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ユートピア区  作者: ぽむぽむ


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第3章 眠りの調律

裸足の足裏に、舗道の冷たさが刺さった。怜は走りながら、まだ一度も灯の名を呼んでいないことに気づいた。声を上げれば見つかる。それよりも、呼んでも妹が目を覚まさないと知るほうが怖かった。


地面に開いた搬入口へ、最後のストレッチャーが吸い込まれていく。白い光の向こうで床がゆっくりと沈んだ。階段ではない。眠った人間を、荷物のように運ぶための装置だった。


扉が閉まりかけた瞬間、怜はゲストリングをかざした。短い電子音。扉が止まる。許可されるはずのない自分が、なぜ通れるのか。疑問を飲み込み、怜は隙間へ身体を滑り込ませた。今は理由より、灯だった。


*


壁には非常口の矢印がなかった。怜は曲がり角を指で数えた。右へ二度、左へ一度。帰り道を覚えておくためだ。端末の地図には、この階層そのものが存在しなかった。


冷たい床を踏むうちに足の感覚が薄れていく。震えは寒さのせいだ、と怜は自分に言い聞かせた。恐怖に名前を与えれば、少しだけ扱いやすくなる。住民たちの眠りの間にも、誰かが同じことをしているのだろうか。


奥から規則正しい電子音が響いてきた。眠る人間の数だけ違うはずの呼吸が、ここでは同じ間隔の信号に置き換えられていた。


白いトンネルの先に、薄い文字が浮かんでいた。〈第一調律層〉。怜は壁に身を寄せ、音のするほうへ進んだ。


*


手すりの陰から見下ろした瞬間、怜は息を止めた。巨大な円形ホールを、白い卵型のカプセルが埋め尽くしている。蓋の下には人の顔。カプセルの上を流れる光の帯に、断片的な映像が現れては消えた。怒鳴る男。泣く子ども。病室の天井。黒い喪服。映像は赤く染まり、音もなく途切れていく。


そのあとを埋めるように、海辺の散歩や家族の笑顔が金色に流れ込んだ。怜は最初、眠る住民に心地よい夢を見せているのだと思った。だが中央のカプセルに灯の顔を見つけ、その上に浮かんだ文字を読んだとき、そんな説明は崩れた。〈お母さんが亡くなった〉。自分が送ったメッセージだった。続いて葬儀の写真。泣き崩れる灯。映像の縁が赤く染まっていく。


「やめて……」声が漏れた。


あの文面を送るまでに、怜は何度も書き直した。母が亡くなった、と最初に告げるか。病院へ来てほしい、と頼むか。どちらにしても灯は帰ってこられない。それでも、来てほしいという言葉を消せなかった。


目の前では、母の死も、知らせを受けた妹の悲しみも、赤い光の中でひとまとめにされていた。二人の間に残るはずだった、届かなかった言葉まで。


光が消えた。壊れる音さえしなかった。何かを奪うなら、せめて奪ったと分かる音を立ててほしかった。


代わりに、春江が画面越しに笑う映像が現れた。死んだはずの母が、灯の記憶の中で生き直している。怜が手すりを握りしめたとき、背後から手が伸びて口を塞いだ。振り返ると、白髪の老人が唇に指を当てていた。


