都
都目線です。
一緒に帰ろう。
教室で帰り支度をしている貴士に声を掛けたのは、焦っていたからだった。
学校はとうに自由登校になっており、今日を逃したら卒業式まで、いつ会えるかわからない。
そう思ったものの誘うのはあまりに久し振りで、どのテンションで話し掛けたらいいのか困ってしまった。何てことのない表情で貴士に近付いたけれど、若干声が震えたように思う。
一緒に帰ろう。
都の声に振り向いた貴士は、少し驚いた顔をした後、いつもの穏やかな話し方で答えた。
うん。帰ろっか。
挨拶以外の言葉が自分に向けられたのは、どのくらいぶりだろう。その一言が、都は心底嬉しかった。
久し振りに、二人で歩いている。
都は、自分より頭一つ分は背の高い貴士の顔に、ちらりと目を遣った。
安斎貴士は女子からとても人気がある。すらりとした体。優しく甘めの顔立ち。穏やかな話し方。これで勉強もスポーツも人並み以上に出来るとくれば、それは当然の結果なのだろう。運動部のエースでインターハイに出るような、顔も知らない下級生から騒がれる高校のアイドルとは違う。同じクラスや委員会の女子が、いつの間にか貴士の優しさにくらりと恋に落ちてしまう。本気で恋されるタイプなのだ。
質が悪い、と都は思う。
きゃあきゃあ騒ぎながらも、皆が自分には手の届かないと知っている王子様なら良かったのに。
物腰が柔らかい貴士だから、もしかしたら自分が、と期待している女子が何人もいるに違いない。卒業式はたくさん告白されるのだろう。
久し振りに、二人で歩いている。
信号を渡って、目の前には武家屋敷通りが広がった。今は真っ白なこの場所が緑に染まる頃には、貴士は東京にいる。
「貴士は今年の桜、見られないのね。」
前を向いたまま話し掛けると、貴士がこちらを見る気配がした。
「桜が咲くのは入学式の後だろ。」
「私は、日帰りで帰って来られるもの。」
「俺だって帰ってこられるよ。頑張れば。」
張り合うように言う貴士に、思わず笑ってしまう。
「飛行機で?」
「新幹線だっていけるだろ。」
そんなに気軽に帰ってきてくれるのかな。
貴士が東京に進学するらしい、と都が最初に聞いたのは母親からだった。上京したい、と息子から言われた貴士の母が、さっそく都の母に愚痴を言いに来たのだ。
何だか、裏切られた気がした。
あんなに一緒にいて、貴士がこの場所のことを悪く言うのを一度も聞いたことがなかった。笑い合って転げ回って、両親が家業で忙しい分、二人で過ごした多くの時間を大切に思ってくれていると信じていた。
高校に入って疎遠になっても、生徒数の少ない学校だ。貴士がどういう生活を送っていたのかは知っている。交わす言葉が少なくなっても、とても近くに感じていたのに。都には、幼馴染が急に遠ざかっていったように思えてならなかった。
「部屋、まだ決めてないんでしょう?」
「うん。寮の抽選外れて、母親にぶうぶう文句言われたよ。いや、進行形かな。まだ、言われ続けてる。おばさん、言ってなかった?」
「聞いた。東京は家賃高いのねぇって、貴士のお母さんの話聞いて驚いてた。」
寂しいわねぇ。貴士くんがお隣にいないなんて。
隣家の一人息子を我が子同様に可愛がっていた母親は、本当に寂しそうにしみじみと言っていた。
「高いんだよなぁ。収入が高いんだから、当然なんだろうけどなぁ。もう、決めたんだって?」
「ワンルーム。今の私の部屋より狭いの。」
答えながら、内見で見たアパートの部屋を思い出す。四年間のことと割り切っていた都は、狭いわね、と顔をしかめる母親に、ここで十分だと押し切った。
「秋田でそのサイズかぁ。そしたら、俺はその半分くらい?ベッド置けるのか?」
眉を寄せながら、ぼそぼそと貴士が呟くのが可笑しい。何だか視線を感じて見上げると、貴士がじっと自分を見つめていた。
「どうしたの?」
「ガキ大将が、女の子っぽくなったなぁと思って。」
一瞬の逡巡の後、肩をすくめて言う貴士に、都は立ち止まる。
「貴士がいたからね。」
真っ直ぐ見つめて言うと、貴士は立ち尽くしてしまった。相変わらずの反応に呆れて、都は一人で歩き出す。
