9話
小屋を建てる場所は、三日経っても決まらなかった。
村長の家に、また人が集まっている。冬は暇だ。暇なぶん、みんなよく喋った。
卓の真ん中に、カルスが座らされている。
自分の小屋の話だから、いちばんいい席に通された。通されたきり、一言も喋らせてもらえていない。
「街道の近くがええ」
ボルドが、指で卓を叩いた。
「荷馬車が横づけできる。あそこなら、坂を上りきったところだ」
「風が抜けるよ、あそこは」
テッサだった。
立ったまま喋っている。村の女で、男と目線が合うのはこの人だけだ。背が高くて、肩幅があって、そのくせ腕は細い。喋るときに、手がよく動く。
「冬に北風をまともに受けるじゃないか。屋根が飛ぶよ」
「飛ばん。俺が立てる」
「あんたの立てたもんが飛ばなかったことがあるかい」
ボルドの口が、開いたまま止まった。
カルスが、そっと手を挙げた。
「あの、わしは、どこでも──」
「井戸のそばだね」
テッサが座った。
「水が要る。荷を積むにも、馬に飲ませるにも」
「井戸のそばには、うちの物置がある」
デュラが言った。年寄りで、声が小さい。
「どかせばいいよ」
「なんでうちがどくんだい」
「そこは、もともとうちの畑だったんだよ」
「二年前の話だろうが」
ノエは、卓のはしに座って、それを見ていた。
十年、荷馬車で寝ていた人が、今、取り合いになっている。
カルスは、両手を膝に置いて、じっとしていた。誰かが「カルスさんはどう思う」と言うたびに顔を上げて、そのたびに話が先へ行った。
◇
場所は、その日のうちに決まった。
井戸と街道の中間、村長の畑の角を削ることになった。村長が自分から言い出したので、誰も文句を言えなかった。
カルスが、頭を下げた。
「ありがとうございます。あの、それで、窓なんですが」
「材木は、うちが出す」
ボルドが言った。
カルスの口が、閉じた。
◇
「柱は俺が立てるって言ったんだ。木も俺が出す」
「一人で運べるのかい?」
「運ぶさ」
「あんた、去年の秋に腰やっただろ」
テッサが、手のひらを上に向けた。
「うちの人が手伝う。ねえ、あんた」
セルグが、まだ何も言っていないうちに決まった。
「そのかわり、釘はどこかが出しとくれよ」
「釘なら、うちが」
デュラが言った。
テッサが、首を振った。
「デュラさんとこは駄目だよ。去年、藁を出してくれたろ」
「出しとらん」
「もらったよ」
「出しとらんわ」
いつもの、言い合いが始まった。
◇
きっかけは境の木だった。
村じゅうが知っている。一昨年の嵐で、デュラの畑とテッサの畑の境に立っていた木が倒れた。倒れて、境がわからなくなった。
それから二年、この二人は何かにつけて揉めては、境の話を蒸し返している。
「あの木より、こっちがうちだった」
「木は倒れたんだよ」
「倒れる前の話をしとる」
「倒れる前を誰がおぼえてるんだい」
「わしがおぼえとる」
「あたしもおぼえてるよ。違うふうにね」
村長が、こめかみを押さえた。
ノエは、天井を見た。
毎年だ。去年もこの家で、同じ話をしていた。一昨年もだ。しかも、今日は小屋の話をしていたはずだった。
「だいたい、あの木は誰が植えたんだい」
「植えとらん。勝手に生えた」
「じゃあ、あれは誰のもんでもないじゃないか」
「木の話はしとらん。畑の話をしとる」
もう、小屋のことは誰も言わなかった。
カルスが、そっとノエのほうへ椅子をずらしてきた。
「……あの。これは、いつも、こうなんですか?」
「いつもこうです」
「……そうですか」
カルスは、頭巾を目深にかぶり直した。
◇
言い合いは、続いた。
声の大きいほうが、少しずつ勝っていく。テッサの声は、村でいちばん通る。
やがて、テッサが腕を組んだ。
「じゃあ、こうしよう。うちが藁を出す。そのかわり、釘はデュラさんとこ。それでいいね」
「よかない。うちは──」
「決まりだよ」
押し切られた。
いつもの終わり方だった。
デュラは何か言いかけて、やめた。それも、いつものことだ。
◇
ノエは、立ち上がった。
卓のはしに、紙を置く。
冬のあいだ、家に置いてあったものだ。あの日、ドルフから届いた束の一枚。
インクの壺の蓋を開けて、万年筆を握る。
「じゃあ、書いておきます」
部屋が、静かになった。
薪の音だけが残った。
◇
「……書く?」
テッサが言った。手が、止まっている。
「はい」
「何をだい」
「今の話です」
ノエは、紙に線を引いた。
「ボルドさんが、材木。セルグさんが、運ぶのを手伝う。テッサさんが、藁。デュラさんが、釘」
顔を上げる。
「これで合ってますか?」
誰も、答えなかった。
「合ってなければ、直します」
テッサの口が、開いたままになっていた。
「……それを、どうすんだい」
「残しておきます」
「残して」
「はい。来年も、再来年も」
ノエは、もう一度、顔を上げた。