「声を出すな。ここのマイクは寝息まで拾う」老人は囁いた。


*


老人に導かれ、怜は狭い配管室へ入った。懐中電灯が小さく灯る。パジャマ姿の老人の胸ポケットから、使い込まれたノートが覗いていた。鷲尾久志、七十八歳。


「ホテルにメモを入れたの、あなた?」怜は尋ねた。


「ああ。眠らなかったな。大したもんだ」


「あなたは、なんで起きてるんです」怜は言った。


「わしには調律がうまく効かん。安全制御で見送られる夜があるんだ。二晩に一度くらいは、昨日のことを覚えとる」鷲尾は胸元のノートを指で叩いた。


鷲尾はノートを開く。びっしりと書かれた日付と短い文章。


「だから書くんだよ。覚えているうちに。翌朝の自分に読ませるために」鷲尾は言った。


怜はページをめくる。


『3月4日。昨夜、妻の命日だった。なのに今朝の私は笑っていた。妻を思い出せ』


『4月10日。また忘れていた。このノートを読め。毎朝読め』


『6月1日。娘を探せ。娘はまだ区内にいる』


「娘さん?」怜は尋ねた。


「……分からん。ノートの私がそう言っている。今の私には、娘がいた記憶がない」


鷲尾は乾いた声で笑った。


「笑えるだろう。自分の娘を、自分の字でしか知らない」鷲尾は言った。


「ここの人たちは、知ってて入ったんですか」


「契約書は分厚い。誰も最後まで読まない。読んだところで、サインしたことすら翌朝には忘れている」鷲尾は言った。


鷲尾のノートは、ページごとに筆圧が違った。字が大きい日と、小さく震えている日がある。余白に同じ文章が繰り返されている。娘を探せ。その言葉を、老人は命令として書いたのか、願いとして書いたのか。


「これを読んでも、信じられない朝はないんですか」


怜が聞くと、鷲尾はノートを閉じた。


「ある。自分の字だと分かるのに、書いた人間が他人に思える朝がある」


老人は背表紙を撫でた。


「それでも、今のわしが知らんことを、昨日のわしは知っとったかもしれん。知らんほうが、知っとるほうを嘘つきにするわけにはいかん」


怜はその言葉を覚えようとした。自分の失われた3か月にも、同じことが言える。今の自分が思い出せないからといって、そこにいた自分が何もしていなかったことにはならない。


通路の向こうで足音がした。鷲尾が懐中電灯を消す。


「夜明け前に部屋へ戻れ。カプセルの数と寝床の数が合わないと、奴らは探しに来る」鷲尾は言った。


*


配管室を出る前に、鷲尾は怜の足を見た。裸足で歩いたせいで、指の先が赤くなっていた。老人は棚の隅から作業用の布を出し、床に敷いた。


「ここで少し待て。上がる人間が減るまで」


怜は座った。妹を追ってきたはずなのに、今は妹のいない場所で、知らない老人に助けられている。何をすれば正しい方向へ進むのか、身体の冷たさが判断を鈍らせた。


鷲尾はノートのページを折り返し、怜に空欄を見せた。日付だけが並んでいた。調律が効いた日の自分は、何も書かなかったのだという。


「空白の日は、幸せだったんですか」


「分からん。何も書かんかった理由が、幸せだったからとは限らん」


怜はその答えを聞いて、自分の白い手帳を思い出した。書かれていないことを、なかったことにしてはいけない。だが書かれていないものを、都合のよい物語で埋めてもいけない。


「娘さんは、ここにいるんですか」


鷲尾は、いると書いてある、と答えた。確かにいる、とは言わなかった。娘を探す理由まで、ノートに預けている。怜は、老人にとって紙が自分の代わりになっていることを知った。


ノートの古いページには、料理の名前があった。卵焼き、焼き魚、味噌汁。その下に、娘は卵を甘くしない、と書かれていた。


「作ってあげたんですか」


「そうかもしれん。作ってもらったのかもしれん」


鷲尾は笑った。どちらか分からないまま、その1行を大事にしていた。


怜は母の卵焼きを思い出した。甘すぎると文句を言った。灯は好きだと言った。同じ家で同じものを食べても、残る味は違う。娘の卵焼きの甘さを、老人が自分で決めつけないことが、怜には大切に思えた。


