこかで同じ技術が生まれないとは限らない。だが少なくとも、ここで他人の記憶を奪い、学習の材料にする仕組みは終わった。
*
一方、黒江冴子の執務室では、モニターが赤い警告で埋まっていた。
『ユートピア区 ノア 応答なし』
『学習データ 消失』
『第2区移送計画 実行不能』
黒江は椅子の背にもたれた。扉が開き、捜査員が入ってくる。廊下には取材許可を待つ小野寺がいた。
「……一つだけ言っておくわ、記者さん」
「人は、眠りたいのよ。私たちがやらなくても、いずれ誰かが、また作る」
黒江は立ち上がり、両手を差し出した。小野寺はカメラを下ろさなかった。
*
調律が止まった翌朝、共同食堂はいつもどおり開いた。食べ物が届き、湯が沸き、皿が並んだ。楽園が終わっても、朝食は必要だった。
怜は窓際の席に座った。住民たちは端末を見たり、隣の人と話したりしている。昨夜の問いについて話す人も、何も言わない人もいた。彼女はすべての席へ取材に行かなかった。朝食を食べるだけの時間を、住民から奪いたくなかった。
工房の住民が隣へ来た。怜の器を覚えていると言った。焼き上がっているから、あとで取りに来てほしい。彼女は礼を言った。
食堂の担当者が、昨夜の説明に関する紙を配っていた。受け取らない住民もいる。担当者は無理に渡さなかった。必要になったら窓口にあります、とだけ言った。
怜は紙を読んだ。返還を希望する場合、希望しない場合、保留する場合。それぞれの説明が同じ大きさの文字で書かれていた。希望する欄だけが明るい色になっていることもない。
*
返還の窓口には、椅子が足りなかった。澪は別の部屋から運び、列を短く見せるのをやめた。待つ人間が多いことを隠せば、支援が足りないことも見えなくなる。
最初の説明会で、住民の一人が、戻したあとに後悔したらどうなるかと尋ねた。澪は、戻った記憶を再び消すことはできない、と答えた。部屋が静かになった。
彼女は、だから慎重に決めてください、と続けかけた。慎重さを本人だけの責任にする言葉だった。言い直した。
「決める前に、説明を何度でも受けられます。途中で止めることもできます。私たちが分からないことは、分からないとお伝えします」
別の住民が、家族に相談してよいかと聞いた。もちろん、と答えたあと、澪は、相談しなくてもよい、と付け加えた。家族が望むことと、本人が望むことは同じとは限らない。
説明会のあと、一人が澪へ怒りを向けた。なぜ最初から説明しなかったのか。澪は、説明を受けた記憶まで奪ったからです、と答えた。技術の限界や、当時の事情を先に話さなかった。
相手は許さないと言った。澪はうなずいた。許してもらうための説明ではない。何が行われたかを知らせるための説明だった。
*
その日の夜、ニュースは政府による国民幸福睡眠法案の撤回と、ユートピア区の自由な出入りの開始を伝えた。
編集部で森崎は、怜の署名記事が載った新聞を広げた。見出しは『楽園は、檻だったのか』。最後の一文に目を留め、ゆっくり読み上げた。
森崎は苦笑した。
「記者が答えを書かない記事なんて、初めて見たな」
*
数週間後。かつて『ここに、悲しみはない』と掲げられていた門は、開いたままだった。岸壁には本土行きの定期船が着き、出ていく人と戻ってくる人がすれ違う。灯と慧は手をつないで乗船口へ向かった。
「まず、お母さんのお墓へ行こう。それから、またここへ帰ってこよう」
「帰ってくるんだ」
「うん。ここの庭、好きだから。今度は、自分で選んで帰ってくる」
岸壁では鷲尾とユキが船を見送っていた。ユキは、案内人の白い服ではなく、深い色のセーターを着ている。
「お父さん。お母さんの命日、来週だよ」
「ああ。……ようやく、思い出した」
鷲尾は涙を拭って笑った。
「覚えとるというのは、こんなに痛いもんだったか」
「うん。痛いね」
二人は手をつなぐ。
*
天城と澪は、外してあった家族写真を壁に掛け直した。返還の手続きを経た天城の目は赤かったが、額を支える手は確かだった。
「お母さんと、お兄ちゃんの命日には、二人で泣こう。泣けなくてもいいから」
「……うん」
窓の外を、カモメが横切った。島を覆っていた光の網は、もうなかった。
*
桐生が発見された岸壁に、怜は花を置いた。持ってきたマグカップは二つ。一つだけに、コーヒーを注いだ。
「遼。島は、ただの島になったよ」
「何割かの人は、忘れたままを選んだ。私は、それでいいと思ってる。……思うようにしてる」
怜は白い島を見つめた。
