4. 消す前の写真
約束どおり店へ行くと、楢崎さんが上着を脱ぐところだった。食事の湯気に、救急外来を思わせる消毒液の匂いが混じる。祖母が運ぶ麺は皿の縁まで盛られ、資料を広げる場所を遠慮なく狭くしている。
楢崎さんは、給仕をする祖母の前でスマホを置く。袖口の跡が残る大きな手で、こちらへ画面を向けた。
「昨夜の午後十時五十分の投稿です。夜勤の休憩中に見つけて、全体を保存しました。まだ残っているうちにと思って」
私は、食事の皿を避けて画面をのぞく。
「見せてください。あとで切り抜きだと言われないように、投稿した人と日時も一緒に読みたいです。写真だけだと、写っていないところを考えてしまうので」
〈温泉の思い出〉。明るい茶の巻き髪を肩に流し、千晶さんがこちらを振り返っていた。
細身の体を斜めにすると、小さい顎に照明が当たる。写真から視線を外した楢崎さんが、保存した音声を示す。
「これは十六日の夜、旅先を尋ねた時の俺との通話です。俺が当事者として録ったものです。……聞いてください」
録音の千晶さんは、語尾を甘くほどき、悲しいという言葉の手前で声を落とす。
「友達と温泉なの。そんなに疑われるの、悲しい」
私は写真を拡大した。上げた睫毛の下、光を拾う茶色の目が、グラスの向こうを見つめる。その隅にある料金札を、私は明細と見比べる。
「一卓千八百円ですね。私の家計カードに出た、ラウンジ利用と同じ金額です。……千八百円。ここも、合ってしまいますね」
楢崎さんは、十六日午後八時半の投稿を隣に置く。
「最初の方にあるのは、グラス一つと吊り照明だけです。この照明に見覚えがあって、あの夜、確かめに行ったんです。違っていればと思いながら」
私は画面を寄せた。曲がった金具も、光の落ちる向きも重なる。違うところを探してから、私は写真の端へ目を移す。
「こちらはグラスが二つ。前の写真にはなかった料金札が、今度は写っていますね。見えるところが増えています」
楢崎さんが、公開料金のページを開く。
「同日、同じピアノの夜の料金とも一致します。照明だけで決めたわけではない、と残せます。照合したページも一緒に」
腕時計のところで、画面を動かす私の手が止まった。結婚してから周平へ贈った型に似ている。私は、時計の輪郭を隠さないようにスマホを持ち直す。
「この時計……夫の物に似ています。でも、同じ型を持っている人はいますね。私が贈ったからって、写真だけで見分けられるわけではないですね」
楢崎さんは切り取る操作をせず、全体表示へ戻す。
「似ている、までにしましょう。拡大は見るためだけです。保存した元の資料は、そのまま残します。確かめ直せるように」
祖母が珈琲を置いた。黒い水面が、受け皿の音で揺れる。祖母は盆を小脇に抱え、楢崎さんの顔をのぞく。
「医者の先生に甘い物なんか出すもんか。珈琲で我慢しな、眠そうな顔して」
楢崎さんは、ゆっくり眉を寄せた。
「……甘い物は、頼んでいません」
祖母は、カップを置いた場所を確かめながら言い返す。
「顔が頼んでたよ。あんた、まぶたにまで残業させるんじゃないよ」
楢崎さんが示した投稿者の名から、私も自分のスマホで千晶さんの公開ページを開いた。投稿はまだそこにあり、下に友人の〈どこのラウンジ?〉という書き込みが付いている。温泉という言葉の下で、誰かが場所を尋ねている。
楢崎さんは、ホテルの室料の欄を開く。
「同日の同プランは、一室二人一泊二万八千円です。ただ、この金額が載っているだけでは、泊まったとは言えません」
私は明細の項目を数えた。ラウンジ、朝食。そこで終わりだ。ない項目を探すのをやめ、私は記録へ戻る。
「泊まったのなら、部屋は別の財布で払ったことになりますね。家族カードにあるのは食事の分だけです。部屋代の支払いは、これでは分かりません」
写真の奥に案内板がある。〈十月十六日(金)ピアノの夜〉という字が、〈温泉の思い出〉を湾岸のラウンジへ引き戻す。楽しげな文面より、端に写り込んだ文字の方を読み返してしまう。
私は日付を記録欄へ写した。楢崎さんは、氏名のない場所を示す。
「明細にも投稿にも、同席者の名はありません。宿泊相手も、これでは分からない」
時計から視線が離れない。私が箱に入れて渡した時も、周平はすぐ腕につけてくれた。あの時うれしかったことまで疑うのは嫌で、私は写真の時計から目をそらす。
