第1章 楽園からの漂着者
2035年、東京湾。灰色の海に、白い人工島が浮かんでいた。ガラスの塔、緑に覆われた段丘、風を受けてゆっくり回る発電機。本土へ渡る橋はない。東京湾特別自治区――通称、ユートピア区。税金なし。犯罪なし。失業なし。入区倍率、四万倍。開区から十年、島を出た住民は一人もいなかった。
夜明け前、海に灯るのは貨物船の明かりだけだった。島では中央塔の外壁が明るみ、住居区画の窓が決められた順に白く浮かび上がる。厚い雲の下でも、島の朝は遅れない。
本土の人々は、その白さを清潔と呼んだ。怜には、何かを漂白したあとの白に見えた。建設中の写真にあった泥も錆も、作業員の姿も、完成した街からは消えていた。
怜は、最初に広告を見たときから、ここで暮らす自分を想像できなかった。窓という窓が同じ大きさで、同じ明るさを保っている。眠れない人間の部屋だけが朝まで灯ることも、疲れ果てた誰かが早々に電気を消すこともない。
*
霧雨の埠頭に規制線が張られていた。青いシートを囲む警察官たち。その隙間から、男の腕が一本のぞいている。手首には細い白色の腕輪。ユートピア区の居住者証だった。腕の内側には、油性ペンで繰り返しなぞった文字がある。
『忘れるな』
規制線の外に、傘も差さずに立つ女がいた。真柴怜、三十二歳。週刊誌の記者である。スマートフォンの画面を指で広げ、腕輪に刻まれた番号へ焦点を合わせていた。
「ちょっと、撮影やめて!」
警察官が声を張り上げた。
「あの腕輪、区の居住者証ですよね。区の人間が、どうして外の海に浮いているんです?」
「答えられません。下がってください」
怜は一歩下がり、警察官が視線を外した瞬間、シートの端から男の顔をのぞいた。指が止まった。死んだ男の口元に、微笑みのようなものが残っていた。
潮より先に、濡れた段ボールの匂いがした。埠頭の隅には昨日の荷役の残骸が積まれ、雨を吸った紙が沈んでいた。怜は靴底の砂を引きずりながら、規制線に近づいた。
発見からまだ間もないはずなのに、警察官が多すぎる。怜は顔より先に人数と配置を見た。若い制服警官が外側に立ち、その奥に雨具を着ていない男がいる。男は遺体ではなく、集まってくる人間を見ていた。
記者になってから、悲惨な現場で人に声をかける術を覚えた。覚えたくなかった術だった。誰かが死んだ朝に、自分の仕事が始まる。今朝もそう割り切ろうとしたとき、手首の文字が目に入った。重ねられた線の一部は滲み、書いた者がどれほど強くペンを押しつけたかを物語っていた。
「……この人」
知らない顔のはずだった。それなのに、こめかみに鋭い痛みが走った。暗い部屋が脳裏をよぎる。誰かが叫んでいた。
「レイ、走れ」
怜はこめかみを押さえ、よろめいた。
*
編集部には徹夜明けの記者たちが散らばっていた。編集長の森崎恭一、五十五歳は、冷めたコーヒーをすすっていた。
「区の人間の水死体? ガセだろ。あそこは出入り口がないんだぞ」森崎は言った。
「腕輪の写真です。シリアル番号まで写ってる」
森崎は写真を拡大したまま、黙り込んだ。
「……警察発表は?」森崎は尋ねた。
「まだ何も。たぶん、出ません」
「真柴。お前、二年前のことを忘れたわけじゃないよな」森崎は言った。
「事故で三か月分、きれいさっぱり」
怜は笑わなかった。
「そういう意味じゃない。誤報だ。お前の名前で出した記事で、うちは一億の賠償を払った」森崎は言った。
「だから今度は、確かめてから書きます」
森崎はため息をつき、デスクの引き出しから一通の封筒を出した。金の箔押し。天秤と太陽の紋章。
「昨日届いた。ユートピア区、開区十周年の記念取材。招待されたのは日本で一社だけ。うちだ」森崎は言った。
「……うちが? なんで」
「知るか。で、記者の指名つきだ」森崎は言った。
森崎は招待状を怜に向ける。
編集部の床には、配達された新聞が束のまま置かれていた。読まれる前に古くなっていく紙の匂いがする。怜の机は窓から最も遠い場所にあった。復職した日、席が移されていた理由を誰も説明しなかった。怜も聞かなかった。
