第4章 おかえりなさい
怜はノートを膝に広げた。見覚えのある筆跡が、二年前の自分から届いた手紙のように並んでいた。
『私は今、桐生遼と二人で取材のためにここにいる。もし私が全部忘れて、またここへ来たら、これだけは覚えていて』
『一、夜は眠るな』
『二、天城澪を探せ。彼女だけが、扉の開け方を知っている』
『三、第0条を読め』
『四、桐生を責めないで』
最後の行はインクが滲み、文字を追えなかった。紙の繊維が波打っている。水滴の跡にも見えた。
「……桐生を、責めないで?」声に出すと、知らない男の名前だけが妙に重かった。
鷲尾がノートを覗き込んだ。「真柴さん。わしは、あんたと一緒に何かをしようとしていたのかね」
「分かりません。私も、覚えていないんです」
やがて二人は黙って夕日を眺めた。鷲尾はノートを引き寄せ、余白にゆっくりと書いた。
『この女を信じろ』
怜は自分の筆跡を、行ごとに確かめた。急いでいるとき、彼女は「柴」の最後の線を短くする。取材相手の名前を間違えないように、固有名詞だけは丁寧に書く。ノートの中の怜にも、同じ癖があった。
過去の自分は、今の自分が来ることを予想していた。予想していながら、何が起きたのかを全部は書かなかった。紙が足りなかったのか。時間がなかったのか。それとも、書けないことがあったのか。
桐生を責めないで。その1行は、ほかの命令と違っていた。眠るな、探せ、読め。どれも行動を指示している。責めないで、だけが、感情を頼んでいた。過去の自分は、未来の自分がその男を責める理由を知っていた。
鷲尾が「この女を信じろ」と書き足すのを見て、怜は顔を上げた。信じてもらう資格があるかどうかを、老人は調べなかった。昨日の自分に従うように、目の前の彼女を信じた。
*
鷲尾の家を出ても、怜はすぐにホテルへ戻れなかった。ノートの自分の字が、目を閉じるたびに浮かぶ。ここへ来たことがある。桐生と一緒にいた。知ったことは二つだけなのに、知らないことの形がすべて変わった。
彼女は海沿いの休憩所に座り、鞄から古い請求書の写しを出した。外で見つけた紙と、島で見つけた紙。同じ結論を指している。だが、二つとも誰かが用意したものだという可能性は残る。自分の過去を疑うことと、自分を疑わせようとする相手を疑うことが、絡まってほどけない。
怜は手帳の白い期間を開いた。事故のあと、医師に何を思い出すかと聞かれた。彼女は、何も、と答えた。医師は、無理に思い出さなくてよいと言った。周囲も同じことを言った。無理に思い出さなくてよいという言葉が、いつの間にか、思い出さないほうがよいという意味になった。
母だけは、思い出したら教えて、と言った。母は何を知っていたのだろう。怜が桐生の名前を口にしたことがあったのか。島から戻った娘の顔に、事故とは違う何かを見たのか。もう尋ねる相手がいない。
休憩所の端末で、外への連絡を試みた。森崎の番号を入力すると、緊急性の選択を求められた。健康、家族、業務。怜は業務を選んだ。確認中という表示が出て、そのまま止まった。
彼女は待った。待つことが手続きなのか、拒否なのかを、画面は教えない。10分後、受付済みという文字が出た。送信済みではなかった。
ノートに、連絡を試みた時刻を書いた。届かなかった場合にも、送ろうとしたことは残る。灯が母の葬儀へ来なかったことも、同じように考えるべきだったのかもしれない。
海を見ていると、清掃用の小さな車が近づいてきた。運転席はない。怜の足元を避け、落ち葉だけを拾っていく。彼女は自分の紙を鞄へ戻した。紙が落ちれば、この街はそれを汚れとして回収する。誰かが探すために残したものも、落とし物と区別される前に消えるのだろうか。
ホテルへ戻ると、ユキが廊下にいた。どちらへ、と聞かれ、怜は海を見ていましたと答えた。嘘ではない。全部ではない。
ユキは、海は落ち着きますねと言った。怜は、そう感じますか、と尋ねた。案内人は少し考え、そう説明されています、と言い直した。
怜はその返事を、今度はノートに書かなかった。目の前の人間が、自分の言葉を探す時間まで記録に変えたくなかった。
*
その夜、森崎は編集部の資料室で古いファイルをめくっていた。
『2033年 真柴怜 取材記録』
