↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/52

1話

初投稿作品です。

楽しんで頂ければ幸いです。

 馬車で通れる道は、村の前で終わっていた。


 村唯一の、木で組んだだけの小さな門。その前に、場違いな馬車が一台停まっている。車輪には金の輪、扉には焼きつけた紋章。この先の畦道を前に、御者と供の者が慌ただしく動いている。


 供の者が、扉の前に踏み台をそっと置いた。


 降りてきた婦人は、絹の外套の裾が泥を吸うのを見て、一度だけ足を止めた。


「……奥様」


 供の者が、声を落とした。まだ若い。王都を出てから、ずっとこの顔をしている。


「本当に、こちらなのですか」


「そうよ」


「ですが、こんな──」


「お黙りなさい」


 婦人は、それ以上は何も言わずに歩き出した。


 畦道の先には、人の列ができている。


 木箱を抱えた商人。荷を停めて、頭だけが並んだ隊商。何日も歩いてきた身なりのまま、地面に座りこんでいる男。


 どの手にも、封のされた紙が握られている。


 婦人が近づくと、列がざわめき、割れた。


 先頭の男が何か言いかけて、供の者の胸に飾られた紋章を見て、口を閉じた。小さく舌打ちが一つ、聞こえた気がした。それきりだった。


 豪奢な靴で、ぬかるんだ地面を歩く婦人の側から、声を落とした話し声が聞こえる。


「南の関所な。税が下がっただろう」


「あれは、あの方の文が一通、届いただけだそうだ」


「たった一通で?」


「たったの一通でさ。侯爵様が読んで、その場で判を押されたらしい」


「わたしはヴェルダのもめごとを三日で収めたと聞いたぞ」


「三日? 一晩と聞いたぞ」


「一晩で戦を止めたという話まである」


「まさか」


「そのうち、王様が頭を下げに来るんじゃないか」


「不敬なことを言うな。罰が当たるぞぉ!」


 誰かが笑った。すぐに、笑い声は小さくなった。噂話は止まらない。


「──あんた、会ったことはあるのかい」


「ないさ。今日が初めてだ」


「どんな御方なのかは知ってるかい?」


「聞いた話じゃ、背の高い、目つきの鋭い人だそうだ」


「歳は?」


「さてなぁ。若くはあるまい。あれだけのことをやる御方だ」


 誰もが話しながら、じっと列の先を伺っている。


 関所の税。商会のもめごと。どこかの国境の話。大小さまざまな出来事が、たった一人の手によって変えられたという話。


 ひとつひとつの噂が胸の中で積み上がり、ジワリと、長手袋の中で汗がにじむ。


 婦人は、供の者を振り返った。


「これから、決して失礼のないようにね」


「はい」


「相手は、お偉い方なのだから」


 そして前を向き、足を進めた。


 靴の汚れも、外套の染みも気にすることなく。


◇


 列の先は、とても粗末な小屋だった。


 板を継ぎ合わせただけの、四方三間ほどの小屋である。屋根には藁。扉はなく、雨よけの布が一枚、風にめくれて中を覗かせている。壁板の隙間から光が漏れているのは、隙間があるからだ。


 その前に、背もたれもない木の椅子が一脚。順番を待つ者のためのものらしい。


 婦人は、封書を握りしめた手を胸元まで下げた。


 懐には、謝礼の袋が入っている。王都を出るとき、少なすぎないかと何度も数え直したものだった。


 だが、今この場に立つと、それを差し出すこと自体が場違いに思えた。


 布の奥に、机があった。


 机に向かって、一人の若者が座っている。


 若い。思っていたよりずっと若い。


 背も、高くない。


 痩せて、肩が薄かった。着ている外套は上等だが、明らかに贈られたもので、身に合っていない。肩が落ち、袖が余っている。中に着たシャツはそこらの開拓民が身に着けているものだ。灰がかった亜麻色の髪が、俯いた拍子に前へ落ちて、目元を隠している。


