↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/4

2. 名刺の裏

 夫たちが消えたロビーで、私は名刺入れを開いた。紙の端が揃わない。会社では迷わず差し出せるものを、今夜は持て余している。私は一枚を手にしたまま、名乗る。


「井関志帆です。二十九歳で、メーカーの経理をしています。数字なら、少しは役に立てます。それ以外は今、あまり自信がありません」


 楢崎さんも名刺を出す。救急医の肩書の下で、紙の角が折れていた。彼はそこを伸ばそうとしてやめ、私へ向ける。


「楢崎尚吾、三十三です。今、全部に自信がなくても大丈夫です。職場の連絡先とは別に、資料を受け取る先を決めましょう」


 私は自分の名刺を裏返す。白い面にペンを置く前に、これだけは声にしておきたい。


「私は嘘をつかない。盗まない。人を笑いものにしない」


 楢崎さんが頷き、自分の名刺も裏返した。彼のペン先が白い面で止まる。


「解散は、二人とも離婚が成立した日。そのうえで条件は三つ。連絡の時間と、証拠の扱いと、最後に恋愛のこと」


 私は書きかけの裏側を彼へ向ける。


「最後の条件は、疑われる隙を作らないためですか? 約束の意味を、確かめておきたいです」


 楢崎さんは私を見て、短く言う。


「疑われる関係になれば、証拠の値打ちを自分たちで落とす」


 私はペンを止めたまま、その言葉を拾う。


「……自分たちで、ですか?」


 楢崎さんは名刺へ目を戻す。


「ええ。俺たちが同じことをしたら、あの二人は喜んでそこを突く」


 低い声に合わせるように、私は字の大きさを整える。


 連絡は仕事のあとだけ。証拠は二人で共有。恋愛は禁止。


 同じ三行を書いた名刺を、私たちは一枚ずつ交換した。紙の角まで、折らずにしまいたい。


 名刺の裏なら、肩書より先に約束が見える。


 私はしまいかけて、祖母の店の椅子を思い浮かべた。あそこなら、声が出なくなっても座っていられる。


「祖母の喫茶店で話しませんか? 金曜の午後七時三十分から八時三十分なら営業中で、祖母もいます。同席を頼みます。口は悪いですけど、話の途中で追い出す人ではありません」


