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ユートピア区  作者: ぽむぽむ


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第6章 悲しむ権利

初期化まで、あと四十一時間。レモンの木の下で、怜は慧を待っていた。夕方の風に葉が揺れるたび、熟れかけた実が小さくぶつかり合った。


「四十一時間後、灯の記憶が初期化される。私のことも、あなたのことも、忘れるかもしれない」


「……そんな」


「案内人になる。ユキさんと同じように」


慧はベンチに腰を落とした。背もたれを探した手が、空をつかんだ。


「灯が泣かないなら、それでいいと思ってました。でも、僕を忘れた灯を、僕は……」言い終えられず、慧は唇を噛んだ。


「灯を連れて、外へ出たい。手伝ってほしい」


「外へ出られるんですか」


「搬入港に物資船が来る。澪さんがゲートを開けてくれる手はずよ」


「でも、外へ出たら灯は……」


「調律が切れる。母のことも、思い出すはず」


慧は、初期化という言葉を聞いても、すぐには意味を理解しなかった。機械を直すときに使う言葉だった。灯に対して使われると、どこまでを失うのかが分からない。


「ケーキの作り方も、忘れるんですか」


彼が最初に聞いたのは、そのことだった。怜は答えられなかった。姉や夫の顔を忘れるという説明より、朝に粉を量る手つきが消えることのほうが、慧には具体的だったのだろう。


「僕は、灯がここで笑ってるのを見て、守れてると思ってました」


慧は木の根元を見た。


「守ってたのは、僕が見たくないものだったのかもしれません」


怜は、その言葉を否定しなかった。自分も妹を連れ帰れば守れると思っている。守るという言葉は、誰の怖さを減らすために使われるのか、確かめなければならなかった。


慧は長いこと黙っていた。レモンの葉の影が、二人の足元で少しずつ伸びた。


「……灯が、自分で選べるようにしたいです」


*


慧が家へ戻ったあと、怜は庭に残った。初期化までの時間を、端末が知らせている。数字を見るたびに、急がなければと思う。急ぐほど、妹に何を説明するかが短くなる。その順序が怖かった。


灯は窓の向こうで洗濯物を畳んでいた。姉が来ていることを知っているのに、庭へ出てこない。慧が何かを話しているのだろう。怜は窓へ近づかなかった。二人が夫婦として話す時間を、姉の緊急性で奪いたくなかった。


庭の端に、小さな鉢があった。芽は出ていない。土だけが湿っている。灯は何を植えたのか。何も育たない可能性を、この街はどう扱うのだろう。育たなかったことを覚えていれば、次は別の場所へ植えられる。覚えていなければ、毎年同じ鉢を眺めることになる。


慧が出てきて、灯にはまだ初期化の話をしていないと言った。怜は、話すべきです、と答えた。慧はうなずき、でも母のことも知らないままです、と言った。説明の順序を間違えれば、灯には、姉と夫が突然自分を怖がらせ始めたように見える。


「何から話せばいいんでしょう」


彼が聞いた。怜は、私たちが知っていることと、分からないことを分けましょうと答えた。ノートを開き、二人で書いた。母が亡くなったこと。灯がそれを知った夜があったこと。翌朝には忘れていたこと。初期化の予定があること。


分からないことの欄には、初期化で何が残るか、と書いた。技術の名前を知っていても、本人に何が起きるかを説明できなければ、十分な情報ではない。


「僕が忘れられるのが嫌だから、逃げようと言うのは、勝手ですか」


慧は尋ねた。


「勝手な気持ちがあることと、勝手に決めることは違うと思います」


怜は答えた。自分にも、妹に母を覚えていてほしいという気持ちがある。母を忘れた妹を見るのがつらい。妹のためだけではない。そのことを、彼女は初めて慧に話した。


慧は、僕もです、と言った。二人の目的は完全には同じではない。だが違いを隠さずに話せることが、今は必要だった。


窓が開き、灯が顔を出した。何を相談しているの、と聞いた。怜は、あなたに話したいことがある、と答えた。灯は少し身構えたが、うなずいた。


怜はノートを閉じなかった。妹に見える向きに置き、まず、分からないこともある、と言った。全部を知る人間として話し始めない。それだけは、守ろうと思った。


*


小野寺は、桐生の取材歴を一覧にしていた。名前が消えた時期と、記事が止まった時期が一致している。家族の連絡先を探しても、記録は古いものしか見つからなかった。


森崎は紙の初稿を渡す前に、ホチキスを外した。綴じたままにしておけば、読まなかった自分を少しだけ隠せる気がしていた。一枚ずつ広げると、赤いペンで引いた線が見えた。証拠不足、表現が強い、掲載保留。どれも編集の言葉だった。


