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3/52

3話

 日が、森の端まで落ちていた。


 ノエは走れない。だから、いつもの帰り道が、いつもより長く感じた。


 背負い籠は、ほとんど空だ。霧草は三株しか採れていない。あの岩を猪に掘り返されたのだから、しかたがない。


 その代わりに、胸の前で布のかたまりを抱えていた。


 万年筆と、片眼鏡。


 両手で押さえて歩いた。転んだら割れる。転ばないように歩いていると、余計に遅くなった。


 村の灯りが見えたころには、空はもう紫色になっていた。


 ――そして、木の門の前に、母が立っていた。


 腕を組んでいる。太い腕には筋が浮いていた。


「ノエ」


 声が、低い。


「……ただいま」


「どこ行ってたんだい」


「東の森」


「知ってるよ。日が暮れてるって言ってんだ」


 マイラが、大股で歩いてくる。


 ノエは、思わず布のかたまりを抱きしめた。


 殴られるのかと思った。そうではなかった。


 母の手が伸びてきて、ノエの頬を包んだ。ざらついた、あたたかい手だった。


「冷えてるじゃないか」


「……うん」


「ばか」


 マイラは、ノエの背負い籠を引ったくるように取り上げると、さっさと家のほうへ歩き出した。


 中身が三株しかないことには、何も言わなかった。


◇


 夕食は、麦の粥と、塩漬けの豆だった。


 ヨナスは、木の匙を口へ運びながら、ノエの話を聞いていた。


 石の段があったこと。塚だと思ったら建物だったこと。中に本が、壁いっぱいにあったこと。


「壁いっぱいって、どのくらいだい?」


 マイラが、鍋をかき混ぜながら聞いた。


「この家より、ずっと多い」


「そりゃ、この家に本は一冊もないからね」


 もっともだった。


「それで、拾い物を勝手に持ってきたわけだ」


 マイラの目が、卓の上の布のかたまりへ向いた。


「持ち主がいたらどうすんだい」


「たぶん、いないよ」


「たぶんじゃ困るんだよ」


 ヨナスが、匙を置いた。


「明日、村長さんに言っておけ」


 それだけ言って、また粥をすくった。


 マイラは何か言いかけて、やめた。


◇


 ノエは、布をほどいた。


 万年筆と、片眼鏡が、卓の上に転がる。


 ランプの炎で、細かい彫り模様が浮かび上がる。片眼鏡をそっと持ち上げると、レンズの向こうの世界が淡く揺らめいている。落ち葉の色を、水に溶かして薄めたような色。


「これ、かけると、文字が読めるんだ」


 二人が、顔を上げた。


 マイラの手が、鍋の縁で止まっている。


「……なんだって?」


「文字が、読めるんだ」


 言いながら、ノエは自分の声が少し上ずっているのに気づいた。


 ヨナスが、立ち上がった。


 棚の奥から、布に包んだものを持ってくる。開くと、綴じられた数枚の紙だった。


 暦だ。


 この家にある、たった一冊の本。ヨナスが元の村を出るときに買った。種を蒔く時期と、祭りの日と、月の満ち欠けが書いてあるらしい。らしい、というのは、ヨナスも読めないからだ。


