1. 隣のレンズ
ロビーの白い光が、エレベーターを待つ夫の背を照らす。隣のソファの男が、ふいに私を見た。
「……もしかして、あの男の奥さんですか?」
午後十時のホテルのロビー。
私はスマホを胸元で持ち直す。手が、自分のものではないみたいに硬い。毎日使っている端末なのに、落とさずにいるだけで精いっぱいだ。
スマホを構えた私の隣で、同じ二人にレンズを向けている男がいた。
画面から外せないのは、夫の腕に絡む女の腕。私は男の問いにうなずいてから、ようやく声を出した。
「……え。あ、はい。あの、あなたも、あそこを撮っているんですか? 私の夫と、隣の女の人を?」
男が保存を押すと、後ろが跳ねた黒い髪が揺れる。
「ある投稿の照明に見覚えがあって。前に使ったラウンジです。それで、確かめに来たんです。まさか、本当にいるとは」
ガラスにひとつに結んだ黒髪が映る。夫のそばには知らない女がいて、私だけがこんな所に映っている。私は細い肩をすぼめ、自分の姿を画面の陰へ追いやった。
「私も撮ります。電話もしたくて……すみません、今、それ以上は訊けません。訊いたことを、ちゃんと聞けそうになくて」
男は大きな手で端末を持ち直す。レンズはエレベーターから外さない。
「分かりました。こちらも撮り続けます。二人とも、まだエレベーターの前です」
ここへは家から徒歩十五分。私名義の家計カードに、午後九時四十分、ラウンジの利用通知が届いた。
家族カードを使う周平は、この通知を知らない。出張先にいるはずの夫が、近所で千八百円。何かの間違いなら、金額ごと消えてほしい。表示は動かない。
ピアノは十時で止み、ロビーには空調の音しかない。私はソファの陰で背を丸め、有線イヤホンを差して音を漏らさないようにし、通話録音を入れて周平へ発信した。相手の声ごと録りながら、同じスマホのカメラを向ける。
「周平さん、もう移動は済んだんですか?」
周平は遠くで電話を耳に当てた。画面では背を向けているのに、いつも帰りを知らせる声で、すぐそばにいるように話す。
「九時には出張先に着いてるよ。心配しないで」
私は通知の利用時刻に目を落とす。見直しても、午後九時四十分。
「旅程も予定どおりですか? 二泊三日で、変更はないんですね? 帰ってくる日は、そのままでいいんですね?」
周平は隣の女から顔を背けた。
「うん、変わらないよ。そんなに確かめなくても平気だって。何かあったら俺から言うよ。志帆は考えすぎなんだよ」
私は録音の表示を確かめる。赤い点が明滅している。今の言葉も、ここに残る。
「はい。移動が済んだか、聞いておきたかったので。予定も、あなたに確かめておきたくて」
周平は靴先をエレベーターへ向ける。そのまま、家にいる私へ言い聞かせるように声を和らげる。
「志帆もゆっくりして。ちゃんと休むんだよ。俺のことばかり心配してたら、疲れちゃうから」
優しい声だった。
その優しさを聞くと、いつもなら肩の力が抜ける。今も、安心する方へ気持ちが動きかけてしまう。私は画面の中の夫を見直した。
通話を切ると、遠くの電話も下がる。周平は女の方へ向き直り、腕を差し出す。私は辻褄を数えた。声に引き戻されないように、数字を口にする。
「出張先まで最低三時間です。九時に着いて、今ここにいるのは……合いませんね。考えすぎても、三時間は縮まりませんよね?」
隣の男が時計を見る。
「今は午後十時六分。こちらも同じです。時刻の読み違いではありません。あなたが、考えすぎているわけじゃない」
録音と写真は同じ端末の時計で、同じ秒を指している。
夫の出張は嘘だった。
閉まりかけの扉に、腕を組んだ姿が細く残る。追う画面が斜めになり、光が流れた。
ふふ、と小さい口から音がこぼれる。丸い頬ばかりが持ち上がり、指先は冷えていく。どうして、こんな時に笑うのだろう。
暗くした画面に、笑いに遅れる丸い目が映った。焦げ茶のそこだけ、置いていかれたように動かない。私は傾いた画像を戻そうとして、うまく押せずにいる。
「すみません。画像が揺れてしまって。こんな時に、ちゃんと撮れなくて……後から違うって言われたら、私、何て言えばいいんでしょう?」
男が保存分から顔を上げる。眠たげな二重の目は黒く、直線的な鼻の脇に疲れの影がある。男は自分の端末を確かめてから答えた。
「揺れていても時刻は残ります。俺の画像にも同じ姿があります。そこは変わりません」
私は端末を膝へ下ろす。画面には、電話を耳に当てた男の背と、女の後ろ姿だけ。通話は終わっているのに、休むんだよ、という声がまだ近い。私は上がったままの口元を戻そうとした。
「……私、今は笑いたくないんです」
長身の男がソファに座り直す。
「分かるとは言えません。でも、平気だとは受け取っていないです。今の声を聞いて、楽しそうだなんて思いません」
私は明るい床の靴の影を見た。そこへ言葉を落とすように、顔を上げずに続ける。
「見たものを話しても、いつも口元の方を信じられるんです。楽しそうだねって……違うんです。嫌なのに、私が笑ったせいで、嫌だって言ったことまで冗談になるんです。それが、悔しいです」
男は保存画面を伏せる。閉じたラウンジの扉の向こうで、片づけの食器が小さく鳴る。男はその音が途切れてから、言葉を継いだ。
「冗談には聞こえないです。……俺も平気じゃない。今、うまく答えられることばかりではありません。大丈夫だとも、言えない」
私は通知の桁を数えかけ、途中でやめる。向こうの端末も、伏せたまま。私が話し終える前に持ち上がることはなかった。
「怒り方が分かりません。すみません、じゃなくて、嫌ですって言いたいのに。言葉が出るまで待ってください。今、笑ったからって終わりにしないで」
男が出口から視線を戻す。
「待ちます。今の声を、途中で終わりにはしません」
私は膝の上の端末を握り直した。続きを急ぐ声はしない。暗い画面を伏せずに、私は話しはじめる。
「……変ですよね。夫が女の人とホテルにいるのに、私、さっきから通知の金額ばかり数えてたんです。千八百円って。こんな時まで、私の頭の中、経理課だけ残業してるんです」
男の口の端が、ほんの少しだけ動いた。
「変じゃない。俺もさっきから、来週の勤務表を頭の中で読み返してます。もう帰れと言いたいです。自分に」
怒るのが下手で、腹が立つと笑ってしまう私が、数字で嘘を数えはじめる。
自分の通話原音と同じ秒の画像を並べ、私は〈証拠の束〉の一枚目を作った。十月十六日、このロビー、到着報告と所在の食い違い。優しい声だったことは、どこにも書けない。
顔は写らず、不貞の断定もできない。出所と弱さを書き、元の音声と画像は加工せず別添で保存する。分かるところまで、という所で止めた。
その画面を見て、男が初めて楢崎尚吾と名乗る。続いて、閉じた扉を示した。
「あの女の夫です。証拠、半分ずつ持ちませんか?」
彼が自分の端末をこちらへ向ける。妻の千晶から届いた〈友達と温泉〉という文と送信時刻。私に見せる画面は、もう伏せられていない。
夫と腕を組んでいる女の〈友達と温泉〉も嘘だった。
私は顔を上げる。すみません、と出かけた言葉を止めた。上がりかける口元を戻し、今度は、欲しい分を減らさずに言う。
「半分じゃ足りません。全部ください、コピーで」




