第2章 笑顔の妹
白い大理石の床に、天窓から落ちる光が滲んでいた。怜は手荷物検査のゲートで足を止めた。係員が差し出したトレイへ、スマートフォンを置く。
「区内では外部通信をご利用いただけません。端末はお帰りの際にお返しします」
「取材なのに?」
「区内の通信は専用端末でお願いします。皆さま同じ条件です」
怜は靴底に隠した小さなカプセルを意識した。見抜かれれば、ここまで来た意味がなくなる。ゲートが短く鳴り、緑のランプが点いた。向こう側には、白いワンピースを着た若い女性が待っていた。
「ようこそ、ユートピア区へ。ご案内を担当するユキです」
「名字は?」
「ユキです。ここでは、それだけで十分なんです」
ユキが怜の手首へ細い白い輪を通した。小さく、鍵の閉まる音がした。
「ゲストリングです。身分証にも、鍵にも、お財布にもなります」
係員は没収とは言わなかった。お預かりします、と言った。スマートフォンを収めた透明な袋には番号が振られている。怜が番号を読み終える前に、ユキが歩き出した。
ユキの声には語尾の揺れがない。こちらが黙れば待ち、歩けば半歩先を行く。よく訓練された案内係だ。名字を尋ねたときだけ、怜はその笑顔を見直した。
名前を伏せる自由はある。だが、名前など要らないと誰かに決められることは、別の話だった。
「外せるの?」怜は尋ねた。
「外したい理由が、ここにはありませんから」ユキはリングを一瞥し、何事もなかったように笑った。
*
並木が緑のトンネルをつくり、その下を自動運転の小型車が音もなく滑っていく。すれ違う人々は、見知らぬ怜にも会釈した。ゴミも落書きもない。警察官の姿もない。ベンチでは老夫婦が手をつないで眠っていた。
「警察署はどこ?」怜は尋ねた。
「ありません。10年間、一件の犯罪も起きていませんので」
「一件も? 喧嘩も、万引きも?」
「怒る理由がないと、人は怒らないんです」
カフェのテラスでは、客が席を立っても会計の気配がなかった。
「あの人たち、支払いは?」
「区内の物はすべて区の共有財産です。入区の際、皆さまが資産をお預けくださっていますので」
通りの花壇には、花の名前を記した札がなかった。誰でも区の端末をかざせば分かるからだとユキは説明した。怜は端末をかざさずに、花を見た。名前を知らないまま眺めることも、この街では無駄なのだろうか。
テーブルの砂糖は一種類だけ。好みは注文時に調整できるのだという。怜が注文する前に、ブラックコーヒーが運ばれてきた。いつもの飲み方だった。
「招待状に書いてありましたか」
「お好みを事前に確認しております」
ユキは「事前に確認しています」と答えた。誰に、と重ねると、返事まで一拍空いた。コーヒーは飲み頃の温度だった。親切が行き届くほど、怜は自分の輪郭を誰かに先回りしてなぞられている気がした。
「全財産を?」怜は尋ねた。
「はい。その代わり、一生、何ひとつ不自由はありません」
*
中央通りから職業センターへ向かう途中、ユキは小さな共同工房を案内した。窓際で数人が陶器を作っている。棚には形の揃わない器が並び、焼き損じたものも、番号をつけて残されていた。
「失敗したものも捨てないんですね」
怜が言うと、ユキは作品だからと答えた。作品なら失敗も残る。人の暮らしなら、失敗はどうなるのか。怜はその問いを、まだ口にしなかった。
年配の住民が、細い取っ手を器につけていた。何度も外れ、そのたびに粘土を丸め直す。怜が見ていると、住民は席を空けた。
「やってみませんか」
怜は取材の時間がないと言いかけたが、座った。誰かが何かを作る手を、眺めるだけで理解したつもりになりたくなかった。
粘土は思ったより冷たかった。取っ手をつけると、器の側面がへこんだ。住民は笑わず、内側から支えるよう教えた。怜は片手を中へ入れ、もう片方で押した。形は少し歪んだまま残った。
「これ、直したほうがいいですか」
「持ちやすければ、それでいい」
住民は言った。怜は器を持ち上げた。確かに持てる。完璧な街で、完璧でない器を持てることが、少し意外だった。
「ここへ来る前も、陶芸を?」
「いえ。何をしていたか、今はあまり気にしていません」
「思い出したくないんですか」
住民は怜を見た。質問が急すぎたと、彼女は気づいた。
