8話
ボルドの家は、狭かった。
卓が一つ、椅子が二つ、寝床が一つ。壁に、鍬と鎌と斧が並べて掛けてある。どれも柄が違う色をしていた。何度も何度も、すげ替えて使っているのだろう。
ボルドは、卓の上で木を削っていた。
ノエは、向かいに座らされた。麦茶が出てきた。ぬるかった。
「鍬のことっつっても、なあ」
ボルドは、削りかすを床に落としながら言った。
「刃は刃だ。土を掘る。それだけだろうが」
「あの、見せてもらえますか?」
「……なんでだ」
「見たことがないので。近くで」
ボルドは、しばらく削っていた。
それから、立ち上がって、壁から一本を外した。
卓の上に、ごとん、と置かれる。
ノエは、灯りを近づけた。
◇
三日月だった。
もともとは、四角い刃だったはずだ。それが、研いで、研いで、研ぎ減って、真ん中がえぐれている。両はしだけが残って、上を向いていた。
刃先を指でなぞると、薄い。思っていたより、ずっと薄かった。
「三年だ」
ボルドが言った。
「一年目に買った。それからずっと、こいつだ」
「新しいのは」
「頼んでねえ」
「なんでですか」
ボルドは、椅子に座り直した。
木の削りかすを、指ではじいた。
「六枚しか来ねえんだ」
「はい」
「俺が一枚もらうとな。誰かが、もらえねえ」
ノエは、顔を上げた。
ボルドは、こちらを見ていなかった。
「セルグんとこは、去年、赤ん坊が生まれた。デュラんとこは、爺さんが寝込んでる。おまえんとこは──」
そこで、言葉が止まった。
「まあ、おまえんとこも、大変だろうが」
ノエは、何も言わなかった。
「俺んとこは、俺一人だ。減った刃でも、俺が多く振りゃ、それで済む」
ボルドは、削りかけの柄を手に取った。
「それだけの話だ」
◇
「腕の傷も、鍬ですか」
「これか」
ボルドは、袖をまくった。
右の前腕に、ひきつれた傷が走っている。皮膚がねじれて、盛り上がっていた。
「一年目だ。根を掘ってたら、石に当たってな。跳ねた」
「……痛かったですか?」
「痛えに決まってんだろ」
ボルドは、笑った。
それから、傷を撫でた。
「三日、動けなかった。その三日で、みんなが俺のぶんも掘ってくれた。だから、この村がある」
撫でる指が、止まらなかった。
「俺はな。この傷があるから、この村を作った側の人間なんだ」
灯りの芯が、ぱち、と鳴った。
「わかるか」
「……わかりません」
ノエは、正直にそう言った。
ボルドが、こちらを見た。
それから、鼻を鳴らした。
「わからんでいい。子どもが」
声が、昼よりずっと柔らかかった。
◇
ボルドは、削りかけの柄を持ち上げた。
節のところを、指で探している。
「……昼のことだがな」
「はい」
「あれは、おまえに言うことじゃなかった」
ノエは、麦茶の椀を持ったままだった。
「はい」
「はい、じゃねえよ」
ボルドは、柄を卓に置いた。
置いてから、また持ち上げた。
「……悪かった」
削りかすが、一つ、床に落ちた。
ノエは、うなずいた。
うなずいてから、それでは見えないと気づいて、口を開いた。
「はい」
ボルドは、また削り始めた。
しゅっ、しゅっ、と音が戻ってきた。さっきより、少し速かった。
◇
次の日、ノエは村を歩いた。
村長に、刃をどう分けているのかを聞いた。デュラに、去年の麦をどこへ運んだのかを聞いた。母に、うちの刃はどのくらい減っているのかを聞いた。
母は、鍬を持ってきて、卓に置いた。
「うちのは、まだましだね」
「ボルドさんのは、三日月みたいだった」
マイラの手が、止まった。
それから、鍬を壁に戻しながら、こう言った。
「あの人はね。人にものを頼めないんだよ」
家を出るとき、戸口の脇に水桶が置いてあった。
昨日、広場に転がっていたやつだ。
誰が置いたのかは、聞かなかった。
◇