「この赤字、全部、間違ってたんですか」


小野寺が聞いた。


「全部じゃない。だから厄介なんだ」


森崎は答えた。確認が必要だった箇所は確かにある。だが確認する代わりに、全体を止めた。正しい注意を、間違った沈黙の理由にした。その違いを、今度は若い記者に見せなければならなかった。


森崎はブラインドの隙間から路上を見た。黒い車が、朝から同じ場所に停まっている。そこへ小野寺が息を切らして駆け込んだ。


「編集長。桐生遼の遺体が火葬されました。司法解剖も、遺族への確認もなしです」


「誰の指示だ」


「書類には、内閣府の名前がありました」


森崎は机に広げた紙を指で押さえた。「二年前、真柴が送ってきた初稿だ。サーバーからは消されたが、紙で一部だけ残していた」


「誤報とされた記事ですか」


「あれを誤報と決めつけたのは俺だ。国から圧力があった。確認するふりをして、掲載を止めた」


森崎は紙の束を小野寺の前へ滑らせた。表紙には、怜の筆跡が残っている。


『楽園の地下で、人々は毎晩忘れている』


*


小野寺は桐生の古い仕事仲間に会った。待ち合わせたのは、閉店前の印刷所だった。機械は止まり、紙の匂いだけが残っている。仕事仲間は、桐生が使っていた机の引き出しを見せた。


中には取材の領収書と、未使用の封筒があった。大きな秘密が残っているようには見えない。小野寺は一枚ずつ日付を確かめた。記者が消えたあとに残るのは、記事だけではない。電車に乗り、食事をし、紙を買った証拠もある。


「真柴さんとは、仲がよかったんですか」


小野寺が聞くと、相手は、仕事のことしか知らないと答えた。二人が親しかったという話を期待していた自分に、小野寺は気づいた。恋人の物語にすれば、記事は分かりやすくなる。分かりやすさを、事実の代わりにしてはいけない。


封筒の一つに、島の案内が入っていた。余白に桐生の字がある。戻った人に会う。戻りたい人ではなく、戻った人。小野寺はその違いに線を引いた。


退区者を探した記録は、途中で止まっていた。連絡先の欄に、家族へ照会中、と書かれている。小野寺は、桐生が最後に確認できなかったことを、自分が引き継いでいるのだと思った。


「これ、持っていっていいですか」


「写しなら。原本は残して」


相手は答えた。小野寺は写真を撮り、紙の位置を戻した。取材で何かを持ち帰るとき、元の場所が変わることを、以前はあまり考えなかった。


印刷所を出ると、森崎から電話があった。経理の資料に、第三者からの支払いがあるという。名義は区と直接つながらない。森崎は、まだ記事にはできないと言った。小野寺は、分かっていますと答えた。


「早く真柴さんに伝えたいです」


「俺もだ」


森崎は短く答えた。上司と部下ではなく、同じ人間を心配する声だった。


小野寺は帰りの電車で、桐生のメモを読み直した。最後のページに、外の人間は、戻らない人を幸せだと思いたがる、と書かれていた。戻らない理由を調べずに、戻らないという結果だけを説明にする。その危うさを、桐生は2年前に見ていた。


小野寺は自分のノートに、連絡がないことは、連絡する意思がないことではない、と書いた。怜の端末が鳴らない理由を、彼はまだ知らない。知らないまま、調べ続けることはできる。


印刷所の相手へ礼の連絡を送り、原本を動かしていないことを伝えた。返事は、桐生が戻ったら教えて、だった。小野寺はすぐには返信できなかった。確かでないことを言えないのは、冷たいことではない。そう自分に言いながら、確認できたら必ず連絡します、と送った。


*


澪が取り出した銀色のチップは、怜の指の腹より小さかった。母が亡くなった夜の妹の記憶が、これだけの重さで渡される。怜は、まだ受け取らずに尋ねた。


「これを使う前に、灯に何を説明すればいいんですか」


澪は装置の操作ではなく、戻る記憶の範囲から話し始めた。母の死を知ったこと。葬儀に行けなかったこと。姉に返事を送ろうとしたこと。その返事は、区の通信制限で止まっていた。


