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2話

 昼を過ぎて、ノエは背負い籠を担いで家を出た。


 小さい籠だ。父が使うものの半分もない。重いものは持てないから、これでちょうどいい。一日歩いて、これが一つ埋まれば上出来だった。


 ふつう、村の者が入るのは、西の森である。


 村から近く、地面が平らで、焚きつけもキノコも十分に取れる。誰もがそこへ行く。


 ノエは、東の森へ向かった。


 東の森は谷が深く、沢が二本走っていて、その先は登りになる。半日つぶして戻ってくるだけの場所だ。誰も行かない。


 ――ただ、霧草は、そこにしか生えない。


 手のひらほどの背丈の、細長い葉をした草だ。葉の裏に細かい毛が生えていて、そこに露が溜まると、白く曇って見える。遠目には、その一株のまわりにだけ霧がかかっているように見えた。だから霧草。


 湿った谷筋の、日の当たらない岩のきわ。それ以外の場所で見たことがない。


 入植した年の冬、ノエは原因不明の発熱で三月ほど寝こんだ。そのとき母が、近くの村の年寄りに聞いて回ってこの薬草を知り、東の谷で見つけてきた。以来、毎晩それを煎じて飲ませている。


 煎じると、湯が茶色く濁る。苦い。子どものころは泣きながら飲んでいたが、今はもう慣れた。慣れてしまうと、あれはあれで悪くない味だと思うようになった。母には言っていない。言ったら、たぶん笑われるだろうから。母は、豪快に笑うと、背中を叩く手も荒くなる。


 だから、東の森へ行くのはノエの役目だった。ほかの誰にとっても無駄足になる道を、ノエだけが毎日歩く理由がある。


 距離は、どうとでもなった。


 急ぐ必要がない。疲れたら座ればいい。日が暮れるまでに帰れば、誰も何も言わない。ノエに余っているものがあるとすれば、それは時間だけだった。


◇


 もっとも、東の森が好きなのは、そういう理由ばかりではなかった。


 ノエの暮らす開拓村は、ノエが十一のときにできた村だ。


 父は、元の村では土地を持っていなかった。祖父の畑は伯父が継いで、父に残るものは何もなかった。一生、人の畑を借りて耕す立場だった。それはそれで、暮らしてはいける。


 ただ、ノエに残せるものが何もない。


 開拓地なら、決められた年数に耐えられば、拓いた土地は自分のものになる。


 体の弱い息子に、家と土地を残してやれる。


 父と母は、そのために、開拓団に名乗りを上げたのだ。


 まともに鍬も持てない子を連れて開拓に出るのは無茶だと、村の何人にも言われたらしい。ノエは伯父の家に預けていけ、とも言われたそうだ。


 ――父は、しばらく迷っていたという。


 ――でも母は、一度も迷わなかった。


 そういうわけで、村のものは何もかもが新しい。家も、井戸も、道も、この三年のうちに誰かが作ったものだ。柱に触れば、まだ木の脂が指につく。


 でも、森は違う。


 頭の上で枝が組み合い、そこから落ちてくる光が、地面に丸いまだらを作っている。まだらは風のたびに揺れて、場所を変える。踏んでいる落ち葉は何年分あるのかわからず、足の下でずっと沈み続けているような感触がした。


