第4話:昼の海岸(何もないはずの場所)
ホテルに荷物を置いたあと、少しだけ迷ってから外に出た。
時間は、まだ明るい。
夜まで待つべきかとも思ったが、何も分からないまま時間を潰す方が落ち着かなかった。
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フロントでもらった簡単な地図を頼りに、近くの海岸へ向かう。
歩けない距離じゃない。
観光客もちらほら見かける。
カメラを持った人、家族連れ、散歩している地元の人。
特別な場所には見えない。
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潮の匂いが、少しずつ強くなる。
さっきまでの街の空気とは違う。
湿っていて、塩気を含んでいる。
視界が開けて、海が見えた。
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想像していた通りの景色だった。
広い空。
波打ち際。
風に揺れる草。
どこにでもある海岸だ。
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しばらく立ち止まって、周囲を見渡す。
それらしい“道”は見当たらない。
少なくとも、目に入る範囲には。
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「……違うか」
小さく呟く。
分かっていたことだ。
一発で当たるとは思っていない。
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砂浜に降りる。
靴の底に、砂の感触が伝わる。
乾いた音。
普通の、砂の音だ。
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波の音も、ちゃんと聞こえている。
一定のリズムで、繰り返している。
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――普通だ。
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その言葉を、頭の中で繰り返す。
何度も。
確認するみたいに。
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スマホを取り出して、写真を一枚撮る。
意味はない。
ただ、記録として残しておこうと思っただけだ。
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画面に写った海岸を眺める。
やっぱり、普通だ。
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そのまま、少し歩く。
人の少ない方へ。
観光客の姿が、徐々に見えなくなる。
会話の声も、遠ざかっていく。
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波の音だけが残る。
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その音が、さっきよりはっきり聞こえる気がした。
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波打ち際から少し離れた場所に、細い踏み跡のようなものがあった。
道というほどじゃない。
ただ、草が踏まれているだけだ。
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足を止める。
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「……」
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特に理由はない。
ただ、なんとなく視線が引っかかった。
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近づいてみる。
やっぱり、ただの踏み跡だ。
人が通れば、こうなる。
それだけだ。
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そのまま通り過ぎようとして――
声をかけられた。
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「そっちは、あんまり行かん方がいいよ」
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振り返る。
少し離れたところに、年配の男性が立っていた。
釣り竿を持っている。
日焼けした顔。
地元の人、だと思う。
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「危ないですか?」
そう聞くと、男は少しだけ首を傾げた。
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「危ない、というか……」
言葉を選ぶように、少し間を置く。
視線は、踏み跡の先に向いている。
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「何もないけどね」
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曖昧な言い方だった。
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「昔から、あんまり人が行かんだけ」
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それだけ言って、男は海の方に視線を戻した。
もうこちらを見ることはなかった。
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「ありがとうございます」
軽く頭を下げる。
返事はなかった。
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もう一度、踏み跡の方を見る。
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“何もない”。
その言葉が、妙に残る。
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しばらくその場に立っていたが、結局、引き返した。
初日から無理をする必要はない。
そう、自分に言い聞かせる。
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来た道を戻りながら、スマホを取り出す。
さっき撮った写真を開く。
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海岸の写真。
その端に、さっきの踏み跡が少しだけ写っている。
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拡大する。
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ただの草だ。
何もおかしくない。
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それでも。
もう一度、拡大する。
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画面の端。
草の間に、細い線のようなものが見えた。
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道、と呼べなくもない。
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息を止める。
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こんなもの、さっき見ただろうか。
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視線を上げる。
実際の場所を見る。
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同じだ。
何も変わっていない。
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もう一度、スマホを見る。
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――さっきより、はっきりしている。
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気がした。
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その瞬間。
波の音が、ほんの一瞬だけ、途切れた気がした。
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顔を上げる。
海を見る。
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波は、変わらず打ち寄せている。
音も、戻っている。
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「……気のせいか」
呟く。
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画面を閉じる。
ポケットにしまう。
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そのまま歩き出す。
振り返らない。
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背中に、視線を感じた気がした。
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足を止めることは、しなかった。
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波の音は、また同じ調子で続いていた。




