第8章 外の地獄
天城は、映像の桐生を最後まで見た。見終えても、弁解をしなかった。自分が知らなかったことと、知ろうとしなかったことの区別を、彼は今夜初めて考えているようだった。
「あなたが始めたんです」
怜は言った。責めるためだけではなかった。誰かの善意から始まった仕組みが、別の誰かの都合で動くとき、始めた人間の責任は消えない。
天城はうなずいた。
「だから、私が止めるべきだった」
べきだった、という過去形を聞いて、澪は父の顔を見た。まだ止められる、と言いたかった。だが父が渡したのは、外へ出るための鍵だった。止める人間を、自分の外へ送り出そうとしていた。
扉が開く前に、天城はレコードの針を上げた。曲は途中だった。澪はその動作を、あとになって何度も思い出した。
天城の背後では、針を上げられたレコードが静止していた。古いワルツの余韻だけが、怜と澪の駆け込んだ部屋に残っている。
「区長、国が大阪湾に第二の区を造るというのは、本当ですか」怜は息を整える間もなく尋ねた。
「知っているよ。今、テレビで見た」
天城はテレビの消えた画面に目をやり、疲れたように笑った。
「私は、悲しむ人を救いたかった。だが国は、悲しむ人を黙らせたいだけだったらしい」天城は言った。
「お父さん、九条は国の人間よ」
「ああ。最初から分かっていた。分かっていて、使っていた。私も同罪だ」天城は言った。
天城は金庫の奥を探り、擦り減った鍵束を取り出した。金属の重みが怜の掌に落ちた。
「明け方、搬入港から外へ出なさい。物資船の船長は、私の古い友人だ」天城は言った。
「区長は?」
「私はここに残る。この島の悲しみを、最後まで覚えている人間が一人は必要だ」天城は言った。
ノックもなく扉が開いた。九条が、二人の案内人を従えて立っていた。
「区長。少しお休みになったほうがいい」九条は言った。
「……澪、真柴さんを連れて行け」
澪に腕を引かれ、怜は書棚の陰にある隠し扉を抜けた。非常階段へ出る直前に振り返ると、天城は案内人たちに両腕をつかまれていた。抵抗する気配はない。その穏やかな顔が、かえって恐ろしかった。
*
船長は怜の顔を見ても、名前を尋ねなかった。鍵束を見て、乗りな、とだけ言った。澪は港の照明の届かない場所に立っていた。白衣を着ていない彼女は、研究者ではなく、父を置いてきた娘に見えた。
怜は船へ足をかけてから振り返った。灯を連れていない。鷲尾も、ユキも残っている。外へ出ることが、逃げることなのか、助けを呼ぶことなのかは、これからの自分が決める。
澪から受け取ったチップを、彼女は服の内側にしまった。証拠と妹の言葉が、同じ小さなものに入っていた。どちらも落とせなかった。
出航を告げる短い汽笛が鳴った。怜が乗り込むと、澪はゲートの内側へ一歩下がった。
「澪さんも来て」怜は言った。
「私が外に出たら、ノアを止められる人間がいなくなる」
澪は胸元からもう一枚のチップを取り出し、怜の手に押し込んだ。
「契約書の第0条と、国民調律計画の全データ。それと……」澪は言った。
澪の指が、チップから離れるまでに時間がかかった。
「……灯さんから。『お姉ちゃんへ』って」澪は言った。
船体が桟橋を離れた。霧が港の照明をにじませ、白い建物の輪郭を少しずつ消していった。
*
船が島を離れても、怜は甲板へ出なかった。船室の小さな窓から、白い塔が遠ざかるのを見た。2年前も、同じように運ばれたのだろうか。そのときは眠っていた。今は起きている。それだけの違いが、身体には大きかった。
船長は温かい飲み物を置いた。何が入っているかを尋ねると、茶だと答えた。怜は袋の表示を見せてもらった。船長は嫌な顔をしなかった。
「疑うのは、悪いことじゃない」
彼は言った。
「ただ、飲まないと冷えるよ」