その日の午後、ノエは工房にいた。
床の埃を、手のひらでならす。
枝を尖らせて、書き始めた。
謹んで啓上つかまつり候。貴殿におかれましては、時下ますますご清栄のことと。
そこまで書いて、止まった。
次に何を書けばいいのか、わからない。
伏してお願い申し上げ候。この度は誠に不本意ながら。
おぼえている言葉を、思いつくままに並べてみた。
埃の上が、立派な言葉でいっぱいになった。
ノエは、それを読み返した。
──何も、書いてない。
立派な言葉しか、書いていない。ボルドさんのことも、麦のことも、何ひとつ書いていなかった。
手のひらで、全部消した。
舞い上がった埃が、光の筋の中でゆっくり回った。
◇
落ちるまで、待った。
立派な言葉は、たぶん、立派な人が使うものだ。ノエは立派ではないし、ヴェルダの旦那様がどれだけ立派な人かも知らない。
知らないものを真似ても、しかたがない。
──知っていることを、書く。
もう一度、枝を握った。
今度は、手が止まらなかった。
書きすぎて床が足りなくなり、消して、続きを書いた。三度、そうした。
顔を上げると、光の筋が壁まで上がっていた。もう夕方だ。
◇
棚の下の引き出しを開けた。
白い紙が、束になって入っていた。
一枚も使われていない。あの人が、使わずに死んだぶんだ。
ノエは、その前でしばらく立っていた。
それから、部屋の中へ向かって言った。
「……一枚、借ります」
誰もいない部屋に、声が響いた。
返事はなかった。
ノエは、一枚だけ抜き取って、机に置いた。
万年筆を握る。指が、汗ばんでいた。
書き損じたら、それで終わりだ。もう一枚借りる勇気は、たぶんないから。
息を吸って、止めて、筆先を紙に当てた。
◇
灯りを点けるころには、半分まで来ていた。
字は、ゆっくりしか書けない。一文字ずつ、埃の上で練習したとおりに置いていく。
途中で二度、手が痛くなって休んだ。指の付け根のまめが、まだ治りきっていなかった。
最後の行の手前まで来て、ノエは筆を止めた。
灯りを引き寄せて、頭から読み返す。
◇
ヴェルダの、ザイル商会の旦那様へ。
ノーラ開拓村の、ノエといいます。十四歳です。字は、今年おぼえました。まちがえていたら、すみません。
鍬の刃の値のことで、お願いがあって書いています。
ボルドさんの鍬は、三日月みたいな形をしています。三年、同じものを研いでいるからです。刃先を指でなぞると、薄いです。
新しいのを頼まないのは、六枚しか来ないからだと言っていました。自分が一枚もらうと、誰かがもらえないそうです。
セルグさんのところは、去年、赤ん坊が生まれました。デュラさんのところは、お爺さんが寝こんでいます。
村では、値を刈り入れのあとに聞きます。
聞いてから、麦を数えます。
足りなくても、もう刈ってしまったあとです。
村長さんが言っていました。刈る前にわかっていれば、売るなり借りるなり、やりようがあると。
だから、値を先に決めてもらえませんか。
春に刃を渡すとき、その場で決めてもらえていたら、こちらで数えられます。
去年は、麦を八袋渡しました。一昨年は六袋でした。刃の数は、どちらも同じです。
カルスさんは、去年は麦が安かったからだと言いました。たぶん、本当なんだと思います。
でも、村の誰も、それを確かめられません。
長くなって、すみません。
◇
ノエは、筆を紙に戻した。
最後の一行を書いた。
書いてから、止まった。
──これは、いらないかもしれない。
関係のないことだ。麦の値とも、鍬の刃とも、何の関係もない。
ノエは、その一行を見ていた。
消せなかった。書いたものは、もう消せない。
もっとも、消したいのかどうかも、自分でよくわからなかった。
筆を布に包んで、紙を折った。
◇
三日目の朝は、霜が厚かった。