怜は息を止めた。灯は返事をしなかったのではない。返そうとしていた。二年間抱えていた怒りが、急に行き場を失った。


「一度に全部戻す必要はない」と澪は言った。


「でも、時間がありませんね」


澪はうなずいた。初期化まで、三十二時間。


急いでいることは、説明を省く理由にはならない。怜はそう思いながら、澪の差し出すチップを見つめた。


初期化までの残り時間は、32時間だった。


「搬入港のゲートは、午前零時から五分だけ開けられる。それ以上は無理」


「灯には、本当のことを話します」


「話すだけでは、消された記憶は戻らないわ」


「戻す方法があるんですね」


「記憶は消去されていない。地下の保管庫に残されている」


「どうして残してあるの」


「父は、いつか本人が取りに来るかもしれないと思っていたの。なのに、取りに来られることは教えなかった」


澪はチップを机に置いた。


「灯さんの、お母さんに関する記憶。今朝、保管庫から持ち出したものよ」


怜は両手で受け取った。小さな金属片が、指先でかすかに震えた。


「戻せば、灯さんは今夜、深く傷つく。あなたはそれを分かっている?」


「分かっています。でも、決めるのは灯です」


*


灯は装置を見て、触ってもよいかと聞いた。怜がうなずくと、妹は手のひらに載せて重さを確かめ、慧にも見せた。新しい調理器具でも試すような仕草だった。


怜は、母について思い出せなくされていることがある、と説明した。灯はしばらく姉を見つめ、それを思い出したら悲しいの、と尋ねた。怜は、うん、と答えた。


「じゃあ、途中でやめてもいい?」


「いいよ。いつでも」


灯は慧を見た。慧はうなずく代わりに、「灯が決めて」と言った。灯は小さく息を吸い、装置をこめかみに当てた。


淡い光が灯の頬を照らした。その瞬間、怜の鼻の奥にも、母の病室の消毒液の匂いがよみがえった。


初期化まで、二十六時間。食卓には銀色のチップの空ケースが残されていた。


「……なんか、変な感じ」灯が言った。


怜は返事をせず、妹の手元を見守った。


「雨……降ってた?」


「うん。あの日は雨だった」


灯は目を閉じた。慧が隣で、その肩に手を添えた。


「病院の窓……お姉ちゃんから、連絡が来て……」


装置の光が消えた。灯は目を開けたが、そこにいる二人の顔をすぐには見なかった。


「……お母さん」


灯の唇が震えた。


「私、外に出られなかった。お葬式にも行けなかった。返事を書いたのに……」


灯が立ち上がり、椅子の脚が床を擦った。


「お母さん、死んだの?」


「……うん」怜は答えた。


「じゃあ、毎週ビデオ通話してたのは誰?」


沈黙。


「誰だったの。ねえ、お姉ちゃん」


灯は端末をつかみ、床に投げた。ひび割れた画面の中で、春江が笑っていた。


「灯ちゃん、ちゃんと寝てる?」録画された声が、何事もなかったように流れた。


灯は声を上げて泣いた。慧が抱きしめ、怜は割れた画面から母の笑顔が消えるのを見ていた。


*


記憶が戻ったあと、灯はしばらく母の名前を呼ばなかった。声にすると、母がもういないことを、自分で確定させてしまう気がした。慧の服を握る指だけが動いていた。


怜は隣に座った。何かを説明しようとすると、灯が首を振った。今は聞けない。妹はそう言った。怜はうなずき、黙った。


時計の音がない部屋だった。時間が止まったように感じるのに、端末の数字は減っている。灯の悲しみには、締め切りがつけられていた。姉はその締め切りを知っている。妹は母の死を知ったばかりだ。二人は同じ部屋で、違う速さの時間を生きていた。


「お母さん、痛かった?」


灯が聞いた。怜は、分からない、と答えた。痛くなかったと言えば、妹を少し楽にできる。だが母の感覚を、自分の慰めのために決められなかった。


「最後は、眠ってた。私は手を握ってた」


「私のこと、言ってた?」


怜はうなずいた。何と言ったかを話そうとして、言葉が出なくなった。灯は姉を見た。母の死を知った妹が、母を看取った姉の顔を、初めて見た。


「お姉ちゃんも、泣いていいよ」


灯は言った。怜は笑おうとして、できなかった。自分が泣けば、妹の悲しみを支えられないと思っていた。支える人間は、泣かない人間でなければならない。その役割を、いつから自分に課したのだろう。