怜は礼を言い、少し飲んだ。何でも疑い続ければ、身体が先に疲れる。だが疑わないためには、確かめられるものが必要だった。茶の袋は、その小さな一つだった。
船長は天城の古い友人だと言った。昔、二人で海を見ながら、何もない場所に街を作る話をしたという。怜は、何もない場所ではなかった、と言いかけた。海には船が通り、働く人がいる。だが船長は先に、何もないと思っていたのは俺たちだけだった、と続けた。
「街ができたら、通れなくなった道がある。助かった人もいる。どっちも、俺は見た」
怜はノートを出した。船長は、名前はまだ出さないでくれ、と頼んだ。彼女は了承した。助けてくれた相手の言葉だからといって、無条件で記事に使ってよいわけではない。
陸が近づくと、船室に外の通信が入った。端末が続けて鳴った。森崎、小野寺、知らない番号。島にいた時間が、未読の数になって戻ってきた。
怜は森崎へ短く連絡した。戻りました。資料があります。送信済みという文字が出た。受付済みではない。その違いを、彼女は何度も見た。
返信はすぐ来た。迎えに行く。場所を送れ。怜は場所を送った。誰かが自分のいる場所を知り、自分の意思で来てくれる。その普通のことに、目が熱くなった。
港へ着くと、風が強かった。海の匂いに、燃料と食べ物の匂いが混じっている。街は整っていない。足元に水たまりがあり、誰かが怒鳴っていた。怜は、そのすべてを自由の証拠として美化したくなかった。外にも、苦しみはある。妹が戻れなかった理由も、ここにある。
船長に礼を言い、桟橋を渡った。今度は自分の足で降りた。後ろを振り返ると、島は見えなかった。見えない場所に、妹がいる。彼女はその事実を、今度は忘れないようにノートへ書いた。
*
東京の部屋に戻った怜は、しばらくカーテンを開けられなかった。開けると灰色の街が見えた。端末には、灯から新しい動画が届いていた。再生すると、妹の目元には泣いた跡があった。それでも、微笑もうとしていた。
「お姉ちゃん。私ね、一週間だけ、調律をお休みしてもらうことにした。お母さんのこと、一週間だけ、ちゃんと悲しんでみる」灯は言った。
部屋の冷蔵庫は、低い音を立てていた。島の客室では聞かなかった音だった。怜はその音を聞きながら、帰ってきたと思った。安心したわけではない。自分の不便さが、まだここにあると確かめた。
母の遺影に向かって、ただいま、と言った。灯の動画を再生する前に、音量を下げる癖が出た。彼女は指を止め、少しだけ上げ直した。妹が母を悲しむ声を、母の前で小さくする必要はない。
一週間だけ悲しんでみる。灯の言葉は、怜が思っていたより小さな決意だった。外へ出るでも、島を否定するでもない。まず一週間。その小ささが、姉の大きな正しさよりも確かに思えた。
「そのあとどうするかは、まだ決めてない。でもね、決めるのは私だから。……行ってらっしゃい」
怜は画面を伏せず、妹の顔が消えるまで見つめた。
*
部屋の机に置いたレモンは、硬く縮んでいた。怜はそれを持ち上げ、島へ行く前の自分が戻ってから切ろうと思ったことを思い出した。予定は残った。レモンは待たなかった。
彼女は包丁を出し、半分に切った。果汁は少なかった。皮の内側はまだ黄色い。湯を沸かし、薄く切った一枚をカップへ入れた。島のケーキとも、母の料理とも違う匂いがした。
窓を開けると、外の音が入ってきた。車、足音、隣の部屋の水道。自分で開けられる窓だった。彼女はしばらく、窓枠に手を置いた。
島から持ち帰った資料を机へ並べた。契約書、計画の記録、桐生の映像。母の写真は別に置いた。妹の動画は、まだ再生しなかった。再生すれば、また連れ帰れなかったことを考える。
森崎から電話が来た。今から来られるかと聞かれ、怜は、1時間ください、と答えた。以前なら、すぐ行きますと言っただろう。休む時間を自分で求めることが、怠けることのように思えていた。