「来年、言った言わないになったら、これを見ればわかるように」
◇
デュラが、椅子を鳴らして立ち上がった。
「書け」
「デュラさん」
「木のことも書け。今すぐ書け」
「木のことは、今日は決めとらんよ」
テッサが言った。声が、さっきより低い。
「決めりゃええ」
「決まらないから毎年やってんだろ!」
村長が、卓に手をついた。
「待て。待ちなさい」
それから、ノエを見た。
「ノエ」
「はい」
「それは、毎回かね」
「毎回、書きます」
「毎回、残るのかね」
「残します」
村長は、しばらく黙っていた。
それから、ボルドを見た。ボルドは、テッサを見た。テッサは、天井を見た。
薪が、ぱちりと鳴った。
◇
「──よし。書け」
ボルドだった。
腕を組んで、そう言った。
「俺は材木だ。太いのを六本、俺が切って、俺が運ぶ。書いとけ」
「はい」
「セルグ。おまえは何をやる」
「え、俺? 俺は、その」
「運ぶって話だったろうが」
「あ、うん。運ぶ。運びます」
「何日だ」
「……三日? いや、腰がだめだったら二日で――」
「三日って書いとけ」
ノエは、書いた。
部屋の様子が、少し変わった。
みんな、いつもより言葉が短い。あとで残ると思うと、余計なことを言わなくなるらしい。
◇
いちばん早く慣れたのは、テッサだった。
「じゃあ、うちは藁。二十束。それと釘を五十本」
「テッサさん、釘はデュラさんとこじゃ」
「うちが出すよ。そのかわり、春の草刈りはデュラさんとこが二日多くやる。それも書いとくれ」
「……いいのかい、それで?」
デュラが、まばたきをした。
「書いてあるなら、いいんだよ」
テッサは、卓を叩いた。
「言った言わないがないんだから、こっちも安心して損できるじゃないか」
誰かが笑った。何人かが笑った。
その日、決まらなかった話は、一つもなかった。
◇
「ノエ。読んでみせなさい」
村長が言った。
「みんなに聞かせて、間違いがないか確かめるんだ。そういうもんだろう」
「はい」
ノエは、紙を持ち上げて、読み上げた。
ボルド、材木六本。切って運ぶ。
セルグ、運びを三日。
テッサ、藁二十束と釘五十本。
デュラ、春の草刈りを二日多く。
それから、ノエは次の行を読んだ。
「セルグさんは、三日と言いました。ただし、腰が痛くなったら二日にしてほしいと言いました」
セルグが、椅子から立ち上がった。
「それ、書いたの!?」
「言ったので」
「言ったけども!」
テッサが、夫を見上げた。
「……あんた、そんなこと言ってたのかい?」
「あ、いや。い、言ってない。言ってない!」
「書いてあるじゃないか」
部屋じゅうが笑った。
セルグは、赤くなって座り直した。
テッサが、笑いながら手を振った。
「ノエ。あたしのぶんも、余計なとこは書いてないだろうね」
「書いてあります」
「消しとくれ」
「消せません」
また、笑いが起きた。
村長が、涙を拭いていた。
◇
人が帰ったあと、カルスが卓に残っていた。
ノエが紙を折っていると、遠慮がちに手を挙げた。
「……あの」
「はい」
「窓を、南に一つ。それだけ、書いてもらえませんかね」
ノエは、紙を開き直した。
書いた。
カルスは、それをのぞきこんで、しばらく見ていた。
「……書いてもらうと、なんだか、決まったような気がしますね」
「ちゃんと、決まったことを書きました」
「そうですか」
カルスは、頭巾を脱いで、それで顔をこすった。
◇
紙を持って帰る途中、母に会った。
マイラは、ノエの手元を見て、それから鼻を鳴らした。
「あんた、テッサさんに言い負けなかったんだって?」
「言い負かしてないよ」
「あの人に言い負かされなかったのは、村じゃあんたが初めてだよ」
マイラは笑って、背中を一発叩いて、先に歩いていった。
笑い声が、雪に吸われて、すぐに消えた。
背中の痛みは、なかなか消えなかった。
◇
釘と、屋根に張る布は、村では作れない。
カルスが、ヴェルダへ人をやると言った。
自分で行ってもいいが、それだと往復で十日はかかる。決まった荷だけなら、運び屋のほうがずっと早い。
――そういうものらしい。
ノエは、荷馬車で運ぶ以外の運び方を知らなかった。
◇
六日目の昼過ぎ、坂の下から音がした。
速い。
車輪が石を跳ねる音が、間を置かずに続いている。ごろごろ、ではなかった。がらがら、だった。
村の者が、道から飛びのいた。
荷馬車が、雪をはねながら坂を上りきって、門の手前で止まった。馬が首を振って、白い息を吐く。
御者台から、飛び降りた者がいた。
若い娘だった。
ノエより、少し上に見える。日に焼けている。髪は短く切って、額で布を締めていた。
大きな目がはっきりと見える。視線が力強い。
着いた途端、村長のほうへ大股で歩いてきた。
「昼過ぎまでって話でしたよね。間に合ってます?」
