挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

ブックマークする場合はログインしてください。

出世していく君にお別れを

作者:豊川颯希
「――本当に、いいのかい?」
 父の案じるような問いかけに、羽根ペンを持つ手が震える。溢れそうになった涙をこらえるため、瞳を伏せた。一拍の後、顔を上げる。表情はもちろん、とびきりの笑顔を作って。
「本当にも何も、私から申し上げたのですから」
 せっかく安心してほしくて微笑んだというのに、父は険しい顔で黙りこんだ。その隣に寄り添う母は、口元を覆って項垂れている。机を挟んで反対側に立っている二人も、痛ましげな表情になっていた。本当に、優しい人たちだ。だからこそ自分は、その優しさに甘えず、断ち切らねばならない。
 彼らの様子に何も気付かない振りをして、書類にサインをする。滲み一つなく書かれた名前は、我ながら達筆だった。重ねて家紋の判を押した。とうとう、書類は完成する。そこに綴られた文字を、一瞬だけわいた未練が辿っていった。
 “サジェス男爵令嬢エルナ・サジェスは、一身上の都合によりヴァトヌ男爵令息ナハト・ヴァトヌとの婚約を破棄する。”
 見届け人は、サジェス男爵家側はエルナ本人と両親のサジェス男爵夫妻で、ヴァトヌ男爵家側はナハトの両親であるヴァトヌ男爵夫妻。もう一人の当事者であるナハトは不在だった。
 ナハトは、類稀な魔術の才を見込まれ、魔術師の名家マルナン公爵家より、縁談を申し込まれていた。
 ナハトはもう、エルナの手の届かない場所にいこうとしている。

 
 エルナとナハトは、所謂幼馴染みだった。爵位の同じサジェス男爵領とヴァトヌ男爵領は隣接しており、母親同士が友人であったこともあって、エルナはよく母に連れられてヴァトヌ男爵邸を訪れていた。内気なエルナはナハトに会うたび、少しばかり緊張していたが、ナハトは微塵もそんな様子はなかった。何しろ、ナハトにはエルナが眼中にないくらい、夢中になっていることがある。
 それは、魔術だった。
 ヴァトヌ男爵夫妻はこれといって魔術に秀でているわけではないのに、ナハトには生まれながらにかなりの魔力が宿っていた。まもなくそれに気付いたヴァトヌ男爵夫妻は、少ない伝を頼って何とか教師役の魔術師を見つけて引き合わすも、教師役の魔術師は早々と匙を投げた。曰く、“ご子息は宮廷魔術師になってもおかしくない、いや、宮廷魔術師しか道がないほど強力な魔術師になるでしょう。”周囲のそんな当惑の入り交じる期待を他所に、ナハトは純粋に魔術の研究にのめり込んでいった。エルナが遊びに来たときも、何やら難しげな論理を説明したあと、二つ三つ新たに覚えた魔術を披露してくれた。エルナは最初、何とかナハトの言葉を理解しようと必死だった。しかし、そのうちナハトの理論は大人でも難解であると気付いてからは、無理に理解するのを諦め、代わりに「すごいね」と褒めた。それは、ナハトの言葉をほとんど聞き流しているという罪悪感からぎこちないものだったけれど、ナハトは気にしていないようだった。
 そんなエルナとナハトが婚約をしたのは、二人が10歳の時だ。身分も釣り合い、仲も悪くはない、と思われていた二人が婚約するのは、そうおかしなことではなかった。エルナははじめてその話を聞いたとき、ナハトと結婚する未来を思い浮かべて、密かに胸を高鳴らせた。魔術に夢中なナハトだけれど、エルナをお嫁さんとして見てくれるのだろうか。エルナは物語に出てくる王子様とナハトを重ねた。お姫様にバラを差し出す王子様を思いだし、バラを差し出すナハトなんて似合わない、と密かに笑う。でも、結婚するのだから、せめて花のひとつももらってみたい。そんな少女らしい想像をしていたからこそ、婚約を知らされてから次にナハトと会った時、ナハトがエルナへの態度を全く変えず、いつも通り魔術を語りだした際、つい口を挟んでいた。
「ナハト、私とあなた、婚約をしたの」