彼女はシャワーを浴び、着替えた。鏡の中の自分は、島へ行く前と同じ顔をしている。記憶が戻っても、顔は大きく変わらない。人が何を取り戻したかを、見た目で測ることはできない。
灯の動画を再生した。妹は泣いたあとの目で、少し笑っていた。どちらの顔も、妹だった。怜は動画を保存し、再生した時刻をメモした。妹の言葉を記事に使うかどうかは、まだ決めなかった。
冷蔵庫を開けると、食べ物はほとんどなかった。島では必要なものが届いた。外では自分で買う。彼女は買い物のメモを書いた。卵、パン、牛乳。書いてから、牛乳はあまり飲まないと思い出し、線を引いた。
小さな訂正だった。誰にも許可を求めず、自分の必要を変える。怜はその線を見て、少しだけ息がしやすくなった。
出かける前、レモンの残りを袋へ入れた。捨ててもよかった。残してもよかった。今日は残した。明日、また決めればよい。
鍵を掛け、階段を降りた。自分の部屋を出る記録は、誰かの端末には残らない。だが戻る場所があることを、彼女は自分で覚えていた。
*
森崎は、怜に謝る前に資料を読んだ。謝罪で仕事を終わらせたくなかった。2年前の自分の判断を変えるには、今の資料を確かめ、今の記事を出すしかない。
怜も、会社を潰すかもしれないと言ったあとで、証拠の限界を説明した。桐生の映像は本人の記録だ。契約書は原本から取得したデータだ。全国計画については、別の裏付けが必要になる。大きな秘密ほど、一つの資料だけで書いてはいけない。
小野寺は、公開情報と内部資料を分けて並べた。怜はその手順を見て、初めて戻ってきた実感を持った。ここでは、何を信じるかを誰か一人が決めない。面倒で、遅くて、間違えることもある。その手順を、今度は省かなかった。
編集部の机に、桐生の映像と契約書のデータを並べた。森崎は怜の説明を遮らずに聞き、小野寺は出典を一つずつ確かめていた。
「2年前、俺はお前の記事を国に売った。今度は売らん」森崎は言った。
「会社、潰れますよ」
「潰れたら、そのときはそのときだ」森崎は言った。
森崎は小野寺を見た。若い記者は、怜と森崎の間で視線を往復させてから、まっすぐうなずいた。
「全部出せ。紙もネットも、全部だ」森崎は言った。
*
公開までの数日、編集部の机は紙で埋まった。怜は内部資料を読み、小野寺は公開情報と照合し、森崎は掲載する範囲を決めた。大きな秘密を知ったことと、大きな記事を書けることは違う。
桐生の映像には、怜の個人的な記憶が含まれていた。小野寺は、ここは使わなくてよいと思います、と言った。怜はうなずいた。自分が出してもよいと思うことと、出す必要があることを分けたかった。
灯の記憶は、もっと慎重に扱う必要があった。妹は公開を承諾していない。母の死を忘れたことを、見出しのために使えば、妹の経験をまた他人が管理することになる。
「家族の話を外しても、仕組みは書けます」
小野寺は言った。怜は、その言葉に救われた。読者を動かすために、いちばん弱い場所を見せなければならないと思い込んでいた。
森崎は、反論を求める質問状を作った。返事がない場合にも、何を尋ねたかは残す。質問の中には、区の技術が救った人間がいることも認める一文があった。怜は削らなかった。
夜、古い取材先から連絡が来た。桐生を知る工場の経営者だった。怜は、亡くなったことを確認したと伝えた。男は長く黙った。記事に何を書いてほしいかとは聞かなかった。今は取材の電話ではなかった。
「待ってくれる人だったんですよ」
男は、前と同じことを言った。怜は、はい、と答えた。今度はその意味を、少し知っていた。
電話を切ったあと、彼女は桐生の署名記事を読み直した。全部がよい記事ではない。急いだ文章も、説明が足りない箇所もある。死んだ人間を、完全な記者に変える必要はない。彼が残した仕事を、仕事として読むことが、彼を覚える方法になる。