「昔の話をしたくない人間がいても、珍しくないでしょう」
怜は謝った。相手は器を棚へ置き、乾かしておくと言った。取りに来る日を尋ねると、いつでもよいと答えた。
名前を書くよう言われ、怜は底に真柴と刻んだ。指で書いた字は、ペンの字とは違っていた。住民は自分の器に番号だけを書いた。
工房を出ると、ユキは、皆さんご自分のペースで楽しんでいます、と説明した。怜はうなずきながら、さっきの住民の返事をノートに書いた。昔の話をしたくない人間がいる。そのこと自体は、疑いの根拠にならない。
ただ、昔の話をしない自由と、昔を思い出せない状態は、外から見ると似ている。どちらなのかを確かめるには、本人が確かめられることが必要だった。
怜は粘土のついた指をハンカチで拭いた。爪の隙間に少し残った。ユキは手洗いの場所を示したが、怜はあとでと言った。今日ここで触ったものを、すぐに消したくなかった。
*
次に案内されたのは、全面をガラスで囲まれた建物だった。
入口の電子掲示板には「本日のお仕事」と表示されている。
『庭園の剪定 3名』『子ども図書館の朗読 2名』『チェロ演奏 1名』
初老の男が剪定ばさみを受け取り、係員に深々と頭を下げた。背広の似合いそうな人だったが、その手は道具に不慣れに見えた。
「ここには失業がありません。誰もが、その日やりたい仕事を選べるんです」
「やりたいことがない日は?」
仕事を選ぶ男は、剪定ばさみを受け取ると、係員に礼を言った。係員も礼を返した。怜は二人のやり取りを眺めていた。働くことに値段がつかない場所で、仕事は役割ではなく、その日の気分のように配られていた。
「昨日は何をされたんですか」
男に尋ねると、彼は少し考えた。
「昨日も、何か楽しいことをしたんでしょうね」
男は朗らかに笑った。怜もつられかけて、口元を引き締めた。昨日のことを覚えていないのか。覚えていても、答える必要を感じないのか。
ユキは次の建物へ案内しようとした。怜は男の指を見た。剪定ばさみを握る手つきは慣れていなかった。好きなことを仕事にできるという説明の裏で、好きになるまでの時間はどこに置かれているのか。彼女はノートに、昨日、という言葉だけを書いた。
「そういう日は、ありません」ユキは言った。
怜はユキの横顔を見た。笑みは変わらない。その答えが当たり前であることを、彼女は疑ったこともないようだった。
*
白い平屋の庭にレモンの木があった。ユキが呼び鈴へ手を伸ばすより早く、玄関が開く。
「お姉ちゃん!」
灯が駆け寄り、怜に抱きついた。怜の腕は一瞬宙に残り、それから妹の背中を強く抱いた。
「……灯」
「信じられない、ほんとに来たんだ! ねえ痩せた? ちゃんと食べてる?」
家の奥から青年が姿を見せた。藤代慧。二十九歳。灯の夫だ。
灯の家の玄関には、靴が2足ずつ並んでいた。怜はその並びを見て、妹が結婚したことを、初めて実際の出来事として理解した。動画の中の夫は、妹の説明に添えられた人だった。靴の片方だけが少し外を向いている。それは暮らしている人間の置き方だった。
灯を抱きしめると、服から洗剤とレモンの匂いがした。怜の記憶にある妹は、母の使う安い柔軟剤の匂いがした。違う匂いになったことを寂しいと思い、その寂しさが、灯の幸福とは何の関係もないことを自分に言い聞かせた。
慧は、怜が靴を脱ぎ終えるまで待っていた。丁寧な人だと思った。だが、その視線が一度だけ、怜の手首のリングへ落ちたことを、彼女は見逃さなかった。
「初めまして、お義姉さん。藤代慧です。灯から、いつも話を聞いています」
「……どうも」
*
灯は怜を家の中へ案内しながら、棚の上の小さな箱を見せた。姉が送った品を入れてあるという。怜は、全部届いていたのかと尋ねた。
「全部かどうかは、分からないよ。届かなかったものは、知らないもん」
灯は笑った。怜も笑いかけたが、その返事は正確すぎた。
箱の中には、古い写真と、布の袋と、怜が誕生日に送った手帳があった。手帳のページはほとんど白い。灯は予定が端末に入るから使わないと言った。怜は自分の贈り物が役に立たなかったことに、少し傷ついた。妹の生活が安全かどうかを調べに来ているのに、そんな小さなことが気になる。
「この袋、まだ持ってたんだ」
灯は布の袋を広げた。母が作ったものだった。口を絞る紐だけが、新しくなっている。