彼女の名前で記事を出すときには、今も別の記者が裏を取る。必要な手順だと分かっている。だが、取材相手に名刺を渡したあとで「例の」と言われるたび、自分の名前が証明書ではなく注意書きになったことを思い知らされた。
森崎の机には、昔の集合写真が伏せて置かれている。怜が入社した年のものだった。写真の中の自分がどんな顔をしていたか、彼女は思い出せない。事故より前の記憶まで消えたわけではない。ただ、失敗した自分の前に、失敗していない自分を置くのがつらかった。
『取材記者 真柴怜様』
招待状には、間違いなく自分の名前があった。誰が、何のために指名したのか。その答えは書かれていない。
*
編集部を出る前に、怜は資料棚のいちばん下から、開区時の広報冊子を引き抜いた。表紙の角は湿気で反っていた。10年前の東京湾には、今より濃い色の水が描かれている。完成予想図の海は青く、今日見た海は灰色だった。
「それ、昔からありますよね」
小野寺が後ろから言った。昼食の袋を片手に持っていた。
「昔からあるものほど、誰も読まなくなる」
怜は冊子を開いた。応募資格、居住の保障、家族への支援。細かな数字の下に、退区に関する問い合わせ先があった。現在の公式案内にはない項目だった。
小野寺は自分の机へ戻り、最新の案内を印刷した。二人は古い紙と新しい紙を並べた。新しい案内では、退区の項目が「居住継続の相談」に変わっていた。意味が同じなら、変える必要はない。意味が違うなら、いつ変わったのかを確かめる必要がある。
「削ったって書けますか」
「書けない。違う版の紙が二枚あるだけ。途中の版を探して」
怜は答えた。小野寺は少し不満そうだった。大きな発見をしたと思ったのだろう。怜も、以前ならその気持ちを記事の見出しにしたかもしれない。
冊子の末尾には、区を支える企業の名前が並んでいた。建設、電力、食料、医療設備。怜は医療設備の欄に丸をつけた。現在の案内では、その欄だけが「区内一括管理」となっている。提供者の名前を隠す理由は、秘密の技術以外にもある。契約が終わったのかもしれない。会社がなくなったのかもしれない。疑いは、理由を一つに決めるためではなく、理由を複数残すために使うべきだった。
小野寺が買ってきたパンを机に置いた。
「食べてください。さっきから、同じページを見てます」
怜は時計を見た。昼を過ぎていた。埠頭へ行ってから何も食べていない。袋を開くと、甘いクリームの匂いがした。甘いものは苦手だったが、断るほどの理由はなかった。
「島の人って、こういうの、買わなくていいんですよね」
「買わなくていいのと、食べたいものがあるのは別」
「でも、僕、給料日前に何も考えず食べられるなら、少し羨ましいです」
怜はパンを半分に割った。小野寺の言葉には、間違いがなかった。島に行く人間を、騙された人間だけにしてしまえば、彼らがそこへ向かった理由を見失う。
「羨ましいと思ったことも、メモしておいて」
「僕の気持ちを?」
「うん。あとで記事を書いたとき、忘れてないか確かめる」
小野寺は笑ったが、ノートに書いた。給料日前、という文字が大きかった。
冊子の裏表紙には、島を選んだ人々の写真があった。誰もが笑っている。怜は、妹が応募用紙に貼った写真を思い出した。写真館へ行く金を惜しみ、部屋の白い壁の前で姉が撮った。灯は、笑ったほうがいいの、と聞いた。怜は、好きにすれば、と答えた。灯は少し考えてから笑った。
写真の笑顔が本物かどうか、写真だけでは分からない。笑う直前に迷った時間も、シャッターが切られたあとに崩れた顔も、そこには写らない。
小野寺が古い版を見つけたと言った。3年前の案内にも、退区の項目はあった。灯が入区した年だった。怜はパンを置いた。
「その紙、2部出して」
自分のために1部。妹のために1部。そう言いかけて、やめた。どちらも、まだ取材のための紙だった。
*
ワンルームの壁には取材メモが隙間なく貼られていた。怜はベッドの端に腰を下ろし、スマートフォンで妹の動画を再生した。真柴灯、二十六歳。画面の向こうで、妹はよく手入れされた庭を背に笑っていた。