「私はまだ、三時十七分に目が覚める。たぶん、これからも」
「でも、起きたら、遼のコーヒーを淹れる。豆は、挽きすぎない」
立ち上がると、背後に九条がいた。以前より痩せ、目の下に濃い隈がある。
「眠れていますか、真柴さん」
「いいえ。あなたは?」
「一睡も。……でも、毎晩、娘の名前を呼べます」
九条は深く頭を下げ、去っていった。
岸壁の花は、海風ですぐに傾いた。怜は紙の包みを外し、重しになる小石を置いた。長く残るとは思っていなかった。ここに来たという事実を、自分の身体に残したかった。
桐生の言葉を思い出すと、感謝と怒りが一緒に戻る。彼は自分を外へ出した。自分の選択を止めた。最後には、一人で決めなくてよいと残した。彼を好きだったことと、彼の判断をすべて正しかったことにするのは、同じではない。
怜は、勝手に決めないで、と海に向かって小さく言った。そのあと、ありがとう、と言った。順序を変えても、どちらも本当だった。
九条が去ったあと、彼女はカップを二つとも持ち帰った。一つをここに置いていくつもりで来たが、やめた。何を残すかを、今日はまだ決めなくてよかった。
*
一年後の朝。怜は目を開けても、すぐには時計を見なかった。カーテン越しの光は、どこにいても同じ色をしている。
部屋には二つのカップがあった。机にはノートがある。どちらも、どこへでも持っていけるものだった。窓の外を見なければ、どこにいるのか分からない。
そのとき、声がした。
「おはようございます。本日の調律は完了しました」
怜は息を止めた。端末は光っていない。録音の再生音もない。
机の上には一枚の紙があった。細く右上がりの、見慣れた自分の字。
『忘れるな』
怜は紙を裏返した。裏には何もなかった。
怜は長い間、紙を見つめた。書いた覚えはない。だが、覚えていないことだけでは、誰が書いたかを否定できなかった。紙を机へ戻す。
コーヒー豆を挽く音が、静かな部屋に広がった。
指先が布に触れた。白い朝の光が、隙間からにじんだ。
あなたは今夜、何を忘れて眠りますか。
最後まで『ユートピア区』をお読みいただき、ありがとうございました。
もし、人生からすべての悲しみを取り除くことができたなら、私たちは本当に幸せになれるのでしょうか。
誰にでも、忘れてしまいたい記憶があると思います。
大切な人との別れ。取り返しのつかない後悔。誰かを傷つけてしまった過去。どれほど時間が経っても、ふとした瞬間によみがえる痛み。
そんな記憶を、何の苦しみもなく消し去ることができるとしたら。
きっと、その誘惑に心が揺れる人は少なくないでしょう。
『ユートピア区』は、そんな一つの疑問から生まれた物語です。
作中に登場する理想郷では、人々は穏やかに微笑み、争いも悲しみもない日々を送っています。しかし、その幸福を守るために失われたものがありました。
それは、つらい記憶だけではありません。
自分の過去を知ること。悲しむこと。怒ること。そして、自分の人生を自分自身で選ぶこと。
主人公の怜は、真実を追い求める中で、何度も迷い、傷つきます。一方、妹の灯は、たとえ作られた幸福であっても、そこに救いを感じていました。
私は、この二人のどちらか一方だけが正しいとは思いません。
真実を知ることが必ずしも人を幸せにするとは限らず、忘れることが必ずしも間違いとも限らないからです。
大切なのは、誰かが決めた幸福を与えられることではなく、自分が何を大切にし、どのように生きたいのかを、自分自身で選べることなのではないでしょうか。
そして、もう一つ。
私たちは悲しい出来事を経験したとき、その記憶を消してしまいたいと願うことがあります。
けれど、その悲しみの中には、かつて誰かを愛した証や、何かを心から大切にしていた証が残されているのかもしれません。
悲しみを忘れることと、悲しみを乗り越えることは、きっと同じではありません。
物語の最後に残された「忘れるな」という言葉。
それが何を意味するのか、どのように受け止めるのかは、読者の皆さまに委ねたいと思います。
この作品を読み終えたあと、皆さまがご自身の記憶や、当たり前だと思っている日々の幸福について、ほんの少しでも考えるきっかけになれば、これほど嬉しいことはありません。
完璧ではないからこそ、人生には意味がある。
悲しみを知っているからこそ、誰かの幸せを心から願える。
そんな思いを、この物語に込めました。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




