3. 毎週の行き先
十月三十日、経理課の机から処理済みの書類を渡す。経理課の同僚が、引継ぎ欄を確かめた。
「ここまで済んでいれば引き受けられるよ。帰って大丈夫。確認が要る分は、次の出勤で」
私は鞄を持ち、机に残した書類へ目をやる。
「助かりました。残りをお願いします。未処理のものは分けてあるので、そちらから見てください」
終業を済ませ、周平へ〈遅くなる〉とだけ送った。既読がついても、仕事だとは書き足さない。
間違ったことは書いていない。それでも送信の音は、自分の喉の奥で鳴ったように聞こえた。
◇
祖母の喫茶店には、もう楢崎さんがいる。先週から使う席へ行くと、ナポリタンの湯気が私を迎える。鞄を下ろして、ようやく肩の力が抜けた。
萩尾芳枝、私のおばあちゃんは、小柄な体で皿を運ぶ。結い上げた白い髪が湯気の向こうへ抜ける。
「作戦は麺が冷める前にしな」
私は山になった皿を受け取った。
「おばあちゃん、ありがとうございます。でも、これで普通の量なんですか? 皿の縁が見えません」
楢崎さんが自分の分へ目を落とす。
「医者でも食べ切れるとは限りません。萩尾さん、診る方と食べる方は別です。これは大盛りじゃない。遭難です」
祖母は答えず、丈夫な足取りで戻ってフォークを置いた。笑い皺が深くなる。
私は自分宛ての文から作った一覧を開く。皿のそばでは、日付の列まで少し頼りなく見える。
「九月の六晩、どれも二時間遅れると連絡をもらっています。家計を合わせる前に、この月を確かめたいです。仕事だと言われたら、それで待っていた晩ですから」
楢崎さんが暦を並べた。日付はどれも九月の内に収まる。
「本人が見せる紙だけで確認しましょう。鞄や端末を探る必要はない。まだ、訊けることがあります」
祖母が皿を避けて覗き込む。眼鏡越しの鋭い目と太い眉が、日付の列を追った。
「探偵の帳面より細かいね、あんたは。麺の本数まで書くんじゃないよ。食べ終わる前に閉店になるだろ」
私は紙を自分へ戻す。
「そちらは数えません。数えるより、食べる方を頑張ります。勤務のことは、帰って私から訊きます。まだ、この一覧だけでは分からないので」
家計の精算用の紙に、先週の控えを重ねた。十月二十三日も今日も、午後七時三十分から八時三十分、祖母のいるこの席。
仕事着のままで遅く帰る私に、周平は行き先を訊かない。私も、行き先を仕事だと答えてはいない。
残業のふりをして作戦会議へ出かけるたび、夫は首をかしげる。
楢崎さんが紙を閉じた。フォークは皿の横で待っている。
「明日は夜勤明けです。何か出たら、ここへ持ってきます。萩尾さんのいる時間に」
私は閉じられた紙を見つめる。帰って訊く、と言えた声が、家でも出るだろうか。
「私も明日来ます。でも、何も確かめられなかったら、すみません。顔を見ると、訊けなくなるかもしれません」
楢崎さんは皿から顔を上げた。
「訊けなかったら、訊けなかった日として残します」
私は返事をしようとして、先に皿を引き寄せる。
「……ありがとうございます。では、まず、こちらを食べ切りたいです。置いて帰るのはもったいないですから」
湯気が消えても、祖母の皿はまだ重かった。話せずに帰る日も、ここでは食べていいらしい。
冷めたナポリタンを、私は残さず食べる。
空の皿を祖母へ返した。店を出ると、帰り道の風が仕事着の裾に入る。
◇
周平は玄関の鏡で、艶をつけた短い黒髪を直していた。私とさほど変わらない高さから、私の鞄より先に顔を見る。
「最近、きれいになった? 誰かと会ってる?」
私は鞄を置く。十月十八日の帰宅時にも、彼は〈出張は予定どおり〉と言うだけで、私の顔を覗き込んだものだ。今日も、聞き慣れた優しい声がする。
「ええ、毎週。あなたの話をしに」
周平が声を立てて笑う。
「俺の話? 悪口じゃないといいけど。帰りが遅いって、怒られてるのかな?」