 この木は、村ができるずっと前からここに立っていたのだ。


 誰も見ていないところで、勝手に大きくなっていた。


 それが、なんだかいいものに思えるのだ。


◇


 その日、谷筋の奥まで入りこんだのは、霧草の場所を一つ駄目にされてしまったからである。


 先月まで採れていた岩のきわが、掘り返されていた。たぶん猪だろう。根から食われていて、来年はきっと、もう生えない。


 ノエはしゃがんで、しばらくその跡を見ていた。


 最初の冬から、ずっと通っていた場所だった。腹が立つというより、あの岩がもう自分と関係のないものになってしまったこと自体を、うまく飲みこめなかった。


 立ち上がって、上流へ向かった。


 一本目の沢を越える。水は冷たく、すねまで浸かると足の感覚がすぐ鈍った。


 二本目の沢に出て、ノエは足を止めた。


 景色が、変わっていた。


 四日前に大雨が降った。三日三晩と降り続いて、母が土間の水を桶でかき出していたやつだ。その雨で、対岸の斜面が大きく崩れていた。


 土が剥き出しになり、根ごと倒れた木が、こちらの岸まで倒れかかっている。太い幹が、ちょうど橋のようになっていた。


 ノエは、しばらくそれを眺めていた。


 この2本目の沢は、いつもは渡れない。水が深いわけではないが、両岸が切り立っていて、下りる場所がなかった。向こう側の話を、村の誰もしない。行ったことがないからだ。


 行ったことのない場所が、目の前にある。


 ノエは、背負い籠を下ろした。


 幹に手をついて、そろそろと渡った。途中で一度、足が滑った。心臓が跳ねて、しばらく幹にしがみついたまま動けなくなった。


 誰も見ていない。それが、ありがたかった。


◇


 対岸は、強い土の匂いがした。


 雨で流された表土の下から、いろいろなものが顔を出している。石。木の根。割れた陶器のかけら。


 ノエはそれらをまたぎながら、斜面を斜めに登った。十歩に一度は止まって息を整える。誰も急かさないので、時間はいくらでもかけられた。


 登りきったところで、足の裏の感触が変わった。


 土ではない、と思った。


 しゃがんで、手で落ち葉を払う。


 ――石だった。


 角が、直線だった。誰かが切り出して、誰かが積んだ石だ。土に埋まっていたものが、雨で洗われて表に出たらしい。上へ向かって、段が五つ、六つ。その先は、まだ土の下だった。


 ノエは、その石を指でなぞった。


 人の手が入ったものが、こんな奥にある。ということは、ここへ来た人がいるということだ。この森が、誰も見ていない場所ではなかったということだ。


 鳥が一羽、頭の上を横切っていった。


 ノエは、石段をのぼった。


◇


 最初、それは塚だと思った。


 斜面のくぼみに、大きな土の盛り上がりがある。表面は一面の蔦に覆われ、上には木が生えていた。大地にもともと根付いていたものではなく、長い年月ぶんの土が溜まって、そこから生えているようだ。


 だから、外から見えるものは何もない。真近まで寄らなければ、ただの斜面だった。


 その正面に、崩れた土砂が扇の形に広がっていた。四日前の雨で、上から落ちてきたものだろうか。そして、土砂が落ちたあとに、隙間ができていた。


 石の枠だった。


 扉の枠だ。長いあいだ土に塞がれていたものを、雨が剥がしていったらしい。


 ノエは、その前でしばらく立っていた。


 入っていいものかどうか、考えた。考えたが、誰に聞けばいいのかわからなかった。この場所を知っている人が村に一人でもいるなら、とっくに話に出ているはずだ。


 息を吸って、扉を押した。


 蝶番が、長い悲鳴を上げた。


◇


 埃が、どっと舞い上がった。


 息を止めて、それが落ち着くのを待つ。


 目を開けたとき、ノエは、光の筋を見た。


 天井の近くに、細長い窓がいくつも並んでいた。外から見えなかったのは、蔦に覆われていたからだ。その隙間を通って、細い光が何本も斜めに射しこんでいる。光の中を、埃がゆっくり渦を巻いていた。


 床は、乾いていた。


 屋根はどこも落ちていない。壁にひびもない。土に埋もれていたぶん、雨も風も入らなかったのだろう。しんとして、外の音が何ひとつ届かなかった。


 そして、部屋の輪郭が見えた。


 本だった。


 壁という壁が、棚だった。棚という棚に、本が天井まで詰めこまれていた。


 ノエは、口を開けたまま立っていた。


 村には本が三冊しかない。ヨナスが持っている暦と、村長の家にある聖典と、あと一冊はどこかの家にあるらしいが見たことがない。それが、ノエの知っている「本」の全部だった。


 一歩、踏み出す。


 ギシリと、床板が鳴った。


 自分の足音がこんなに大きく聞こえる場所を、ノエは知らなかった。


 棚から一冊を抜き出す。革の背が、指の腹でぱらぱらと崩れた。表紙を開くと、乾いた匂いがする。古い葉を潰したような匂いだ。


 当然ながら、読めなかった。


 ノエは文字を知らない。村人はみんなそうだ。名前を書けるのは村長と、あとは行商人くらいのものだった。目の前にあるのは、細かい模様が整列しているだけの、意味のない紙だ。


 それでも、しばらくページをめくっていた。


 読めないものを眺めているのは、少し楽しかった。何が書いてあるんだろう、と思うこと自体がノエには楽しかった。


◇


 二冊目を抜いたところで、手が止まった。


 様子が違った。


 一冊目は、革の表紙に金の箔が押してあった。買ったものだ、とわかる。


 二冊目は、そうではなかった。


 厚紙に布を貼っただけの表紙。背は糸で綴じてある。開くと、中の紙の大きさが少しずつ違っていた。あり合わせを揃えて綴じたのだろう。


 書かれているのは、印刷ではない。手で書いてある。


 ノエは、棚を見上げた。


 同じ作りのものが、並んでいた。


 一冊や二冊ではない。棚の上から下まで、そのほとんどが手で綴じられたものだった。背の高さが揃えてあり、順番に何かの印が振ってある。買ったであろう本のほうが、むしろ少ない。