 卓の上に置かれた。


「読んでみろ」


 ノエは、片眼鏡を目に当てた。


 紙を見る。


 ……。


 もう一度、当て直した。


 文字が、そこにあった。


 だが、立ち上がってこない。音にならない。ただの形のまま、紙の上に寝ている。


 ノエは、片眼鏡を外して、また当てた。


 同じだった。外す。当てる。同じ。


「……あれ」


「どうした」


「読めない」


 ヨナスが、暦を覗きこんだ。


「読めないのか」


「読めない。本の家にあったのは、読めたのに」


 声が、だんだん小さくなった。


 ノエは、暦に顔を近づけた。


 本の家の紙に並んでいた文字は、丸い形が多かった。輪をつなげたような、途切れない形。


 暦の文字は、角ばっている。線が短く切れていて、点が多い。


 ――違う。


 でも、似ている。


 どこが似ているのか、ノエには言えなかった。目の端で、同じ親から生まれたもののように見える。それだけだった。


 マイラが、ふっと息を吐いた。


 それから、腹を抱えて笑い出した。


「あんた、それ、ただの丸い硝子だよ!」


「ちがうよ! 読めたんだよ、ほんとうに!」


「はいはい」


「読めたんだって!」


 ノエは卓を叩いた。叩いてから、自分でも珍しいことをしたと思った。


 マイラは笑いながら鍋を火から下ろし、ヨナスは暦を布に包み直している。


 ノエだけが、片眼鏡を握りしめて座っていた。


 読めた。たしかに読めた。


 あの部屋の紙は読めて、この暦は読めない。


 何が違うんだろう。


 答えは出なかった。答えが出ないというのは、ノエにとって、あまりない感覚だった。


◇


 夜になって、ノエは水を汲みに外へ出た。


 井戸の縁に腰かけて、空を見ていた。星が出ていた。眠る気になれなかったのだ。


 戸の開く音がした。


 ヨナスが出てきて、隣に立った。何も言わずに、しばらく同じ方を見ている。


 それから、空を見たまま言った。


「読めるのか」


 ノエは、父を見上げた。


「読めた」


「そうか」


 それだけだった。


 ヨナスは、ノエの頭に一度だけ手を置いて、家の中へ戻っていった。


 厚くて、硬くて、重い手だった。


 ノエは、しばらく井戸の縁に座っていた。


 父は、どこも疑わなかった。本当か、とは聞かなかった。


 それだけのことなのに、なぜか、目のふちが熱くなった。


◇


 翌朝、村長の家へ行った。


 村長は聞き終わると、しばらく顎を撫でていた。


「東の谷の向こう、なあ」


「はい」


「そりゃ、領主様の土地だなぁ」


 ノエは、背筋を伸ばした。もう、行ってはいけないのだろうか。


「まあ、あんな場所だ」


 こわばるノエの表情を尻目に、村長は、軽く手を振った。


「誰も見に行きゃせんよ。壊さなきゃ、好きにしなさい」


 それだけだった。


◇


 村の中では、話は昼までに広がった。


 広めたのはノエではない。村長の女房である。


「石の小屋?」


 ボルドが、額に貼った布をずらしながら聞き返した。たんこぶは、まだ残っているらしい。


「崩れて生き埋めになるぞ」


「崩れてないよ! 屋根も落ちてないし……」


「そりゃ、今はな」


 ボルドは肩をすくめた。


「で、中に何があった」


「本が、いっぱい」


「本だぁ?」


 ボルドが、腰に手を当てた。


 しばらく、目をぱちぱちさせていた。それから、ああ、という顔をした。


「紙か」


「うん」


「火口にはいいかもしれんな」


 ノエは、口を開けた。


 開けたまま、何も言えなかった。


 ボルドに悪気はない。いつものことだ。あの部屋の紙を、火をおこすのに使えると言っただけで、それ以上のことは何も考えていない。


 実際、あれは紙だ。乾いている。よく燃えるだろう。


 それはそう。まったくその通りだと思う。


 ただ、うまく飲みこめなかった。


 あの糸の目のそろった綴じ。角を折りこんで貼った表紙。背に振られた印。


 あれを、火口に。


「まあ、あんな谷の向こうまで取りに行くやつはおらんがな」


 ボルドは笑って、畑へ戻っていった。


