第7章 忘れるなと書いた男
2033年9月、入区前夜。桐生は洗面台の鏡に向かい、偽名を三度口にした。隣で資料をめくっていた怜が吹き出す。「夫婦のふりより、名前を間違えないほうが難しそうね」笑ったあとで、彼女は二人分の居住者証を重ねた。どちらにも、本当の名前はない。
計画書に書かれた動詞は三つだけだった。調べる。記録する。戻る。滞在期間は三か月。桐生が余白に「予定は変わる」と書くと、怜はその下に「変えないための計画」と書き足した。
怜は「灯に会う」という項目を取材予定から離して記した。妹を記事の材料にはしない。その線引きを紙の上に引けたことで、実際にも守れる気がしていた。
入区ゲートでは、澪が白衣の袖を整えながら二人を迎えた。桐生は怜の手を取る。夫婦らしく見せるためだった。怜も握り返した。少なくとも、そのときは。
「希望枠で当選したご夫婦ですね」。澪の視線が二人の居住者証を往復した。桐生遼、三十三歳。怜は笑顔を作ったまま、握られた手に少しだけ力を込めた。
「笑え、レイ。夫婦なんだから」桐生は言った。
「仕事でしょ。演技は3か月だけ」
「3か月で、この島の地下を全部暴く」桐生は言った。
澪は二人がゲートを抜けたあとも、しばらくその背中を見送っていた。
*
入区して最初の午後、二人は共同工房で器を作った。新しい居住者向けの体験だと説明された。桐生は粘土を触るのが苦手で、指の跡ばかり残した。怜は笑い、自分の器を少し大きくした。
「そっちのほうが、よく入るな」
「あなた、飲むの遅いから、小さいのでいいでしょ」
桐生は、夫婦の会話として自然だな、と小声で言った。怜は、仕事中に仕事の話をするな、と返した。二人は笑った。演技をしているのか、普通に話しているのか、その区別が最初から曖昧だった。
焼き上がるまで数日掛かるという。桐生は、取材が終わるまでに間に合うかと尋ねかけ、住み始めたばかりの人間が言うことではないと気づいた。怜が、早く使いたいんです、と言い換えた。工房の住民は、急いでも土は急がない、と答えた。
帰り道、桐生は怜に、さっき助かったと言った。彼女は、次は気をつけてと答えた。助け合うことを、感謝より先に仕事へ戻す癖があった。
部屋には、区が用意した食料が届いていた。桐生は袋を開き、怜は中身を書き留めた。何が無料か、何が選べるか、何が断れるか。取材の項目だった。
牛乳が苦手だと申告すると、翌日から届かなくなるという。桐生は、それは便利だなと言った。怜も同意した。便利なことを便利だと認めなければ、批判のために来た人間になる。
夕方、二人は最初の記録を照合した。桐生は住民の表情を書き、怜は制度の説明を書いた。彼のメモには、食事を残した人が謝らなかった、とあった。
「それ、いいこと?」
怜が聞くと、桐生は、分からない、と答えた。
「謝らなくていい場所なのか、謝る理由を考えなくなったのか。まだ分からない」
怜はその返事を気に入った。分からないことを、急いで結論にしない。彼と組むことを選んだ理由の一つだった。
夜になると、部屋の照明が少し暗くなった。怜は自分で調節した覚えがない。桐生は、寝る時間を決められるのは嫌だなと言った。怜は、眠れるならいい、と答えた。
その短い会話を、二人はどちらも記録しなかった。あとになって考えれば、最初の違いは、その夜すでに言葉になっていた。
*
翌朝、怜は光で目を覚ました。時計を見て、寝過ごしたのではないと知る。早起きなのに、疲れていない。眠ることが休むことになった朝を、彼女は何年も知らなかった。
桐生は窓際に椅子を置き、黙ってコーヒーを淹れていた。彼女が座るまで立っていたことに、怜はあとになって気づいた。その朝は、自分の身体に起きた変化を確かめるので精いっぱいだった。
「父さんの夢を見なかった」。声に出すと、父の顔も、帰宅するときの足音も思い出せた。ただ、あの最後の夜だけが遠い。怜は、その遠さに安堵している自分に驚いた。
それなら、悪いことではないのかもしれない。桐生に反対されるのが怖いのではなかった。そう認めた瞬間、ここへ来た理由まで揺らぐのが怖かった。
桐生が豆を挽く音が、狭い部屋に続いていた。怜はベッドの縁に腰掛け、足の裏を床につけた。