「紐が切れたから、慧くんが替えてくれた」
慧は台所から、長さを間違えて2回やり直したと言った。灯はその話を楽しそうにした。怜は、妹の暮らしに自分の知らない思い出が増えていることを、当然だと思い直した。
写真には、子どもの姉妹が写っていた。灯は姉の服の裾を握っている。怜はカメラから顔をそらしていた。
「お姉ちゃん、写真嫌いだったよね」
「今も好きじゃない」
「記者なのに?」
「撮るのと撮られるのは違う」
灯は、今撮ろうと言った。怜は断りかけた。慧が端末を持ってきて、二人を庭へ立たせた。灯は昔の写真と同じように姉の服をつかもうとして、手を止めた。大人になったことを、仕草で思い出したのだろう。
怜は妹の肩に手を置いた。画面に向かって笑うと、笑顔がうまく作れない。慧は急かさず、何枚か撮った。
「選ばなくていいから、全部ください」
怜が言うと、慧は少し驚いた。島の端末は、最もよい表情を自動で選ぶという。怜は、目を閉じた写真も残したいと答えた。
灯は、変なの、と言ったあとで、私も全部ほしいと続けた。
写真を見ながら、怜は妹の歩き方を確かめた。母の癖はなかった。灯は灯の歩き方になっていた。似ていることだけで家族を確かめようとした自分が、少し恥ずかしかった。
棚へ箱を戻すと、灯は母に写真を送ろうと言った。怜は、その言葉を聞き間違えたと思った。妹は台所へ戻り、ケーキを切り始めた。姉の沈黙に、まだ気づかなかった。
*
明るい食卓に、手作りのレモンケーキが並んだ。灯が紅茶を注ぐ。ポットの蓋が小さく鳴った。
「ここね、本当にいいところなの。朝起きて、今日何しようかなって考えるだけ。嫌なことが一個もないの」灯は言った。
「一個も?」
「うん。不思議でしょ。外にいた頃は毎日何かしら嫌なことあったのにね」灯は言った。
怜はカップを置いた。問いかける言葉を、喉の奥で一度のみ込む。
「灯。お母さんのこと、覚えてる?」
「何それ。当たり前じゃん」
灯は笑って、区の端末を取り出した。
「先週もビデオ通話したよ。ほら、相変わらず元気でしょ」灯は言った。
画面に母の春江が映った。頬の皺も、首を傾げる癖も、怜の知る母のままだった。
「灯ちゃん、ちゃんと寝てる? お姉ちゃんによろしくね」春江は言った。
怜は息を止めた。母の声まで、記憶の中と同じだった。
「……これ、いつの」怜は言った。
「だから先週だって。お母さん、最近ヨガ始めたんだって」
カップを握る指が震えた。熱いはずの紅茶が、ひどく冷たく感じられた。
「灯。お母さんは……」怜は言った。
テーブルの下で、誰かが怜の足に触れた。慧だった。怜が顔を上げると、彼は笑顔を保ったまま、わずかに首を振った。
ケーキの切り口は、少しだけ崩れていた。灯はそれを見て、失敗しちゃった、と笑った。怜はその失敗にほっとした。完璧な街の中に、妹が自分で作ったものがある。それだけで、まだ連れて帰る必要はないのかもしれないと思った。
母のケーキは、いつも甘すぎた。灯は砂糖を減らしたと言った。母に教わったの、と続けた。その言葉を聞いた瞬間、怜は紅茶を飲み込めなくなった。母は、灯が島へ行ってから、菓子を作らなくなっていた。
画面に母が現れるまで、怜は妹が過去の話をしているのだと思おうとした。だが画面の母は、今の妹に返事をしていた。よくできた映像を見た驚きではなかった。自分だけが、母の死んだ側に置き去りにされている。その感覚が、怜の足元を冷たくした。
「……お母さん、元気そうで、よかった」怜は言った。
「でしょ!」
*
灯が夕食の支度を始めると、怜と慧は庭へ出た。レモンの葉が、ほとんど風のない空気の中で揺れていた。
「お母さんのことは、言わないでください」慧は窓を見た。
「知ってるの?」
「知っています。去年の秋、灯は一晩中泣いていました。お義姉さんの知らせが届いた夜です」
「……じゃあ、なんで」
「翌朝には、もう忘れていました。お母さんは生きていることになっていたんです」
「忘れた?」
「ここでは、悲しいことは朝までしか続かないんです」
窓の向こうで、灯が鼻歌を歌いながら野菜を切っている。包丁がまな板を叩く音だけが、二人の沈黙を埋めた。
「僕は、あの泣き顔を二度と見たくない」慧はようやく怜を見た。「お義姉さんは、灯をどうしたいんですか」