慧は水を置き、少し離れた椅子へ座った。姉妹だけにするのではなく、必要なら呼べる距離にいた。灯は彼の手を放さなかった。彼は椅子を近づけ直した。


三人で黙っていると、台所の冷蔵庫が小さく動いた。灯は、ケーキが入ってる、と言った。怜は、あとで食べよう、と答えた。母が死んでも、冷蔵庫の中のケーキは残る。食べるかどうかを決める日常が、悲しみの横にある。


灯は手帳を持ってきてほしいと頼んだ。慧が渡すと、彼女は母の声が遠いと書いたページを開いた。昨日の自分は、何かに気づいていた。その自分を、今の自分が読んでいる。


「これ、消さないでね」


灯は姉に言った。


「私が明日、もういらないって言っても、すぐ捨てないで」


怜は約束した。だが永遠に持つとは言わなかった。捨てるかどうかを、明日の妹ともう一度話す。その約束ならできた。


灯はペンを取り、母が亡くなった日付を書いた。数字が震えていた。怜は直さなかった。震えた字も、その夜の妹のものだった。


*


初期化まで、二十五時間。灯は床に座り、赤く腫れた目で姉を見上げた。


「……なんで、思い出させたの」


「灯が、灯じゃなくなるから」


「私、さっきまで幸せだった。お母さんは生きてて、毎週話せて。お姉ちゃんまで来てくれて」


「それを、お姉ちゃんが壊したんだよ」


「……嘘の幸せだった」


「嘘でも幸せなら、本当の地獄よりいいじゃない!」


怜は言い返せなかった。灯が泣いている理由の一つは、自分が記憶を戻したことだった。


「外のお姉ちゃんは幸せだった? お母さんが死んで、一人で、仕事も失敗して。毎晩眠れなくて。それが本当だから、正しいの?」


長い沈黙。


「……分からない。でも、明日になれば灯は全部消される。私のことも、慧くんのことも。そうなったら、選び直すことさえできない」


灯は慧を見た。慧は何も言わず、握った手に力を込めた。


灯が泣きやむまで、慧は水を何度も替えた。飲むための水と、顔を拭くための水。どちらも減らない時間があった。怜は倒れた椅子を起こし、割れた端末を拾った。画面を消す操作が分からず、裏返した。


灯は姉を見なかった。慧の服を握り、床の模様を見ていた。怜は謝ろうとしたが、何に謝るのかを決められなかった。思い出させたことか。遅すぎたことか。母の最期を一人で見たことを、妹への怒りに変えていたことか。


「お葬式、どんなだった」


灯が小さく聞いた。


怜は、花が多かった、と答えた。母の好きな花の名前を言おうとして、喉が詰まった。灯はうなずいた。自分の知らない母の最期を、姉の言葉から作ろうとしている。


「あとで、写真を見せて」


そのあとで、灯はまた泣いた。泣きながら頼めることがある。その事実を、怜は今夜初めて知った。


「一緒に外へ行こう。そこで泣いてもいい。何回でも」慧は言った。


灯は目を閉じる。


*


逃げる準備の途中、灯は着替えを選べなくなった。どの服も、島で着ていたものだった。外へ出る服がない、と言った。怜は何でもよいと答えかけ、やめた。服の問題ではない。


「今の服で、行っていいと思う」


言い直すと、灯はうなずいた。外へ行くために、別の自分になる必要はない。そう伝わればよいと思った。


慧は端末から、必要な連絡先を書き写していた。外では使えないかもしれないからだ。怜は自分の住所と森崎の番号を渡した。灯は母の住所も書こうとして、手を止めた。


「もう、ないんだよね」


「部屋は、別の人が住んでる」


怜は答えた。灯は少し怒った。どうして相談してくれなかったの、と言った。怜は、連絡した、と言いかけた。届かなかった連絡を、妹の責任にする言葉だった。


「相談できなかった。ごめん」


そう答えると、灯は黙った。怒りが消えたわけではない。姉の返事を、置く場所ができたのだろう。


母の靴は残したかと聞かれ、怜は捨てたと答えた。灯は顔を伏せた。怜は、古かったからと説明しなかった。古いことは、捨ててよい理由にも、残したい理由にもなる。


「写真はある?」


「ある。全部じゃないけど」


灯は、それでいい、と言った。十分だからではなく、今はそれしかないことを受け取った返事だった。


慧は小さな鞄を閉じた。灯はその上に手を置き、少し待ってと言った。庭を見てくるという。怜は急がせなかった。数字は減っている。それでも、別れをする時間まで奪えば、外へ出すことがまた別の強制になる。