「……寝た」怜は言った。
「何?」桐生は尋ねた。
「朝まで、1回も起きなかった。父さんの夢を、見なかった」
涙が頬を伝った。十二歳で父を失って以来、眠るたびに戻ってきた夏の夜。その光景が今朝はなかった。桐生は問い詰めず、マグカップを二つ並べた。取っ手が向かい合うように。
「豆は挽きすぎないのがコツだ」桐生は言った。
*
器が焼き上がった日、怜は自分のものを落とした。取っ手だけが欠け、床で小さな音を立てた。工房の人は、作り直せると言った。怜は、これでいいと答えた。
桐生は欠片を拾い、紙袋に入れた。怜が捨ててよいと言うと、彼は、あとで直せるかもしれない、と言った。怜は、何でも残す人だね、と笑った。
「捨てるのは、あとでもできる」
彼はそう答えた。記者らしい言い方だった。だが部屋へ戻ると、彼は欠けたカップに平気でコーヒーを注いだ。残すことと、使わず保存することは、彼の中で同じではなかった。
二人はカップの置き方を変えた。底が安定しないので、取っ手を向かい合わせにして、互いを支えるように置く。見た目は少し不格好だった。
怜はその形を写真に撮った。記事の資料ではなく、ただ撮りたかった。桐生は何に使うのかと聞かなかった。彼女は、その聞かなさを覚えている。
午後、怜は灯に会いに行った。妹は姉が住民として来たことを喜んだ。取材のことは話せない。怜は嘘をつき、桐生を夫だと紹介した。灯は、いつ結婚したの、と驚いた。
桐生は用意した説明をした。怜はその説明を聞きながら、妹にだけは嘘をつきたくなかったと思った。だが嘘をやめれば、取材は終わる。妹を守るためだという言葉を、自分に使った。
帰り道、彼女は桐生に、灯を記事に出さないでと言った。彼は、本人が望まないなら出さない、と答えた。怜は、私が望まないと言ってる、と強く言った。
桐生は立ち止まった。
「妹さんのことを決めるのは、妹さんだろ」
怜は腹を立てた。正しいことを言われたからではなく、自分が妹のためだと思っていることを、他人に区切られたからだった。
二人はその夜、別々に食事をした。翌朝、桐生はコーヒーを二つ淹れた。怜は、自分で淹れると言った。彼はうなずき、片方を自分の前へ寄せた。
しばらくして、怜は昨日の言い方を謝った。桐生も、急に決めつけたと謝った。仲直りをしたからといって、意見が同じになったわけではない。違ったまま、同じ机に座れるようになった。
怜はその朝、彼と一緒にいることを、仕事の便利さだけでは説明できなくなっていると気づいた。
*
桐生は地下の設備を調べるほど、記録の難しさを知った。映像を撮れば端末に残る。端末に残ればノアに知られる。紙に書けば持ち物検査で見つかる。覚えて持ち帰るという最後の方法まで、ここでは不確かだった。
彼は鷲尾から、ノートの隠し方ではなく、書き方を教わった。全部を書こうとするな。明日の自分が最初に信じる1行を書け。桐生は、自分の腕に短い言葉を書き始めた。まだその頃は、怜の名前も書いていた。
怜が眠るカプセルのそばで、彼は自分の記録を見た。取材対象の記憶が消されるのを止めたい。その相手が眠れるようになったことを、うれしいと思っている。二つの気持ちが、同じ字で並んでいた。
彼はカプセルを開けなかった。開ければ怜が起きる。起きた彼女が、また眠りたいと言ったら、自分はどうするのか。その問いに答えがなかった。
桐生は調律を避けるため、夜ごと廊下を歩き、冷たい水で顔を洗った。カプセルの中の怜は穏やかに眠っている。装置の淡い光が彼女の頬を照らすたび、桐生は、安らぎを奪う側に立っているのではないかと迷った。
*
地下の設備を見た翌日、桐生は澪に、記憶の返還は可能かと尋ねた。澪は可能だと答えた。可能という言葉のあとに、条件がいくつも続いた。本人確認、管理者の承認、状態の確認。本人が望むだけでは足りなかった。
「本人のものなのに、管理者の許可が要るんですか」
桐生が聞くと、澪は、急に戻すと負担が大きいから、と説明した。彼は、急に戻さない方法を作ればよい、と答えた。