 普段ならずっと聞き手にまわっているエルナが遮ったというのに、ナハトは特に違和感は覚えなかったようだ。エルナの問いにも、あっさりと答える。
「そうらしいね。それで、ウィッフェンの魔術定理の応用なんだけど――」
 そのまま魔術の話に戻りかけたナハトに、エルナは目を見開いた。頭には、ナハトの言葉がぐるぐると繰り返されていた。
 そうらしいね。たった七文字。
 機嫌良く魔術について話すナハトの腕をつかんで、エルナは揺さぶった。大人しいエルナの珍しい行動に、さしものナハトの口も止まる。
「エルナ?」
「ナハト……あなた、そうらしいねって、他に、何か、思うことはないの?」
「うん?別にないけど?」
「ないって……私とあなた、結婚するのよ」
「そうだね」
 今から思えば、この年頃の男の子に結婚だの何だの問いかけて実感がわかないのは、至極当然のことだろう。しかも相手は魔術一辺倒のナハトなら尚更だ。しかし、そこまで思い至れるほど、当時のエルナは大人ではなかった。
「え……エルナ?」
 ぎょっとしたナハトに名前を呼ばれて、エルナは自分が涙を流していることに気付いた。泣き声はなく、涙はあとからあとからぽろぽろとこぼれ落ちていく。ナハトが、魔術にしか興味がないことは分かりきっていたのに、それでも、婚約したのだから、ちょっとくらい、自分について考えてほしかった。でも、ナハトはやっぱりナハトで、こちらに目もくれない。こんな状態で、夫婦になんてなれるのだろうか。
 エルナが途方に暮れたまま泣いていると、ナハトがおずおずと声をかけた。
「あ、あの、エルナ?」
 エルナがナハトに視線を向けると、ナハトはエルナに取られていない方の手で、頬をかいた。
「あの、さ……よく分かんないんだけど、泣き止みなよ?」
 能天気としか受け取れないナハトの言葉に、エルナはより悲しくなっていく。更に落ち込んだ様子のエルナに、流石のナハトも慌てた。
「あーと、どうしたらいい?」
「……」
「どうしたら、泣き止む?」
「……」
 静かに泣き続けるエルナに、眉をへの字に下げながらも、意外と根気強くナハトは話し続けた。
「僕、魔術得意だから、結構何でもできるよ?だから、……エルナの気が晴れることもさ、たぶんできると思うから」
 ナハトの腕を未だ掴んだままだったエルナの手に、ナハトの手が重ねられる。明らかに慣れない手つきでエルナの手を撫でながら、ナハトは聞いた。
「エルナ、何してほしい?」
 エルナはここでようやく、ナハトの瞳をまっすぐ見た。涙で少し滲んで見えたナハトの目は、いつも魔術を語るときのような輝きはない。真剣な、でも心配も含んで、エルナをじっと見ていた。その視線に、エルナはふと自分の心が軽くなったような気がした。ナハトの一番は、確かに魔術かもしれない。それでも、エルナが泣いていたら、慰めようとしてくれる。ナハトには、ナハトなりの優しさがあることを、エルナはこの時はじめて知った。エルナはぱちぱちと瞬きをする。鮮明になった視界で、ナハトがじっと自分を待っていた。固唾を飲んでこちらを見ているナハトに、エルナはふと思い付く。
「……ナハト」
「何、エルナ?」
「バラの花が、ほしい」
 エルナが言い終わるや否や、ナハトの手がほどける代わりに、エルナの手にはバラが現れた。しかしそれは、なぜか一般的と思われる赤ではなく。
 いささか、というかかなり想定外な色合いに数十秒は絶句したあと、エルナはようやく呟いた。
「黒いバラって、変わってるわね……」
「うん、今さ、さっき言ってたウィッフェンの魔術定理を応用して、物の色を変える魔術を研究してて!」
 よくぞ聞いてくれた!とばかりに目を輝かせながら話し出したナハトは、バラに手をかざして何事か唱えると、バラは鮮やかな赤色に変化した。いきいきとバラの色を様々に操るその姿には、先程までのおずおずとした仕草はどこにもなく、すっかりいつものナハトで。
「ふっ」
「エルナ?」
「ふふっあはははは!」
