1話
初投稿作品です。
楽しんで頂ければ幸いです。
馬車で通れる道は、村の前で終わっていた。
村唯一の、木で組んだだけの小さな門。その前に、場違いな馬車が一台停まっている。車輪には金の輪、扉には焼きつけた紋章。この先の畦道を前に、御者と供の者が慌ただしく動いている。
供の者が、扉の前に踏み台をそっと置いた。
降りてきた婦人は、絹の外套の裾が泥を吸うのを見て、一度だけ足を止めた。
「……奥様」
供の者が、声を落とした。まだ若い。王都を出てから、ずっとこの顔をしている。
「本当に、こちらなのですか」
「そうよ」
「ですが、こんな──」
「お黙りなさい」
婦人は、それ以上は何も言わずに歩き出した。
畦道の先には、人の列ができている。
木箱を抱えた商人。荷を停めて、頭だけが並んだ隊商。何日も歩いてきた身なりのまま、地面に座りこんでいる男。
どの手にも、封のされた紙が握られている。
婦人が近づくと、列がざわめき、割れた。
先頭の男が何か言いかけて、供の者の胸に飾られた紋章を見て、口を閉じた。小さく舌打ちが一つ、聞こえた気がした。それきりだった。
豪奢な靴で、ぬかるんだ地面を歩く婦人の側から、声を落とした話し声が聞こえる。
「南の関所な。税が下がっただろう」
「あれは、あの方の文が一通、届いただけだそうだ」
「たった一通で?」
「たったの一通でさ。侯爵様が読んで、その場で判を押されたらしい」
「わたしはヴェルダのもめごとを三日で収めたと聞いたぞ」
「三日? 一晩と聞いたぞ」
「一晩で戦を止めたという話まである」
「まさか」
「そのうち、王様が頭を下げに来るんじゃないか」
「不敬なことを言うな。罰が当たるぞぉ!」
誰かが笑った。すぐに、笑い声は小さくなった。噂話は止まらない。
「──あんた、会ったことはあるのかい」
「ないさ。今日が初めてだ」
「どんな御方なのかは知ってるかい?」
「聞いた話じゃ、背の高い、目つきの鋭い人だそうだ」
「歳は?」
「さてなぁ。若くはあるまい。あれだけのことをやる御方だ」
誰もが話しながら、じっと列の先を伺っている。
関所の税。商会のもめごと。どこかの国境の話。大小さまざまな出来事が、たった一人の手によって変えられたという話。
ひとつひとつの噂が胸の中で積み上がり、ジワリと、長手袋の中で汗がにじむ。
婦人は、供の者を振り返った。
「これから、決して失礼のないようにね」
「はい」
「相手は、お偉い方なのだから」
そして前を向き、足を進めた。
靴の汚れも、外套の染みも気にすることなく。
◇
列の先は、とても粗末な小屋だった。
板を継ぎ合わせただけの、四方三間ほどの小屋である。屋根には藁。扉はなく、雨よけの布が一枚、風にめくれて中を覗かせている。壁板の隙間から光が漏れているのは、隙間があるからだ。
その前に、背もたれもない木の椅子が一脚。順番を待つ者のためのものらしい。
婦人は、封書を握りしめた手を胸元まで下げた。
懐には、謝礼の袋が入っている。王都を出るとき、少なすぎないかと何度も数え直したものだった。
だが、今この場に立つと、それを差し出すこと自体が場違いに思えた。
布の奥に、机があった。
机に向かって、一人の若者が座っている。
若い。思っていたよりずっと若い。
背も、高くない。
痩せて、肩が薄かった。着ている外套は上等だが、明らかに贈られたもので、身に合っていない。肩が落ち、袖が余っている。中に着たシャツはそこらの開拓民が身に着けているものだ。灰がかった亜麻色の髪が、俯いた拍子に前へ落ちて、目元を隠している。
羽根ペンが紙を進む音だけが、外のざわめきから切り離されたように続いている。
「紙の宰相さま」
婦人が声をかけた。だが、若者は顔を上げなかった。
供の者が咳ばらいをする。反応はない。列の後ろで誰かが笑った。