「妹を、連れて帰りに」
慧は庭に出ると、最初に窓を確かめた。灯の姿が台所にあるのを見てから、声を落とした。彼の沈黙には、怜を信用するかどうかではなく、どこまで話してよいかを量る時間があった。
「去年の夜、灯は何と言ってましたか」
怜が尋ねると、慧はすぐには答えなかった。
「お葬式に行きたいって。それから、お姉ちゃんを一人にしたくないって」
怜は木の幹に触れた。冷たい樹皮の感触があった。妹は知らなかったのではない。知ったうえで、知らない妹に戻された。その夜の妹が自分を気遣っていたことを、姉は今になって知らされた。
慧は灯の泣き声を聞いた唯一の家族だった。怜が母の最期を見たように、彼は妹の悲しみの最期を見た。どちらの経験も、相手に代わってもらうことはできなかった。
「どこへ? お母さんが死んでいる世界へ?」慧は尋ねた。
怜は答えられなかった。母のいない世界へ妹を連れ帰る。その言葉は正しいはずなのに、口にすると誰かの幸福を奪う宣告のように響いた。
*
夕食の席で、灯は翌日の予定を話した。午前中は庭の手入れ、午後は共同工房へ行く。怜は、今日そこへ行ったと答えた。自分の作った器の話をすると、灯は焼き上がったら見せてと言った。
慧はスープをよそい、怜の器を少なめにした。疲れていると食べられない人もいるから、と言った。怜は、足りなかったら足しますと答えた。気遣いを疑う必要はなかった。それでも、慧が自分の状態を先回りして決めないことに、安堵した。
灯は、姉の仕事の話を聞きたがった。最近の記事は読めないのだという。区の端末には、外のニュースが選ばれて届く。
「全部は見られないの?」
「見たいものを頼めば、見せてくれるよ」
「私の記事を頼んだことは?」
灯はスプーンを置いた。頼んだと思う、と答えた。頼んだのか、頼もうとしたのか、覚えていない。その曖昧さを、怜は追及しなかった。
代わりに、取材で会った古い店の話をした。店主が毎朝、昨日の売れ残りを数える。数字は嫌だが、数えないと明日作る量が決まらない。灯は、ここでは余った食べ物を区が回収するから楽だと言った。
「余ったことを、覚えてなくてもいいんだね」
怜が言うと、灯は少し考えた。
「覚えてるよ。ケーキを焼きすぎたら、次は減らすもん」
慧は黙っていた。怜は妹の答えをノートに書きたくなったが、食卓でノートを開かなかった。姉として聞いた言葉を、妹の前で証言に変えたくなかった。
食後、灯は皿を洗い、怜は拭いた。子どもの頃と同じ分担だった。母は二人の仕事が終わるまで、台所の隅で座っていた。今は慧がそこにいる。
灯が洗った皿を、怜は元の場所へ戻せない。どこに置くかを尋ねるたび、妹が教える。家族でも、家が違えば、知らないことがある。怜はその当たり前のことを、今夜は何度も思い出した。
「泊まっていけばいいのに」
灯は言った。怜はホテルに戻ると答えた。ここに泊まれば、母の話をもう一度聞くことになる。聞くのが怖かった。だが妹には、取材の資料を整理したいと説明した。
灯は姉の嘘を疑わなかった。慧は、ホテルまで送ると言った。玄関で靴を履くと、灯が布の袋にケーキを入れて渡した。
「お母さんの分も、明日焼こうかな」
怜は袋を受け取った。返事をしなかった。慧が外へ出るまで、灯はいつもの笑顔で手を振っていた。
*
ホテルへ戻る道で、慧は途中のベンチに座った。怜も隣に座った。通りを歩く住民は、二人を見ても立ち止まらない。外の街でも同じことは起きる。誰も気にしないことが、ここでは安心の証拠として説明されていた。
「僕は、灯の夫です」
慧は言った。怜は知っていますと答えかけ、黙った。
「でも、お母さんのことを知ってるのは、あなたです。僕が言っても、灯は信じないかもしれない」
「私が言えば、信じると思いますか」
「分かりません」
慧は正直に答えた。怜はその正直さを、頼りないとは思わなかった。
「あなたは、ここに来る前のことを覚えてますか」
「いくつかは。学校とか、仕事とか。つらかったことは、輪郭だけです」
「輪郭?」
「何かがあって、ここへ来た。何かは分からない。でも、来てよかったと思う。それだけ残ってます」
怜は、残されているのではないかと言いたくなった。だが慧は、すでにその可能性を考えている顔だった。
