3話
日が、森の端まで落ちていた。
ノエは走れない。だから、いつもの帰り道が、いつもより長く感じた。
背負い籠は、ほとんど空だ。霧草は三株しか採れていない。あの岩を猪に掘り返されたのだから、しかたがない。
その代わりに、胸の前で布のかたまりを抱えていた。
万年筆と、片眼鏡。
両手で押さえて歩いた。転んだら割れる。転ばないように歩いていると、余計に遅くなった。
村の灯りが見えたころには、空はもう紫色になっていた。
――そして、木の門の前に、母が立っていた。
腕を組んでいる。太い腕には筋が浮いていた。
「ノエ」
声が、低い。
「……ただいま」
「どこ行ってたんだい」
「東の森」
「知ってるよ。日が暮れてるって言ってんだ」
マイラが、大股で歩いてくる。
ノエは、思わず布のかたまりを抱きしめた。
殴られるのかと思った。そうではなかった。
母の手が伸びてきて、ノエの頬を包んだ。ざらついた、あたたかい手だった。
「冷えてるじゃないか」
「……うん」
「ばか」
マイラは、ノエの背負い籠を引ったくるように取り上げると、さっさと家のほうへ歩き出した。
中身が三株しかないことには、何も言わなかった。
◇
夕食は、麦の粥と、塩漬けの豆だった。
ヨナスは、木の匙を口へ運びながら、ノエの話を聞いていた。
石の段があったこと。塚だと思ったら建物だったこと。中に本が、壁いっぱいにあったこと。
「壁いっぱいって、どのくらいだい?」
マイラが、鍋をかき混ぜながら聞いた。
「この家より、ずっと多い」
「そりゃ、この家に本は一冊もないからね」
もっともだった。
「それで、拾い物を勝手に持ってきたわけだ」
マイラの目が、卓の上の布のかたまりへ向いた。
「持ち主がいたらどうすんだい」
「たぶん、いないよ」
「たぶんじゃ困るんだよ」
ヨナスが、匙を置いた。
「明日、村長さんに言っておけ」
それだけ言って、また粥をすくった。
マイラは何か言いかけて、やめた。
◇
ノエは、布をほどいた。
万年筆と、片眼鏡が、卓の上に転がる。
ランプの炎で、細かい彫り模様が浮かび上がる。片眼鏡をそっと持ち上げると、レンズの向こうの世界が淡く揺らめいている。落ち葉の色を、水に溶かして薄めたような色。
「これ、かけると、文字が読めるんだ」
二人が、顔を上げた。
マイラの手が、鍋の縁で止まっている。
「……なんだって?」
「文字が、読めるんだ」
言いながら、ノエは自分の声が少し上ずっているのに気づいた。
ヨナスが、立ち上がった。
棚の奥から、布に包んだものを持ってくる。開くと、綴じられた数枚の紙だった。
暦だ。
この家にある、たった一冊の本。ヨナスが元の村を出るときに買った。種を蒔く時期と、祭りの日と、月の満ち欠けが書いてあるらしい。らしい、というのは、ヨナスも読めないからだ。
卓の上に置かれた。
「読んでみろ」
ノエは、片眼鏡を目に当てた。
紙を見る。
……。
もう一度、当て直した。
文字が、そこにあった。
だが、立ち上がってこない。音にならない。ただの形のまま、紙の上に寝ている。
ノエは、片眼鏡を外して、また当てた。
同じだった。外す。当てる。同じ。
「……あれ」
「どうした」
「読めない」
ヨナスが、暦を覗きこんだ。
「読めないのか」
「読めない。本の家にあったのは、読めたのに」
声が、だんだん小さくなった。
ノエは、暦に顔を近づけた。
本の家の紙に並んでいた文字は、丸い形が多かった。輪をつなげたような、途切れない形。
暦の文字は、角ばっている。線が短く切れていて、点が多い。
――違う。
でも、似ている。
どこが似ているのか、ノエには言えなかった。目の端で、同じ親から生まれたもののように見える。それだけだった。
マイラが、ふっと息を吐いた。
それから、腹を抱えて笑い出した。
「あんた、それ、ただの丸い硝子だよ!」
「ちがうよ! 読めたんだよ、ほんとうに!」
「はいはい」
「読めたんだって!」
ノエは卓を叩いた。叩いてから、自分でも珍しいことをしたと思った。
マイラは笑いながら鍋を火から下ろし、ヨナスは暦を布に包み直している。
ノエだけが、片眼鏡を握りしめて座っていた。
読めた。たしかに読めた。
あの部屋の紙は読めて、この暦は読めない。
何が違うんだろう。
答えは出なかった。答えが出ないというのは、ノエにとって、あまりない感覚だった。
◇
夜になって、ノエは水を汲みに外へ出た。
井戸の縁に腰かけて、空を見ていた。星が出ていた。眠る気になれなかったのだ。
戸の開く音がした。
ヨナスが出てきて、隣に立った。何も言わずに、しばらく同じ方を見ている。
それから、空を見たまま言った。
「読めるのか」
ノエは、父を見上げた。
「読めた」
「そうか」
それだけだった。
ヨナスは、ノエの頭に一度だけ手を置いて、家の中へ戻っていった。
厚くて、硬くて、重い手だった。
ノエは、しばらく井戸の縁に座っていた。
父は、どこも疑わなかった。本当か、とは聞かなかった。
それだけのことなのに、なぜか、目のふちが熱くなった。
◇
翌朝、村長の家へ行った。
村長は聞き終わると、しばらく顎を撫でていた。
「東の谷の向こう、なあ」
「はい」
「そりゃ、領主様の土地だなぁ」
ノエは、背筋を伸ばした。もう、行ってはいけないのだろうか。