通路の音が減った。鷲尾は扉を少し開け、外を確かめた。怜は立ち上がろうとして、膝が震えた。老人が手を差し出した。彼女はその手を借りた。


「明日、あなたが私を覚えていなかったら、どうすればいいですか」


「今日会ったと言ってくれ。信じんかったら、このページを見せろ」


鷲尾は今夜の日付の下に、怜の名前を書いた。記者、と書いてから、妹を探している、と続けた。怜は、自分が何者かを職業だけで書かれなかったことに、少し救われた。


老人はペンを渡した。怜も同じページに、自分の名前を書いた。手が冷えて、いつもの字にならない。それでも自分の字だった。


扉の外へ出ると、遠くでカプセルの蓋が閉まる音がした。眠る人間を守るための蓋。眠る人間から何かを奪うための蓋。同じ音が、どちらにも聞こえた。


*


ホテルへ戻る頃には、窓の外が白み始めていた。怜はベッドの縁に腰を下ろした。扉の外から、ユキの明るい声が聞こえる。


ベッドに横になると、足の裏に細かな傷があることが分かった。怜は濡らしたタオルで汚れを拭いた。白い布に灰色の跡がつく。この街にも汚れはある。昼間には見えないだけだ。


ノートを開き、地下で見たものを書こうとしたが、最初の1行が決まらなかった。記憶を消している。そう書けば簡単だった。だが、その言葉で、眠る妹の顔まで説明できるだろうか。


彼女はまず、灯の居住者番号を書いた。名前より番号のほうが、ここでは人間を確実に指し示す。その順序を、自分のノートでだけは逆にしたかった。番号の上に、妹、と書き足した。


「おはようございます、真柴様。よくお休みになれましたか?」


「……ええ、とっても」怜は足裏の傷をシーツの陰に隠した。


*


灯は庭でレモンの木に水をやっていた。昨日と変わらない笑顔だった。


「お姉ちゃん、おはよ! 昨日の夜ね、すっごくいい夢を見たの。お母さんと海に行く夢」


灯は水やりを終えると、葉の裏を確かめた。小さな虫がいると、指でつままず、葉ごと庭の端へ運ぶ。母と同じ仕草だった。母を失った記憶は消えても、母から受け取った動作は残っている。


怜はその動作を見ながら、何を取り戻せば妹を取り戻したことになるのかを考えた。母が死んだと知っている灯か。母に似た手つきで木を育てる灯か。どちらも灯だった。


「ケーキ、また焼こうか」


妹は言った。怜はうなずいた。嘘をついたつもりはなかった。ケーキを一緒に食べたいのは本当だった。ここから連れ出したいのも本当だった。二つの本当が、同じ方向を向いていない。


「……そう。よかったね」怜はようやく答えた。


笑い返そうとしたが、頬が動かなかった。


*


灯の家を出てから、怜は区の相談窓口へ向かった。取材の予定にない場所だったが、ユキは止めなかった。相談したい内容を尋ねられ、怜は、眠りについて、と答えた。


窓口の人は、怜の名前を確認し、個室へ案内した。椅子は柔らかく、机の上に飲み物があった。何を話しても否定されないように作られた部屋だった。


「眠ることが怖いんです」


怜が言うと、担当者はうなずいた。


「眠れない理由を、無理に話す必要はありません」


その言葉は優しかった。怜は、理由を話さなくても助けてもらえることに、ほんの少し心が緩むのを感じた。


「眠ったあと、自分が変わっている気がします」


「よく休めたあとは、気分が変わることがあります」


「気分ではなく、覚えていることが」


担当者は端末を見た。怜の言葉を入力しているのか、すでにある記録を読んでいるのか、画面の向きでは分からなかった。


「ご自身で確かめたいことがあるのですね」


「はい」


「その不安を軽くするお手伝いができます」


怜は、確かめる手伝いではないのかと尋ねた。担当者は少し間を置いた。不安が強いときには、まず落ち着くことが大切だと言った。


怜は自分の手を見た。確かに震えていた。徹夜と冷えのせいもある。震える手で話す人間の言葉は、内容より状態として受け取られやすい。彼女は机の下で両手を重ねた。


「不安がなくなったら、確かめる必要もなくなりますか」


担当者は、必要ならまた相談できます、と答えた。


「そのとき、今日相談したことを覚えていられますか」


初めて、相手の表情が止まった。怜は、今の質問を記録に残してくださいと頼んだ。担当者は、記録は残りますと言った。誰のために残る記録なのかは、答えなかった。


個室を出ると、待合にいた住民が、ここはよくしてくれるよ、と声をかけた。怜は礼を言った。その住民は嘘をついていないのだろう。相談して楽になった経験がある。その経験まで否定する権利は、怜にはなかった。