やがて、婦人は耐えかねたように一歩前へ出た。
頭の中には、王都を出る前に何度も練った口上があった。家の名があり、経緯があり、しかるべき謝礼の額まで用意してある。
その全部を、彼女は言いそこねた。
「──お願いします」
声が、思ったより情けない音で出た。
「あなたにしか、頼めないんです」
ペンが、止まった。
若者が顔を上げる。
薄い茶色の目だった。光の加減で灰色にも見える。まつげが長い。頬に散ったそばかすが、よけいに子どもっぽく見えた。
伏し目がちに、こちらをじっと見ている。
国を動かす手紙を書く人間の顔には、まるで見えない。
ただ、机に置かれた右手だけは違った。中指の付け根と第一関節に、硬く盛り上がったたこがある。爪のきわは、洗っても落ちない黒に染まっていた。
「──わかりました」
若者は、机の向かいの椅子を示した。
「まず、お話を聞かせてください」
そして、少し首をかたむけるようにして、ほほ笑み、一言を付け足した。
「あなたの言葉で」
◇
三年前の話をしよう。
若者の手に、まだ一つもたこがなかったころ。
そして彼が、誰からも「あなたにしか頼めない」と言われたことのなかったころの話だ。
◇
朝の畑には、まだ霜が残っていた。
開拓村の土は、三度目の春を迎える土だ。畝の間にはまだ抜ききれていない切り株が黒く残っていて、それを避けるように畝が曲がっている。踏むと、湿った土の匂いが立った。
東の森の端が、ようやく白み始めている。
ノエは、鍬の柄を握った。
握って、持ち上げて、そこで止まった。
振り上げたままの姿勢で、灰がかった亜麻色の髪がゆらゆらと揺れている。
隣の畝から声がした。
「ノエ。無理すんな」
「うん」
「早いな」
ノエはあっさりと鍬を手放し、父のヨナスは笑って腰を伸ばした。
背中の厚い男である。首の後ろは年中日焼けで皮が剥けていて、汗で額に張りついた髪の生えぎわは、去年よりまた少し後ろへ下がっていた。
その手が、鍬の柄を握り直す。指が太く、爪が割れている。手のひらは全面が硬くなっていて、たぶん熱いものを掴んでも平気だ。
ノエは、自分の手を見た。
細い。指が長い。爪が薄い。たこは一つもない。
十四年ぶんの畑仕事の跡が、どこにも残っていなかった。
畝の端っこに座りこむと、朝の冷えた土が尻から染みてきた。息が、まだ整わない。鍬を十回も振ると、いつもこうなるのだ。生まれつきそういう体だった。医者に診せる余裕なんてなく、そもそも医者自体、この村にはいなかった。
少し離れたところから、声が届いた。
「ヨナスさんとこも大変だなあ。跡取りがあれじゃあ」
ボルドだった。
赤ら顔の男が、自分の畑から腰だけこちらへ向けている。悪気はかけらも感じられない。思ったことが、そのまま口から出るだけの男だ。悪気がないぶん、言われたほうは怒りそこねる。
「開拓ってのは体が資本だろうによ」
うん、とノエは思った。
それはそう。まったくその通りだと思う。否定できるところはなにもない。
ヨナスが何かを言おうとして、口を開いた。
――その前に、風を切る音がした。
スコーン、と実にイイ音が響き、ボルドの動きが止まる。
水桶が、地面をころころと転がっていった。
「──いってえっ!」
ボルドが両手で額を押さえてしゃがみこむ。
畦道に、マイラが立っていた。
小柄な女である。赤みがかった栗色の髪を布で包み、腕まくりした腕は日に焼けてそばかすが浮いている。その太い腕が、水桶を投げた形のまま止まっていた。
「今、なんて言った?」
声が、低かった。
村の者は、マイラのこの声を知っている。甲高い声なら、まだいい。低くなったら終わりだ。
「い、いや。俺は別に――」
「もう一回、言ってごらん?」
マイラが、一歩踏み出す。その手は握りしめられている。