鈍い。貴士は、自分に向けられる好意の視線に鈍い。
学校で女子から人気があることも気付いていないのだろう。告白されないと、相手の想いに全く気付かない。じっと見つめたり、なるべく多く話し掛けたり、そんな女子の努力が通じないのだ。
「看板娘がいなくなって、おじさんもおばさんも困るだろうな。」
貴士が追い掛けてきて、都に並んだ。さっきの言葉はなかったことにしたらしい。
「四年経ったら帰ってくるんだもの。何だか、四年で料理の鉄人レベルになれると思ってるみたいで、すごくプレッシャーなのよね。」
都が大学を卒業して戻ってきたら、店を改装しよう。高校の卒業式もまだなのに、そんなことまで言い出す両親を思い出し、都は溜息を吐く。曾祖父母の代から苦労して切り盛りしてきた店を大切には思っている。これからも繁盛させていくために努力するつもりだ。けれど、大学の四年間で一人前になれるわけがない。
「鉄人になったら、『雪代』に行列が出来るな。」
「やめてよ、貴士まで。」
貴士くんは『花暖簾』継がないのかしらねぇ。
少し前に食卓で交わした会話を都は思い出した。
娘の進路から店を継ぐつもりであることを知った母親は浮かれていたらしい。隣家の旅館の心配をし始めた。完全に大きなお世話だと呆れる娘に構わず、どうなのかしら、と夫にまで話を振る。
あそこはうちより歴史があるんだ。継がないわけにはいかないだろう。
夕飯を食べる手は止めず、淡々と答える父親に都は反論した。
でも、貴士じゃなくたっていいじゃない。
誰が継ぐの。そんなに簡単に他の人が見つかるわけないでしょ。
『花暖簾』は貴士の両親が旦那さんと女将さん。板前や仲居など他の従業員は雇っている。親族経営ではないので、貴士が継ぐ気がないからといって、すぐに誰かに御鉢を回せるわけではないのだ。
母親に言い返されて、都は俯いた。
貴士がこれからどうするつもりでいるのか、自分の方が知りたい。
「おばさん、今でも反対なんでしょう?」
先ほどから再び、雪が降り始めた。
「毎日、小言だよ。昨日は、東京に何しに行くんだか、この放蕩息子、だってさ。あ、放蕩息子って、生まれて初めて声に出して言ったかも。」
最後の方は独り言のように呟いた貴士の横顔を、都はじっと見つめた。視線に気付いた貴士と目が合う。
都の好きな、少し垂れ目がちの瞳。
「何しに行くの?」
怖かった。この場所を否定されたら、と思うと怖くて、今日になってしまった。
でも、訊かなくちゃ。
黙り込んだ二人の頭上で、みしっと音がした。次の瞬間、大量の雪が貴士と都に降り注ぐ。雪の重みに耐えかねた桜の枝がしなり、積もっていた雪が一気に落ちてきたのだ。
「大丈夫か!?」
自分の頭や肩の雪はそのままに、貴士は都の肩を掴んで、頭に積もった雪を丁寧に払う。その仕草に、都は泣きたくなった。
必死な声。表情。優しい手つき。
少しも変わっていない。
涙が溢れそうで、都はわざと声を立てて笑った。
「何だよ?」
それを怪訝な顔で覗き込む貴士に、十八年の想いを込めて微笑む。
「ありがとう。」
そして、かがんだ体勢の彼の頭に積もった雪を払い始めた。貴士の髪を触るのは何年ぶりかな、なんて秘かに感動しながら。
「何がそんなにおかしいんだよ?」
まだ、くすくすと笑い続ける都に、貴士が気まずそうに尋ねる。
照れてる顔が可愛い。そのまま告げたら余計に赤面させそうな言葉を飲み込んで、都は雪を払う手を止めた。
「だって、貴士があんまり変わらないんだもの。あの辺りで、昔、同じようなことがあったのを覚えてない?」
少し先の道端を指差す。貴士は眉を寄せて考え、結局、思い出せずに首を傾げた。
「小三の時かな。岩橋家に入り込んで、かくれんぼをしていたの。貴士が鬼。私はずるをして、外に出て困らせてやろうと思ったのよ。それで、こっそり門の外に出たところで、雪しずりがあって埋まったの。そうしたら、貴士がすっ飛んできて助けてくれた。」
貴士は覚えていないようだけれど、都はその時のことを今も鮮やかに思い出せる。