ファイルの中身は、ほとんど空っぽ。
「……抜かれている」声が、無人の部屋に落ちた。
ファイルの背に、手書きのメモが一枚だけ残っている。
『共同取材者 桐生遼』
「桐生……」森崎はその名前を、忘れないように口の中で繰り返した。
森崎はパソコンで古いメールを検索する。2年前の9月。怜からの最後のメール。
『編集長。明日、島に入ります。3か月で戻ります。もし戻らなかったら、記事は桐生が書きます』
森崎は椅子の背に身体を預けた。
「入っていたのか。あいつは二年前に、あの島へ」
森崎は、怜の復職の面談を思い出していた。彼女は何を聞いても、覚えていません、と答えた。事故の説明をしたのは、本人ではなく、病院から来た書類だった。森崎は書類を読んで、本人に聞いたつもりになった。
編集長という役職は、毎日何かを決める。載せるか、載せないか。守るか、切るか。森崎は2年前、会社を守ると決めた。その決定のあとで、怜を守ったのだと説明し直した。名前を変えるだけで、決定の重さが変わったように感じられた。
資料室の紙には、名前を変える余地がなかった。桐生遼。共同取材者。自分が確認しなかった名前が、ここには残っていた。森崎は携帯電話を出し、保存された怜の番号を見た。島にいる彼女には、つながらない。
*
森崎は病院の窓口で名刺を差し出した。
「二年前の真柴怜さんの搬送記録ですね。……ありました。交通事故による頭部外傷で、救急搬送されています」職員は画面を見つめた。
「搬送元は?」
「ええと……搬送元が空欄です。それに、CT画像も見当たりません。外傷の記録だけですね」
「誰が連れてきたんです」
「担当医の署名は……内閣府の嘱託医? 当院の医師ではありません」
森崎は眉間に皺を寄せた。すぐに結論を出してはいけない、と自分に言い聞かせた。
病院の窓口で、森崎は本人の同意がないと詳細を出せないと言われた。正しい対応だった。彼は怜から取材前に預かった委任状を示し、事故の記録に限ると説明した。職員は何度も確認してから、古い台帳を開いた。
搬送元の空欄を見て、森崎はすぐに不正だとは言わなかった。記入漏れはある。画像が見当たらないことも、保存先が別という可能性がある。疑いを結論にするな。怜に言い続けてきた言葉を、今度は自分に言った。
ただ、説明できる欠落が、同じ人間の記録にいくつも重なっていた。一つずつなら偶然でも、並べると形になる。森崎はその形を、怜に見せなかった2年前の自分を思い出した。
*
病院を出た森崎は、小野寺と近くの食堂に入った。遅い時刻だったが、店はまだ開いていた。注文した料理が来るまで、二人は資料を広げなかった。患者の名前がある紙を、食堂の机に置くべきではなかった。
「編集長は、真柴さんのことを信じてますか」
小野寺が聞いた。森崎は水を飲み、すぐには答えなかった。
「信じるかどうかで、記事を決めるな」
「記事じゃなくて、人の話です」
森崎は箸を持った。若い記者は、逃げ道を残さない質問をするようになった。自分が教えたのか、怜から学んだのかは分からない。
「信じたい。だから、確かめる」
「2年前も、そうでしたか」
森崎は首を振った。2年前、怜は強い記事を持ってきた。掲載すれば部数が伸びる。伸びれば編集部を守れる。彼は、記事の危うさを指摘しながら、その危うさを補う時間を与えなかった。締め切りを先に置き、確かめろと言った。
「急がせたのは、俺だ」
「でも、責任を取ったのは真柴さんです」
「そうだ」
森崎は答えた。自分にも処分があったと言えば、話の中心を自分へ戻せる。言わなかった。
食堂のテレビで、島の紹介番組が流れていた。明るい住居、穏やかな食卓、笑う住民。森崎は音を聞かずに画面を見た。編集された幸福の形は、自分たちが雑誌で作るものと遠くない。
「僕らも、都合の悪いところを切りますよね」
小野寺が言った。
「切る。だから、切ったことが分かるようにする。取材した範囲も、分からないことも書く」
「読まれなくなりませんか」
「なるかもしれん」
森崎は答えた。正確な記事が必ず売れるとは言えない。売れない記事を出す覚悟を、部下だけに求めることもできない。だが売れることを、確かめない理由にするのは違う。