門のところに、荷馬車が停まっていた。
カルスは、幌の下で毛布にくるまっていた。ノエの足音で、顔を出す。頬が、赤くなっていた。
「書けたんかい?」
「書けました」
ノエは、折った紙を差し出した。
カルスは、それを両手で受け取った。
しばらく、それを見ていた。
「……たったの一枚か」
「はい」
「わかった」
カルスは、紙を懐に入れた。それから、上着の上から二度、そこを叩いた。
「じゃあ、行きます」
馬が、白い息を吐いた。
荷馬車が、坂を下りていく。
ごろごろ、ごろごろ。音が遠くなって、聞こえなくなった。
◇
冬が来た。
雪が降って、街道が白くなった。沢が凍って、倒木の橋が滑る。母が、行くなと言った。
だから、家にいた。土間に字を書いて、消して、また書いた。母が、そこを踏んで歩いた。
春まで、何も起こらないはずだった。
◇
ある日の昼、外で誰かが叫んだ。
ノエは、戸を開けた。
村の者が、道に出ている。みんな、坂のほうを見ていた。
音がする。
車輪ではない。蹄の音だ。ひとつぶんしかない。
雪の坂を、馬が一頭、上ってくる。
その背に、赤い頭巾が乗っていた。
◇
「なんで、こんな時期に」
村長が、駆け寄った。
カルスは、馬から降りた。降りたというより、落ちるように下りた。膝が、雪に沈む。
頭巾も、外套も、白くなっていた。眉に霜がついている。
「……旦那様が」
声が、かすれていた。
「春まで待つな、と」
カルスは、鞍の袋から包みを取り出した。
布に包まれた、平たいものだった。
「ノエさんに」
◇
村長の家に、みんなが入った。
卓の上で、包みがほどかれる。
中身は、三つあった。
紙の束。白い紙が、指の厚さぶん。蓋のついた小さな壺。振ると、中で液体が鳴った。
それから、折った紙が一枚。
ノエは、それを開いた。
字は、大きかった。線が太い。急いで書いたような字だった。
「読みます」
◇
ノーラ開拓村の、ノエへ。
手紙を受け取った。
わしはこの商いを三十年やっているが、村から手紙が来たのは初めてだ。
妙な手紙だった。読んでいると、会ったこともない者の顔が浮かぶようだった。
鍬の刃のことは、わかった。値のことも、わかった。
値の決め方は直そう。春から、刃を渡すその場で決める。そう書き直した紙を、カルスに持たせた。
それから、もう一つ。
おまえの手紙の、いちばん最後の一行だ。
寒くなってきました、と書いてあった。
あれは、カルスのことだな。
カルスは十年、わしの言うとおりの値を伝えてきた。それを、一度も違えたことがない。たったの一度も、だ。
その男を、村の外で、寝させた。
寝させたのは、わしが書いた紙だ。
だから、こうする。
街道の北は、これからカルスの商いだ。わしの荷ではない。あれが仕入れて、あれが値を決めて、あれが売る。元手は出した。カルスに持たせてある。
値のことは、これから、あれと話しなさい。
紙とインクは、おまえのぶんだ。
何かあれば、また書きなさい。カルスに頼めば、喜んで持ってくるだろう。
ヴェルダ ザイル商会 ドルフ
◇
誰も、何も言わなかった。
薪が、ぱちりと鳴った。
カルスが、卓のはしに手をついていた。
その手が、震えている。寒さのせいかと思ったが、そうではなさそうだった。
「……わしが」
カルスが言った。
「わしの、商いですか」
「そう書いてあります」
「旦那様が、そう」
「はい」
カルスは、腰の袋に手をやった。
中から、革の巾着を取り出す。卓に置くと、重い音がした。
「これは、なんなのかと、聞いたんです」
カルスの声が、途切れた。
「あの村で読んでもらえ、としか、言ってくれませんでした」
巾着は、卓の上に置かれたままだった。
誰も、それに触らなかった。
◇
しばらくして、カルスが立ち上がった。