小さな都がすっぽり埋まってしまう雪の量だった。びっくりして固まっていると、貴士が必死の形相で雪を掻き分けて出してくれた。そして、丁寧に雪を払うと、今日はもう帰ろう、としゃがんで背中を向けたのだ。どこも痛くないのに何でだろう?と都は不思議に思ったものの、貴士の一生懸命な優しさに甘えて、家までおぶってもらった。
雪の中から見た、貴士の顔。
帰り道に感じた、背中の温かさ。
凛とした寒さや雪の降る音まで、五感全てでこの時のことを覚えている。
「ちょうど、この辺。」
江戸時代末期の武家屋敷。岩橋家の門の前。
ここで自分を守ってくれた男の子。
都の、今日まで続く初恋が始まった瞬間だった。
幼い頃から、貴士のそばにいるととても安心できた。年齢の割に情緒が安定していた彼は、他の友だちのように主張をころころ変えたり、誰かの意見に靡くこともない。喜怒哀楽が激しく、そんな自分の感情を持て余し気味だった都の隣で穏やかに笑ってくれていた。
貴士の隣は温かい。
貴士の隣にずっといたい。
彼が「男の子」だと知ってからは、より強く願うようになった。
嘘は吐けないままだから、波風たてないよう黙っていることを覚えた今でも。
貴士の返事を待たずに、都は再び歩き出した。貴士も歩調を速めて、都と肩を並べる。
岩橋家を通り過ぎ、この先は黒板塀が延々と続く。
「修学旅行がなかったら、貴士は東京に行かなかった?」
クラスが違ったから近くにはいられなかったけれど、都の目は貴士を追っていた。駅で、街で、一人遠くを眺めていた様子を思い出す。何が見えていたのだろう。何を見ようとしていたのだろう。
なぜがだか眩しそうに目を細めて、貴士は微笑んだ。
「そうだと思う。」
「そっか。」
都は吐息のように呟いた後、かがんで雪を掬った。歩きながら、それを丸く固める。
「貴士は、何を見つけるのかな。」
「東京で?」
「私の知らないところで。」
望んでいるのかな。夢見ているのかな。ここではない未来。
泣いてしまいそうで、都は手元の雪から目を離せなかった。
「もう見つけたの?」
この場所にないものを。
「みや。」
ふいに耳に届いた懐かしい呼び方に、都は肩を震わせた。驚いて、貴士の顔を見上げる。
久し振りに、名前を呼んでくれた。それも、貴士だけが使っていた愛称で。
嬉しい。好き。大好き。
想いが溢れて、笑みがこぼれる。
「なあに?」
「東京駅に貼ってあったポスターを覚えてる?」
真剣な眼差しに、話してくれるのだと悟る。知りたかった、貴士の心の内。
「いっぱい貼ってあったでしょう?」
「原宿駅にも貼ってあったな。電車の中吊りにもあった。キャンペーン中らしくて。」
都にとっても修学旅行が初めての東京訪問だった。
確かに楽しかった。すべてが溢れていた。人もお店も情報も。
貴士の言うポスターがわからず首を傾げると、都から目を逸らさずに駅の方向を指差した。
「駅にも貼ってあるよ。改札出て正面に。」
角館駅に貼ってあるポスター。
武家屋敷通りを写した、ここの観光ポスター。
「…貴士。」
「うん。ここのね。」
意外な答えに、都は目を瞠る。
「都もそうだと思うけど。親戚も東北以外にいないし、家が旅館やってるから、遠くに旅行したこともない。」
郷土料理屋を営む都の家も同じだ。だから、幼い頃は貴士と二人で遊び回っていた。
貴士が振り返ったのにならって、都も歩いてきた道を見る。
まっすぐ続く、白い道。
「東京のことを知りたかったわけじゃない。」
雪がいつの間にか、本格的に降り始めていた。しんしんと、という表現はぴったりだと思う。音はしないが気配がする。家の中にいても気付く、雪の降る気配。
「ここがどんなところか、外から見てみたかったんだ。」
通りにさらに重なっていく雪を見ながら話す貴士の横顔を、都は見つめていた。
穏やかで優しい、けれど納得出来るまで考え尽くす、芯の通った人。
とても好きな人。
「まぁ、東京じゃなくても良かったんだけどさ。大阪でも名古屋でも。でも、ここと真逆のところを選ぶなら東京かなって思って。」
名古屋や大阪だともっと遠くなるから嫌だなぁ。咄嗟にそんなことを考える。
けれど、大事なのは場所ではない。貴士を見つめたまま静かに問い掛けた。
「どんなところか客観的に見て、知って、それからどうするの?