「お姉ちゃん、元気? こっちは今日も最高の天気。慧くんとね、新しいレモンの木を植えたんだ。お母さんにもよろしくね。じゃあ、また来月!」灯は言った。
怜は動画を止めた。
「……お母さんは、去年死んだんだよ。何度も伝えたでしょう」
答える相手のいない部屋で、怜はつぶやいた。
動画を再生する前に、怜は必ず音量を下げる。母の遺影の前で、灯が「お母さん」と呼ぶ声を大きく響かせたくなかった。何を守ろうとしているのか、自分でも分からない習慣だった。
母が亡くなったあと、怜は区の窓口へ電話をかけ続けた。家族の緊急連絡は受け付ける、と担当者は言った。伝達の完了を確認したいと言うと、居住者の個人情報には答えられない、と同じ担当者が言った。怜は自分の声が荒くなるのを聞きながら、妹のことを個人情報と呼ぶ人間に、何を頼めばよいのか分からなくなった。
葬儀の席を一つ空けておいた。灯が来るとは思っていなかった。それでも席を埋めることはできなかった。帰宅してから、空席に置いた小さな花を、怜は冷蔵庫のコップに挿した。花はすぐに枯れた。動画の庭のレモンの木は、いつまでも青かった。
怜は動画一覧を開いた。三十六本。どれも同じくらいの長さで、同じ笑顔、同じ「また来月!」で終わる。画面を伏せると、棚の上から母・春江の遺影がこちらを見ていた。
「灯。そっちで、何が起きてるの」
問いかけは、狭い部屋の壁に吸い込まれた。
*
3年前の灯は、今より少し早口だった。緊張すると笑い、笑ったあとで、自分の話を訂正する。応募の結果が届いた日も、当選した、違う、最終審査に通ったんだ、と台所で何度も言い直した。
灯は母の通院費を気にしていた。怜が送る金だけでは足りないことを、母は隠していたが、妹は知っていた。希望枠に当たれば家族に支援金が出る。区で暮らす本人には、生活費がかからない。応募用紙の余白に灯が書いた理由は、「母と姉に安心してほしい」だった。
怜はその文を読んで、そんな理由で島へ行くな、と言った。灯は紙を取り返した。「じゃあ、お姉ちゃんが安心させてよ」。怒鳴ったわけではなかった。だからこそ、怜には答えがなかった。
特設ゲートで手を振る妹を見ながら、怜はあの返事を考えていた。幸せになるために出ていく人間を、残る人間の不安で止めてよいのか。結局、止めなかった。そのことを、3年間ずっと、自分の判断ではなく妹の判断だったと言い聞かせてきた。
出発の日、特設ゲートには報道カメラが並び、紙吹雪が舞っていた。
「希望枠当選者」と書かれたたすきをかけ、灯は目に涙をためていた。
「年に12名だけ一般市民に開かれる希望枠! 真柴灯さん、四万倍を勝ち抜きました!」司会者は言った。
「お姉ちゃん! お母さん! 向こうで、絶対幸せになるから!」
母の春江が、泣き笑いで手を振った。その隣で、怜だけが口元を引き結んでいた。
*
怜は、手書きのメモを挟んだノートを開いた。向かいに座るのは、かつて区の建設現場で働いた田淵という五十代の男だった。酒に濁った目が、テーブルの木目を追っていた。
「島に入ったのは建設中だけだ。完成した日に、作業員は全員外に出された。それっきり」田淵は言った。
「中で、何か変なものは見ませんでした?」
「……地下だ。住居区画の真下に、病院でもねえのに、ベッドを並べる区画があった。何千床もな」田淵は言った。
「何千床?」
「俺は配線しか知らねえ。ただ、設計図に名前があった。『調律室』」田淵は言った。
田淵は、話すたびにグラスの縁を指で拭った。爪の際に黒い汚れが残っている。建設の仕事を離れてからも落ちないのだと、怜は勝手に思いかけて、考えを止めた。見えるものと、見たいものを混ぜるな。誤報のあと、ノートの最初に書いた言葉だった。
彼女は酒を頼まなかった。田淵はそれを気にしているようだったが、勧めもしなかった。店の天井を電車が通るたび、棚の瓶が小さく鳴った。その音が止んでから、男は地下の話をした。
「図面は持ってませんか」
怜が尋ねると、田淵は笑わずに首を振った。