「今度は、この子の目を見て」
ボルドは額を押さえたまま立ち上がり、鍬を担ぎ直すふりをして、そそくさと自分の畑の奥へ引き上げていった。指の隙間から、たんこぶが半分覗いている。
ヨナスが、感心したように目を細めた。
「二十歩分はあったのにな」
「もっと遠くでも大丈夫よ」
「やめとけ」
マイラは水桶を拾いに行き、中が空になっているのを見て、小さく舌打ちした。
◇
それから、どすん、と隣に座られて、ノエの体が少し跳ねた。
「母さん」
「なんだい」
「僕は気にしてないよ」
「あたしが気にしてんだよ」
それきり、二人とも黙った。
風が、まだ実らない麦の穂を撫でていく。青い匂いがした。
畑の向こうで、ヨナスが何事もなかったように鍬を振り始めている。ザッ、ザッ、と土を掘り返す音が規則正しく響いた。
マイラの膝の上で、拳が握られたままだった。指の関節が白い。
ノエは、それを横目で見ていた。
母さんは、僕の代わりに怒る。僕が怒らないからだ。
怒ればいいのかもしれない、と思ったことはある。そうすれば母さんは怒らなくて済む。でも、間違っていない人にどう腹を立てればいいのか、ノエにはわからなかった。
そっと、ノエは母の手に、自分の柔らかな手のひらを重ねた。
「……あのさ」
「なんだい」
「怒った顔、こわかった」
「うるさいね」
拳が、ゆっくりほどけた。
マイラは少しだけ笑って、それからノエの前髪を乱暴にかき混ぜた。
その手が、途中で止まる。
「……ほんとに、母さんに似なかったねえ、この色は」
「祖母ちゃん似なんでしょ?」
「そう。うちの母さんが、この色だった」
マイラは、ノエの髪をひとふさ指に巻いて、すぐに離した。
「名前もね。あの人がつけたんだ」
◇
水桶を片づけていると、道の向こうから男が一人、走ってきた。
村の東端に住むセルグだった。大きな鼻を赤らめて、ゼェ、ゼェ、と息を切らしている。
「ノエ! ノエ! いるか?」
「いるよ」
「去年の井戸掘り、順番は誰からだった?」
ぶしつけな質問に、ノエは畝の上に座ったまま答えた。
「村長さんの家が最初。次がボルドさんとこ。三番目がうちで、四番目がセルグさんとこ。五番目のはずだったカイさんが熱を出して、代わりにデュラさんが入った。だから次に掘るなら、カイさんからだよ」
「そうだ、そうだったな!」
セルグは、来たときと同じ速さで走って行った。
礼はなかった。
いつものことだ。村の誰かが何かを忘れると、必ずノエのところへ来る。誰が誰に種もみを何升貸したか。去年の草刈りを誰がさぼったか。三年前に村を出るとき、荷馬車のどこに何を積んだのか。
ノエは、全部おぼえていた。
おぼえようとしたことは一度もない。聞いたものが、消えないだけだ。
畑作業ができないぶん、ノエは村中の話を座ったまま聞いて育った。母の昔話。父の元いた村の話。年に二度来る行商人の長話。
みんなが忘れていくのが、少し不思議だった。あんなに大事そうに、楽しそうに、話していたのに。
だからといって、それが村で値打ちになるわけではない。
値打ちがあるのは、土を掘れる体だ。それは、たしかにそうだと思う。
ヨナスが、鍬を止めてこちらを見ていた。
「なあ、ノエ」
「なに」
「今のは、すごいことだと思うんだがな」
言って、また向こうを向いてしまった。
ノエは、しばらく父の背中を見ていた。
すごいことでは、たぶんなくて。ただ、おぼえているだけなのだ。
セルグが次に忘れたら、また聞きに来る。それだけのことで、畑仕事みたいに、何かが増えるわけではない。誰かが生きていく助けにはならない。
口に出したことは、聞いた人が忘れれば、そこで終わる。
たぶん、そういうものなのだと思っていた。
◇
その日の午後のことだった。
ノエが、おぼえる必要のないものを、初めて見つけたのは。