どうか否定しないで。
強く思う。一緒に過ごしたこの場所を、二人で笑い合った時間を。
貴士も大切に感じていてほしい。
緊張するあまり、都は無意識に唇を噛みしめていた。
「選びたかったんだ。」
貴士がじっとじぶんを見つめている。
柔らかそうな猫っ毛。少し下がり気味の目尻。通った鼻筋。薄い唇。
彼の視線を独り占めしていることが嬉しい。
「ここは、俺にとって当たり前の場所だよ。でも、生まれたからなし崩しに、じゃなくて選びたかったんだ。自分でここを。」
大きく息を吸って、更に貴士は言った。
「ここが好きだよ。でも、自分がずっと過ごしてきたから好きなんじゃなくて、誇れる理由を見つけたい。そうしたら、もっと大切に思える。これから生きていく場所を。」
考えもしなかったことだった。
都にとっては、今まで過ごしてきた場所だからこそ愛着があるのだ。大切な思い出ばかりだから、離れたくないと思う。
けれど、貴士は違うと言う。ここで育った。そして、次代に継いでいきたい家業がある。そういった、生まれた時に与えられていたものではなく、自らの意思でこの場所を選びたい、と。
ここが好きだと言ってくれた。この場所を選ぼうとしてくれている。それだけで都は嬉しかった。
「私は、ここで過ごしてきたからここが好き。振り返ったら、貴士との思い出ばかりだから、ここにいたいと思えるの。」
いつもお転婆な自分を笑いながら見守ってくれていた。貴士がいなければ、ここまでこの故郷を愛せていたかわからない。貴士との思い出は、雪が反射したみたいにきらきらしている。
都が微笑むと、貴士が左手を差し出した。今のは告白だったんだけれど伝わったのかな。そう思いながら都は自分の右手を重ねる。
そうして、二人は再びゆっくりと歩き出した。
また少し雪が強くなっていた。
都の家である『郷土料理屋 雪代』の前には誰もいなかった。
貴士は繋いでいた手をそっと放して、都の頭に積もった雪を払う。
「貴士。」
「ん?」
「いってらっしゃい。」
貴士が納得してここを選ぶのを待っていようと思った。この場所を選んできっと帰ってくる貴士と、もっともっと素敵な故郷にしていけるように、自分が出来る事を精一杯やろう。
「ただいま、を言いに帰ってくるよ。」
都の好きな、貴士の優しい声。
「うん。おかえり、を用意して待ってる。」
ありったけの「大好き」を込めて、貴士を見上げる。都の頬を包む貴士の両手は冷えているはずなのに、とても温かかった。
今、二人が歩いてきた道は、観光ポスターそのままの見事な雪景色。
真っ白な世界が陽を浴びて色付き始めても、二人でいることを望む二人でありますように。
貴士のキスを受け取めながら、都は心から願った。
都目線でした。
私の中の勝手な男性像のひとつに、理由を付けたがる、というのがあります。
貴士はそんな性格です。
そして都は正反対で感覚的。
きっと末永く仲良くやっていくでしょう。別れの危機どころか、けんかをする様子も思い浮かびません。
大好きな、三人称多視点で書いてみました。同じことを思っていたり、まったく違うことを考えていたり…二人の視点を照らし合わせて楽しんでいただけたら嬉しいです。