 羽根ペンが紙を進む音だけが、外のざわめきから切り離されたように続いている。


「紙の宰相さま」


 婦人が声をかけた。だが、若者は顔を上げなかった。


 供の者が咳ばらいをする。反応はない。列の後ろで誰かが笑った。


 やがて、婦人は耐えかねたように一歩前へ出た。


 頭の中には、王都を出る前に何度も練った口上があった。家の名があり、経緯があり、しかるべき謝礼の額まで用意してある。


 その全部を、彼女は言いそこねた。


「──お願いします」


 声が、思ったより情けない音で出た。


「あなたにしか、頼めないんです」


 ペンが、止まった。


 若者が顔を上げる。


 薄い茶色の目だった。光の加減で灰色にも見える。まつげが長い。頬に散ったそばかすが、よけいに子どもっぽく見えた。


 伏し目がちに、こちらをじっと見ている。


 国を動かす手紙を書く人間の顔には、まるで見えない。


 ただ、机に置かれた右手だけは違った。中指の付け根と第一関節に、硬く盛り上がったたこがある。爪のきわは、洗っても落ちない黒に染まっていた。


「──わかりました」


 若者は、机の向かいの椅子を示した。


「まず、お話を聞かせてください」


 そして、少し首をかたむけるようにして、ほほ笑み、一言を付け足した。


「あなたの言葉で」


◇


 三年前の話をしよう。


 若者の手に、まだ一つもたこがなかったころ。


 そして彼が、誰からも「あなたにしか頼めない」と言われたことのなかったころの話だ。


◇


 朝の畑には、まだ霜が残っていた。


 開拓村の土は、三度目の春を迎える土だ。畝の間にはまだ抜ききれていない切り株が黒く残っていて、それを避けるように畝が曲がっている。踏むと、湿った土の匂いが立った。


 東の森の端が、ようやく白み始めている。


 ノエは、鍬の柄を握った。


 握って、持ち上げて、そこで止まった。


 振り上げたままの姿勢で、灰がかった亜麻色の髪がゆらゆらと揺れている。


 隣の畝から声がした。


「ノエ。無理すんな」


「うん」


「早いな」


 ノエはあっさりと鍬を手放し、父のヨナスは笑って腰を伸ばした。


 背中の厚い男である。首の後ろは年中日焼けで皮が剥けていて、汗で額に張りついた髪の生えぎわは、去年よりまた少し後ろへ下がっていた。


 その手が、鍬の柄を握り直す。指が太く、爪が割れている。手のひらは全面が硬くなっていて、たぶん熱いものを掴んでも平気だ。


 ノエは、自分の手を見た。


 細い。指が長い。爪が薄い。たこは一つもない。


 十四年ぶんの畑仕事の跡が、どこにも残っていなかった。


 畝の端っこに座りこむと、朝の冷えた土が尻から染みてきた。息が、まだ整わない。鍬を十回も振ると、いつもこうなるのだ。生まれつきそういう体だった。医者に診せる余裕なんてなく、そもそも医者自体、この村にはいなかった。


 少し離れたところから、声が届いた。


「ヨナスさんとこも大変だなあ。跡取りがあれじゃあ」


 ボルドだった。


 赤ら顔の男が、自分の畑から腰だけこちらへ向けている。悪気はかけらも感じられない。思ったことが、そのまま口から出るだけの男だ。悪気がないぶん、言われたほうは怒りそこねる。


