7話
「もういっぺん、頭から読んでくれ」
村長が言った。
ノエは、板を持ち直した。
思ったより重い。両手で支えていないと、先が下がってくる。
人の輪が、じりじり縮まっていた。誰かの息が、うなじにかかる。
「鍬の刃、六枚。鎌の刃、四枚。これを渡す、と」
「うむ」
「代金は、麦で払う。刈り入れのあと、次に来たときに、渡す」
「そうだ。そうしとる」
「それから、値は」
ノエは、二行目に指を戻した。
「値は、麦を受け取るときに、決める」
誰かが、あ、と言った。
誰が言ったのかは、わからなかった。
風が吹いて、荷馬車の幌が、ばたばたと鳴った。
◇
「どういうこったい」
女房の一人が、前に出た。
「あとから決めるってのかい」
「そう書いてあります」
「あとから決めたら、いくらでも言えるじゃないか」
場が、ざわついた。
カルスが、両手を上げた。
「待ってください。待って。相場ってもんがある。わしが勝手に決めとるわけじゃない」
「じゃあ聞くけどね。去年、麦を何袋持ってったんだい」
カルスが、口を開けた。
それから、頭巾を脱いで、髪をかき回した。日に焼けていない額が、そこだけ白い。
「……帳面を見ないと」
「八袋です」
ノエが言った。
全員が、こちらを向いた。
◇
「去年は、八袋でした」
ノエは、板を持ったまま続けた。
「一昨年は、六袋。刃の数は、去年も一昨年も同じです。鍬が六枚、鎌が四枚」
村長が、口を開けた。
「……ノエ。おまえ、なんでそれを」
「見てたので」
ノエは、そう答えた。
畑に出られないから、いつも荷馬車のそばにいるしかなかった。袋が運ばれるのを、はしからただ数えていた。数えているつもりもなかったが、数えていた。
あの日は、麻袋の口を縛る紐が、途中で足りなくなった。だから七・八袋目だけ、藁縄で縛ってあった。
そういうことまで、消えずに残っている。
「同じものを買ったのに、去年のほうが二袋多いです」
しん、とした。
カルスの手が、頭巾を握ったまま止まっていた。
◇
「……去年は、麦が安かったんです」
カルスが、そう言った。
声が、さっきまでと違っていた。
「豊作の年でした。この辺だけじゃない。街道じゅうで麦がよく穫れて、値が落ちた。麦が安けりゃ、同じ刃を買うのに、袋の数は増えます」
「そりゃあ、そうかもしれんが」
「本当です。嘘は、言っとらんです」
カルスは、頭巾を握りしめていた。
村長が、腕を組んだ。
「カルスさん」
「はい」
「それが本当かどうか、わしらには、わからんのだよ」
カルスの口が、開いたまま止まった。
しばらくして、閉じた。
「……そりゃ、そうです」
誰も、何も言わなかった。
馬が、鼻を鳴らした。
その音が、やけに大きく聞こえた。
広場には、荷が下ろされたまま並んでいる。塩の袋。釘の入った箱。染めた布。ついさっきまで、みんなが取り囲んで、値切って、笑っていたものだ。
誰も、それに触っていなかった。
村の誰も、街道の向こうの麦の値を知らない。知る方法もない。文字が読めず、遠くへ行く者もいない。
いくらだと言われれば、そうかと思うだけだった。
三年、ずっとそうしてきたのだ。
◇
ボルドが、動いた。
人垣を割って、前に出てくる。
顔が、赤かった。日焼けのせいではなかった。
「じゃあ、なんだ」
ボルドは、板を指さした。
「その紙に、そう書いてあるってことか」
「はい」
「去年も、その紙に印を捺したのは、俺か」
「……はい」
ボルドの喉が、動いた。
「一昨年もか」
「はい」
ボルドは、自分の右手を見た。
親指に、灰がついている。さっき捺したばかりのものだ。
その手が、ゆっくり握られた。
握って、開いて、また握った。
◇
「──読まなきゃよかったんだ」
ボルドが言った。
ノエは、顔を上げた。
「今まで、カルスさんはいい人だった」
声が、震えていた。
「毎年来て、飴くれて、値切りゃ困った顔してさ。それでよかったんだ。それで、まわってたんだ」
「ボルドさん」
村長が止めようとした。
「知らなきゃ、あの人はいい人のままだったんだよ!」
ボルドの声が、村じゅうに響いた。
板が、手から滑った。
ばたん、と地面で鳴る。挟んであった紙が、はしのほうだけめくれた。
ノエは、それを拾わなかった。
膝が折れて、その場に座りこんだ。疲れたときの、いつもの座り方だった。
誰かが板を拾って、村長に渡している。