 ノエは、しばらくその場に立っていた。


 そして、本の話はもうしないでおこう、と思った。


 誰かが悪いわけではない。ただ、通じないだけだ。


◇


 家に帰る道の途中に、ゲルダばあさんの家がある。


 村でいちばん小さい家だ。三年前、旦那と二人で入植して、その旦那が去年の秋に死んだ。今は一人で暮らしている。


 その日、ゲルダは戸口の前に腰かけていた。


 膝の上に、木の箱がのっている。蓋が開いていた。


 中から布の包みを出して、皺の寄った手で、ゆっくりとほどいている。


 ノエは、足を止めた。


 包みの中身は、紙だった。


 一枚。折り目のところが毛羽立って、白くなっている。何度も開いて、何度も畳んだ紙だ。


 ゲルダは、それを膝の上に広げた。


 そして、じっと見ていた。


 読んでいるのではない。ノエには、それがわかった。目が動いていないからだ。ただ、そこにあるものを、眺めている。


 風が吹いて、紙の端がめくれた。


 ゲルダの手が、それを押さえた。


「……ノエかい」


 顔を上げたゲルダが、慌てて紙を畳み始めた。


「なんでもないよ。なんでもない」


 布に包んで、箱に戻して、蓋をした。


 それからノエを見て、皺だらけの顔で笑った。


「畑には出ないのかい」


「うん。森に行く」


「そうかい。気をつけてお行き」


 ノエは、頭を下げて歩き出した。


 三歩ほど歩いて、振り返った。


 ゲルダは、まだ箱を膝にのせて座っていた。


◇


 あの紙のことは、ノエもおぼえている。


 三年前。入植して、まだ家が半分しか建っていなかったころだ。


 ゲルダが、家に来た。


 布の包みを両手で持って、母に差し出した。マイラはそれを受け取って、開いて、しばらく見ていた。


 母の目は、動かなかった。


 やがて、マイラは紙を畳んで、ゲルダに返した。そして、何かを言った。ノエには聞こえなかったが、ゲルダはうなずいて、頭を下げて出ていった。


 その日、ゲルダは村長の家へ行った。


 次の日も、そのまた次の日も、誰かの家の前で頭を下げていた。


 秋になって行商人が来たとき、ゲルダは荷馬車の前に立っていた。包みを開いて見せていた。


 行商人は、紙をちらりと見て、首を振った。


 自分の名前と、数字がわかるだけだ。そう言っていた。


 ゲルダは、また頭を下げて、包みを畳んだ。


 ノエはそんな姿を、井戸の脇に座って見ていた。畑には出られないから、いつもそこに座っていた。


 村中の誰も読めなかった。ノエも読めなかった。読めないということすら、そのころは考えたことがなかった。


 あの紙が、息子からのものだということだけは、聞いておぼえている。


 開拓に来る前、遠くの町へ働きに出た息子。その一通きり、便りはないという。


 帰ってくると書いてあるのかもしれない。もう帰らないと書いてあるのかもしれない。


 ゲルダは、そのどちらも知らないまま、三年、あれを開いている。


 ノエは、歩きながら、自分の手を見た。


 細い。指が長い。爪が薄い。たこは一つもない。


 この手は、鍬を持てない。


 でも。


◇


 その日の午後、ノエは本の家にいた。


 机に一番近い棚の前に立って、分厚い本を抜き出す。同じような厚さで、同じような背表紙の本が何冊も並んでいるところの、一冊。


 両手で持たないと重い。机まで運ぶのに、二度、休んだ。


 椅子に座って、片眼鏡を目に当てる。


 革の背表紙には、「官語辞典 三」と書かれている。


 頁を開くと、きれいに言葉が並んでいた。


 一行に一つずつ。左に短い言葉があって、右にそれを説明する文がついている。それがびっしりと、頁いっぱいに続いていた。


 言葉の意味を、言葉で書いたもの。


 ノエは、その頁をしばらく見ていた。


 それから、次の頁をめくった。


 同じだった。次も。その次も。


 この一冊、全部が、それだった。


 心に火をくべるように、深く息を吸って、吐いた。


 ――読めるようになりたい。


 ノエがそんなふうに思ったのは、生まれて初めてだった。


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