5話
刈り入れが終わった日の夕方だった。
朝から村じゅうが畑に出ていた。刈って、束ねて、立てて干す。それを日が暮れるまで繰り返す。
麦のけさきが首筋に入って、みんな一日中そこをかきむしっていた。掻いた跡が赤く筋になっている者もいた。
ノエは、落ち穂を拾う係だった。
腰を折って歩くだけの仕事だ。子どもと年寄りの仕事でもある。みんなが落としていったものを、後ろから拾って歩く。
それでも、夕方には腕が上がらなくなった。
家に帰って、井戸の水で顔を洗って、そのまま座りこんだ。
ヨナスが隣に来た。汗と土の匂いがした。
「読めるようになったのか」
「まだ半分」
「半分か」
「うん」
ノエは、膝を抱えた。
「……半分だと、だめかな」
ヨナスは、すぐには答えなかった。
空を見ていた。
それから、立ち上がった。
「俺も行く」
「え」
「明日じゃない。今から行く」
ヨナスは、家の中へ入って、上着を取ってきた。
なんで、とノエは聞かなかった。父も、なんで、とは聞かない人だ。
ノエは、懐の片眼鏡に手をやって、そのまま卓の上に置いた。
持っていっても、しかたがない。あれをかけて読めるのは、本の家の文字だけだ。
ゲルダの紙は、暦と同じ文字で書かれている。
――自分の目で読むしかない。
◇
ゲルダの家の戸は、開いていた。
中は暗い。灯りをつけていないらしい。ゲルダは、いつもの場所に座っていた。
「おや。ヨナスさんと、ノエかい」
「夜分にすみません」
ヨナスが頭を下げた。ノエも同じように下げた。
「うちの息子が、字を読めるようになりまして」
ゲルダの顔が、動かなくなった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
外で、虫が鳴いていた。
「……そうかい」
ゲルダは、そう言って笑った。
「そりゃ、たいしたもんだ」
それだけだった。
立ち上がる気配も、箱を取りに行く気配もなかった。
ノエは、そこで気づいた。
――こわいんだ。
三年待って、今さら、中身を知るのが。
グッと喉元に力が入った。ひるんだ心が足にまで伝わって、震えが走る。
それでも、ノエは一歩前に出た。
「ゲルダさん」
「なんだい」
「まちがえるかもしれません」
ゲルダが、顔を上げた。
「半分しか読めません。知らない言葉が出てきたら、飛ばします。まちがえたら、まちがえたって言います」
ノエは、そこで息を吸った。
――自分もこわい。でも、ゲルダさんは、今までそんなこわさを抱えて生きてきたんだ。三年間、ずっと。いっしょにこわがってくれる人がいなくなってからも。
おなかに力が入る。いま、心の底からの言葉を渡している。そう思った。
「それでもよかったら、読ませてください」
虫の声が、やけに大きく聞こえる。
ゲルダは、しばらくノエを見ていた。
それから、ゆっくりと立ち上がって、奥へ入っていった。
戻ってきた手に、木の箱があった。
卓に置くとき、ゲルダが言った。
「言っておくけどね。これは、ドランの字じゃないよ」
「え?」
「町の人に書いてもらったんだって。運んできた行商人がそう言ってたんだ」
ゲルダは、蓋に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
「金を払って、書いてもらうんだそうだ。あの子にゃ、高かったろうにねえ」
◇
灯りをつけた。
卓の上で、布がほどかれる。
皺の寄った手が、紙を広げた。折り目のところが毛羽立って、白くなっている。
ノエは、灯りを紙のそばへ引き寄せた。
文字が、そこにあった。
角ばった形。線が短く切れていて、点が多い。
――読める。
そう思った瞬間、指の先が冷たくなった。
ここで間違えたら、この人は、ずっとこれを開くことになる。
息を吸った。吸ったつもりだったが、あまり入らなかった。
一行目に、読めない言葉があった。
ノエは、そこを飛ばした。
「──父、母、へ」
ゲルダの肩が、小さく動いた。
ノエは、指で文字を追った。一つずつ。声に出すと、音になる。
「私は、毎日、元気に……」
次の言葉で詰まった。
形は追える。音も出る。でも、意味が結ばない。
ノエは、もう一度、最初から音を出した。
「き。を。き……木を、切っています」
「木を」
ゲルダの声だった。
「木を切ってるのかい、あの子は」
「そう、書いてあります」
「そうかい。……木を、切ってるのかい」
ゲルダは、それを二回言った。
ノエは、次の行へ進んだ。
「二人とも、元気で、いますか」
言ってから、しまった、と思った。
旦那さんは、去年の秋に死んでいる。
この紙が届いたのは、三年前だ。だから、そこには二人と書いてある。
ノエは、顔を上げられなかった。
紙の上の文字が、急ににじんで見えた。灯りのせいではなかった。
ゲルダの手が、卓の上で組まれていた。皺の上に、灯りの影が落ちている。
「……いいんだよ」
ゲルダが言った。
「あの子は、知らないんだから」
ノエは、うなずいた。
うなずいてから、袖で目のふちを拭いた。
拭いてから、次の行を読んだ。
「来年の、種まきは、手伝いに、いきます」
◇
誰も、何も言わなかった。
種まきは、手紙が届いてから、もう三度過ぎている。
三度とも、ドランは来なかった。
灯りの芯が、ぱち、と音を立てた。
ゲルダは、紙を見ていた。目は動いていなかった。三年間そうしてきたのと、同じ顔だった。