「……すみません。ちょっと」
戸を開けて、出ていった。
冷たい空気が、足元を流れてくる。すぐに戸が閉まった。
中では、誰も追わなかった。
ノエは、鍋の湯を汲みに、土間へ行った。
その途中、板壁の隙間から外が見えた。
カルスが、馬のそばに立っていた。
馬の首に、額をつけている。片手で、たてがみを掴んでいた。
肩が、少し動いている。
雪が、その背に降りかかっていた。
ノエは、湯を汲まずに、戻った。
◇
カルスが戻ってきたとき、顔は乾いていた。
椅子に座り直して、頭巾を膝の上に置く。
それから、口を開いた。
「……あの。一つ、頼んでもいいですかね」
「なんだね」
「この村に、小屋を一つ、建てさせてもらえませんか」
村長が、まばたきをした。
「小屋、かね?」
「荷を置く場所が要るんです。自分の荷なら、その置き場が」
カルスは、そこで言葉に詰まった。
頭巾を、両手で握っている。
「……それと、その」
声が、小さくなった。
「わしは、家がないもんで」
誰も、何も言わなかった。
「十年、荷馬車で寝てました。それでよかったんです。ずっと、それでよかったんですが」
カルスは、卓の上の巾着を見た。
「なんだか、そういうわけにも、いかんような気がしてきまして」
◇
村長が、顎を撫でた。
「ここの土地は、領主様のものだが」
それから、手を振った。
「まあ、街道のはしのほうなら、誰も文句は言わんだろう」
そのとき、後ろから声がした。
「柱くらいなら、俺が立ててやる」
ボルドだった。
みんなが、そちらを向く。
ボルドは、居心地悪そうに鼻をこすった。
「冬は、どうせ暇だ」
それから、外套を脱いだ。
袖口が、すり切れている。何年も着ているものだ。たぶん、それしか持っていない。
カルスの肩に、かけた。
「……寒いだろ」
それだけ言って、背を向けた。
カルスが、外套のはしを握った。
握ったまま、しばらく顔を上げなかった。
◇
そこから先は、騒がしくなった。
村長が酒を出した。誰かが火を大きくした。女房連中が、鍋を持って戻ってきた。カルスは椅子に座らされて、次から次に食べ物を渡された。
小屋をどこに建てるかで、言い合いが始まった。井戸に近いほうがいい、いや街道に近いほうがいい。ボルドの三日月の刃の話も出て、みんなが笑って、ボルドが怒った。
ノエは、卓のはしに座っていた。
母が、後ろからノエの頭に手を置いた。何も言わずに、そのまま鍋のほうへ行った。
◇
ゲルダは、輪の外にいた。
みんなが小屋の話をしているあいだ、ずっと、卓の上を見ていた。
紙の束と、インクの壺。
ノエは、そこへ行った。
「ゲルダさん」
ゲルダは、紙から目を離さなかった。
しばらく、そのままだった。
それから、口を開いた。
「……ノエ」
「はい」
「あたしも、書けるのかい」
◇
ノエは、口を開いた。
はい、と言うつもりだった。
言えなかった。
書くことは、できる。紙もある。インクもある。カルスさんが運んでくれる。
でも、どこへ。
ドランがどこにいるのか、ノエは知らない。ゲルダも知らない。村の誰も知らない。
宛先のない紙は、ただの紙だ。
「……ゲルダさん」
「なんだい」
声が、出なかった。
ゲルダは、しばらく待っていた。
急かさなかった。三年、木箱を膝にのせて待っていた人だ。待つのは、慣れているのだろう。
それから、紙の束にそっと手を置いて、笑った。
「そうかい」
それだけ言って、輪のほうへ戻っていった。
後ろで、みんなが笑っている。小屋の話は、まだ続いていた。
ノエは、卓の上の紙を見ていた。
白い紙が、灯りで少し黄色く見えた。
紙はある。インクもある。カルスさんが運んでくれる。
──あとは、どこへ出すのかだけだ。
8/23 改訂①7話改訂に伴い、ボルドの話した内容を修正




