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6話

 翌朝、ゲルダが畑に出てきた。


 村の者が、みんな手を止めた。


 ゲルダが畑に出るのは、旦那が死んでから初めてだった。もう出ないのだろうと、誰もが思っていた。


 小さな体で、藁束を抱えている。


 抱えきれずに落として、拾って、また落とした。


「ゲルダさん」


 一人が駆け寄る。


「いいんだよ。あたしのぶんくらい」


「そうじゃなくて。あの、大丈夫かい」


「大丈夫だよ」


 ゲルダは、そう言って笑った。


「うちの子がね。木を切ってるんだって」


◇


 昼までに、村じゅうが知っていた。


 ゲルダが会う人ごとに話したからだ。同じ話を、何度もした。


 木を切っている。体は丈夫だ。二人とも元気かと書いてある。それから、種まきを手伝いに来ると。


 そのたびに、聞いた者はノエのほうを見た。


 ノエは、藁を束ねる紐を運びながら、そのたびに目を伏せた。


 何と言えばいいのか、わからなかった。


◇


 その日の夕方、セルグが走ってきた。


「ノエ! ノエ! いるか?」


「いるよ」


 息を切らしている。大きな鼻が、赤くなっていた。


 差し出されたのは、紙きれだった。


 手のひらほどの大きさで、端がちぎれている。角が丸くなるほど手垢がついていた。


「読んでくれ」


 ノエは、それを受け取った。


 文字は三つ。あとは破れている。


「……じょう、とう。あさ、に、たん」


「なんだって?」


「上等な麻が、二反。たぶん、荷札です」


 セルグが、口を開けた。


「荷札」


「うん」


「それだけか」


「……うん」


 ノエは、少しだけ悪いことをした気分になった。


 ところが、セルグはにやりと笑った。


「そうか。上等だったのか」


「え?」


「三年前に行商人から買った布だ。上等かどうか、ずっと女房と揉めててな」


 セルグは、紙きれを大事そうに畳んで、懐に入れた。


「これでおれの勝ちだ」


 笑い声の尾を引いて、セルグは走って帰っていった。


 ノエは、その背中を見送った。


 あの三文字に、そんな使い道があるとは思わなかった。


◇


 次の日は、村長が来た。


 布に包んだものを、両手で抱えている。


 聖典だった。


「読めるかね」


「わかりません。やってみます」


 村長の家の卓に、それが置かれた。


 革の表紙は、あちこちが擦り切れていた。開くと、紙が厚くて硬い。本の家の本とは、まるで手ざわりが違った。


 村長は、迷わずある頁を開いた。


 右のはしに、茶色いしみがある。角が少し折れている。


「毎年、祭りで唱えるのが、ここだ」


「読めるんですか」


「読めん。名前は書けるが、それだけだ」


 村長は、頁に手を置いた。


「親父から、口で教わった。親父も、その親父から教わったそうだ。しみを目印にして、ここを開いて、おぼえた通りに唱える。それだけだよ」


 ノエは、その頁を見た。


 文字は、暦と同じ角ばった形だった。ただ、大きい。一頁に入っている量が少ない。


 行の並びに、見おぼえがあった。


 本の家で見つけた、あの本と同じだ。行が短くて、右のほうが大きく空いている。


 声に出したら、たぶん、気持ちがいい。


 ノエは、指でなぞりながら読んだ。


「ええと。……つぎに、しるすのは」


 村長の肩が、跳ねた。


「なんぶの、いいつたえ、で……ある」


 顔を上げると、村長が口を開けていた。


「……それは」


「はい」


「それは、祭りで唱える文句だ」


 村長は、身を乗り出した。


「わしが唱えるのと、そっくり同じだ。音が、同じだ」


「……そうですか」


「そうだとも。三代、そのままだ」


 村長は、しばらく満足そうにうなずいていた。


 それから、動きが止まった。


「ノエ」


「はい」


「今、なんと言った?」


 ノエは、もう一度読んだ。


「次に記すのは、南部の言い伝えである」


 村長の口が、ゆっくり閉じた。


「……それは、どういう意味だ?」


「たぶん、この先に書いてあることの、前置きです。ここまでが前置きで、次の頁からが本文なんだと思います」


 村長は、天井を見た。


 しばらく、そうしていた。


「豊作の祈りだと、聞いておった」


「……」


「親父も、その親父も、そう言っておった」


 ノエは、黙っていた。


 村長は、聖典を布で包み直した。包みながら、二度、包み直した。


「ノエ」


「はい」


「これは、誰にも言わんでくれ」


「言いません」


「頼む」


 帰り道、ノエは考えていた。


 音は、変わっていなかった。三代のあいだ、誰も間違えずに伝えていた。


 変わったのは、意味だけだ。


 読める者が一人もいなかったから、意味だけが、途中でどこかへ落ちたのだろう。


◇


 三日目には、女房連中が来た。


 卓を囲んで、紙も何も出さずに座っている。


「ノエちゃん。あんた、なんでも読めるんだって?」


「読めないのもあります」


「じゃあ聞くけどね。去年の秋、うちの人が、豚を売った金をどうするって言ってたか、おぼえてる?」


 それは、字とは関係がなかった。


「屋根を直すって言ってました」


「ほらごらん!」


 女房連中が、いっせいに騒いだ。


 ノエは、麦茶を出されて、そのまま一刻ほど帰してもらえなかった。


◇


 四日目には、誰も来なかった。


 五日目も、六日目も。