ユキは外で待っていた。何かお役に立ちましたか、と尋ねた。怜は、何が役に立つのかを考えられました、と答えた。ユキはその返事を、端末に入力しなかった。


「記録しないんですか」


「何を記録すればよいか、分からなかったので」


怜は彼女を見た。分からない、とユキが言ったのは初めてだった。ほんの短い返事だったが、用意された案内の言葉とは違っていた。


怜は、今のままでいいです、と言った。ユキはうなずいた。二人はしばらく、何も話さず歩いた。


*


天城総一郎は、自ら急須を傾けていた。天井の高い部屋に、湯の注がれる音が小さく響く。怜の隣でユキが姿勢を正した。


「ようこそ、真柴さん。区長の天城です。十周年の取材を受けてくださって、ありがとう」天城は言った。


「招待したのは、そちらですよね。なぜ私を指名したんです」


「あなたの記事を読んだからですよ。2年前の、あの記事」天城は言った。


「誤報だったかどうかは、あなた自身が一番よく分かっていない。そうでしょう」天城は言った。


怜は口を閉じた。


「単刀直入に聞きます。夜、住民を地下に運んで何をしているんですか」怜は言った。


ユキの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まる。天城は穏やかなまま。


「眠ってもらっているんですよ。最高の睡眠を」天城は言った。


「記憶を消していますよね」


「消してはいません。整えているんです。我々は『調律』と呼んでいます」天城は言った。


「真柴さん。人間の苦しみの大半は、出来事そのものではなく、出来事の記憶から生まれる。殴られた痛みは1日で消えるが、殴られた記憶は一生人を苦しめる」


「だから、記憶ごと消す」怜は言った。


「この区で犯罪が起きないのは、恨みが朝まで持ち越されないからです。失業がないのは、劣等感が積み重ならないからだ。誰もが、毎朝まっさらに生まれ直す」


「それは、人間って言えるんですか」怜は言った。


「では聞きましょう。あなたは昨日、ぐっすり眠れましたか」


天城が使う急須は、区の食器とは違っていた。注ぎ口に細い欠けがあり、持ち手の色が擦れている。怜がそこを見ると、天城は妻が選んだものだと言った。過去の話をするときだけ、区長の声にわずかな間が生まれた。


「あなたは、調律を受けているんですか」


怜の問いに、天城は茶を注ぐ手を止めなかった。


「私は、覚えている側にいます」


答えになっているようで、なっていなかった。怜は自分のカップを見た。地下で住民の記憶を整える人間が、欠けた急須をそのまま使う。大切なものの欠けを、誰に残し、誰から奪うのか。その基準を尋ねたかった。


だが天城は、怜が眠れたかどうかを尋ねた。質問の向きを変えるだけで、彼女は取材する人間から、救われるべき人間に変えられた。


怜は答えられなかった。眠れなかった理由を、この男に説明すること自体が罠のように思えた。


「外では大勢が不眠と鬱に苦しみ、自ら命を絶つ人も後を絶たない。それを人間らしいと呼ぶなら……私は人間らしさを、少し減らしてあげたいんですよ」天城は言った。


*


図書館の閲覧端末で、怜は住民名簿を検索した。〈桐生遼〉――該当なし。〈鷲尾久志〉――七十八歳、第三住居区。家族欄は空白だった。背後から子どもたちへの朗読が聞こえる。ユキの声だった。