「完成した日に、持ち物を全部調べられた。作業用のメモまでだ。あそこじゃ、作った人間も、作ったものを覚えてちゃいけねえらしい」
その言葉だけを、怜はノートに書いた。田淵は書かれるのを待ってから、また酒を飲んだ。
田淵はグラスを一気に空けた。底が卓に当たる音に、怜は顔を上げた。
「姉ちゃん。行くなら、帰り道を確かめてから行け」田淵は言った。
*
バーへ行く前、怜は実家の最寄り駅で途中下車した。母の死後、部屋は引き払っている。駅から歩く道だけが残っていた。踏切の警報音は昔と変わらず、角の店は別の店になっていた。
母が通っていた小さな食料品店には、まだ同じ人がいた。怜を見ると、店主は名前ではなく、上のお姉ちゃん、と呼んだ。記者になる前からの呼び方だった。
「灯ちゃん、元気にしてる?」
「動画では、元気です」
怜は答えた。元気です、と言い切れなかったことを、店主は気にしなかった。
店の奥には、母が買っていたレモンが並んでいた。皮が厚く、形が不揃いだった。灯の庭のレモンは、動画の中でいつも同じ形をしている。怜は一つ持ち上げ、買う理由がないことに気づいた。家で料理をしない。紅茶も飲まない。それでも、袋に入れてもらった。
「お母さん、最後まで灯ちゃんの自慢をしてたよ」
店主は釣り銭を数えながら言った。
「島に当たったって。もう苦労しなくていいって」
「帰ってこないことは、言ってましたか」
「言ってた。会いたいって。でも、戻ってきて苦労するくらいなら、向こうにいてほしいって」
怜は袋を握った。母が妹に会いたがっていたことは知っている。戻ってこなくてよいと思っていたことは、聞かなかった。聞いたとしても、強がりだと決めたかもしれない。
母は灯に、家の心配をしないようにと何度も言った。怜には、灯のことを頼むと言った。違う娘に、違う願いを渡していた。その二つが矛盾していると、母は思っていなかったのだろう。
「お姉ちゃんは、ちゃんと食べてる?」
怜はうなずいた。嘘だった。店主は小さな惣菜の容器を袋に足した。代金を払おうとすると、売れ残るから、と言った。売れ残る時刻ではなかった。怜は礼を言った。
店を出て、昔の部屋があった建物を見た。窓には知らないカーテンが掛かっている。自分の家ではなくなった場所を、他人が家として使っている。母のいない部屋が、誰かの暮らしで埋まっていることに、腹は立たなかった。少し寂しかった。
灯が入区したあと、母は玄関に妹の靴を1足残した。もう履けないほど古い靴だった。引っ越しの荷物を整理するとき、怜は捨てた。母が残した理由を、妹を待つためだと思っていた。今は、待たなくても忘れないためだったのかもしれないと思う。
踏切で電車を待つ間、怜は惣菜の蓋を少し開けた。煮物の匂いがした。母の味ではない。母の味でなくても、空腹には届く。彼女は蓋を閉め、バーへ向かった。
田淵に会う目的を、ノートの最初に書いた。地下の設備を確認する。妹を連れ帰るとは書かなかった。取材の前から結論を持つな。そう自分に言いながら、妹を連れ帰りたいという願いを、消したわけではなかった。
電車の窓に、自分の顔が映った。母に似てきたと思った。灯も、似てきただろうか。動画では、分からない。次に会ったら、写真ではなく、歩き方を見よう。母は疲れると、右の肩が少し下がった。灯は子どもの頃、その癖を真似して笑わせた。
笑ったことを思い出すと、母が死んだことも一緒に戻る。二つを切り離せないまま、怜は駅を降りた。
*
怜は一人で遺体発見現場に戻る。規制線はすでに撤去され、何事もなかったように片付けられている。懐中電灯で岸壁をなめるように照らす。……テトラポッドの隙間で、何かが光る。小さな防水カプセル。指先ほどの大きさ。怜は手を伸ばして拾い上げる。カプセルの表面に、ひっかき傷のような文字。
『真柴怜へ』
背後で、車のヘッドライトが点く。怜はとっさにカプセルを口の中に隠す。車から降りてくる黒いスーツの男たち。顔に表情がない。
「こちらで遺留品を探している者です。何か見つけましたか?」男は尋ねた。
「……猫を探してただけです」
男は怜の顔をじっと見つめる。数秒の沈黙。