私は答えずに台所へ入り、食卓で鞄の留め金を外した。金具が小さく鳴る。周平もついてくる。
周平が姿勢よく立ったまま、距離を詰めた。
「俺を置いて出歩かれると、寂しいよ。妻なんだから、そのへんも気にしてくれていいだろう? 君の帰りを待ってるんだよ」
すみません、と言いかけて、私は口元を押さえる。ふふ、と代わりに漏れた。謝ろうとする声より、こちらの方が出やすい。
「遅くなるとは伝えました。外へ出たことまで、謝るんですか? あなたも遅い日はありますよね?」
周平は上着を椅子へ掛ける。
「俺は仕事だよ。そこを疑われるのは心外だな。君が出かける話と一緒にしないでよ。心配して言ってるのに」
周平の声が少しだけ高くなる。優しい言い方のまま、角だけが立っている。私は目を逸らさなかった。
「確かめているだけです。責めてはいません」
周平が椅子の背を強く握る。
「それを疑ってるって言うんだよ!」
周平は自分の声に驚いた顔で、口をつぐんだ。
私は急須に残っていたお茶を湯飲みに注ぎ、両手で持つ。お茶の揺れが収まるまで、九月の六晩を頭の中で数え直した。何を訊こうとしていたのか、ここで見失いたくない。
「一緒にはしていません。九月に残業と連絡をもらった六晩について、確かめさせてください。仕事だったなら、私もそう分かりたいんです」
周平が自分の仕事鞄へ向き直る。
「六晩とも、二時間ずつ。明細を見れば分かるよ」
彼は明細と、経費精算の提出控えの束を机へ投げ出した。勤務表も重なっている。紙の端が湯飲みのそばまで滑ってくる。
私は十月支給の明細にある、九月の実績欄を読んだ。
「今月の明細、残業代は三時間ぶんですね」
周平が覗き込む。人当たりのいい垂れ目が、対象期間の欄で止まった。
「……翌々月に出るんじゃなかったかな。ああ、これ、九月の分なんだね」
私は勤務表を隣へ寄せる。仕事なら、食い違う数字には理由を探す。家でもそうしていいはずだ。
「こちらも三時間ですね。六晩で十二時間と合いません。未払いですか? 固定の手当に含まれていますか?」
柔らかい目尻が下がった。周平は明細の端を押さえる。
「未払いじゃないし、固定でもないよ。実績で出るから、その三時間で合ってる。平気だって。志帆は考えすぎなんだよ」
湯飲みは冷たい。店では皿の湯気が紙のそばにあった。今は指先まで冷えている。私は湯飲みを包んだまま、周平の声が途切れるのを待つ。
「私はまだ平気ではありません。これ、写しを残していいですか? あとで別の意味だったと言われたくないので」
周平が紙から手を離した。愛想のいい顔に戻る。
「写していいよ。でも、そこまで気にしなくてもいいんじゃない? 締めのたびに疲れるよ。家でまで仕事みたいにしなくても」
私は湯飲みを置いた。小さな音に紛れないよう、声を出す。
「疲れるので、今確かめています。あなたが見れば分かると言った紙を、私も見ています。分からないままで平気になる方法は、知らないんです」
周平が、知らない人を見るような目をする。
「……志帆って、そんな言い方する人だったっけ」
私は湯飲みの縁を見たまま、ほどけかける口元を止めた。
「言う前に、いつも笑っていたので。何も言いたくなかったわけでは、ありません」
彼は椅子へ腰を下ろす。紙を返す前に、私は許された範囲を撮った。シャッターの音が、台所にやけに大きく響く。
本人が示し撮影を認めた明細と勤務表、自分宛ての六晩の文、家計への入金を結ぶ。〈証拠の束〉の三枚目は勤務の食い違いまでで、外出先はまだ空欄だ。
原資料を添えた同じ控えを、終業後に読めるよう楢崎さんへ送った。私は鞄をしまわず、机の脇へ置く。
「私の答えは、さっき言ったとおりです。今度は、あなたが帰らなかった時間の行き先を聞かせてください」