図書館の本には、貸し出し期限がなかった。読み終えるまで持っていてよいという。怜は背表紙を眺めた。歴史の本も、悲劇を扱った小説も並んでいる。悲しみそのものが禁止されているわけではないらしかった。


ただし、読んだ悲劇を自分の悲しみとして持ち帰れるのかは分からない。物語の登場人物が泣くことと、自分が泣くことの間に、この街は見えない線を引いている。


ユキの朗読を聞いている子どもたちは、途中で質問しなかった。怜は子どもの頃、母に何度も同じ箇所を読んでもらった。なぜこの人は帰らないのか、なぜ謝らないのか。母は困りながら、分からないね、と答えた。分からないという返事を、この街の子どもは聞いたことがあるのだろうか。


「……そして、おじいさんは、昔、娘がいたことをすっかり忘れてしまいました……」


怜は振り返った。朗読するユキの横顔が、鷲尾のノートに挟まれていた古い写真の少女に重なる。偶然だろうか。そう思おうとしても、目を離せなかった。


*


天城との面会のあと、怜は区の歴史展示室へ寄った。中央塔の下層にあり、開区までの写真が年代順に並んでいた。見学者はほとんどいない。現在が満たされている街では、過去を見る人間は少ないのかもしれなかった。


建設中の写真に、田淵のような作業服の人々が写っていた。顔は小さく、名前はない。都市を作った人間は、完成した都市の背景になる。怜は写真の隅にある搬入口を見た。今の案内図にはない形だった。


ユキは展示の説明を読み上げた。安全、効率、共生。怜は、建設中に事故はなかったのかと尋ねた。ユキは、資料に記載がありません、と答えた。


「なかった、ではないんですね」


「はい。記載がありません」


その区別を、怜はありがたく思った。ユキの正確さは、ときに壁になり、ときに小さな入口になった。


展示の奥に、最初の居住者の声があった。音声を聞くと、仕事を失った人、家族を亡くした人、住む場所をなくした人が、それぞれ違う言葉で島を選んだ理由を話していた。声は明るく編集されていなかった。途中で詰まり、言い直し、長く黙る人もいた。


怜は一人の音声を最後まで聞いた。話し手は、ここへ来れば何かが変わると思った、と言った。何が変わるかは分からなかった、と続けた。希望は、いつも具体的なものとは限らない。


「この人たちは、今も住んでいますか」


「個別の居住情報はお伝えできません」


「自分の声がここで流れていることは、知っていますか」


ユキは端末を確認した。公開の同意は取得されているという。怜は、いつの同意かと聞いた。開区時だった。今も同意しているかどうかを、展示は知らせなかった。


壁に、天城の若い頃の写真があった。現在より痩せ、笑っていない。隣に立つ研究者たちの中に、澪らしい姿はなかった。まだ若すぎたのだろう。怜は、島の理念と現在の技術が、最初から同じだったとは限らないことを考えた。


説明文の末尾に、試験居住期という言葉があった。正式開区前の短い期間。期間だけが書かれ、何を試したかは書かれていない。


怜はノートに、始まり、と書いた。悪い仕組みが最初から悪い目的で作られたなら、見抜くのは簡単だ。救いたいという願いが、救われる人間の声を聞かなくなるまでに、どんな手順があったのか。その手順を知らなければ、別の場所で同じことが起きても気づけない。


展示室を出る前に、彼女は音声の一つをもう一度聞いた。ここで休んで、いつか外へ戻りたい。話し手はそう言っていた。展示はその言葉を消していなかった。だが、戻ったかどうかは、どこにも書かれていなかった。


*


図書館へ向かう前、怜はホテルの売店でノートを買い足した。代金を払おうとすると、宿泊者の利用分に含まれると言われた。いくら使ったか分からないことが、こんなに落ち着かないとは思わなかった。


新しいノートの最初のページに、確かめたこと、と書いた。次のページには、まだ分からないこと、と書いた。母の映像は生成されたもの。妹は母の死を知らない状態に戻されている。地下には住民を運ぶ設備がある。自分のリングは、入れるはずのない場所を開けた。


