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4話

 本の家の椅子は、ノエには高すぎた。


 座ると、爪先が床に届かない。最初の何日かは気になったが、そのうちどうでもよくなった。


 朝、霧草を採る。それから、あそこへ行く。


 ――なんて呼べばいいんだろう?


 村の者は「石の小屋」と言う。ボルドがそう呼んだから、そのまま広まった。


 でも、ノエにとって、あそこは石ではなかった。


 石なら、村の井戸にも積んである。あそこにあって、村にないものは、石ではない。


 だから、心の中でだけ、こう呼ぶことにした。


 本の家。


 村には本が三冊しかない。あそこには、壁いっぱいにある。


 それだけの話だった。


 朝、霧草を採る。それから、本の家へ行く。


 高窓から入る光の筋が、机のはしに届いたら昼だ。床の真ん中まで下りてきたら、そろそろ帰る。


 時を計るものは、それしかなかった。


 毎日、同じ椅子に座った。足をゆらゆらさせながら。


◇


 辞典は面白かった。


 言葉の意味を、言葉で説明してある。知らない言葉を引くと、説明の中にまた知らない言葉が出てくる。それを引くと、また出てくる。


 どこまでも続いた。


 三日目に、ノエは気づいた。


 ――全部、あっちの言葉だ。


 丸い文字で書かれた言葉を、丸い文字で説明している。だから、いくら読んでも、村の言葉には届かない。


 暦は、やっぱり読めないままだった。


◇


 壁にぶつかったまま、十日が過ぎた。


 そのあいだに、森が変わった。


 沢の水がぬるくなった。倒木の橋に苔がついて、渡るときに滑るようになった。本の家までの道の落ち葉が乾いて、踏むとかさかさ鳴る。


 夏が来ていた。


 ノエは、同じ頁を三度読んだ。三度目に、一度目と同じところで詰まった。


 棚の本を、片っ端から抜いて開いてみた。


 どれも丸い文字だった。ここにあるものは、全部そうなのだろうか。


 そのうちの一冊で、ノエは手を止めた。


 中身が、ほかと違っていた。


 行が短い。頁の右のほうが、大きく空いている。同じくらいの長さの行がいくつか続いて、一行あいて、また続く。


 読んでみた。


 意味は、半分もわからなかった。知らない言葉ばかりだった。


 それなのに、声に出すと、気持ちがよかった。


 行の終わりに、似た音が並んでいる。何行かおきに、同じ音が戻ってくる。それを追っていくと、水の上を跳ねる石みたいに、先へ先へと進んでいった。


 ノエは、その頁を三回読んだ。


 意味がわからないものを、いいと感じる。


 そんなことがあるのか、と思った。


 それからは、辞典に詰まると、その本を開くようになった。


 意味は、相変わらずわからない。ただ、声に出していると、頭の中で絡まったごちゃごちゃとした何かが、ほどけてスッキリするような気がした。


 三頁ぶんを読んで、また辞典へ戻る。


 それが癖になった。


◇


 その日は、光の筋が細かった。


 最初は雲かと思った。でも、外に出てみると、空はいつもより晴れているぐらいだった。


 高窓の位置を見上げてみると、蔦の葉が増えているようだった。


 春に初めて来たときは、細い蔓が縁に絡んでいるだけだったのに、それが今や、大きな葉っぱを広げて窓を半分ふさいでいる。


 ノエは、両手で蔦を引っ張った。


 思ったより、硬い。何本かは千切れたが、太いものはびくともしなかった。息が上がって、途中で座りこんだ。


 それでも、少しは取れた。


 中に戻ると、部屋は少しだけ明るくなっていた。


◇


 次の日、腕が上がらなかった。


 頁をめくるたびに、いちいち引っかかる。本のほうが、読ませたがっていないみたいだった。


 掌は、緑に染まっている。強い緑の匂い。


 蔦の汁だ。桶の水で洗っても落ちない。指の皺のところだけ、濃く残っている。


 日に焼けない手だった。十四年、白いだけの手だった。


 その手が、緑色をしていた。


 ノエは、光にかざして、それを何度も見た。


 色が薄くなるまで、三日かかった。


◇


 戻ってきた光が、床を照らしている。


 ――こんなに散らかってたんだ。


 机の周りだけ、紙が広がったままだった。開いたまま伏せた本。崩れた山。棚に戻す前で止まっている場所。


 ノエは、それを片づけ始めた。


 順番がわかるように並べ直す。立っていると息が切れる。座ってやろうとすると、時間がかかった。光の筋は、床の真ん中まで下りてきていた。


 いちばん下の一冊を持ち上げたとき、間から一枚、滑り落ちた。


 拾い上げて、片眼鏡を当てる。


 ――表だった。


 左と右に、文字が二列。


 左は、丸い形。本の家の文字だ。


 右は、角ばっている。線が短く切れていて、点が多い。


 暦の文字だった。


 ノエは、その紙を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。


 左の一つ目は「ア」と読む。だから右の一つ目も、たぶん「ア」だ。


 次も。その次も。


 一枚の紙に、ぜんぶ書いてある。


◇


 次の朝は、霧が出ていた。


 卓の上で、よそわれた粥から湯気が立っている。ノエは、匙を持つ手を止めた父に言った。


「父さん、暦を貸してほしい」


 ヨナスは、少しのあいだ、匙を持ったままだった。