小野寺が最終稿を持ってきた。確認できない箇所には印がついていた。怜は一つずつ読み、削るものと残すものを決めた。残す場合には、未確認であることを書いた。
朝になると、森崎が見出しを示した。強い言葉だった。怜は、1語だけ変えてほしいと頼んだ。住民を、眠らされた人々と呼ぶのではなく、選び直せない人々としたかった。
森崎は考え、直した。記事は少し長くなった。読みやすさより、失いたくない区別があった。
公開の操作をする前、怜は窓の外を見た。島は見えない。だが記事を出したあとも、そこには人が暮らす。終わりではなく、その人たちへ届く最初の問いであってほしかった。
*
記事が公開された日の午後、怜は自分の名前で検索するのをやめた。賞賛と非難が、同じ速さで増えていた。どちらも、記事を読んだ人間の数と同じではない。
取材を求める電話が鳴り続けた。妹はどうなったのか。恋人は死んだのか。怜は、住民の権利について話したいと答えた。電話の相手は、それも聞きます、と言った。先に聞きたいことが別にあるのは、声で分かった。
編集部の窓から街を見ると、誰も立ち止まっていなかった。大きな記事が出ても、昼食を買う人間は昼食を買う。怜はその普通さを、救いとも、残酷さとも感じた。
記事の見出しは街頭ビジョンにも映った。『ユートピア区の地下 住民は毎晩記憶を消されていた』。電車の乗客は端末をのぞき込み、テレビでは討論が始まり、国会では黒江に質問が集中した。編集部の画面で、アクセス数が桁を変えていく。けれど怜は、その数字を成果だとはまだ呼べなかった。
*
世論調査の数字を見たあと、小野寺は質問文を開いた。どのように尋ねたかで、答えは変わる。賛成の数字だけを見て、住民の記憶を奪うことに賛成したと決めるのは早かった。
怜は質問文を読んだ。睡眠改善を希望するか。つらい記憶を軽減できるなら利用したいか。記憶を軽減することと、契約を忘れることは、同じ質問に入っていなかった。
それでも、届いた読者の手紙には、はっきり書かれていた。忘れたい。何を失うかを知っていても、忘れたい。怜はその手紙を読まずに、世論の誤解だと片づけることができなかった。
記事を出せば、みんなが同じ結論にたどり着くと思っていた。その期待自体が、島の考え方に似ていた。正しい情報を与えれば、正しい選択が揃う。だが選択が揃わないことも、外にいる意味の一つだった。
小野寺が画面の前で動きを止めた。グラフの数字を見直してから、森崎を呼んだ。
「……編集長。世論調査、出ました」小野寺は言った。
画面には、新しい世論調査の結果が表示されていた。
『国民幸福睡眠法案に賛成68%、反対21%』。怜は、記事の公開前に見た数字を思い出した。
「……上がってるのか。記事が出る前より」森崎は言った。
「記事のせいで、です。『記憶を消してもらえるなら、自分も受けたい』って」
怜はグラフの下にある小さな注記を読んだ。調査の質問は、記憶を失う危険について具体的に説明していなかった。それでも、数字の背後にいる人々の苦しさまで否定することはできない。
*
翌日、街頭でデモが行われた。怜は反対の声が集まっていると思い、足を止めた。だがプラカードの文字は予想と逆だった。
『私たちにも調律を』『悲しみを消して』『眠らせてくれ』。
車椅子の老人がいた。幼い子を抱いて立ち尽くす母親も、作業着の男たちもいた。その列の端に、怜は元建設作業員の田淵を見つけた。
「田淵さん……」怜は言った。
「よう、姉ちゃん。記事、読んだよ」
「なんで、ここに」怜は言った。
「3年前に女房が出てった。去年、仕事も切られた。毎晩、酒飲まなきゃ眠れねえ。……それが消えるってんなら、俺は消してほしいね」
「それは、国に都合のいいように……」怜は言った。
「国の都合でもいいよ。俺の都合とたまたま一緒なら」