ヨナスが、咳ばらいをした。
「──あの、なんだ」
ノエは、父を見た。
ヨナスは、卓のほうを見ていなかった。壁の、何もないところを見ていた。
「町ってのは、遠いんですよ」
ゲルダが、顔を上げた。
「俺も、元の村から出るのに、三年かかりました。荷造りに三年です。それも、たかだかここまでで」
言葉が、順番になっていなかった。
「木を切る仕事ってのは、山に入っちまうと、季節が終わるまで下りてこられない。そういうもんです。うちの兄貴の知り合いが、そうでした」
ヨナスは、そこで一度、言葉を切った。
「……だから、来ないってのは、来られないってことです。来る気がないってのとは、違います」
ゲルダは、うなずいた。
うなずいたが、目は紙の上から動かなかった。
ヨナスが、また口を開いた。
「あと、その」
声が、少し詰まった。
「悪い知らせってのは、放っといても来るもんです」
ゲルダの肩が、動いた。
「うちの親父が死んだとき、俺は隣の領で働いてました。三日で届きましたよ。誰にも頼んでないのに、勝手に届くんです。そういうもんです」
ヨナスは、そこで初めて、ゲルダのほうを向いた。
「三年、何も来てないんでしょう」
ゲルダが、顔を上げた。
「何も来てないってのは、何もないってことです」
最後のところで、声が少し大きくなった。
ゲルダは、うなずいた。
もう一度、うなずいた。
それから、何度もうなずいた。うなずきながら、袖で顔を押さえた。
ノエは、それを見ていた。
父の話は、順番がめちゃくちゃだった。荷造りに三年かかるはずがないし、兄貴の知り合いの話なんて、ノエは聞いたこともない。
半分は、たぶん嘘だ。
辞典には、正しい言葉が書いてある。文法の本には、正しい並べ方が書いてある。ノエは、それを毎日読んでいる。
父は、そのどちらも知らない。
――それなのに、届いている。
◇
しばらくして、ゲルダが顔を上げた。
「ノエ。まだ、あるのかい」
「あります」
ノエは、紙の下のほうを指した。
本文から少し離れて、二行あった。
「かあさん、とおさん」
ゲルダが、身を乗り出した。
「かあさん、とおさん。……もう一回、同じことが書いてあります」
「同じ?」
「同じです。でも──」
ノエは、紙に顔を近づけた。
上の一行は、本文と同じ字だった。すべりのいい、慣れた手つきの字。
下の一行は、違った。
線が震えている。太さがそろっていない。文字の大きさもばらばらで、最後のほうは、紙のはしにはみ出しかけていた。
「……下のほうが、震えてます」
それだけ言った。
言ってから、うまく言えなかったと思った。
ゲルダが、卓に手をついて、身を乗り出した。
顔を、紙に近づける。
しばらく、そのままだった。
それから、震えている一行のほうへ、指を伸ばした。
触れるか触れないか、というくらいの置き方だった。
「……これが、あの子かい」
ノエは、答えられなかった。
上の字をなぞって書いたのだろう、ということしか、わからない。誰が書いたかまでは、紙には書いていない。
でも、ゲルダはもう聞いていなかった。
指の先が、震えていた。
ノエは、少しだけ、うれしかった。
こんなときにうれしいと思うのは、悪いことのような気がした。それでも、うれしかった。
◇
帰り支度をしていたときだった。
ノエは、思い出して、振り返った。
「あの。最初のところなんですけど」
「最初?」
「一行目です。読めなかったところ」
ゲルダが、紙を引き寄せた。
ノエは、そこを指した。
「けい、あい……けいあい、する」
音は出た。
出るけれど、言葉にならない。辞典にもなかった。暦にも出てこない言葉だった。
「けいあいする、ちち、はは、へ。……ここだけ、意味がわかりません」
ゲルダが、まばたきをした。
「けいあい」
「はい」
「けいあい……」
ゲルダの目が、少し上を向いた。
それから、ふっと、息が抜けるように笑った。
「ああ。あれだ」
「あれ?」
「元の村にね、芝居の一座が来たことがあるんだよ。ドランが、十くらいのときだ」
ゲルダの声が、さっきまでと違っていた。
「あの子、それを見てから、しばらくそればっかり言っててね。うちの中で、こう、手なんか広げて」
皺だらけの手が、卓の上でぱぁっと広がった。
「けいあいする、かあさん、って。芝居の真似だよ。おかしくてねえ」
ゲルダは、笑った。
声を出して笑った。
「あの子、あれをまだ言うのかい」
ゲルダは、紙の一行目に指を置いた。
「きっと、けいあいするって読むんだよ。それ」
◇
戸口を出るとき、ゲルダがノエを呼び止めた。
「ノエ」
振り返ると、皺の寄った手が、こちらへ差し出されていた。
ノエは、そこに自分の手を預けた。
ゲルダの指が、ノエの指の腹に触れた。
そこで、止まった。
「……あんた、この手」
「枝で、字を書いてたので」
ゲルダは、何も言わなかった。
両手で、ノエの手を包んだ。
乾いた、軽い手だった。あたたかくもなかったし、冷たくもなかった。ただ、しっかりと包まれていた。
「ありがとうねえ」
小さい声だった。
ノエは、何か言おうとした。
言葉は、出てこなかった。
◇
帰り道、ヨナスは何も言わなかった。
ノエも、何も言わなかった。
刈り取ったあとの畑が、月の光で白く見えた。切り株の並びが、どこまでも続いている。
――けいあいする。
声に出さずに、もう一度、言ってみた。
読み方は、ゲルダに教わった。