食事を終えると、小野寺は領収書を受け取った。森崎は自分が払うと言った。若い記者は、経費にしますと答えた。個人的な反省会ではなく、取材の途中の食事だという意味だった。
店の外で、森崎は会社の経理担当へ電話をかけた。2年前の賠償処理の資料を、改めて確認したいと頼んだ。遅い時間だと怒られ、翌朝にすると言われた。普通の拒否だった。理由があり、次の時刻がある。その当たり前の返事が、今夜は少しありがたかった。
小野寺は病院の資料を封筒へ戻した。搬送元の空欄を、不正の証拠と呼ばなかった。空欄を埋める相手を探す。それが次の仕事だった。
森崎は、怜から届くはずの連絡を確かめた。端末は鳴らなかった。鳴らない理由を、もう本人の都合だけにはできなかった。
*
編集部に戻ると、森崎の部屋には明かりがついていた。彼の椅子に、見知らぬ女性が腰かけている。内閣府特区推進室長、黒江冴子。
「遅くまでお疲れさまです、森崎編集長」
「どちらさまですか」
「内閣府の黒江と申します。ユートピア区の特区運営を担当しております」
黒江は机に一枚の書類を置いた。
「二年前の賠償金、一億円。御社が支払った先を覚えていらっしゃいます?」
「……区の運営会社だ」
「その一億円、実は国が裏で肩代わりしたんですよ。御社が潰れないように。ご存じなかったでしょう」
「何が言いたい」
「真柴さんの記事は、今回も十周年を祝う記事で十分です。それ以上を書く理由が、どこにあります?」
黒江は立ち上がり、森崎の肩にそっと手を置いた。
「外は、寒いですからね。編集長」
黒江が出ていったあとも、森崎はしばらく動けなかった。やがて机を拳で叩いた。写真立てが倒れた。
黒江は、森崎の机の上の写真を起こしていた。編集部の集合写真だった。彼女は写真に写る人数を数えるように、指先で端を押さえた。
「たくさんの生活を預かっていらっしゃるんですね」
森崎は写真を伏せた。返事をすれば、会話の土台を相手に渡すことになる。会社を守る話として始められたら、彼は2年前と同じ理由で黙るかもしれなかった。
黒江は脅すような声を出さなかった。むしろ、すでに助けた人間に礼を求める口調だった。賠償金を肩代わりした。その事実が本当かどうかより、それを今ここで知らせる意味のほうが重要だった。知らずに借りていた恩を、返す時刻まで指定されている。
森崎は、怜が取材前に言った言葉を思い出した。今度は確かめてから書く。確かめなかったのは、彼女だけではなかった。
*
研究フロアはガラス張りだった。モニターには脳波の波形が絶えず流れている。怜はユキに案内され、「見学」のためにここへ来ていた。
「こちらが、区のすべてを見守る管理AI、『ノア』の研究フロアです」
白衣の女性が振り向いた。天城澪、三十四歳。総一郎の娘だという。目の下には、薄い疲労の影があった。
「……真柴、怜さん」
澪の手からタブレットが滑り落ちた。床に乾いた音が響く。
「どこかで、お会いしましたか」
「……いえ。父から、お話を伺っていたので」
澪はタブレットを拾い、ユキに目配せした。
「ユキ、少し外して。ここからは専門的な話になるから」
「かしこまりました」
研究フロアの入口には、手洗いの設備があった。ユキは衛生のためだと言った。怜は手を洗いながら、地下のカプセルにも同じ清潔さがあったことを思い出した。清潔な場所で行われることは、汚れた場所で行われることより説明しにくい。
澪は怜の名前を呼ぶ前に、手首を見た。リングの番号を確認したのだろう。顔を見て驚くまでに、短い遅れがあった。その遅れを、怜はノートに書く代わりに覚えた。
タブレットが床に落ちたとき、ユキは拾おうとしなかった。澪が自分で拾うまで待っている。指示がないと動かないのか。あるいは、動かないように指示されているのか。怜は、二人の間に流れる沈黙を見ていた。
研究フロアの見学が始まる前、澪は自分の机の引き出しを閉めた。中には、父が初めて書いた島の計画書があった。紙の端に、休める場所、と手書きで記されている。幸福な場所、ではなかった。
最初の研究は、眠りを妨げる感覚を弱めるためのものだった。記憶を消すという言葉は、計画書にはない。澪が参加した頃には、苦痛に結びつく記憶へのアクセスを調整する技術になっていた。調整という言葉は、変化の大きさを小さく見せる。