灯が庭へ出ると、慧は怜に、外では仕事を探せますかと尋ねた。彼女は、すぐ見つかるとは言えません、と答えた。家も、金も、手続きも必要になる。島を出ればすべて解決するという説明はできない。


「それでも、探すことはできます」


怜は続けた。慧はうなずいた。探せることを、彼は希望として受け取った。必ず見つかるという約束ではなく、探すことを止められない場所へ行く。


灯が戻ってきた。手には何も持っていない。木の葉を一枚取ろうと思ったけれど、やめたと言った。木がかわいそうだから。怜は、その小さな理由を、今夜の妹の選択として覚えておこうと思った。


*


搬入港へ向かう前、灯はレモンの木を見に出た。水は足りている。葉に虫はいない。いつもの確認を終えると、彼女は庭の土を靴の先で少し寄せた。帰ってこないつもりなのか、帰ってくるつもりなのか、怜には聞けなかった。


慧は小さな鞄に、着替えと、二人で使っていた布巾を入れた。外では何でも買えると怜が言うと、慧は、買えないものだけ持ちます、と答えた。


港の灯りは、住居区画の灯りより黄色かった。働く人間のための光だった。怜は、ここなら外へつながっていると思った。灯は、ここから外が始まっていると思ったのかもしれない。


ゲートの向こうからサイレンが聞こえた。怜には街の音だった。灯には、母のいない世界の音だった。


ゲートが開くまで、あと三分。港の倉庫に積まれた木箱の間を、三人は走った。澪からの合図が二度、遠くに明滅する。重い金属音とともに扉が開き、向こう側に東京の灯りが現れた。


「灯、こっち!」


怜と慧が先に扉を抜けた。だが灯の足音が続かない。


「灯?」慧が振り返った。


灯は境界線の内側で、遠いネオンを見つめていた。街のどこかからサイレンが聞こえる。


「……あそこへ行ったら、毎朝、お母さんが死んだって思い出すんだよね」


「灯……」


「毎朝だよ。これからずっと」


灯の頬を涙が伝った。


「ごめん、お姉ちゃん。私、まだ行けない」


灯は一歩、島の側へ下がった。


「灯!」慧が叫んだ。


慧は境界を戻り、灯を抱きしめた。ゲートが閉まり始める。怜だけが外側に取り残された。


「待って!」


警報が鳴り、港の投光器が一斉に灯った。九条と案内人たちが、扉の両側から現れた。


「お見事です。ですが、ここまでです」九条は言った。


九条の合図でゲートが開き直され、怜は案内人に両腕を取られて島の内側へ引き戻された。


*


九条は灯の前で足を止めた。


「真柴灯さん。予定を繰り上げ、初期化を実施します」


案内人の一人が灯の腕をつかんだ。


「やめてください!」慧が割って入った。


倉庫の奥で、杖が床を打つ音がした。天城総一郎が、灯りの下へ歩み出た。


「九条くん。初期化は取り消す」


「区長。規約では……」


「彼女は外へ出る機会を前に、ここへ残ると決めた。少なくとも今夜は。その判断を罰する理由はない」


九条は口元を引き締めたが、頭を下げた。


「……承知しました」


天城は灯と目線を合わせるように腰をかがめた。


「今夜は休みなさい。明日の朝、どうしたいか、また考えればいい」


「……お母さんのこと、また忘れるの?」


天城が初期化を取り消すと言ったとき、怜は安堵より先に、規約を一人の言葉で変えられることの恐ろしさを感じた。助かった。だが助かった理由は、妹の権利が認められたからではなく、区長が認めたからだった。


灯は天城を見上げていた。明日の朝には笑える。その約束を、彼女はもう知っている。知っていて、今夜はうなずいた。


怜は妹を責められなかった。母が死んだ世界へ戻ることを、母が死んだと知ったばかりの妹に、すぐ決めさせたのは自分だった。外へ出る自由があると天城は言った。だが扉が開いていることと、扉を越えられることは同じではない。