 突然笑い出したエルナに首を傾げているナハトがまたおかしくて、エルナはひとしきり笑った。声を出して笑うなど、本来令嬢にあるまじき行動であるけれど、エルナの気持ちはすっきりしていた。ナハトは、ナハトなのだと、エルナは受け入れた。
 思えば、喧嘩らしいものをしたのは、これっきり。ナハトがエルナのために魔術を使ったのも、この時だけだった。それから、ナハトが楽しそうに魔術について語るのを、エルナが隣で分からないながらも穏やかに相づちを打つ日々が、過ぎていった。二人の間に物語のような情熱的な恋は生まれなかったけれど、エルナには少なくとも、彼との日々はいとおしいものだった。
 そして、ふたりが16になる年。
 地元の学院でかねてから優秀な成績を修めていたナハトは、国中から将来有望な生徒が集まる王都の魔術学院へ入学することになった。男爵領から王都までは遠く、顔を合わす機会がめっきり減ることをエルナは寂しく思っていたが、ナハトは新しい魔術が学べると見るからにうきうきしていた。その温度差に、エルナは苦笑する。6年の月日は、エルナがそれを受け入れるのに充分な期間だった。
 心のうちに寂しさを押し込めて、エルナがナハトを見送って一月。ヴァトヌ男爵夫人が風邪をひいたと聞き、偶々用事のあった母の名代にエルナはヴァトヌ男爵邸を訪れた。
 男爵邸の入口に、見たこともないほど豪勢な馬車が停められていた。見るからに貴人を乗せてきたとおぼしき馬車に、エルナが気後れして訪問するか迷っていると、上等な衣服に身を包んだ見知らぬ男とヴァトヌ男爵が出てきた。エルナは、咄嗟に身を隠す。盗み聞きなんてはしたない、と思いつつもエルナは息を殺した。
 馬車の手前までやってくると、男はくるりと男爵に向かい合った。物腰は丁寧だが、どこか圧迫感を感じる。
「是非とも、良いお返事を期待しております」
 男爵は、控えめに笑みを返した。
「お申し出は光栄なのですが……息子には、婚約者がおりまして」
 どくどくと、心臓の音がうるさい。耳を塞ぎたいのに、エルナの手は痺れたように動かなかった。
「なんの、お相手がかのマルナン公爵家令嬢とわかれば、身を引かれる他ありますまい。ご子息には素晴らしい魔力があり、マルナン公爵家の後押しがあれば、宮廷魔術師として大成されるのは自明の理。仮に婚約破棄された後、元婚約者殿がご子息に付きまとうことがありましたら、マルナンがご助力させていただきますのでご安心くださいませ」
「……お引き取りを」
 固い男爵の声音に、男爵もこの話に乗り気ではないのはわかった。
 それでも。
 ガタゴトと音を立てて遠ざかっていく馬車を見えなくなるまで、エルナは見送っていた。
 どさり、とエルナの手から見舞いの品が落ちる。ああどうしよう、とエルナが現実逃避のように口にする前に、声がかかった。
「……君は!」
 驚いた表情でこちらを見つめた男爵に、エルナは、穏やかに微笑んで見せた。体の震えを押さえ込み、まっすぐに男爵と向かい合う。
「すみません、ヴァトヌ男爵。先程のお話、少し耳に入ってしまいまして……詳しくお聞かせいただいても、よろしいでしょうか?」
 ヴァトヌ男爵ははじめ、エルナの気にすることではない、と頑なに語るのを拒んだ。しかし、エルナは、それを上回る粘り強さで話を請うた。最後に根負けしたのは男爵で、自分は断るつもりだ、ということを前置きしてから、渋々語った。
 曰く、王都で魔術師として頭角を現してきているナハトに、縁談が来たのだと。相手は、五大公爵家に名を連ねるマルナン公爵家ご令嬢。マルナン公爵家は何度も宮廷魔術師を輩出した名家で、ナハトの力量を認め、婚約を結んだ暁には、ナハトの後ろ楯をつとめてくれるという。田舎の男爵家出身であるナハトには、言うまでもなく魅力的な申し出だ。それに、公爵家の使者の去り際の言葉をエルナは思い浮かべる。エルナの答えは、考える前に出ていた。
 エルナが、本当にナハトの幸せを祈るなら、選択肢は迷うことなくひとつ。
 皆、エルナの答え――ナハトとの婚約を破棄することに反対した。しかし、エルナはいっそ冷静に、彼らを諭した。