彼女は、最初の試験に立ち会った日のことを覚えている。被験者は、朝まで眠れたと泣いた。澪も泣いた。技術が人を救ったと思った。その日の報告書には、睡眠の改善と、感謝の言葉が記録された。翌週、その人が何を覚えているかを尋ねる項目はなかった。
項目を加えるべきだと言ったのは、当時の若い技術者だった。澪は同意した。だが試験の拡大が先に決まり、項目の追加は次の改訂へ送られた。次の改訂でも、緊急性の高い修正が優先された。誰も反対しなかった項目が、誰にも実行されないまま消えた。
父は、救える人間が待っていると言った。澪は、その言葉に逆らえなかった。待っている人間の苦痛は見える。まだ起きていない不利益は、見えない。彼女は見えるものを優先し、見えないものを後回しにした。
今、怜が廊下の向こうから歩いてくる。2年前、彼女は同じ廊下を桐生と歩いた。澪はそのとき、二人を助けるつもりだった。区の内部を見せれば、外から問題を指摘してもらえると思った。自分の責任を、外の記者へ預けようとしていたのかもしれない。
端末に九条から通知が来た。案内は公開範囲に限ること。澪は了承の印を返した。了承したあとで、机の上の小さなランプを見た。監視の状態を示す光だった。
光を隠しても、監視そのものが消えるわけではない。保守用の短い猶予が生まれるだけだ。彼女はその猶予を、これまで何度も使わずに過ごした。使えば何が起きるかを恐れ、使わないことで何が続くかを見ないようにした。
廊下でユキの声がした。澪は立ち上がった。怜の顔を見た瞬間、用意していた挨拶が消えた。戻ってきた。記憶を失っても、彼女はまたここへ来た。
そのことを希望と呼ぶ前に、澪は自分が何をするかを決めなければならなかった。戻ってきた人間に、また同じ秘密を抱えさせるだけでは、助けたことにならない。
手の中の端末が滑った。床へ落ちる音が、静かな廊下に響いた。
*
*
澪はドアを閉め、壁の小さなランプに手をかざした。
「三分だけ、ノアの耳が届かなくなる」
「やっぱり、私を知ってるんですね」
「知っています。2年前、あなたはここにいた。桐生遼と一緒に」澪は言った。
「私は、ここで何をしたんですか」
「それは言えません。あなたの記憶を、あなた以外の人間が語ってはいけない。それが、あの夜のあなたとの約束です」澪は言った。
「約束?」
「あなたは自分で選んだの。忘れることを」
怜は言葉を失う。
「私が……自分で?」怜は尋ねた。
「そして桐生さんは、あなたの代わりにここに残った」
「なんで……なんでそんな」怜は言った。
「残り1分。聞いて。『第0条』は、入区契約書の最初のページにある。でも、誰も読めない。インクがノアの光でしか見えないの」
「どうすれば読めるの」怜は言った。
「契約書の原本は、父の部屋の金庫。……桐生さんは、それを持ち出そうとして」
澪の指の隙間から、赤い光が漏れ始めた。
「時間よ。もう行って」澪は言った。
「澪さん、桐生さんは死んだ。品川の海で」
澪は凍りつく。
「……死んだ?」澪は尋ねた。
「腕に『忘れるな』って書いてた」
澪は口元を押さえた。泣き出すまいとするように、唇が震えた。
「そう……あの人、最後まで……」澪は言った。
澪が覆ったランプは、熱を持っていた。彼女は手を離さずに話した。怜はその手を見ながら、3分という時間が、澪の言葉ではなく設備の都合で決まっていることを理解した。
「私が選んだという証拠はありますか」
怜は尋ねた。澪はうなずいた。
「ある。でも、選んだという記録と、自由に選べたという証拠は同じじゃない」
その返事だけは、ほかの説明より信じられた。澪は自分の説明を正しく見せようとしていなかった。
「じゃあ、なぜ今は教えてくれないんです」
「私が話せば、あなたは私の言葉を記憶の代わりにする。あなたに返すものを、もう一度私が作ってしまう」
怜は反論しようとして、やめた。2年間、事故という説明を自分の記憶の代わりにしてきた。澪の言葉を疑いながらも、その危険だけは分かった。
ドアが開いた。ユキが、変わらぬ笑顔で立っていた。
「お時間です、真柴様」ユキは言った。
*