田淵はプラカードを掲げ直した。
「あんたは向こうで、ぐっすり眠れたんだろ? なのに戻ってきた。俺には、そっちのほうが分からねえ」田淵は言った。
集まった人々の声は、怒りより疲れに近かった。怜は、疲れた人間に、もう少し耐えてくださいと言う言葉を持っていなかった。持っていないことを、正しさで隠したくなかった。
田淵はプラカードの棒を握り直した。手が少し震えていた。怜は、地下の図面を語った夜の彼を思い出した。あのとき彼は、帰り道を確かめろと言った。今は、自分の帰り道をなくしたいと言っている。
「忘れたあとで、返してほしくなったらどうしますか」
怜が聞くと、田淵は考えた。
「そのとき返してもらえりゃいい」
その答えは、怜の考えと遠くなかった。彼が欲しいのは、奪われることではなく、休めることだった。彼女はその違いを、記事で10分に書いたのだろうか。
怜は答えられなかった。問いを突きつける相手の苦しみを、自分の結論の材料にしたくなかった。
「眠らせろ!」という声が、通りの向こうから重なった。
*
番組の打ち合わせで、怜は最初に、島を閉鎖すべきだと言う予定はないと伝えた。担当者は少し困った顔をした。賛成と反対を並べる構成だという。
「何への賛成ですか」
怜が尋ねると、担当者は、調律です、と答えた。彼女は、調律にはいくつもの問題が含まれると説明した。休息を支えること。記憶へ介入すること。説明を忘れさせること。退区を制限すること。全部を一つの賛否にすると、どこに同意し、どこに反対するかが消える。
担当者は時間が短いと言った。怜は、短いなら全部を扱わないほうがよい、と答えた。相手は黙った。番組を作る側の事情を知らないわけではない。自分も、短い記事に多くを押し込んできた。
「質問を、一つだけ変えてください」
彼女は頼んだ。
「幸せになるために記憶を手放しますか、ではなく、手放したあとで取り戻したいと言えますか、と聞いてほしい」
担当者はメモを取った。採用するとは言わなかった。怜は、それ以上約束を求めなかった。
控室で、小野寺から資料が届いた。読者の問い合わせの一覧だった。島へ行きたい人。家族に会いたい人。自分の記憶を調べたい人。怒っている人だけではない。記事を読んでも、島を望む人がいる。
怜は、行きたい人を愚かだと思わないようにした。自分も残りたいと言った。残りたいと感じた時間を消して、外から正しいことだけを言う記者にはなりたくなかった。
黒江が控室へ来た。彼女は記事を読んだと言い、よく調べたと評した。怜は礼を言わなかった。評価を受けるために来たわけではない。
「あなたも、救われたんでしょう」
黒江は尋ねた。怜は、眠れたことは事実です、と答えた。
「では、なぜ否定するの」
「眠れたことと、説明を忘れさせられたことは、別です」
黒江は、視聴者には難しい話ね、と言った。怜は、難しい話を簡単にしすぎないために来ました、と答えた。
放送の時刻が近づいた。担当者が二人を呼んだ。怜はノートを閉じ、持っていく資料を減らした。全部を話せないなら、何を話すかを自分で選ぶ必要がある。
最後に、妹の名前を書いた紙を鞄へ戻した。今夜の議論のために、妹の人生を机へ出すことはしなかった。
*
放送前、黒江は怜に水を勧めた。怜は自分で用意した水を飲んだ。相手の好意を受け取らないことが、討論の準備になっている自分を、少し嫌だと思った。
本番が始まると、黒江は人を救う話をした。怜は人の権利を守る話をした。どちらの言葉も、相手が無視しているものを指していた。だが救うという言葉には、今夜眠れない人間の顔がある。権利という言葉には、まだ眠っている人間の未来がある。画面に映るのは、今の顔だった。
怜が、人間ではない、と言った瞬間、自分の言葉の粗さに気づいた。灯も、鷲尾も、ユキも人間だった。自分が守りたい人々を、守るための言葉で傷つけている。