「相手は五大公爵家の一角、マルナン公爵です。きっとナハトが宮廷で活躍できるよう、取り計らってくださいます」
「だが」
「失礼を承知で申し上げますが、我が男爵家もヴァトヌ男爵家も、マルナン公爵家に比べれば吹けばとぶような弱い力しか持ち合わせておりません。宮廷でナハトの後ろ楯など、とても不可能でしょう。それに、この話をお断りして、万一公爵家の怒りを買えば、問題は私たちだけで収まりません」
 エルナの指摘に、両家はぐっと詰まった。公爵家の権勢は凄まじく、サジェス男爵家のような弱小貴族を取り潰し、元婚約者諸ともなかったことにするのは容易い。仮にも貴族として、家に仕える者たちの未来を考えれば、拒否することは不可能に近かった。それでも、ヴァトヌ男爵夫人は、言い募る。
「まだ、ナハトの意見を聞いていないのに」
「ナハトなら、大丈夫です」
 訳も分からず褒めていたエルナにだってああやって楽しそうに魔術について話していたではないか。きっとその相手が、より高貴なご令嬢に変わったって、気にせずに語るのだろう。
 エルナの脳裏に、二人で過ごした日々が過る。もう大人になりかけの年であるのに、子供のように目を輝かせて魔術を語っていたナハト。ほんの少し前、まさかそんな彼の話を聞くのが最後になるとは思わなかった。
 そして、気付いてしまった。
 母が、感情を抑えた声音で問う。
「あなたは、それでいいの?エルナ」
「もちろんです」
 本当なら、ここであんな魔術ばかりの人だから、愛想はとうに尽きていた、とでも嘘をつけば、もっとスムーズに両親たちを説得できていただろう。
 それを頭で分かっていながら、……それなのに、エルナにはどうしてもその嘘がつけなかった。やっと気付いた恋心をひたすら押し留めるだけで、エルナには精一杯だったのだ。

 

 結局、エルナとナハトが婚約を破棄したのは、ナハトが魔術学院に入ってから半年、エルナが公爵家からの縁談の話を聞いてから五か月後のことだった。ナハトへも当然婚約破棄の知らせは送られたはずだが、音沙汰はない。研究に夢中で見ていないのか、はたまた一瞥して何事もなく研究に戻ったのか。どうせ二度と会うことはあるまい、答え合わせをする機会もないのだからと、エルナは後者であると決めつけた。そうして、ナハトを忘れようと努めた。
 気付けばエルナは17歳となっていた。
 ある日、風の噂でナハトが学生の身でありながら最年少で宮廷魔術師入りしたことを聞いた。田舎の男爵家という身分でありながら破格の出世は、マルナン公爵家の力が働いたのだろう。それを知った日も、エルナは表面上は普段通り過ごした。夜になり、部屋で一人になってから自分の判断は正しかったのだと、エルナは笑おうとした。鏡に映った顔は不格好に歪んでいて、エルナは目を背ける。これは最善だ、と言い聞かせようとして、自分の声が湿っていることに気付いた。ふっと糸の切れた人形のように、脱力する。今日は久しぶりにナハトのことをずっと考えていたから、より疲れたのかもしれない。
 ベッドに腰かけながらエルナは思案した。今晩くらい、自分に正直になってみようか。押さえつけてきた心は、いつ決壊してもおかしくないくらい、ぼろぼろだった。今まで、婚約破棄は本心ではなかったのではないかと心配する両親たちを前に、ひたすら“平然とした姿”を演じてきたのだから。
 その時、扉がノックされる。はい、と返事をするとメイドのミリアが入ってきた。どこか落ち着かない様子のミリアに、エルナは眉を潜める。
「どうしたの、ミリア?」
「お嬢様に、面会したいとお客様がいらっしゃっておりまして」
「こんな夜ふけに?どなたかしら……?」
「ナハト・ヴァトヌ様です」
 ミリアが告げた名に、エルナの体が強ばる。
「断って」
 間髪入れずに出た声は、自分でも驚くほど固かった。目を丸くするミリアに、急かすように手を振る。
「気分が優れないの」
「お嬢様」
「お願い、ミリア」
「――そうですね、夜も遅いことですし」