「灯と結婚したのは、僕が決めたと思ってます」
彼は続けた。
「区が相性を教えてくれました。でも、会って、話して、何度も迷って、決めた。その迷いが全部本当だったかは、今は確かめられません」
怜は手の中のケーキの袋を見た。妹が作り、夫が紐を替えた袋。二人の生活の証拠だった。仕組みを疑うことが、生活まで否定することになってはいけない。
「私、あなたたちの結婚を壊しに来たんじゃありません」
「分かってます。けど、灯を連れて帰りたいんでしょう」
怜はうなずいた。慧は、僕も一緒に行けますかと尋ねた。彼女は、行きたいなら、と答えた。行けるかどうかを確認していないことに、すぐ気づいた。
「調べます」
言い直すと、慧は礼を言った。
ホテルの前で、彼は灯に電話をした。着いたよ、と言ったあと、怜に端末を渡そうとした。怜は首を振った。妹の声を聞けば、今夜の取材をやめて、ただ姉として戻りたくなる。
慧は端末をしまった。
「明日、灯が何も覚えてなかったら、僕が言ったことも忘れてるかもしれません」
「あなたは?」
「僕も、分かりません」
怜はノートを出し、彼の名前を書いた。話した内容ではなく、今夜会ったことだけを書いた。慧はその文字を見て、少し肩を落とした。安心したのか、悲しかったのか、怜には分からなかった。
部屋へ戻ると、ケーキを冷蔵庫に入れた。母の分はない。ないことを、妹だけが知らない。その夜、怜は初めて、知らないことが幸福の形をしている場合を、目の前で見た。
広く清潔な部屋。窓の外に、遠く東京の灯りがにじむ。怜は靴底からカプセルを取り出し、手のひらで転がす。桐生遼。私の知らない男。でも、私の名前を知っていた男。怜はそう考えた。ノックの音。怜はカプセルを隠してドアを開ける。誰もいない。床に、古いノートの切れ端が落ちている。震える筆跡。
客室の机には、白い便箋と、芯の柔らかな鉛筆が置かれていた。怜は自分のペンを出した。見慣れた道具を使うだけで、少し外にいる気がした。
彼女は今日見たものを順に書いた。腕輪、職業センター、母の映像、慧の言葉。書くうちに、事実と解釈が混ざり始める。母の映像は偽物だ。これは確かだ。灯の幸福も偽物だ。これは、まだ確かではない。
その違いを線で区切った。記者のノートに姉の判断を混ぜると、また同じ失敗をする。だが姉の判断を抜いたら、なぜここへ来たのか分からなくなる。怜は線の両側に、灯、と書いた。
ドアの下から届いた紙片は、鉛筆ではなく、何度も書き直したペンの跡で黒くなっていた。紙に残すことを、ほかの誰かも信じている。その事実だけで、怜は少し呼吸がしやすくなった。
『夜12時に眠るな。眠れば、今日のことを忘れる』
怜は廊下を見回す。誰もいない。壁の時計。23時40分。
*
*
怜はベッドの端に座り、時計を見つめた。二十三時五十八分。照明がひとりでに暗くなり、どこからか低い音楽が流れ始める。子守歌に似た旋律だった。まぶたが、急に重くなった。
「……眠るな」怜は声に出した。
洗面所へ駆け込み、冷水を顔に浴びせた。鏡の中の自分へ何度も名前を言い聞かせる。零時。窓の向こうで、家々の灯りが一斉に落ちた。巨大な生き物が目を閉じるようだった。ほどなく、床下から微かな振動が伝わってきた。怜は窓へ走った。
通りに白い作業服の人影が現れた。その中にユキがいた。彼女は一軒の家へ入り、数分後、ストレッチャーを押して出てきた。横たわる人物の髪が、白い布からこぼれている。灯だった。
眠気は、疲れに似ていた。命令されて眠るのではなく、眠りたいと思う自分が現れる。怜はその違いに気づいて、恐ろしくなった。ここで目を閉じれば、今夜だけは楽になる。その誘いは、脅しよりも強かった。
窓に近づくと、海の匂いはしなかった。窓は開かない構造だった。怜はガラスに手を当て、外の冷たさを想像した。想像することでしか、外へ触れられない。
通りを動く白い影は、足音を立てなかった。住民を運ぶ車輪の音も、遠くまで届かない。眠っている人間を起こさないための静けさが、起きている怜には、助けを呼ぶ声を封じるための静けさに聞こえた。
「灯……!」怜は言った。
灯を乗せたストレッチャーが、地面に開いた光の入口へ吸い込まれていく。怜はガラスを叩いた。音は、部屋の中でしか響かなかった。