「料金も、日付も、こんなに重なるのに。……私が贈った時計に見えるんです。それでも、まだ足りないんですね」
楢崎さんは、未確認の欄を空ける。
「分かる部分を残します。名のない欄を想像で埋めたら、相手の説明と区別がつかなくなる。井関さんが覚えていることを、否定しているんじゃないです」
ふふ、と口角が上がりかけ、私は押さえた。画面の時計は止まったまま、店の時計だけが進む。私は、空欄を見ながら言葉をつなぐ。
「決めつけたくありません。でも、待つのはつらいです。分かるところまで、という線が遠くて」
楢崎さんは画面を伏せず、その脇へ手を下ろす。
「俺も、待つのはつらい。確かめたくて見てるのに、見るたび、確かめたくなくなる」
私は公開ページを開き直した。正午になり、さっき自分で見た写真がない。私は画面を確かめ、声を上げる。
「消えています! さっきは友人の、どこのラウンジ、という書き込みまであったのに……。今、ここで見ていたんですよ。こんなふうに、なくなるんですか?」
楢崎さんは消えた画面から顔を上げ、端末を置いた。
「消すなら消せばいい。届いた分は、俺が持つ」
私は、繰り返していた音声を止める。甘い声が途切れても、耳に残る。私はスマホを見たまま、言葉を押し出す。
「……それ、平気な声で言わないでください」
楢崎さんが画面へ伸ばしかけた手を止めた。珈琲の湯気を挟んで、彼は短く答える。
「平気じゃないです。同じ声を聞くたび、つらい。聞かなければよかったとも思う。だから、手順だけでも止めたくない」
私は、彼の目の下の影を見る。先週より濃い。その影から視線を外せないまま、私は尋ねる。
「楢崎さん、昨夜、寝ましたか?」
楢崎さんはすぐには答えず、カップを持ち上げかけて下ろす。
「……休憩のあいだに、保存しました」
私は、言いかけた言葉を一度飲み込む。それから、画面ではなく彼の方を向く。
「それは保存した話です。寝た話ではありません。……寝ていないんですよね?」
楢崎さんは、カップを見つめた。
「寝ようとすると、消えていないか気になるんです。休めと言われても、やめられなくて」
私は自分のスマホを机へ置く。冷えた指先が離れても、机の上に震えが残りそうだ。私は端末の位置を整えてから言う。
「それなら、私にも受け持たせてください。私だって、何もしないで待つのは怖いです。隣で見ているだけにはしないでください」
楢崎さんがコピーの送信欄を開いた。完了の表示まで見ようと顔を近づけ、彼は声を落とす。
「……任せていいですか? 消えるのが怖くて、保存できても、また見に戻ってしまう。自分の端末にあるだけでは、安心できない」
私は受信を待ちながら顔を上げる。数えかけた項目は、今だけ閉じた。
「消さずに残します。こちらでも確認しますから、今は休んでください。私の端末にも、同じ控えが届きます。楢崎さんが画面を見ていなくても、なくなりません」
楢崎さんは保存範囲を確かめる。投稿者も日時も、文面も写真も、下の書き込みも読み終え、彼はスマホから手を離した。
「ここからはお願いします。……助かります。確認をやめても残るんですね。明日の午後も、ここにいます」
私の画面にも完了が出る。私は表示を確かめ、彼の前の皿へ目を移す。
「受け取りました。食事を先にしてください。麺の方は、保存しても温かいままにはできませんから。おばあちゃんの大盛りは、冷めても減りませんよ」
削除前の投稿全体を〈証拠の束〉の四枚目にした。出所、投稿日時、料金札、削除時刻を記し、家計カードのラウンジ利用を参照で結ぶ。
温泉の説明を崩したのは、千晶さん自身が公開した写真だ。誰と泊まったかの欄は、空けておく。
食べ終えた彼の食器を、祖母が寄せた。祖母は空いた皿を重ねながら、いつもの早口で言う。
「寝るならうちの椅子で寝な。先生まで倒れたら、あたしが診る羽目になるだろ。出せるのは大盛りだけだよ」
楢崎さんは祖母のいる席で目を閉じる。私は音を立てず資料を閉じた。
訊きたいことはまだある。それでも、伏せた画面を彼が確かめなくなったので、起こさずにしまう。
その時、自分宛てに義母から〈明日のお昼、そちらへ伺います〉と届く。