「真柴怜さん、ですね」男は言った。
「……どうして」
昼の埠頭と夜の埠頭は、同じ場所ではなかった。昼には人の動きが隠していた暗がりが、夜には地形の一部になっていた。怜は足元を確かめながら進み、海に向けて光を当てた。水面から返ってくる光は弱く、何かがあっても見落とすと思った。
カプセルを見つけたとき、まず写真を撮った。触れる前の状態を残すためだった。次に、位置を記録しようとして端末を開いた。その手順が、背後の光で途切れた。
自分の名前を呼ばれるまで、怜は相手を警察の関係者だと思おうとした。そう思えば、遺留品を渡すべきだという結論にできる。だが男の靴には、埠頭の砂がほとんどついていなかった。ずっとここで探していた人間の靴ではない。彼らは何かを探しに来たのではなく、怜が何を拾うかを見に来たのかもしれなかった。
「来週、お会いできるのを楽しみにしております」男は言った。
男たち、丁寧にお辞儀をして去っていく。怜はカプセルを吐き出し、震える手で握りしめる。
*
怜はカプセルをこじ開ける。中にはマイクロメモリーが一枚。パソコンに挿す。パスワード入力画面。
『ヒント:君が最後に忘れたもの』
「……知らないわよ、そんなの」怜は言った。
試しに打つ。「灯」。エラー。「母」。エラー。残り試行回数、1回。怜はキーボードから手を離す。テレビのニュースが流れている。
「……今朝、品川埠頭で見つかった男性の身元が判明しました。都内在住のフリージャーナリスト、桐生遼さん、35歳。警察は事件性はないとみて……」ニュースの読み手は言った。
怜は画面を見る。桐生の顔写真。笑っていない、鋭い目の男。再び、こめかみに激痛。夜の海の記憶が、途切れた映像のように戻った。濡れた男の手が、怜の手を握っていた。
「いいか、レイ。何があっても、俺を思い出すな。思い出したら、お前もここに戻ってくる」桐生は言った。
怜は床に崩れ落ちる。
部屋へ戻ると、怜は玄関の鍵を二度確かめた。二度目に確かめた記憶まで信用できなくなり、携帯電話で鍵の写真を撮った。小さな行動が増えるほど、自分が落ち着いているふりをしていることが分かった。
パスワードを二度間違えたあと、彼女は紙に候補を書き始めた。妹の名前、母の名前、事故の日付。最後の1回を使うには、どれも理由が弱かった。忘れたものを問われているのに、覚えている名前を並べている。その矛盾に気づいて、ペンが止まった。
テレビの音をつけたのは、静かすぎる部屋に耐えられなくなったからだった。音はすぐに、静けさよりも恐ろしいものを運んできた。
「……桐生、遼……?」怜は尋ねた。
「なお、桐生さんは2年前から行方不明となっていましたが……ユートピア区の居住者名簿にその名前はなく……」ニュースの読み手は言った。
*
白い部屋。窓の外に東京の夜景が、遠い星雲のように広がる。区長・天城総一郎(68)が、古いレコードに針を落とす。背後に控える男。調和管理局長・九条静馬(45)。
「真柴怜は、カプセルを回収しました」九条は言った。
「そうか」
「よろしいのですか。あれには……」九条は言った。
「いいんだよ、九条くん。彼女は来る。そして、自分で選ぶ」
天城は窓の外の東京を見下ろす。
天城のレコードには、同じ箇所で小さな雑音が入った。澪は以前、新しい盤を取り寄せようかと尋ねた。天城は、雑音のない同じ曲は同じ曲ではない、と答えた。娘はその返事を、父らしい矛盾だと思った。
部屋には家族の写真があった。どれも撮影日が古い。新しい写真が増えないことを、来客は尋ねない。天城が尋ねさせないのではない。幸福を売る都市の主に、不幸の由来を聞くのは失礼だと、客のほうが考える。
九条が報告を終えても、天城はしばらく振り向かなかった。海の向こうの窓の灯を数えていた。眠れない窓が、今夜もいくつあるのだろう。自分の島の窓は、数える必要がなかった。
「人は、檻の扉が開いていても出ていかない。扉の外のほうが、ずっと寒いと知っているからね」天城は言った。
レコードから、古いワルツが流れ出す。
*