黒江はその隙を見逃さなかった。怜は言い直す機会を待った。放送の時間は、待ってくれなかった。
生放送のスタジオは、冷房が強すぎた。怜の向かいには黒江冴子が座り、司会者の合図とともに赤いランプが点灯した。
「真柴さんの記事には、感謝しております。国民の皆さまに、調律の素晴らしさを知っていただくきっかけになりました」黒江は言った。
「住民は、自分が何を手放したかも覚えていないんですよ」
「それで、誰が不幸になりました? ユートピア区の10年間で、自殺者はゼロ。外では、同じ10年で何十万人もの方が自ら命を絶っています」黒江は言った。
「悲しみを奪われた人間は、もう人間じゃない」
「では、あなたの言う『人間』のために、あと何人死ねばいいのでしょう」黒江は言った。
スタジオの空気が変わった。司会者が次の質問へ移ろうとしたが、誰もすぐには口を開かなかった。
「あなたは2年前、区に残りたいと泣いたそうですね。……ご自分が一番、ご存じのはずですよ。あの眠りが、どれほど優しいか」黒江は言った。
怜は言葉に詰まった。自分の沈黙まで、今は画面の向こうへ届いている。
*
眠れない夜、怜は取材ノートを開いた。番組で言った言葉に線を引き、隣に書き直した。悲しみを奪われても、人間であることは失われない。失われるのは、自分の経験に触れ、判断し直す機会だ。
書き直しても、放送された言葉は戻らない。島でなら、明日の朝にはその失敗を忘れられるのかもしれない。怜は、その誘惑が今も自分の中にあることを認めた。
二つのカップを並べると、片方を片づけたくなった。片づければ、誰もいないことを毎朝見ずに済む。彼女はしばらく迷い、片づけなかった。忘れないためというより、今夜はまだ決められなかったからだった。
決められないまま朝を迎えることも、外では許される。許されることと、楽であることは、同じではなかった。
午前三時十七分。怜はベッドの上で目を開けた。閉じると、ベランダの向こうに父の背中が現れた。落ちていく影。跳ね起きた彼女の寝間着は、汗で背中に貼りついていた。
「……戻ってきた」怜は言った。
キッチンでマグカップを二つ並べ、片方にだけコーヒーを注いだ。外には地獄がある。区には檻がある。どちらを選んでも誰かが泣く。怜は空のカップに目を向けた。遼なら、何を選ぶだろう。答えのない問いだけが、湯気の向こうに残った。
*
澪は父に、兄の名前ではなく、古い急須のことを尋ねた。誰が選んだものか覚えているか。天城は、自分が買ったのだろう、と答えた。欠けた注ぎ口を見ても、困った顔をしなかった。
家族の写真を外した跡が、壁に残っていた。長い間光が当たらなかった四角だけ、色が違う。澪はその跡に手を置いた。父の記憶から消えた家族が、壁には残っている。
九条は、父が楽になったと言った。澪は父の顔を見た。確かに、今までの疲れがなかった。だからこそ、怒りだけでは立っていられなかった。父が救われたように見えることと、父が自分を知らないことが、同時に起きていた。
彼女は父に触れなかった。触れても、自分が娘だという説明を始めなければならない。その説明をするための声が、まだ出なかった。
レコードの止まった部屋で、天城は窓辺に座っていた。澪は父の前に立ったが、何から話せばよいのか分からなかった。
「お父さん。お母さんと、お兄ちゃんのこと、覚えてる?」澪は尋ねた。
「お母さん?」
天城は本当に不思議そうな顔で、首をかしげた。
「何を言っているんだい。私は生涯、独身だよ。……そういえば、君はどなたの娘さんだったかな」天城は言った。
澪は口を押さえて後ずさった。家族写真のあった壁には、色の薄い四角がいくつも残っている。部屋の隅で、九条が微笑んでいた。
「区長はようやく、悲しみから解放されました。10年分の重荷から」九条は言った。