澪は黙った。技術的には、段階を分けることができる。だが返還の申請が増えれば、調律の成果を疑われる。区はその仕組みを、例外として扱ってきた。
「安全のための条件と、返さないための条件が混ざってる」
桐生は言った。澪は否定しなかった。
彼はノアの説明画面を見た。質問を入力すると、答えが出る。住民の不安を減らすために設計された仕組みは、質問を短くし、答えを分かりやすくする。分かりやすい答えの中に、分からないことを残す欄はなかった。
桐生は、分からないと答えることはできるか、と入力した。ノアは、情報が不足する場合には可能です、と返した。では、情報が足りているかどうかを、誰が決めるのか。彼が続けて尋ねると、管理基準によります、と出た。
基準を作る人間が、何を不安と呼ぶかを決める。不安を減らす機械は、その基準に従う。機械だけを責めても、基準は残る。
「あなたは、何を変えたいの」
澪が聞いた。桐生は、まだ分からないと答えた。調律を止めればよいと考えていた。だが怜は眠れるようになり、住民の中には心から救われたと言う人もいる。その人たちに、苦しみを返すことを、自分の正しさだけで決められない。
「選べるようにしたい」
彼はようやく言った。
「最初に選んだら終わりじゃなくて、あとで違うと思ったときに、戻れるように」
澪は画面を閉じた。そんなことは理想だと言いかけた。だが島そのものが、理想という言葉で作られた。管理する側の理想だけが実行できて、管理される側の理想は難しいとされる。その不均衡を、彼女は初めて言葉にできた。
桐生は、次に会うまでに返還の手順を調べてほしいと頼んだ。澪は約束しなかった。調べる、とだけ答えた。彼は、それでいいと言った。
その日の夜、桐生は自分の腕に、選ぶ、と書いた。忘れるな、より前に書いた言葉だった。
*
怜がよく笑うようになったことを、桐生は最初、島の空気のせいにした。外で抱えていた締め切りも、取材先の怒鳴り声もない。人が休めば表情が変わるのは当然だ。そう考えたかった。
だが怜は、外へ戻ったあとの記事の話をしなくなった。代わりに、庭で何を育てるかを話した。小さな鉢を買う必要もない。区に頼めば届く。届いた鉢を見て、彼女は素直に喜んだ。
桐生は、その喜びを偽物と呼べなかった。偽物なのは、喜びの前にあった選択肢が見えなくされていることだった。怜がここを選ぶことと、ここしか選べない怜になることを、どう区別すればよいのか。
夕日の中で彼女の手を握ると、怜は握り返した。仕事のためではなかった。桐生はそれをうれしいと思い、そのうれしさが判断を鈍らせることを恐れた。
十月の夕暮れ、二人は海沿いの道を歩いた。怜は以前よりよく笑う。桐生が手を伸ばすと、彼女はためらわず握り返した。
「ねえ遼。取材、もうやめない?」怜は尋ねた。
「は?」桐生は尋ねた。
「ここでなら、私、普通の人みたいに生きられる。毎朝、ちゃんと起きて、ちゃんと笑える」
「それは、お前が父親を忘れさせられてるからだ」桐生は言った。
「それの何が悪いの! 覚えてて何か良いことあった?」
桐生は返事ができなかった。手を離せば彼女を否定するようで、握り続ければ自分の疑いを裏切るようだった。
「……俺は、泣いてるお前も、好きだったよ」桐生は言った。
*
11月の雨の日、怜は部屋の窓から外を見ていた。外へ出れば濡れる。区の端末は、雨が弱まる時刻を教えた。彼女はその時刻まで待った。以前なら、予定があるからと傘を差して出た。予定のない暮らしは、身体に優しかった。
桐生は机で資料を読んでいた。目の下に疲れが残っている。怜は、少し休めば、と言った。彼は、あとで、と答えた。そのやり取りが、外での自分と逆になっていることに、彼女は気づいた。
「私が楽になったの、嫌?」
怜が聞くと、桐生は顔を上げた。
「嫌じゃない」
「でも、前の私に戻したいんでしょ」
彼はすぐに答えられなかった。戻したいのは、彼女の苦痛ではない。選べる状態だ。そう説明しても、怜には、今の自分を否定されたように聞こえる。
「前の自分に戻らなくていい」
彼は言った。
「今の自分が何をされたか、知っていてほしい」
怜は窓へ向き直った。知っている。眠るとつらいことが薄くなる。薄くなれば、朝に起きられる。それを、どうして問題にしなければならないのか。