それぞれの下に、誰が見たか、誰が言ったかを書き足した。自分が見たことでも、見間違いはある。鷲尾の話でも、老人のノートが正しいとは限らない。疑うことをやめないために、信じたいものほど分けて書いた。


分からないことのページは、すぐ埋まった。桐生はなぜ自分を知っていたのか。なぜ自分の記憶はないのか。なぜ招待されたのか。招待は偶然ではない。だが偶然でないということと、罠だということは同じではない。助けを求める人間が、表向きの招待を利用した可能性もある。


怜は、自分が助けられる物語を作りかけていることに気づき、最後の行に線を引いた。願望、と小さく書いた。


ケーキを冷蔵庫から出した。昨日、灯が作ったものだった。食べると、甘さのあとに苦みが残った。皮を少し多く入れたのだろう。母のものとは違う味だった。


妹の記憶を戻せば、母のケーキと同じ味になるわけではない。人は過去を取り戻しても、過去の人間に戻るわけではない。その当たり前のことを、怜は食べながら考えた。


部屋の端末に、睡眠の相談についての案内が届いた。先ほどの担当者からだった。相談内容の要約には、記憶の変化への不安、と書かれている。怜が確かめたいと頼んだことは、不安として記録されていた。


彼女は訂正を求める欄を探した。満足度を選ぶ欄はある。自由記入欄はない。担当者への再相談を押すと、翌朝の時刻が表示された。


怜は予約しなかった。予約すれば、明日の自分がその相談を必要だと思うかどうかを、今夜の仕組みに預けることになる。


ノートの最後に、今日の自分から明日の自分へ、と書いた。地下を見た。妹は笑っていた。どちらも本当。片方だけを忘れないこと。


書き終えると、紙を一枚破って靴の中に入れた。カプセルとは別の靴だった。身体の重みで紙が折れる。その感触が、明日の自分への小さな合図になることを願った。


*


鷲尾の家では、老人が縁側で将棋の駒を磨いていた。昨夜の緊張はどこにもなく、怜を見ると朗らかに笑った。


「おや、お客さんかい。どちらさまで?」


「……昨日の夜、地下で」


「地下? わしはこの十年、地下なんぞ行ったことはないよ」


怜の背筋が冷えた。昨夜、老人が言っていた。調律が効く日もある、と。


「鷲尾さん。ノート、ありますよね。毎朝読むノート」怜は言った。


「ノート?」


鷲尾は首を傾げ、やがて仏壇の引き出しを開けた。取り出したノートの角は、何度もめくられて丸くなっていた。


「おかしいな。こんなもの、いつから……」


鷲尾がページをめくる。怜は横から覗き込んだ。後半の一枚だけ、インクの色が違う。細く右上がりの筆跡は、老人のものではなかった。


『2033年9月14日。鷲尾さんへ。もし私が全部忘れてしまったら、このページを見せてください。真柴怜』


怜はページに指を置いた。二年前。事故で失った三か月の、ちょうど真ん中に当たる日付だった。自分の字だ。間違えようがなかった。


「……あんた、真柴さん、というのかい」


鷲尾が顔を上げた。見知らぬ客を見る目だった。


畳の一角だけが、陽に焼けて色を変えている。ノートを読む場所はいつも同じなのだろう。家には、本人が忘れた時間が残っていた。


怜は昨夜の出来事を説明しかけ、口をつぐんだ。地下で会ったこと。娘を探していると聞いたこと。覚えていない人間に覚えていろと迫るのは、自分が何度もされてきたことだった。


それでも紙の上の文字は消えない。怜はページの端を押さえた。自分がここにいたという証拠が、他人の記憶ではなく、自分の筆跡で残っている。


「なぜだろうな。あんたの顔を見ると、涙が出る」


鷲尾の頬を、一筋の涙が伝った。怜はノートから手を離せなかった。

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