 それから、棚の奥から布包みを出して、卓の上に置いた。


「なんで、って聞かないの?」


「聞いてほしいのか」


「……ううん」


 鍋を洗っていたマイラが、手を止めて振り返った。


 ノエの表情をじっと見ている。


「……濡らすんじゃないよ」


「うん」


「なくすんじゃないよ」


「うん」


「ちゃんと帰ってくるんだよ」


 三つ目だけ、声の調子が違った。


◇


 本の家の机に、暦を広げる。


 表を横に置く。


 左の形を探して、右の形に置き換える。一文字ずつ。指でなぞりながら。


「……し。ゅ。……たね」


 声に出すと、音が出た。


 音は出るのに、意味がわからない。並べても、言葉にならない。


 光の筋が、机のはしに届いた。昼だ。


 ノエは、動かなかった。


 そこで、思い出した。


 去年の春、父がこの暦を膝に置いて、指をこの辺りに当てていた。種を蒔くのはこのころだ、と言っていた。ノエは井戸の脇に座って、それを見ていた。


 ――ここは、種蒔きのことが書いてある。


 わかっているものが、目の前にある。


 もう一度、音を出した。


「たね……まき」


 合った。


 合った、と思った瞬間、背中がぞわりとした。


 ノエは、暦の頁をめくった。


 父がどこを指していたか。行商人が何月に来ると言っていたか。母が祭りの日をいつだと言っていたか。


 全部、おぼえていた。


 おぼえていることと、紙の上の形が、一つずつ繋がっていく。


 繋がるたびに、そこから枝が伸びた。「たね」がわかれば、同じ形を使った別の言葉も見当がつく。見当がついたものを、辞典のほうで確かめる。


 次の一つ。その次の一つ。


 顔を上げたとき、部屋は暗かった。


 高窓の外が、藍色になっていた。


◇


 村の門に、母が立っていた。


 何か言われた気がするが、よくおぼえていない。


 家に入って、卓についた。粥がぬるくなっていた。ひとくち食べた。


 次に気がついたとき、ノエは寝床にいた。


 外はまだ暗い。上に父の上着がかけてあった。


 翌朝、マイラが笑いながら言った。


「あんた、匙を握ったまま寝てたんだよ。父さんが運んでった」


「……ごめんなさい」


「いいよ。粥は食べな。それだけは約束だ」


 次の日も、門に母が立っていた。


 その次の日は、いなかった。


 代わりに、家の戸口に灯りが置いてあった。


◇


 読むだけでは、おぼえきれなかった。


 なら、書けばいい、と思った。


 だが、紙がない。


 本の家の紙は使えなかった。あれは全部、家の持ち主のものだ。それに、机の壺のインクは、とっくに固まって石のようになっていた。


 だから、地面に書いた。


 床の埃。森の落ち葉をどけたところ。家の土間。畑の隅。


 枝を拾って、先を折って、尖らせる。書いて、手のひらで消して、また書く。


 場所によって、書き味が違った。本の家の床はよく滑る。森の土は柔らかすぎて、線が太くなる。畑の隅がいちばん書きやすかったが、そこは夕方になると誰かが通る。


 夏の夕立が来ると、外に書いたものは全部消えた。


 土間なら残った。ただし、朝までに母が踏んだ。


◇


 そうして何日かが経った朝、マイラがノエの手を掴んだ。


「なんだい、その手は」


 ノエは、掴まれたままの自分の手を見た。


 指の腹の皮が、剥けていた。人差し指と中指の付け根に、まめができている。潰れて、また固まりかけていた。爪の間が黒い。


 十四年、何もついていなかった手だった。


「枝で、字を書いてて」


「……字を書くと、手が剥けるのかい?」


「……そうみたい」


 マイラは、しばらくノエの手を見ていた。


 それから、井戸へ行って桶に水を汲んできて、無言でノエの手を洗った。


 朝の水は、冷たかった。


 乱暴だった。しみた。


 桶の水がなくなるまで、母は何も言わなかった。


 ノエは、真剣な母の表情をじっと見つめていた。


◇


 村では、誰にも言わなかった。


 言っても通じないことは、もうわかっている。


 それに、手がかりを掴んだとはいえ、まだほとんど読めていないのだ。


 村は忙しい。


 日が長い季節だから、みんな朝も夕方も畑に出ている。井戸の順番でボルドとセルグが言い合いをして、村長が仲裁に入ったらしい。マイラは、その話を夕食のときにした。三日間も続けて。


 誰も、ノエが毎日何をしているかは聞かなかった。


 東の森へ行っている。村の者にとっては、それで全部だった。


◇


 麦が色づき始めるころには、暦の半分が読めるようになっていた。


 本の家への道は、行きも帰りも明るい。日が長いというのは、そういうことだった。


 その道の途中に、ゲルダの家がある。


 ゲルダは、たいてい戸口に座っている。膝に木の箱をのせている日もあれば、のせていない日もあった。


 ノエは、その前で足を止めそうになって、やめる。


 まだ言えなかった。


 まだ、暦の半分も読めない。半分は読めても、残りを間違えたら、どうなるだろう。


 あの紙は一枚しかない。ゲルダは三年、それを開いている。


 間違えて読んだら、取り返しがつかない。


 だから、ノエは歩いた。歩きながら、いつも同じことを考えた。


 ――早く。


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