「知ってても、残りたいって言ったら?」
桐生は、話し合う、と答えた。怜は笑った。話し合うという言葉は、相手が考えを変えるまで続けるためにも使える。
「私が変わらなくても、話し合いは終わる?」
彼は黙った。怜は、その沈黙を見て、彼もまた自分の答えを受け取る準備がないことを知った。
雨が弱まった。端末の予測どおりだった。怜は外へ出ると言い、桐生は一緒に行くと答えた。彼女は、今日は一人で行く、と言った。彼は止めなかった。
遊歩道の水たまりに、白い塔が映っていた。怜は靴を濡らし、少し腹を立てた。島にいても、小さな不快はある。その不快を、明日まで覚えていられるかどうかを考えた。
部屋へ戻ると、桐生は濡れた靴を置く布を用意していた。怜は礼を言った。議論は終わっていない。だが布を受け取ることはできる。
彼女はその夜、ここに残りたい、と初めてノートに書いた。桐生に見せるためではない。自分の気持ちを、自分が読める形にするためだった。
その字が、あとで自分を苦しめることになるとは、まだ知らなかった。
*
区長室で桐生は、怜の声を最後まで聞けなかった。彼女が残りたいと言うたび、自分が外へ出れば彼女を置き去りにすることになる、と考えた。置き去りにしないために、彼は彼女を外へ出そうとした。
あとから怜が取り戻した記憶には、その矛盾も残っていた。桐生は彼女を守ろうとした。だが彼女の選択を守ったわけではなかった。弱っているときに楽なほうを選ばせたくない。その言葉には、彼の愛情と、彼の判断が同じ強さで入っていた。
天城は二人の争いを止めなかった。一人だけ帰すという条件を作ったのは自分なのに、どちらが帰るかを二人の選択にした。条件を決める人間は、選択の結果を相手に渡せる。
怜は、桐生の記憶も消してほしいと頼んだ。その願いだけは、自分の口から出た。自分で選んだと澪が言ったのは、この願いだった。だが願いに至るまでの扉は、誰が閉じたのか。現在の怜は、過去の自分の泣き声を聞きながら、そのことを考えていた。
取り押さえられた桐生の手には、契約書の原本が握られていた。怜も床に膝をつかされている。机の向こうで天城は静かに座り、その脇に黒江が立っていた。
「区長。このジャーナリストたちは、外に出すわけにはいきません」黒江は言った。
「出さないとは言っていない」
天城は、床にいる二人を順に見た。
「一人だけ、外に帰そう。区での記憶をすべて預けていく条件でね。もう一人は、居住者としてここに残ってもらう」天城は言った。
「私が残る」
「レイ」桐生は言った。
「私は、ここがいい。遼が外へ行って、記事を書いて。私はここで……」
「駄目だ」桐生は言った。
桐生は天城から目をそらさなかった。
「俺が残る。彼女を外へ帰してくれ」桐生は言った。
「なんで! 私はここにいたいって言ってるのに!」
「ここにいたら、お前は一生、自分の父親を思い出せない。お前の悲しみは、お前のものだ。誰にも預けるな」桐生は言った。
「勝手に決めないで!」
「決めるよ。お前が一番弱ってるときに、楽な方を選ばせたくない」桐生は言った。
怜は桐生の胸を叩いた。力は続かず、やがて彼の服をつかんだまま泣き崩れた。
「嫌だ! 私はここにいたい! 外になんか帰りたくない!」怜は言った。
桐生はその肩を抱いた。怜は逃れようとしたが、彼も腕をほどかなかった。
「いいか、レイ。何があっても、俺を思い出すな。思い出したら、お前もここに戻ってくる」桐生は言った。
「……じゃあ、遼のことも全部、消して。外にいて、遼がここにいるって覚えてたら、私、生きていけない」
天城がうなずく。その一度の動きで、怜の願いは手続きになった。
*
区長室での決定のあと、二人には短い時間だけ、部屋へ戻ることが許された。荷物を整理するためだと九条は言った。何を持ち出せるかは、区が確認する。整理という言葉が、別れの形を小さくしていた。
怜はカップを持ち上げ、どちらを持っていくか尋ねた。桐生は、置いておこう、と答えた。彼女は、残るのはあなたでしょ、と言った。