「まあ、あんな場所だ」
こわばるノエの表情を尻目に、村長は、軽く手を振った。
「誰も見に行きゃせんよ。壊さなきゃ、好きにしなさい」
それだけだった。
◇
村の中では、話は昼までに広がった。
広めたのはノエではない。村長の女房である。
「石の小屋?」
ボルドが、額に貼った布をずらしながら聞き返した。たんこぶは、まだ残っているらしい。
「崩れて生き埋めになるぞ」
「崩れてないよ! 屋根も落ちてないし……」
「そりゃ、今はな」
ボルドは肩をすくめた。
「で、中に何があった」
「本が、いっぱい」
「本だぁ?」
ボルドが、腰に手を当てた。
しばらく、目をぱちぱちさせていた。それから、ああ、という顔をした。
「紙か」
「うん」
「火口にはいいかもしれんな」
ノエは、口を開けた。
開けたまま、何も言えなかった。
ボルドに悪気はない。いつものことだ。あの部屋の紙を、火をおこすのに使えると言っただけで、それ以上のことは何も考えていない。
実際、あれは紙だ。乾いている。よく燃えるだろう。
それはそう。まったくその通りだと思う。
ただ、うまく飲みこめなかった。
あの糸の目のそろった綴じ。角を折りこんで貼った表紙。背に振られた印。
あれを、火口に。
「まあ、あんな谷の向こうまで取りに行くやつはおらんがな」
ボルドは笑って、畑へ戻っていった。
ノエは、しばらくその場に立っていた。
そして、本の話はもうしないでおこう、と思った。
誰かが悪いわけではない。ただ、通じないだけだ。
◇
家に帰る道の途中に、ゲルダばあさんの家がある。
村でいちばん小さい家だ。三年前、旦那と二人で入植して、その旦那が去年の秋に死んだ。今は一人で暮らしている。
その日、ゲルダは戸口の前に腰かけていた。
膝の上に、木の箱がのっている。蓋が開いていた。
中から布の包みを出して、皺の寄った手で、ゆっくりとほどいている。
ノエは、足を止めた。
包みの中身は、紙だった。
一枚。折り目のところが毛羽立って、白くなっている。何度も開いて、何度も畳んだ紙だ。
ゲルダは、それを膝の上に広げた。
そして、じっと見ていた。
読んでいるのではない。ノエには、それがわかった。目が動いていないからだ。ただ、そこにあるものを、眺めている。
風が吹いて、紙の端がめくれた。
ゲルダの手が、それを押さえた。
「……ノエかい」
顔を上げたゲルダが、慌てて紙を畳み始めた。
「なんでもないよ。なんでもない」
布に包んで、箱に戻して、蓋をした。
それからノエを見て、皺だらけの顔で笑った。
「畑には出ないのかい」
「うん。森に行く」
「そうかい。気をつけてお行き」
ノエは、頭を下げて歩き出した。
三歩ほど歩いて、振り返った。
ゲルダは、まだ箱を膝にのせて座っていた。
◇
あの紙のことは、ノエもおぼえている。
三年前。入植して、まだ家が半分しか建っていなかったころだ。
ゲルダが、家に来た。
布の包みを両手で持って、母に差し出した。マイラはそれを受け取って、開いて、しばらく見ていた。
母の目は、動かなかった。
やがて、マイラは紙を畳んで、ゲルダに返した。そして、何かを言った。ノエには聞こえなかったが、ゲルダはうなずいて、頭を下げて出ていった。
その日、ゲルダは村長の家へ行った。
次の日も、そのまた次の日も、誰かの家の前で頭を下げていた。
秋になって行商人が来たとき、ゲルダは荷馬車の前に立っていた。包みを開いて見せていた。
行商人は、紙をちらりと見て、首を振った。
自分の名前と、数字がわかるだけだ。そう言っていた。
ゲルダは、また頭を下げて、包みを畳んだ。
ノエはそんな姿を、井戸の脇に座って見ていた。畑には出られないから、いつもそこに座っていた。
村中の誰も読めなかった。ノエも読めなかった。読めないということすら、そのころは考えたことがなかった。
あの紙が、息子からのものだということだけは、聞いておぼえている。
開拓に来る前、遠くの町へ働きに出た息子。その一通きり、便りはないという。
帰ってくると書いてあるのかもしれない。もう帰らないと書いてあるのかもしれない。
ゲルダは、そのどちらも知らないまま、三年、あれを開いている。
ノエは、歩きながら、自分の手を見た。
細い。指が長い。爪が薄い。たこは一つもない。
この手は、鍬を持てない。
でも。
◇
その日の午後、ノエは本の家にいた。
机に一番近い棚の前に立って、分厚い本を抜き出す。同じような厚さで、同じような背表紙の本が何冊も並んでいるところの、一冊。
両手で持たないと重い。机まで運ぶのに、二度、休んだ。
椅子に座って、片眼鏡を目に当てる。
革の背表紙には、「官語辞典 三」と書かれている。
頁を開くと、きれいに言葉が並んでいた。
一行に一つずつ。左に短い言葉があって、右にそれを説明する文がついている。それがびっしりと、頁いっぱいに続いていた。
言葉の意味を、言葉で書いたもの。
ノエは、その頁をしばらく見ていた。
それから、次の頁をめくった。
同じだった。次も。その次も。
この一冊、全部が、それだった。
心に火をくべるように、深く息を吸って、吐いた。
――読めるようになりたい。
ノエがそんなふうに思ったのは、生まれて初めてだった。