「あ、ああ。間に合っとるよ」
「なら、よかった」
それだけ言って、荷台へ戻っていった。
◇
カルスが、笑いながら近づいてきた。
「速いでしょう?」
「すごく、速かったです」
「あそこの家は、親父さんの代から速いんです。娘のほうが、もっと速い」
ご覧の通り、とおどけてから、カルスはズレた頭巾を直した。
「十年前、わしに飯を食わせてくれた家でしてね」
ノエは、カルスを見た。
「荷馬車で寝とったころですよ。あの家だけは、屋根の下に入れてくれました」
カルスは、それ以上言わなかった。
荷台のほうへ歩いていって、テキパキと動く娘に何か声をかけた。娘が、短く答えていた。
◇
ノエも、荷を運ぶのを手伝った。
娘が、荷台から木箱を出して、こちらへ差し出した。
ノエは、両手を出しかけて、止めた。
「……持てないかもしれません」
娘の手が、止まった。
こちらを見る。上から下まで見て、それから箱を見た。
箱は、荷台に戻された。
代わりに、布の包みが差し出された。軽い。屋根に張る布だという。
「これ」
「はい」
それだけだった。
娘は、次の箱を自分で抱えて、さっさと歩いていった。
ノエは、包みを持って、そのあとをついていった。
大丈夫かとは聞かなかった。無理だろうとも言われなかった。
持てるかどうかを聞かれて、答えて、それで終わりだった。
――そういうことも、あるんだ。
◇
荷を降ろすと、娘はすぐ荷馬車に戻った。
村長が茶を出そうとしたが、断っていた。
「まだ二軒あるので」
御者台に上がって、手綱を握る。
そのとき、ノエのほうを見た。
ノエは、荷札を持っていた。箱に貼ってあったものを、剥がして読んでいたところだった。
「それ、読めるの?」
「はい」
「へえ」
娘は、それだけ言った。
手綱が鳴って、荷馬車が坂を下りていく。
がらがら、がらがら。行きよりも速かった。
◇
その日の夕方、ノエはカルスに声をかけた。
「あの。頼みたいことがあるんですが」
「なんです?」
「人を、探せませんか」
カルスは、釘の箱を数えていた手を止めた。
「どちらの」
「ドランさんという人です。ゲルダさんの息子さんで」
カルスの顔から、笑いが消えた。
「……ああ」
「木を切る仕事をしています。それだけは、わかっています」
「歳は?」
「わかりません」
「顔は?」
「見たことがないです」
カルスは、しばらく黙っていた。
釘の箱の縁を、指でなぞっている。
「木を切る山なんぞ、この国にいくつあると思います?」
「……たくさん、あると思います」
「そう、たくさんです」
カルスは、そう言った。
それから、頭巾のふちを引っ張った。
「……聞いてみます」
「いいんですか?」
「木こりは、冬に山を下りるんです。春までは、街に居ります」
カルスは、釘の箱を持ち上げた。
「わしが行くのは、街ですから」
◇
「ゲルダさんには、言わんほうがいい」
歩き出してから、カルスがそう言った。
「はい」
「見つからんかったとき、あの人は、もう一回待つことになる」
ノエは、うなずいた。
村の道の向こうに、ゲルダの家が見えた。
戸口に、誰もいなかった。冬は寒いから、中にいるのだろう。
あの日、書けるのかいと聞かれて、ノエは答えられなかった。
まだ、答えられないままだ。
◇
その夜、ノエは土間に座っていた。
卓の上に、紙を並べる。
小屋のことを書いた紙は、もう三枚になっていた。ばらばらのままだと、風で飛ぶ。どれが先か、わからなくなる。
――まとめておかないと。
ノエは、母に鎌を借りた。
紙のはしを、そろえて切る。ずれて、ガタガタになった。
何枚かを重ねて、はしに穴を開けた。錐は父のを借りた。
糸を通す。上から下へ、下から上へ。本の家の本が、そういう縫い方だった。何度も見ていたから、おぼえていた。
厚紙は、行商の荷にあった箱をほどいて使った。布は、母が古い前掛けを切ってくれた。
角を折りこんで、貼る。
うまく折れなかった。二度やり直して、三度目もうまくいかなかった。
それでも、形にはなった。
◇
できあがったものを、灯りにかざした。
糸の目が、そろっていない。表紙は、片方の角が浮いている。
本の家の棚に並んでいたものとは、まるで違った。
――何度も作れば、ああなるんだろうか。
わからなかった。
ノエは、表紙をめくった。
一枚目の、いちばん上に、を書いた。
その下に、名前を並べていく。
ボルド。材木、六本。
セルグ。運ぶ、三日。ただし腰が痛くなったら二日。
テッサ。藁、二十束。釘、三十本。
デュラ。春の草刈り、二日。
カルス。窓、南に一つ。
書きながら、指が止まった。
――これは、消えない。
明日になっても、来年になっても、ここに残る。
ボルドさんが忘れても、テッサさんが忘れても、ここにある。
ノエは、しばらくそれを見ていた。
それから、灯りを吹き消した。