彼はうなずいた。怜はカップを置いた。何を話しても、決定したことへ戻る。自分は残りたいと言った。桐生は、自分が残ると決めた。彼女の言葉は、彼を動かしたが、彼女の望んだ方向へは動かさなかった。
「私のためって、言わないで」
怜は言った。桐生は謝った。謝るなら変えて、と言いたかった。だが時間はなく、決定を変える力は自分たちにはなかった。
彼は紙に何かを書こうとした。怜は止めた。忘れるために出るのなら、手紙は何のためにあるのか。読めば思い出したくなる。読まなければ、誰かの字だけが残る。
「何も残さないで」
彼女は言った。その言葉を、あとで自分が取り戻すことになるとは知らなかった。
桐生はペンを置いた。二人はしばらく、机を挟んで座った。いつもと同じ机だった。取材の資料を広げ、食事をし、意見を違えた場所。別れのために作られた机ではない。
怜は、最初に作った器を落とした日のことを思い出した。捨てるのはあとでもできる。彼はそう言った。今は、あとで選ぶ時間がない。
「あなたのこと、忘れたくない」
怜は言った。区長室で頼んだことと矛盾している。忘れたい。忘れたくない。どちらも本当だった。
桐生は、分かってる、と答えた。分かっているなら、どうして。怜はその問いを飲み込んだ。彼が答えても、自分は受け取れないだろう。
迎えの音がした。九条は扉の外で待った。怜は最後に、部屋の写真を見た。自分が笑っている。あのときは、明日も同じ部屋で目を覚ますと思っていた。
桐生は写真を伏せた。彼女が見なくてよいようにしたのか、自分が見られなかったのか。怜には分からなかった。
扉を出るとき、彼女は振り返らなかった。振り返れば、残ると言い直す。その言い直しを、誰も受け取らないことが分かっていた。
桐生は部屋に残り、二つのカップを洗った。水を止めたあと、どちらを自分が使っていたか、一瞬分からなくなった。まだ調律を受けていないのに、すでに失い始めている気がした。
*
夜明け、眠ったままの怜がストレッチャーで船へ運ばれた。桐生はゲートの内側から見送り、ペンのキャップを歯で外した。
腕の内側に、四文字を書く。『忘れるな』。
「俺は忘れない。何回消されても」桐生は言った。
*
取り戻した記憶が途切れ、怜は区長室の床に膝をついていた。泣きすぎて、頬が痛かった。
「彼は、あれから2年間、毎晩調律を受けた。毎朝あなたを忘れ、毎朝あの腕の文字を見て、あなたを思い出そうとした」天城は言った。
「……どうして、外の海に」
「先月、彼は思い出したんですよ。完全に思い出した。調律の限界を超えてね。そして、泳いだ」天城は言った。
怜は、桐生が残った2年間を、取り戻した自分の3か月から想像しようとした。だが想像できるのは、彼を待たなかった自分の2年間だけだった。仕事へ戻り、母を看取り、妹の動画を見た。その間、彼は毎朝、自分が何を失ったかを探していた。
「彼は、私を恨んでいましたか」
怜が尋ねると、天城は首を振りかけて、止めた。
「私が答えてよいことではないね」
初めて、天城は自分の知っていることの限界を認めた。怜は、桐生の答えがあるとしたら、天城の言葉ではなく、託された記録の中にあると思った。
泳いだ、と区長は言った。外へ出る手段が泳ぐことしかなかったという意味を、怜は聞き返さなかった。聞き返せば、島の美しさを説明する言葉が、また増える気がした。
怜は靴底に隠していたカプセルを取り出した。指先が震え、金属の小片が掌でかすかに鳴った。
「それが、彼があなたに残したものです」天城は言った。
*
澪が端末にマイクロメモリーを挿した。画面に短い文が浮かぶ。
『ヒント:君が最後に忘れたもの』
試行は残り一回。怜は目を閉じた。保管庫で見た最後の記憶――初めて朝まで眠れた日、頬を伝った涙。桐生があの朝を忘れずにいたなら。
『しあわせ』
『ロック解除』。澪が息をのむ。暗い配管室で撮られた映像が始まった。桐生は記憶の中よりずっと痩せ、カメラを支える手が震えていた。
「レイ。これを見てるってことは、お前は区に戻ったってことだ。……悪い。結局、お前を呼び戻しちまった」桐生は言った。
「時間がない。調律が明日の夜には、俺をまた空っぽにする。だから、覚えてるうちに全部言う」