 エルナの切実な訴えに、ミリアは複雑な表情をしながらも頷いた。ミリアが去ってから、エルナは大きく息をついてベッドに倒れこむ。何で、どうして、今になって。疑問は頭の中で渦巻くが、答えなんてナハトの面会を拒絶した以上、出る筈がない。
「何でよ……」
 弱々しくエルナは呟く。そのまま両の手のひらで顔を覆った。目の辺りがぬるく濡れていた。
 このまま全て忘れてしまいたい、と眠りの世界に入ろうとしたエルナだったが、カタリと鳴った音に違和感を覚えた。不思議に思って体を起こすのと、がたん、と大きく窓が開いたのは同時だった。
 翻ったのは、魔術師の黒いローブ。
 月明かりに照らされた横顔。
 目の前の光景が信じられなくて、エルナは束の間、呼吸を忘れた。
「――ようやく、会えた」
 耳を打つのは一年前と同じ、忘れたいのにこびりついていた声そのものだ。こちらに向かってくる足音に、エルナは我に返る。
「来ないで!」
 一歩でも遠く離れたいともがき、慌ててベッドを降りようとして、足をとられる。床にぶつかる、と反射で瞳を閉じれば、ふわりと誰かに受け止められる。誰かなんて、分かりきっている。おそるおそる瞳を開ければ、懐かしい色がまっすぐこちらを向いていた。
「ナハト」
 ナハトはエルナをベッドに座らせると、自分はその正面に跪いた。エルナの手首を、痛くない程度に、ただし逃れられない力加減で掴んでいる。
「ひとつだけ、確かめたい。それが確認できるまで、僕がここにいることを許してほしい」
 エルナは呆然とナハトを見下ろす。ナハトはエルナをじっと見つめながら、口を開いた。
「どうして、僕との婚約を破棄したの?」
 今更。半年も経って、ようやく聞くのか。エルナは口元を歪める。
「ご両親から、何も聞いていないの?」
「うん。君に直接、聞きたいんだ」 
 ナハトの宣言に、エルナの心は波打った。ナハトに全て、ぶちまけてしまいたい。揺れる心をそっと隅に追いやる。大丈夫、半年は、エルナの甘い気持ちをゆっくりと削いでくれた。もう、本音にきっちりと蓋をして、この言葉を言える。
「……あなたは、口を開けば魔術のことばっかり。私のことなんて、興味ないじゃない」
 ナハトは、肯定も否定もしない。何の反応も返さないナハトに、エルナはふふっと笑った。
「現に、婚約破棄のことだって半年も前の話なのに、今更何なのかしら。いい加減、あなたに愛想が尽きたの」
 嘘だ。口にしながら、心がうずいている。息苦しいまでに、悲しいのをこの半年で慣れた仕草で飲み下しつつ、エルナは、嘘をついた。まだ、エルナの中で明確な、嘘だった。
「私、もっと私を見てくれる人と結婚したいの。だから、あなたとの婚約を破棄したわ」
「――つまり君は、僕じゃ不満なんだね」
 淡々と紡がれたナハトの言葉は、エルナの心を大きく抉った。そんなはず、ない。そうだったら、今こんなに、ナハトの側にいて心が苦しくなるわけがないではないか。
 閉じ込めた本音が口をついて出てしまわないように、エルナは目を逸らせた。
「そう思ってもらって、構わないわ」
「そう」
 ナハトは無感動に呟いた。そうだ、彼はいつだって、魔術以外には興味が薄かった。わざわざエルナ本人に婚約破棄について問い質してきた理由は不明だが、エルナの意見を聞いた今、もうエルナに用はないだろう。
 ナハトの手が、エルナの腕を解放する。思わずすがり付きそうになった手を、エルナは必死で押さえ込んだ。ナハトが立ち上がる気配に、エルナは目を瞑る。
「諦められると、思ったんだけどな」
 一瞬、エルナには何のことか分からなかった。おそるおそる目を開き、ナハトを見上げる。ナハトは、困ったように笑っていた。
「君から直に婚約破棄の理由を聞けば、君を諦められるって、流石に納得しないと駄目だろうって」
「な、ナハト?」
「ごめんエルナ。僕、やっぱり君を諦められないみたいだ」
「え……?」
 エルナは、自分の耳を疑った。何が、どうなっているのだろう。ナハトが、自分を諦めきれない?