慧は灯の肩に手を置いたまま、姉を見た。誰も勝った顔をしていなかった。


「それを選ぶのは君だ。ただし、選べる仕組みを私が保証しなければならない」天城は言った。


灯は返事をしなかった。慧の手を握ったまま、怜を見た。怜もまた、何も言えなかった。


*


灯と慧が住居へ戻る前、怜は妹の手帳を返した。灯は受け取り、鞄の奥へ入れた。天城はそれを止めなかった。止めないことが許可として見える街にいると、普通の動作まで特別になる。


「お姉ちゃん、怒ってる?」


灯が聞いた。怜は首を振った。怒りはある。だが妹へ向けるものではない。そう言うと、灯は、少しだけ怒っててもいいよ、と答えた。


「私も、お姉ちゃんに怒ってる。急に全部戻したこと」


怜はうなずいた。母の死を伝えることが正しいとしても、伝え方まで正しかったことにはならない。妹が怒ることを、回復の証拠として喜ぶのも違う。怒らせた相手として、聞く必要があった。


「ごめん。怖いことを、急がせた」


「でも、来てくれたのは、うれしい」


灯は言った。二つの気持ちが同時にある。姉妹は、そのどちらかを消さずに立っていた。


慧は、今夜は自分がそばにいると言った。怜は礼を言い、何かあれば連絡してほしいと頼んだ。連絡が届くかどうかを、今は確かめられない。その不確かさを、三人とも知っていた。


灯が去ったあと、天城は怜に、妹さんはここを選んだ、と言った。怜は、今夜は、と答えた。区長が顔を上げた。


「今夜は、ここを選びました。明日も同じとは限りません」


天城は何も言わなかった。怜は、妹の返事を永久の契約にしてほしくなかった。怖い夜に選んだことを、明るい朝に選び直せる。それが必要だった。


倉庫の奥から風が入った。潮の匂いがした。島の住居では感じなかった匂いだった。天城は杖を持ち直し、歩き始めた。怜は少し遅れてついていった。


「あなたは、何を覚えていたいんですか」


彼女が尋ねると、天城は足を止めた。長い間、答えなかった。


「忘れたくないものと、忘れられないものが、同じになってしまった」


区長はそう言った。怜は、答えの意味をまだ知らなかった。だがその言葉が、住民のための説明ではなく、本人の言葉であることは分かった。


保管庫へ向かう扉が開いた。天城は先に入らず、怜を待った。彼女は自分の足で敷居を越えた。妹の選択を認めたあとで、今度は自分が選ばなければならなかった。


*


天城に導かれた保管庫には、果てしなく棚が続いていた。小さな光が無数に灯り、暗い天井に星座のような影をつくっている。


「この十年、住民が預けた記憶です。喜びも、悲しみも」天城は言った。


「……どうして、私をここへ」


「二年前、あなた自身が預けた記憶も、ここにある」


天城は一つの棚で立ち止まった。プレートには『真柴怜 預かり記憶 2033年9月14日〜12月13日』とあった。


「受け取るかどうかは、あなたが決めなさい」


怜は光に手を伸ばした。触れた瞬間、海辺の朝が流れ込んだ。コーヒーの香り。桐生の笑い声。久しぶりに眠れた夜。父の夢を見ずに目覚めた朝。そして、桐生にすがりつく自分の声。


「嫌だ。私はここにいたい。外へなんか、帰りたくない」記憶の中の怜が叫んだ。


保管庫の冷たい床の上で、怜は目を見開いた。


「……私が、そう言ったの?」


保管庫の棚には、記憶の内容を示す名前がなかった。居住者番号と期間だけが並んでいる。天城は、他人が内容を読むための場所ではないと言った。怜は、ここまで来る権利を住民が知らないことを思った。


「返してほしいと言った人は、いたんですか」


「いた」


天城は答えた。


「返したんですか」


天城はすぐには答えなかった。その沈黙が、保管しているという言葉の限界を示していた。捨てなかったことは、返したことではない。


怜は自分の棚の前に立った。知らない3か月が、期間として表示されている。戻せば、その時間にいた自分の判断まで引き受けることになる。今の自分に都合のよい過去だけを取り戻すことはできない。


彼女は天城に触れ方を尋ねた。誰かに戻されるのではなく、自分の手で始めたかった。


頬を涙が伝った。


「私、ここにいたかったんだ」

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