桐生は紙束をカメラに近づけた。焦点が合うまでの数秒が、ひどく長かった。
『国民調律計画 …… 内閣府特区推進室 極秘』
「ユートピア区は実験場だ。本番は外だ。国は、全国の病院、介護施設、公営住宅に『睡眠改善装置』の名目で、調律の機械を入れるつもりだ」桐生は言った。
「失業者、ホームレス、犯罪歴のある人間、鬱の患者。国にとって『重荷』な人間から順に、悲しみを消していく。抗議もデモも、怒りごと消える」
澪は口元を押さえる。
「……私が作ったのは、そんなもののためじゃない」澪は言った。
「第二ユートピア区は、もう大阪湾の人工島で工事が始まってる。区長は知らない。知ってるのは黒江と……九条だ」
「レイ。九条を信じるな。あいつは区長の部下じゃない。国の……」
映像が乱れ、言葉がノイズに切り裂かれた。最後に一瞬だけ、桐生がこちらを見た。区長室で見た切迫した顔ではなく、朝のコーヒーを淹れていたころの表情だった。
パスワードの入力欄に、怜は最初、桐生の名前を入れようとした。最後に忘れたのは彼だった。だが彼は、名前を答えにしない人だった。何を忘れたかを、忘れた人間が考え直すような問いを残す。
しあわせ、と入力したあと、怜は画面を見られなかった。違っていれば、最後の機会がなくなる。正しければ、彼が何を伝えようとしたかを知ることになる。どちらも怖かった。
映像の桐生は、怜が思い出した男より痩せていた。彼女の記憶の中では、まだ朝のコーヒーを淹れている。その顔と、画面の顔の間にある2年間を、彼女は持っていない。
最後の言葉がコーヒーの話だったことに、怜は泣いた。大きな秘密を伝えたあとで、彼は彼女の朝を気にした。朝まで生きて、何かを飲むことを、当然の未来として残した。
「コーヒー、ちゃんと淹れてるか。豆は、挽きすぎるなよ」桐生は言った。
再生が終わっても、怜はしばらく動けなかった。やがて端末に額をつけ、声を殺して泣いた。
*
外の会見では、島の名前が未来の約束として使われた。眠り、健康、安心。どの言葉にも、何を忘れるのかという説明はついていなかった。
黒江は資料の端を揃えた。数字の並びは整っている。利用者の増加、費用の減少、社会的負担の軽減。一人の悲しみを、別の人間が扱いやすい単位に直す。それが彼女の仕事だった。
会見の画面を島で見る澪には、自分が作った装置が、知らない名前で紹介されているように感じられた。技術の名前を変えるだけで、目的まで変えられる。彼女はその変化を止めるための仕組みを、設計に入れていなかった。
記者会見場にフラッシュが走った。演壇の官房長官、その斜め後ろに黒江が立つ。
「本日、政府は、国民の心の健康を守るための『国民幸福睡眠法案』を閣議決定いたしました」会見の説明者は言った。
「あわせて、大阪湾における『第二特別自治区』の開区を、来年春と決定いたしました」
記者席がざわめく。中継の画面下に、白い文字が流れた。『全国民に、ユートピアの眠りを』
*
九条は通話を終えてから、しばらく端末を握っていた。命令は短かった。短い命令ほど、実行する人間が細部を決めなければならない。
彼は区長室の窓を見た。天城はいつも同じ時間にレコードをかける。悲しみを忘れないための習慣だった。九条には、その習慣が非効率に思えた。忘れれば、毎晩同じ場所へ戻る必要がなくなる。
そう考えたあと、彼は自分が何を忘れたのかを考えなかった。考えないことに、努力は要らなかった。そこが空白であることを知っていても、空白に手を伸ばす理由がない。彼はその状態を、救いと呼んできた。
海風が強く吹く中央塔の外廊下で、九条は端末を耳に当てていた。
「はい。真柴怜は記憶を取り戻しました。桐生のメモリーも、解除された模様です」九条は言った。
「区長は」
「彼女に味方しています。保管庫まで案内しました」九条は言った。
「そう。……では、もう区長は必要ないわね」
九条は振り返った。中央塔の最上階、区長室の窓に、レコードを聴く天城の影が見えた。
「承知しました」九条は言った。
通話が切れた。九条は端末を下ろし、窓に映る影をもう一度見た。いつもの微笑みは消えていた。