 そんなの、まるで――。
「ねえ、エルナ」
「な、何?」
 エルナが思考に辿り着く前に、ナハトが声をかけてきた。
「君、僕が魔術ばっかりで君に興味がないのが嫌なんだよね?」
「え、ええ」
「――うん、僕が魔術に夢中なのは否定しようがないね。魔術があるから、今の僕がある」
「……」
「婚約破棄を今になって知ったのも、学院で研究に明け暮れていたからだね。定期的に届いていた実家からの手紙も、みーんな後回しにして」
 エルナは、困惑していた。ナハトの異様な様子に、飲まれてしまっていた、といってもいい。
「それもこれも、新しい発見がある度に、君にまた話すことが増えたって嬉しくなっちゃって、ついついのめり込んで。魔術の研究をすればするほど、君のことを考えてた。君はあの話をしたらどんな顔をするだろう、この魔術を見せたら驚いてくれるかなってさ」
 徐々に、ナハトとエルナの距離が縮まっていく。エルナは手を後ろに回して距離をとるも、ナハトはお構いなしだ。ついに、エルナはどさりとベッドに倒れこむ。ナハトは、彼女に覆い被さるように、彼女の両肩すれすれに両手をついた。二人の鼻先は、ほんの数センチしか離れていない。
「ようやく今日、君に話ができる、と思って帰ってきたら……君と僕は“婚約破棄”したって聞いた僕の気持ちが分かる?」
「べ、別に婚約していなくても、話くらい聞くわ」
 震える喉を叱咤して、エルナは口を開く。やんわりとナハトの胸を両手で押すも、びくともしなかった。
「話だけじゃ、足りなくなってるんだ」
「……え?」
 はらり、と何かがエルナの頬をかすめた。エルナは横目でそれを追う。
 それは、黒い花びら。
 エルナの目が、驚きに見開かれる。
 ひらひらと、絶え間なく花びらが、降ってくる。仄かな甘い香りが漂った。バラの香りだ。ぽとりと、一際大きな塊――大輪の黒バラが、エルナの胸に落ちる。否応なしに、あの日の出来事がエルナの頭に浮かんだ。
 一悶着あったけれど、ナハトがエルナのことを聞いた唯一の出来事。
「エルナ」
「は、はい」
「“破棄”されてからようやく気付いた馬鹿な僕に、挽回の機会を――君のこと、教えてほしい」
 ナハトは切々と訴えた。止まらぬ花びらを目の端に捕らえながら、エルナははくっと息を飲む。あの、ナハトが、エルナを。夢みたいな現実に身を任せたくなったが、……ここで屈するようなら、端から婚約破棄なんてしていない。エルナはナハトの視線から逃れるように顔を背ける。
「挽回も何も、あなたにはもう新しい婚約者がいるでしょう?」
「新しい婚約者?……ああ、ひょっとして、マルナン公爵のところのお嬢様?あれはお嬢様の独断で、効力はないよ」
「ええ、マルナン公爵の………………何ですって?」
「うん。学院に入学してからすぐくらいかなあ、僕を含めた成績優秀者が公に魔術を披露する機会があって、そこに偶々来てたお嬢様に、なんかなつかれたんだ。あそこのお嬢様、まだ3歳なんだけど、我が儘盛りで僕と結婚するって聞かなくって。もちろん、公爵も本気にするわけないから、その話はそこで流れたんだけど、まさか当のお嬢様が僕の実家に使者まで送ってたなんて、今日知ったよ」
「……それじゃあ、マルナン公爵家が宮廷であなたの後ろ楯になるって話は?」
「それはさっきの魔術披露会で目をかけてもらってさ、無事宮廷魔術師になれたよ。まあ正式採用は卒業してからだけど」
 ナハトがあっけらかんと話す一方、エルナは呆然としていた。その目尻に、みるみる涙がたまっていく。ぽろりと落ちたエルナの涙に、ナハトは焦った。
「えっエルナ!?」
「ナハトの、馬鹿!」
「えっあ、はい」
 エルナの悪態に、ナハトは素直に頷いた。そんなとぼけたナハトが腹立だしくって、それなのに涙は止まらなくって、ああ、それより。
「エルナ!?」
 ナハトの慌てた声なんて、知らない。エルナはその広い背中に腕を回し、気の済むまでその胸で泣く。ナハトは戸惑っていたが、エルナが落ち着くまで黙っていた。