 楢崎さんが勤務表を開く。当直(とうちょく)の欄から、空いている夜へ視線が動く。


「その時間は勤務と重なりません。食事をしながら、店主の前で。密室にも、飲酒の席にもしない。それでお願いします」


 私は出口を見た。扉が開くたびに入り込む冷気が、帰る場所を思い出させる。私は名刺入れを閉じる。


「明日の朝も確かめたいです。でも今夜は帰ります。帰って、いつもどおりの顔ができるかは分かりませんけど。朝は、同じ場所で待たない方がいいですね?」


 楢崎さんは翌朝の欄を確かめる。


「俺も勤務外です。公道の別の位置から出口を見ます。立つ場所だけ、出る前に連絡しましょう」


       ◇


 別々にホテルを出て、私は徒歩で家へ戻った。玄関で周平からの文が光る。


 〈今夜は朝まで先方と仕事なので返事が遅れる〉。いつもの、私を待たせることを気にする書き方。私は明かりをつけ、〈返信は明日になる〉と返した。


 食卓には誰の皿もない。見せる相手もいないのに、唇だけに笑いが残る。冷蔵庫の低い音だけが、台所で続いている。


 母が怒ると父は黙り、家の中が冷えた。私は明るい声を出して、母まで頷くのを待つ子どもだったのだ。自分が何に傷ついたかを話すより、みんながまた話し始める方が先。


 洗面所の鏡の前で、私は口角を押し下げてみる。手を離すと、すぐに戻った。鏡の中の私は、まだ誰かの機嫌が直るのを待っている。


 今は自分宛ての受信画面を保存する。楢崎さんへ送る控えも、すぐの返事を求めない形で揃えた。明るい声を添えなくても、渡せるものがある。


       ◇


 翌朝、私は通りを挟んだ斜向かいの植え込みの陰に立つ。向こうにホテルの出口がある。別の位置に立つ楢崎さんへ合図は送らない。昨夜の約束を、私も守る。


 午前七時十分、周平と千晶さんが並んで出てきた。撮れたのは顔と入口、宿泊室は見えない。二人はこちらに背を向け、駅の方へ歩き出す。


 二人が駅の方へ去ったのを見届けてから、それぞれ歩いて一般客用のラウンジへ入り、客のいる席で合流した。向かいに座る楢崎さんが、私のスマホを示す。


「朝の画像は保存できましたか? 元の撮影時刻が残る形で、確認させてください」


 私は画面を開く。撮影時刻の欄より先に、言葉が出ようとする。


「はい。今度は顔も出口も入っています! 昨夜の分もあるんですから、もう訊いていいですよね? これを見ても、私の考えすぎだって言えるんでしょうか?」


 楢崎さんは昨夜の画像で止めた。顔のない背中が画面に広がる。


「待って。これだけで問い詰めたら、残っている資料まで消されるかもしれません。今あるものを、ここで途切れさせたくない」


 私は画面を寄せる。きちんと説明したいのに、声ばかりが高くなる。


「でも、見間違いで済まされたくないんです。帰ってから、また心配しすぎだって言われるのは……!」


 楢崎さんが、写っている範囲を示す。


「腕組みと施設への出入りだけでは、不貞の断定に足りません。同じ部屋は確認できていない。そこまで写っているとは、言えないんです」


 私は名刺をカップの脇に戻す。裏側の字は朝になっても同じ。口元が持ち上がり、ひどく場違いな声になる。


「ここまで来ても、妻の気のせいになるんですか? 私、認めてほしいだけなのに」


 楢崎さんはカップへ伸ばしかけた手を止める。


「認めてほしいのは、俺も同じです。……悔しいですよ。でも今ここで崩れたら、次は俺たちが疑いすぎにされる」


 私は唇を噛んだ。窓の外で配達の自転車がブレーキを鳴らす。その音が途切れるのを待てずに、私は言う。


「……分かってます。分かってるから、悔しいんです! ちゃんと確かめようとしているのに、それまで疑い深いって言われるのは嫌です」


 楢崎さんが受信欄へ視線を移す。


「見たことは消しません。井関さんが見たことも、俺が見たことも。まず本人の説明と、勤務場所が合うかを確かめましょう」


 私は周平の連絡を開く。責められているのではない。その違いを、画面を持ち直しながら確かめる。


「……それなら、私にも確かめさせてください。食い違いを、自分で言えるように。言い返されたら引っ込めてしまう言葉に、したくないんです」


 追伸が届いた。〈心配せず待ってて。帰ったら話そう〉。読み慣れた優しい言い方に、帰りを待ついつもの私が顔を出す。私は返信せず、画面を彼へ向ける。


「朝まで仕事だって、夫は書いてきたんです」


 楢崎さんは画面の文を、黙って読んだ。彼が繰り返す言葉は短い。


「……先方と、仕事」


 その声に、初めて小さな棘が混じる。楢崎さんは家計カードの通知を示す。


「通知が届いた時刻と、利用した時刻は分けて見たい。明細も開けますか?」


 私名義の本会員画面には、夫の家族カードの利用が並んでいた。私は利用先と金額を順に追う。


「はい。利用は今朝、このホテルで三千六百円。公開料金の朝食二人分と合います。昨夜のラウンジとは別です。通知が来た時刻とは、分けて残します」


 楢崎さんが退出画像の元時刻を横へ置く。


「午前七時十分の退出と並べて保存します。拡大した画像の赤い目と、さっき見た遅い歩幅は寝ていない人の様子ですが、それだけで夜の行動は決められない」


 私は金額から氏名欄へ目を移した。食事相手の名前までは出ていない。私は空欄をそのままにする。


「出張先で仕事、という説明には合いませんね。ただ、朝食二人分と合うことと、誰と食べたかは別です。名前のないところを、私が埋めるわけにはいきません」


 楢崎さんが照合を終え、顔を上げる。


「その数字の見方は、才能です」


 私は名刺の白い端を撫でた。細かすぎる、と言われる準備だけしていたのに。言葉を探すうちに、口元が緩む。


「……家では細かすぎるって言われるんです。経理なのに。帰宅した途端、概算で生きてくださいと言われましても」


 楢崎さんはわずかに表情を緩め、画面へ向き直る。


「ここでは細かくて助かります。そのまま見てください」


 私は名刺から手を離す。笑みを片づけなくても、続きが言える。


「……数えるのを責められないと、かえって困りますね。あの、同じ控えを私にもください。自分の手元でも、確かめたいです」


 楢崎さんは送信済みの表示をこちらへ向ける。


「届いたら、自分でも確認してください。互いの手元に同じものを残します」


 〈証拠の束〉の二枚目は、公道からの退出写真、自分の明細、自分宛ての文を結ぶ票。出所と未確認の欄を保ち、元資料は別添にした。


 湯気で画面がかすむ。冷えた指先をカップへ移すと、受信を待つ間だけは数字を数えずにいられる。何も話さなくても、向かいの席は空かない。昨夜から初めて、カップの中の苦さが舌に届く。


 カップの影から、名刺の白い角が出ていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。