個室を出る直前、怜は澪に、今夜までに一つだけ確かめたいと頼んだ。自分が2年前に使った名前だ。澪は、今は答えられないと言った。
「答えられないのは、知らないからですか。言えないからですか」
「言えないから」
怜はうなずいた。知らないという嘘より、言えないという拒否のほうが、次の問いを作れる。
「では、私が知る方法はありますか」
澪は壁のランプを見た。光はまだ隠されている。残りの時間を数えるように、彼女の指が動いた。
「あなたが住んでいた場所は、残っている」
「誰が残したんですか」
「父が」
怜は、天城が自分をここへ呼んだ理由を考えた。秘密を隠したい人間が、証拠を残す。矛盾ではなく、隠したいものと残したいものが別なのかもしれない。
「父を信じて、とは言えない」
澪は続けた。
「私のことも、信じなくていい。ただ、私が見せるものを、私の説明だけで判断しないで」
怜は、その言葉を聞いて少し腹が立った。確かめるための資料を持つ人間が、確かめろと言う。資料を渡さずに慎重さだけを求めるのは、公平ではない。
「私には、選べる情報が少なすぎます」
澪は顔を下げた。
「そうね。それを作った側に、私がいる」
彼女は言い訳をしなかった。怜は怒りを保ったまま、ノートを閉じた。相手が責任を認めたからといって、すぐ許す必要はない。
ランプが短く点滅した。澪は手を離した。部屋の空気が変わったように感じたのは、怜の気のせいかもしれない。だが二人は、もう先ほどの声では話せなかった。
澪は見学の続きとして、研究設備の説明を始めた。怜は質問をした。記憶の保存期間、本人への説明、異議の扱い。澪は公開できる範囲を答え、公開できないものはそう言った。
扉の外で待つユキは、二人の顔を交互に見た。何を話したかは尋ねなかった。怜は、ユキもまた、聞かないように作られた役割の中にいることを考えた。
廊下の窓から、海辺の遊歩道が見えた。人がゆっくり歩いている。怜は、少し一人で歩きたいと言った。ユキは案内を続けようとしたが、澪が、構わないと答えた。
許可が必要な散歩だった。怜はそのことを、歩き出してからノートに書いた。自分で歩く足があっても、歩く場所を自分で決められるとは限らない。
*
一人になった怜は海沿いの遊歩道を歩いた。東京の街並みが、薄い霞の向こうに見える。柵の外には、目を凝らさなければ分からないほど細い光の網が張られていた。カモメが触れ、小さな火花が散る。鳥は驚いたように向きを変えた。怜は柵に指を置いた。自分で忘れることを選んだ――澪はそう言った。何を見て、何から逃げたのか。考えを追いかけたところで、背後から拍手が聞こえた。
九条静馬が、ゆっくりと近づいてきた。
「美しい夕日でしょう。外から見る東京は、こんなにも綺麗だ」
「調和管理局長、九条さんですね」
「ご存じでしたか。いや……覚えて、いらっしゃいましたか」
「……何が言いたいんですか」
九条は怜の手首のゲストリングを軽く叩いた。表示が切り替わる。
『ゲスト』の文字が消え、別の表示が浮かび上がった。
『居住者番号 007741 真柴怜 ……退区処理済・再入区』
「……再入区?」怜は喉の奥でつぶやいた。
「あなたのリングは、ゲスト用ではありません。2年前、あなたが外したリングです。番号も、そのまま取っておきました」
九条は深々と頭を下げた。礼儀正しい仕草が、かえって逃げ道を塞いだ。
遊歩道の柵には、手を置くのにちょうどよい高さの丸い縁があった。遠くを眺める人間の身体に合わせて作られている。出ていく人間の身体には、何も合わせていなかった。
怜は海の向こうのビルを探した。自分の部屋から見える建物が、どこかにあるはずだった。だが島から見る東京は、知っている東京と違っていた。街の奥行きが消え、一枚の景色になっている。そこに住む人間の暮らしも、遠くからなら美しく見える。
九条の足音は、近づいてくるまで聞こえなかった。怜は振り向き、彼の手に何もないことを確かめた。何も持たずに、人を追い詰めることができる人間だった。彼がリングに触れると、今までゲストだと思っていた自分の身分が、表示の変更だけで変わった。
「おかえりなさい、真柴さん。あなたのお部屋も、そのままにしてありますよ」九条は言った。
怜の背後で、夕日を浴びた門が音もなく閉じていった。