ノエは、自分の膝を見ていた。
指が、震えていた。
──ボルドさんの言う通りだ。
そう思ったことが、うまく飲みこめなかった。
そのとき、後ろで、じゃり、と土を踏む音がした。
◇
振り返った。
母が、水桶の取っ手に手をかけていた。
腰を落として、脇を締めて、いつでも振れる形になっている。目がすわっている。
母と目が合った。
ノエは、首を振った。
マイラの手が、そこで止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。ノエは、母の腕の筋が浮いているのを見ていた。
やがて、その手が離れた。
マイラは、桶を蹴った。
からん、からん、と転がって、ボルドの足元で止まる。中身は入っていない。空の桶は、よく鳴った。
「ちっ」
マイラは、それだけ言って、家のほうへ歩いていった。
ボルドは、転がってきた桶を見下ろしていた。
しばらく、そうしていた。
それから、それをまたいで、自分の家のほうへ歩き出した。
肩が、少し落ちていた。
ノエのほうは、一度も見なかった。
◇
人が、散り始めた。
日が傾いて、荷馬車の影が広場を長く横切っている。女房連中が、買ったものを抱えて帰っていった。誰も、さっきまでのようには喋らなかった。
その中に、ゲルダがいた。
人の後ろのほうで、こちらを見ている。
目が合った。
ゲルダは、何も言わなかった。ただ、一度だけ、うなずいた。
それから、背を向けて歩いていった。小さな背中が、人のあいだに紛れて見えなくなった。
カルスは、荷台に板を戻そうとしていた。
村長が、ため息をついた。
「先に決めときゃ、ええのになあ」
誰にともなく、そう言った。
「刈り入れの前にわかっとりゃ、足りんときに手が打てる。麦を売るなり、借りるなり、やりようはあるんだ。刈っちまってから言われたんじゃ、どうにもならん」
「……わしにゃ、決められんのです」
カルスが言った。板を、胸に抱えている。
「決めるのは、旦那様です。わしは、書いてあるとおりに渡して、書いてあるとおりに集める。それだけの役で」
村長は、それきり黙った。
言っても、しかたがないと思ったのだろう。
ノエは、村長を見た。それから、カルスを見た。
紙は、動かない。
そこに書いてあることは、村長が唱える文句と同じで、三代でも変わらない。誰が怒っても、誰が謝っても、七行はそのままだ。
なら、と思った。
こっちも、紙を出せばいい。
「あの」
ノエは、カルスに声をかけた。
「旦那様は、どこにいるんですか」
「ヴェルダに」
カルスは、街道の南のほうを見た。
その先には、麦を刈ったあとの畑と、木の門と、坂しかない。
「歩けば十日。荷馬車なら、五日ってところですかね」
ノエは、うなずいた。
それから、言った。
「手紙を書いたら、届けてもらえますか」
◇
カルスが、こちらを見た。
村長が、こちらを見た。
残っていた女房連中も、みんなこちらを見ていた。
誰も、何も言わない。
ノエは、少し不安になった。
変なことを言っただろうか。手紙というのは、遠くにいる人に用があるときに出すものだと思っていた。
「……手紙」
村長が、そう言った。
「うちの村から、手紙をかね」
「だめですか?」
「だめではない。だめではないが」
村長は、顎を撫でた。
「出したことが、ない」
三年のあいだ、この村から出た手紙は、一通もなかった。
書ける者がいなかったからだ。
カルスが、頭巾のふちを引っ張った。
「……届けますよ」
小さい声だった。
「うちの旦那様は、字を読みます。読んで、返事も書く人です」
それから、少しだけ笑った。
「わしより、そういうのは、ずっと上手い」
◇
村長が、ノエを見た。
顎を撫でて、しばらく考えていた。
「……ノエ」
「はい」
「やってみるかね」
「はい」
「うまくいくとは、思っとらんよ」
「はい」
「だが、まあ」
村長は、そこで言葉を切った。
それから、もう一度、顎を撫でた。
「やってみなさい」
◇
「二日、待ちます」
カルスが言った。
ノエは、顔を上げた。
「二日です。それより長くは、待てません。次の村に行かなならんので」
カルスは、荷馬車の幌に手をかけた。
「三日目の朝に、門のところへ来ます。書けてたら、預かります。書けてなかったら、そのまま行きます」
「……はい」
「それと」
カルスは、頭巾をかぶり直した。