招待状が届いてからの数日、怜は桐生遼の名前を調べ続けた。検索で出てくる記事は、署名のあるものとないものが混じっていた。写真は少ない。自分が埠頭で見た顔と、画面の顔が同じかどうか、確かめるたびに胸の奥が硬くなった。
昔の取材相手を見つけ、電話をかけた。小さな工場の経営者だった。桐生が設備事故の記事を書いたことがある。
「亡くなったんですか」
男は聞いた。怜は、公表された身元はまだ確認中です、と答えた。確かでないことを、相手の驚きで確かにしてはいけない。
男は桐生を、待てる記者だったと言った。
「こっちが言いたくないことを、すぐ聞かなかった。次に来たとき、また聞くんです。しつこいんだけど、待ってくれる」
「連絡が途絶えたのは、いつ頃ですか」
「2年くらい前かな。最後に来たとき、遠くへ行くって言ってました」
怜は日時を聞き、男に古い予定表を確認してもらった。記憶の2年前と、紙の2年前は同じとは限らない。男は電話を置き、長い間戻らなかった。怜は待った。待てる記者だったという言葉を、待ちながら考えた。
戻ってきた男が日付を言った。怜の空白が始まる少し前だった。
「何か、預かったものはありませんか」
「ないです。でも、変なことを聞かれた」
男は、事故がなかったことになったら工場を続けたいか、と尋ねられたという。経営者は続けたいと答えた。桐生は、事故を忘れたら、同じ設備をまた使うかもしれませんよ、と言った。
「嫌な質問だと思った。けど、忘れたいことがあるのと、忘れていいことがあるのは違うって、あの人は言いたかったんでしょうね」
怜はその言葉を、引用としてではなく、男の解釈として記録した。桐生本人が何を考えたかは、まだ分からない。
電話を切ると、小野寺から資料が届いた。桐生の仕事仲間が持っていた、古い請求書の控えだった。共同取材の交通費に、真柴怜という名前がある。自分の名前を見て、彼女は紙を机に置いた。
名前だけなら、同姓同名という可能性がある。住所の一部を確かめた。同じだった。自分の手帳を開いた。その日の欄は白い。白い欄に、桐生の名前を書こうとして、やめた。今書けば、昔から書いてあったように見える。日付を添え、今日確認したこととして書いた。
森崎へ電話をかけると、編集長は請求書の件を知らないと言った。知らないことが多すぎる。怜は責めかけたが、今は知らないという返事を、知らないまま残す必要があった。
「私が戻らなかったら、この紙を調べてください」
「戻ってから一緒に調べろ」
森崎は答えた。その言い方が、命令ではなく願いだったことを、怜は聞き取った。
鞄にノートを入れた。母の写真、灯の昔の写真、請求書の写し。持っていくものが増えるほど、取材だけではないことが明らかになる。
カプセルのパスワードは、まだ開けない。最後の1回を、推測で使うことはできなかった。怜はそれを靴の中へ戻し、机に残したレモンを見た。皮の一部が乾き始めている。島から戻ったら、切ろう。何に使うかは、そのとき考える。
小さな予定を作ってから、彼女は部屋の鍵を掛けた。
*
乗船前、怜は小野寺に封筒を渡した。中には腕輪の写真と、田淵の話をまとめた紙と、カプセルを拾った場所の見取り図を入れた。メモリーそのものは入れなかった。手放せなかった理由を、証拠の管理という言葉で説明することはできたが、それだけではなかった。
「戻ったら返して」
そう言うと、小野寺は封筒の角を折り、戻らなかったら開けます、と答えた。冗談のように言ったあと、笑わなかった。怜も笑えなかった。
船が岸を離れると、端末の電波表示が一本ずつ減った。怜は母の遺影を撮った写真を最後に開いた。写真の中の母は、島のことを何も知らない顔で笑っていた。怜はその画面を消して、海を見た。
高速船が霧を裂いて、ユートピア区へ近づいていく。怜はデッキに立ち、首から下げた取材許可証を指で押さえた。ポケットの中には、まだ開けられないカプセルがある。税金がない。犯罪がない。失業もない。ならば、そこで暮らす人間から何が失われているのか。確かめるために、ここまで来た。
『ここに、悲しみはない』
門が、音もなく開く。