「開拓ってのは体が資本だろうによ」


 うん、とノエは思った。


 それはそう。まったくその通りだと思う。否定できるところはなにもない。


 ヨナスが何かを言おうとして、口を開いた。


 ――その前に、風を切る音がした。


 スコーン、と実にイイ音が響き、ボルドの動きが止まる。


 水桶が、地面をころころと転がっていった。


「──いってえっ!」


 ボルドが両手で額を押さえてしゃがみこむ。


 畦道に、マイラが立っていた。


 小柄な女である。赤みがかった栗色の髪を布で包み、腕まくりした腕は日に焼けてそばかすが浮いている。その太い腕が、水桶を投げた形のまま止まっていた。


「今、なんて言った?」


 声が、低かった。


 村の者は、マイラのこの声を知っている。甲高い声なら、まだいい。低くなったら終わりだ。


「い、いや。俺は別に――」


「もう一回、言ってごらん?」


 マイラが、一歩踏み出す。その手は握りしめられている。


「今度は、この子の目を見て」


 ボルドは額を押さえたまま立ち上がり、鍬を担ぎ直すふりをして、そそくさと自分の畑の奥へ引き上げていった。指の隙間から、たんこぶが半分覗いている。


 ヨナスが、感心したように目を細めた。


「二十歩分はあったのにな」


「もっと遠くでも大丈夫よ」


「やめとけ」


 マイラは水桶を拾いに行き、中が空になっているのを見て、小さく舌打ちした。


◇


 それから、どすん、と隣に座られて、ノエの体が少し跳ねた。


「母さん」


「なんだい」


「僕は気にしてないよ」


「あたしが気にしてんだよ」


 それきり、二人とも黙った。


 風が、まだ実らない麦の穂を撫でていく。青い匂いがした。


 畑の向こうで、ヨナスが何事もなかったように鍬を振り始めている。ザッ、ザッ、と土を掘り返す音が規則正しく響いた。


 マイラの膝の上で、拳が握られたままだった。指の関節が白い。


 ノエは、それを横目で見ていた。


 母さんは、僕の代わりに怒る。僕が怒らないからだ。


 怒ればいいのかもしれない、と思ったことはある。そうすれば母さんは怒らなくて済む。でも、間違っていない人にどう腹を立てればいいのか、ノエにはわからなかった。


 そっと、ノエは母の手に、自分の柔らかな手のひらを重ねた。


「……あのさ」


「なんだい」


「怒った顔、こわかった」


「うるさいね」


 拳が、ゆっくりほどけた。


 マイラは少しだけ笑って、それからノエの前髪を乱暴にかき混ぜた。


 その手が、途中で止まる。


「……ほんとに、母さんに似なかったねえ、この色は」


「祖母ちゃん似なんでしょ?」


「そう。うちの母さんが、この色だった」


 マイラは、ノエの髪をひとふさ指に巻いて、すぐに離した。


「名前もね。あの人がつけたんだ」


◇


 水桶を片づけていると、道の向こうから男が一人、走ってきた。


 村の東端に住むセルグだった。大きな鼻を赤らめて、ゼェ、ゼェ、と息を切らしている。


「ノエ! ノエ! いるか?」


「いるよ」


「去年の井戸掘り、順番は誰からだった?」


 ぶしつけな質問に、ノエは畝の上に座ったまま答えた。


「村長さんの家が最初。次がボルドさんとこ。三番目がうちで、四番目がセルグさんとこ。五番目のはずだったカイさんが熱を出して、代わりにデュラさんが入った。だから次に掘るなら、カイさんからだよ」


「そうだ、そうだったな!」


 セルグは、来たときと同じ速さで走って行った。


 礼はなかった。


 いつものことだ。村の誰かが何かを忘れると、必ずノエのところへ来る。誰が誰に種もみを何升貸したか。去年の草刈りを誰がさぼったか。三年前に村を出るとき、荷馬車のどこに何を積んだのか。


 ノエは、全部おぼえていた。


 おぼえようとしたことは一度もない。聞いたものが、消えないだけだ。


 畑作業ができないぶん、ノエは村中の話を座ったまま聞いて育った。母の昔話。父の元いた村の話。年に二度来る行商人の長話。


 みんなが忘れていくのが、少し不思議だった。あんなに大事そうに、楽しそうに、話していたのに。


 だからといって、それが村で値打ちになるわけではない。


 値打ちがあるのは、土を掘れる体だ。それは、たしかにそうだと思う。


 ヨナスが、鍬を止めてこちらを見ていた。


「なあ、ノエ」


「なに」


「今のは、すごいことだと思うんだがな」


 言って、また向こうを向いてしまった。


 ノエは、しばらく父の背中を見ていた。


 すごいことでは、たぶんなくて。ただ、おぼえているだけなのだ。


 セルグが次に忘れたら、また聞きに来る。それだけのことで、畑仕事みたいに、何かが増えるわけではない。誰かが生きていく助けにはならない。


 口に出したことは、聞いた人が忘れれば、そこで終わる。


 たぶん、そういうものなのだと思っていた。


◇


 その日の午後のことだった。


 ノエが、おぼえる必要のないものを、初めて見つけたのは。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。