 ナハトを引き寄せていた腕を解き、エルナは残っていた涙を拭う。きっと目は赤くなっていて、顔もひどい有り様だろう。それでも、伝えなければいけないことがある。
「ナハト」
「……はい」
「ナハトが魔術が好きすぎて周りが見えなくなるところがあるのは知っているけど、公爵家の縁談は正式なものじゃないとか、そういう大事なことはきちんと教えて」
「はい……肝に命じるよ」
「それと、さっき私が言った婚約破棄の理由、あれは嘘」
「――エルナ、それって」
 一気に顔が輝いたナハトに、エルナはにっこりと笑った。
「あなたに公爵家との縁談が来てるって聞いて、公爵家ならあなたが宮廷魔術師になるのを支援してくれるだろうし、もし婚約を続けて私諸ともサジェス男爵家が取り潰されちゃ困るから、婚約破棄したの」
「う、うん、そっか……」
 あからさまに残念そうなナハトの顔をエルナはそっと手で包み込む。ナハトはピタリと動きを止めた。まじまじとエルナを見るナハトは、少し緊張しているようだった。
「それでね、ナハト」
「うん、エルナ」
「私のこと、まずひとつ教えたいのだけれど」
 注がれる視線が、どこか当惑したものから熱を帯びたものに変わっていく。そのあたたかさがどうしようもなく心地好い。
「私の好きなものはね――」
 エルナの言葉と、がちゃりと扉の開いた音が重なった。
「お嬢様、まだ起きていらっしゃ」
 不自然に言葉を途切らせたミリアは部屋を一瞥した次の瞬間、絶叫した。

 

 あの後、ミリアの悲鳴に事態を知ったサジェス男爵と、帰宅して早々飛び出していった息子がここに来ていないかとサジェス男爵邸を訪れたヴァトヌ男爵に、ナハトはそれぞれ一発ずつ拳骨をもらっていた。二人の剣幕と後から合流した母親二人に説教を念入りに受けたナハトは、「二度とエルナの部屋に窓から無断侵入しない、……たぶん」と堅くはないが誓ったという。
 エルナとナハトは数日後、再び婚約を結んだ。合わせて、結婚するのはナハトが学院を卒業する一年後に決まる。
「一年か……」
 学院の長期休みを利用して、エルナの元を訪れていたナハトが、ぽつりとこぼす。
「一年が、どうかしたの?」
「………………いや、何でもない」
「すごく気になる言い方ね」
 促すエルナに、ナハト微妙に視線をずらして悩みながらも、口にした。
「いやその、あの時のエルナの姿を見られるのは後一年先かなあと思って」
「あの時?」
 要点が掴めず首を捻ったエルナに、ナハトは咳払いする。その耳が、ほんのりと赤かった。
「その、僕が君の部屋に夜訪問したときの、……目の毒というか、扇情的というか……」
 寝間着姿のことを言われていると分かったエルナの頬は真っ赤に染まった。恥ずかしさも相まって、どうしてもナハトを見る目が険しくなる。
「……ちゃっかり見るところは見てたのね」
「いや、その、最初は破棄の話で頭が一杯で……はい、うん、面目無い」
 言い訳を取り繕いかけながらも、ナハトは正直に認めた。まあまあ潔いナハトの態度に、エルナの怒りは収まったが、あえてそっぽを向く。
「エルナ、ごめん」
 眉尻を下げて謝るナハトに、エルナはくすっと笑った。同時に、良いことを思い付く。
 エルナは、ナハトにくるりと向き直った。
「ねえ、魔術師さん」
「……何でしょう?」
 エルナの芝居がかった呼びかけに、意図が読めないながらもナハトは乗る。
「魔術師さんは、魔術が得意で、結構何でもできるのでしょう?私の気が晴れることも、できるかしら?」
 聞き覚え、いや言い覚えのある言い回しに、ナハトははっとする。悪戯っぽく笑うエルナに微笑みを返して、優雅にお辞儀をした。
「もちろん、尽力いたします。それで、愛しい僕の婚約者様、――エルナ、何してほしい?」
 エルナの言葉に、ゆっくりとナハトは彼女に近付いていく。
 静かに、二人の影は寄り添った。

 

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