 ノエは、また本の家へ通い始めた。


 夏のあいだと同じ道を、同じ歩幅で歩く。ただ、行きも帰りも、日の位置が低くなっていた。


 その道の途中に、ゲルダの家がある。


 戸口に、ゲルダはいなかった。


 畑に出ているらしい。刈り入れのあとの片づけがある。麦を干して、藁を束ねて、畑を起こす。ゲルダの手には重すぎる仕事のはずだが、毎日出ているという。


 木の箱が、どこに置かれているのかは知らない。


 もう、膝の上には出ていなかった。


◇


 七日目の帰り道で、ノエは足を止めた。


 ――読むものが、ない。


 村にあるのは、暦が一冊。村長の家の聖典が一冊。行商人の荷札が何枚か。


 それで全部だった。


 考えてみれば、当たり前だ。紙は高い。買っても、読める者がいない。だから誰も買わない。


 読める者ができたところで、読むものがなければ、何も起こらない。


 ノエは、そのまま家まで歩いた。


◇


 その夜、井戸のそばで、母の声が聞こえた。


 隣の家の女房と話している。ノエは、家の陰で足を止めた。


「聖典だよ、聖典。村長さんとこの」


「へえ」


「あの子が読んだんだ。村長さんが目を丸くしてさ」


 母の声が、いつもより高い。


「なんて書いてあったんだい」


「知らないよ。そこは言えないんだと」


「なんだいそれ」


「男の約束だってさ」


 女房が笑った。母も笑った。


 ノエは、そのまま家の裏へ回って、しばらく壁にもたれていた。


 母は、あの手のことも、暦のことも、一度も褒めなかった。


 褒めないだけだった。


◇


 次の日も、ノエは本の家へ行った。


 高窓の光が机のはしに届いたら昼で、床の真ん中まで下りたら帰る。


 その時間が、日ごとに短くなっていた。蔦の葉が、赤くなり始めている。窓をふさいでいた葉が、風のたびに落ちていく。


 秋だった。


 棚には、まだ読んでいない本がいくらでもあった。


 読むものは、ここにはある。


 でも、ここにあるものは、全部、ノエ一人のためのものだ。


 誰かのために読んだのは、あの一枚きりだった。


 帰り道、また、ゲルダの家の前を通る。


 戸口は空いている。


 ノエは、そこを通り過ぎるのが、少し寂しかった。


◇


 半月ほど経った昼過ぎだった。


 村の門のほうから、車輪の音がした。


 ごろごろ、ごろごろ。石を噛むたびに、木が軋む。


 ノエは、畑の隅で顔を上げた。


 荷馬車だ。


 幌をかけた荷馬車が、痩せた馬に引かれて、ゆっくり坂を上ってくる。御者台に、赤い頭巾の男が座っていた。


 行商人だった。


 年に二度。春と、秋に来る。


 村じゅうが、道へ出た。


◇


 行商人は、カルスといった。


 もう十年、この街道を回っているらしい。赤い頭巾は遠くからでもわかるように、というのが本人の言い分だった。


 その日、村の広場は市になった。


 塩。鉄の釘。針と糸。染めた布。焼き物の壺。荷台から下ろされるたびに、女房連中が声を上げる。


 値切られると、カルスはいちいち大げさに困った顔をした。眉を八の字にして、頭巾を脱いで、髪をかき回す。それから、少しだけ負ける。


 子どもが荷台を覗きこんでも、追い払わなかった。袋の底に溜まった割れ飴を、一つずつ握らせている。


 ゲルダにも、声をかけていた。


「今年は、ずいぶん顔色がいいですね?」


「おかげさまでね」


「そりゃよかった。──布は見ていかんのですか」


「見るだけならね」


 ノエは、少し離れたところで見ていた。


 人が多いところは苦手だ。それに、買うものもない。


◇


 取引が終わりかけたころ、カルスが荷台の奥から板を出した。


 板に、紙が挟んである。


「今年のぶんです。ここに、印を」


 村長が、ボルドを呼んだ。


 鍬の刃を借りているのはボルドだからだ。去年も一昨年も、印を捺したのはボルドだった。


 ボルドが、親指を舐めて、灰をつけて、紙のはしに押しつけた。


「毎度どうも」


 カルスが、板を戻そうとした。


 そのとき、村長が言った。


「そういえば、去年はどう決めたかね」


 ボルドが、首をひねった。


「麦で払うって話だったろう」


「それは知っとる。いくらでだった?」


「……いくらだったかな」


 ボルドが、村長を見た。村長も、ボルドを見た。


 ボルドの手が、腰の後ろで組まれた。それから、組み直された。


 その指が、動いていた。


 ノエは、それを見ていた。


 誰も、答えられなかった。


 ノエは、前に出た。


「読みます」


 カルスの手が、一瞬、止まった。


◇


 板が、ノエに渡された。


 紙は、思ったより小さい。行が七つしかなかった。


 ノエは、一行ずつ、指でなぞって読んだ。


 二行目で、指が止まった。


 もう一度、最初から読んだ。


 同じだった。


 顔を上げる。


 村長が待っている。ボルドも、女房連中も、みんなこちらを見ていた。


 カルスだけが、荷台の縁に手をかけて、別のほうを向いていた。


「……麦は、先に渡すことになってます」


 ノエは、そう言った。


 声が、思ったより小さかった。


「値は、次にこの人が来たときに、決める、と」


 誰も、何も言わなかった。


 さっきまで響いていた女房連中の声が、いつのまにか止んでいる。


 ボルドが、自分の親指を見た。


 灰が、まだついていた。


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