 誰かが、書いた。


 書いて、それを本の形にした。


 ノエは、そのことをうまく飲みこめずに立っていた。本というのは、どこか遠くで作られて、運ばれてくるものだと思っていた。人が自分の手で作るものだと、考えたことがなかった。


 しかも、丁寧だった。


 糸の目が揃っている。表紙の布は、角を折りこんで貼ってある。背に印。棚の並べ方にも、きっと順番がある。


 村で言うなら、道具を大事にする人の手つきだ。父が鎌を研ぐときの、あの手つき。


 この量を、一人で。


 どれくらいかかるんだろう、と思った。数えようとして、やめた。


 文字を読むことも、書くこともしたことのないノエには、きっとわからないことだった。


◇


 棚はきちんと整理されていたのに、机の周りは散らかり放題だった。


 床には紙が広がっている。積み上がった山の一つは崩れたまま放ってあり、そこだけが扇の形の帯を作っていた。開いたままの本が三冊、伏せて重なっている。


 途中だったのだ、とノエは思った。


 棚に戻す前の場所。まだ終わっていない仕事の場所。そこだけが散らかっている。


 もう一つ、そろっていないところがあった。


 奥の壁の棚だけが、少し手前に出ている。ほかの棚は壁にぴたりとついているのに、それだけが、指が入るくらい浮いていた。


 ノエは、気にしなかった。


 棚がどう並んでいるのが普通なのか、知らなかったからだ。


 膨大な本の山。ここに置いた人は、これを全部わかっていたのだろうか。


 わかっていたのだとしたら、その人の頭の中には、この部屋いっぱいの話が入っていたことになる。ノエが村の割り当てをおぼえているのと、同じように。


 そんな量が、人の頭に入るものだろうか。


◇


 本を戻そうとして、机に目が留まった。


 不自然な布のかたまりがあった。


 何かを包んである形だ。上には、他と同じように埃が積もっている。


 布をめくる。


 中は、乾いていた。埃は一つもない。長いあいだ、包まれたままだったのだとわかる。


 ――万年筆が一本と、片眼鏡が一つ。


 どちらも精巧な細工がされている。万年筆の軸には、細い彫りで模様が入っている。片眼鏡の縁にも同じ模様があった。文字なのか飾りなのか、ノエには区別がつかない。


 片眼鏡をつまみ上げ、光にかざしてみる。


 薄い琥珀色をしていた。落ち葉の色を、水に溶かして薄めたような。


 なんとなく、目に当ててみた。


◇


 床に広がる紙の、文字が動いた。


 いや、動いてはいない。ただ、さっきまで模様でしかなかったものが、意味を持って立ち上がってきた。ひとつひとつが音をともなって、頭の中に流れ込んでくる。読もうとする前に、もう読めている。


 ノエは、片眼鏡を外した。


 ただの模様に戻った。


 もう一度、当てる。


 文字になる。


 外す。模様。当てる。文字。


 五回ほど繰り返して、ノエはようやく、自分がずっと息を止めていたことに気づいた。


 心臓が、耳の裏で鳴っている。指の先が冷たい。


 部屋を見回す。


 壁という壁に、本がある。


 その大半が、一人の手で書かれ、一人の手で綴じられたものだ。


 全部に、意味がある。誰かが考えたことが、置いたまま残っている。書いた人はもういないのに、置いていったものだけが、ここにある。


 口に出したことは、聞いた人が忘れれば終わりだと思っていた。


 ――終わっては、いなかったんだ。


 ごくり、とノエののどが鳴った。


◇


 机の上に、一冊の綴じ帳が開かれたまま置かれていた。


 ほかと同じ、手で綴じたものだ。ただ、これだけは背に印がない。まだ棚に並べる番が来ていなかったのだろう。


 紙は波打ち、はしが茶色く焼けている。


 ノエは椅子を引いた。


 脚が床を擦って、また埃が舞う。


 腰を下ろした。座面が、みしりと鳴った。


 両手で、片眼鏡を目に当てる。


 最初の一行が、そこにあった。


  『言葉は、届かなければ意味がない』


 ノエはこの日、生まれて初めて、文字を読んだ。


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