「……あなた」
「区長も、望んでいらしたはずです。ご自分の作った楽園の、最後の住民になることを」九条は言った。
*
澪は父の部屋で、古い家族の品を一つずつ見た。急須、写真立て、擦れた手袋。父はどれも丁寧に扱った。丁寧に扱うことと、由来を覚えていることが、同じではないと分かった。
「これは、誰のものだった?」
澪が手袋を示すと、父は、自分のものだろう、と答えた。兄のものだった。大きくなったら使うと言って、父の手袋を欲しがった。父は笑い、まだ早いと言った。そのやり取りを、今は澪だけが覚えている。
彼女は正解を教えなかった。記憶を失った人間を、試験に掛けたくなかった。だが何も尋ねなければ、何を失ったかも分からない。その間で、言葉を探した。
父は茶を淹れ、澪の前へ置いた。熱いから気をつけて、と言った。昔と同じ言い方だった。兄を忘れても、娘を気遣う父は残っている。残ったものが本物であることと、失ったものが小さいことは違う。
「私、怒ってるの」
澪は言った。父は顔を上げた。
「何に?」
彼女は答えられなかった。兄を忘れたこと。忘れさせられたこと。自分が止められなかったこと。父が作った仕組みが、父にも使われたこと。怒りの相手は一人ではなかった。
「今は、うまく言えない」
そう答えると、父は、言えるときでいい、と言った。澪はその言葉を聞いて、泣きそうになった。住民には与えなかった時間を、父は娘に自然に与える。
端末に、研究資料の整理を求める通知が来た。澪は画面を伏せた。整理の対象には、父の古い音声記録も含まれる。調律される前日の声。彼女はすでに複製を作っていた。
その声を外へ出せば、父の責任も明らかになる。父を救うための資料が、父を責める資料にもなる。どちらかだけを選べないことを、澪は知っていた。
「お父さん、私、仕事をするね」
彼女が言うと、父はうなずいた。何の仕事かは尋ねなかった。娘が自分の知らないことをしている。そのことを、今の父は恐れなかった。
澪は部屋を出て、音声の宛先を選んだ。真柴怜。送信する前に、父の声を最後まで聞いた。途中で止めれば、決断を延ばせる。最後まで聞くと、延ばす理由がなくなった。
彼女は送信の準備を整えた。父のためだけではない。父が何をしたかを、父自身がいつか知るためにも、記録を残す必要があった。
*
朝になる前、怜の端末に暗号化されたメッセージが届いた。差出人は天城澪。添付された音声を開くと、調律される前日の天城の声が流れ出した。
「真柴さん。もし私が私でなくなったら、聞いてほしい」天城は言った。
「ノアには、私しか知らない最後の命令がある。『全記憶返還』。区に預けられた10年分の悲しみを、すべての住民に返す命令だ。実行すれば、調律の仕組みそのものも消える。二度と、作れない」
「その鍵を、私はあなたの脳波に登録した。区で眠り、区で目覚め、外で泣いた、ただ一人の人間だから」
音声の中の天城は、何度か言葉を切った。最後の命令を説明する声は、区長の声ではなく、失敗を認める父親の声に近かった。
怜は、鍵を自分に登録したという部分を繰り返し聞いた。選ばれた理由は、眠り、目覚め、外で泣いたことだという。だが、その経験を持つ人間は、ほかにもいるかもしれない。自分が特別だから選ばれたのではなく、天城が自分を選んだから特別な鍵になった。
その違いを忘れたら、また一人の判断で全員の未来を決めることになる。怜はノートに、使えることと、使ってよいことは違う、と書いた。
朝日が入ると、紙の白さが増した。録音の声は、まだ続いていた。
「使うかどうかは、あなたが決めなさい。……それが、私があなたに押しつける、最後の重荷だ」
録音が途切れた。怜は再生ボタンに触れかけ、指を止めた。窓の外では朝日が東京湾を照らしていた。遠く、白い島が見えた。