「わしは、村の外で寝ます」
村長が、口を開いた。
「カルスさん。納屋は、いつもどおり」
「今年は、いいです」
カルスは、馬の首を撫でた。
「野宿は慣れとります。この時期なら、まだ凍えやしません」
撫でながら、誰のほうも見なかった。
◇
その夜、家の中は静かだった。
ヨナスは、粥を三度おかわりした。いつもは二度のおかわりしかしないのに。何も言わずに、匙を動かし続けていた。
マイラは、卓につかなかった。
竈の前にしゃがんで、小さい鍋を火にかけている。
棚から、乾かした霧草を出した。束のまま、梁から吊るしてあるやつだ。
夏に採ってきたときは、葉の裏が白く曇っていた。細かい毛に露が溜まって、遠目には、その一株のまわりにだけ霧がかかって見える草だ。
乾くと、その白さはどこかへ行ってしまう。葉は縮れて、色が抜けて、指で揉むと粉になる。
マイラは、その粉を手のひらの上でひとつまみ量った。
湯に落とすと、しゅ、と音がした。
すぐには色が出ない。しばらくして、鍋の底のほうから茶色が上がってくる。上がりきると、湯は濁って、底が見えなくなった。
匂いが、土間に広がった。
苦い匂いだ。三年間、この家は毎晩この匂いがしている。
マイラは、木の椀に注いだ。
縁の欠けた椀だ。ノエがいつも同じところに口をつけるので、そこだけ角がとれて、白くなっている。
卓の上に、ことん、と置かれた。
湯気が、まっすぐ上がっていく。
「飲みな」
ノエは、椀を見ていた。
手を、出さなかった。
湯気が、少しずつ細くなっていく。
マイラは、何も言わなかった。
鍋を火から下ろして、洗い場のほうへ持っていった。
それきり、こちらを見なかった。
◇
ヨナスが、匙を置いた。
「明日、どうする?」
ノエは、卓の木目を見ていた。
「ボルドさんとこ、行く」
洗い場の音が、止まった。
「あの人は、今日──」
「わかってる」
ノエは、母のほうを見なかった。見ることができなかった。
「鍬のことは、あの人しか知らないから」
マイラが、こちらへ来る気配がした。
「じゃあ、母さんが一緒に──」
「一人で行く」
声が、思ったより大きく出た。
自分でも驚いて、ノエは口を閉じた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
ヨナスが、匙を取って、また粥をすくった。もう鍋は空のはずだった。
マイラは、何も言わずに洗い場へ戻っていった。
水の音が、さっきより荒かった。
◇
夜中に、目が覚めた。
外は暗い。父のいびきが聞こえている。
ノエは、寝床から出た。
卓の上に、椀がそのまま置いてあった。
湯気が出ているか、出ていないかの違いしかなかった。母は、いつもすぐに片づけたがる人なのに。
ノエは、それを両手で持った。
口をつける。
冷めた霧草は、苦みだけが残る。いつもは湯気で飛んでいたものが、全部そこにいる。喉の奥に、粉っぽいものが引っかかった。
ノエは、それを全部飲んだ。
椀の底に、細かい葉のかすが溜まっていた。
洗い場に、椀を伏せて置いた。
◇
戸を開けると、外は思ったより明るかった。
月が出ている。息が、白かった。
ノエは、村の道を歩いた。
どの家も、灯りが落ちている。
その先に、ボルドの家がある。
窓から、灯りが漏れていた。
中で、木を削る音がしている。しゅっ、しゅっ、と規則正しい。柄をすげ替えているのかもしれない。
ノエは、しばらくその音を聞いていた。
昼のことを、思い出す。
──畑にも出られん子どもが、そんな紙ばっかり読みやがって。
そう、言った人だ。
でも、手紙を書くのに、この人の話を聞かないで書くことなんてできない。
ノエは、手を握った。冷たくなっていた。
それから、戸を叩いた。
◇
削る音が、止まった。
足音が近づいて、戸が開く。
中の暖かい空気と、削りかすの匂いが、一緒に流れ出してきた。
出てきたボルドは、ノエを見て、目をそらした。
額の布は、もう貼っていない。たんこぶの跡が、うっすら残っている。
「……なんだ」
ノエは、息を吸った。
「聞かせてください」
「あ?」
「ボルドさんの、鍬のことです」
ボルドが、まばたきをした。
「何をだ」
「全部です」
ノエは、そう言った。
「ボルドさんの言葉で、聞かせてください」
8/23 改訂① ボルドの言葉に対するノエの反応を修正




