10話
雪が溶けて、街道に轍が戻るころ、小屋が完成した。
街道と井戸の中間。村長の畑の角を削ったところ。
板を打ちつけただけの、四方二間ほどの小屋である。屋根は藁で、窓は南に一つ。
柱が、少し傾いていた。
「傾いてますよね」
カルスが言った。
「傾いてねぇだろ」
ボルドが言った。
「いや、あの、こう、右のほうが」
「土が斜めなんだよ」
「……土を平らにすればよかったのでは?」
「これが味ってやつだろ」
カルスは、それ以上何も言わなかった。
その日の夕方、ノエが通りかかると、カルスがひとり小屋の前に立っていた。
柱を、じっと見上げている。
しばらく見て、それから、手を伸ばして柱を撫でた。上から下まで、二度撫でた。
天を仰いで、そして、なかへ入っていった。
◇
値が決まったのは、その次の日だった。
村じゅうが小屋の前に集まった。誰も口を開かないで、硬い表情で前に立つカルスを見つめている。
カルスは板に挟んだ紙を出した。ノエが、その隣に立った。
読み上げる前に、カルスが一度こちらを見た。
ノエは、どんな顔をすればいいのかわからなかった。だから、ただうなずいて見せた。
「では」
カルスが、頭巾を脱いだ。髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。
「今年は、六袋です」
しん、とした。
井戸の滑車が、風で少し鳴った。
村長が、まばたきをした。
「……去年は、八袋だったが」
「はい」
「二袋、減るのかね」
「減ります」
カルスは、紙を指した。
その手が、震えている。
「ヴェルダで、麦は今、一袋でこれだけの値がついてます。刃は一枚でこれだけです。掛けて、割ると、五袋になります」
カルスは、そこで一度、紙から目を上げた。
「それに、わしの手間賃を乗せます」
言い終わってから、頭巾を握り直した。
「……運び賃と、宿代と、その、わしが食う分です。一袋ぶん、いただきます。だから六袋です」
誰も、何も言わなかった。
カルスが、少し慌てた。
「お、多いですか? 多いと思うなら、言ってください。旦那様のときは、その、いくら乗ってたのか、わしも知らんかったんで」
「そうじゃない」
村長が、首を振った。
「そうじゃないんだよ、カルスさん」
村長は、紙を見ていた。
「なんでその値になるのか、聞いたのは初めてで、戸惑ってしまったんじゃよ」
三年、この村は、言われた数だけ袋を出してきた。
なぜその数なのかを、誰も聞いたことがなかった。聞いてもいいものだと、思っていなかった。
「……六袋で、いいですか?」
カルスが言った。
ボルドが、鼻を鳴らした。
「いいに決まってんだろ。そもそも、値を決めるのはあんたなんだ。……そう書いてあっただろ」
◇
人が散ったあと、小屋の前に二人だけが残った。
カルスは、まだ紙を持っていた。板から外して、両手で持っている。
「ノエさん」
「はい」
「……いや」
カルスは、そこで口を閉じた。
紙を折って、懐に入れる。上着の上から、二度そこを叩いた。
冬の朝に、門のところで見たのと同じ手つきだった。
ノエは、それを見ていた。
カルスは、頭巾をいつもより深くかぶり直して、小屋のなかへ入っていった。
◇
帳面は、村に馴染んだ。
馴染みすぎた、とノエは思っている。
「ノエ! 書いといておくれよ」
畑の脇で呼び止められた。デュラだった。
「なにをですか?」
「来年の井戸掘りは、わしが最初だ」
「それ、去年も言ってましたよね?」
「今年は、書いとくんだよ」
ノエは、書いた。
三日後、テッサが来た。
「ノエ! デュラさんが井戸の順番を書かせたって聞いたよ」
「はい」
「あたしのぶんも書いとくれ。次の次は、うちだよ」
「次の次、ですね」
「そう。それと、だけどね」
テッサは、指を一本立てた。
「あたしが言ったってことは、書かなくていいからね」
「書きますよ」
「……なんでだい?」
「誰が言ったか書かないと、あとでわからなくなるので」
テッサは、しばらく口を尖らせていた。
それから、笑って手を振った。
「まあ、いいさ。どうせ書かれるんだ」
◇
そのうち、子どもたちが真似を始めた。
畑の隅に木の枝で線を引いて、意味のわからない模様を並べている。それを見て、別の子が「なんて書いてある」と聞く。書いた子が、適当に答える。
ノエは、道の上で足を止めた。
枝の握り方が、自分と同じだった。先を折って、尖らせた枝。
地面の模様は、文字ではなかった。
言おうかどうか、ノエは迷った。
結局、そのまま歩き出した。
後ろでは子どもたちが笑っている。何かを読み上げているらしい。声だけが、風に乗って追いかけてきた。
◇
春の荷が来たのは、それから十日ほど経った日の昼だった。
がらがら、がらがら。音があっという間に近づいてくる。
村の者は、誰ももう飛びのかなくなっていた。慣れたらしい。
御者台から飛び降りた娘が、荷台の縄をほどきながら村長のほうを見た。
「昼までって話でしたよね。間に合ってます?」
「間に合っとる、間に合っとる」
「ならよかった」
ノエも、荷を降ろすのを手伝った。
娘は、今度は何も聞かずに、軽い包みをこちらへ渡した。前と同じものだった。
「これね」
「はい」
二往復して、荷は全部降りた。
◇
ノエは、包みに貼ってあった荷札を剥がして読んでいた。
読める文字が目の前にあると、読んでしまう。癖になっている。
顔を上げると、娘がまっすぐにこちらを見ていた。
「前も読んでたよね?」
「はい」
「なんて書いてるか、答え合わせしてくれる?」
ノエは、荷札を差し出した。
娘は、受け取る前に、両手をズボンで拭いた。縄を扱った手だ。麻の粉が、白くついていた。
それから、指でなぞった。
節が太くて、指の腹が硬い。爪は短く切ってある。ノエの手とは、まるで別の形をしていた。
「これが麻」
「はい」
「これが縄」
「はい」
「──なら、思ってた通りだ」
娘は、声を出して笑った。
大きな笑い方だった。村の女房連中でも、ここまで大きくは笑わない。荷馬車の馬が、耳を後ろへ倒した。
「ここんとこは、読めなかったんだ。二十って数はわかるんだけど、その上の字がね」
「尋、です。腕を広げた長さだって、書いてありました」
「へえ。そんなの、どっかの本に書いてあるの」
「はい。辞典に書いてました」
「便利だね」
娘は、荷札をノエに返した。
それから、思い出したように言った。
「あたし、ハンナ」
ノエが何か言う前に、彼女は荷台へ戻っていった。
◇
縄を積み替えながら、ハンナが言った。
「そういえば、次はいつ来ればいい?」
村長が、指を折って数え始めた。
「そうさな。夏の前に、塩を」
「わかった。それと、手紙はある?」
村長の指が、止まった。
「……手紙?」
「うち、手紙も運ぶよ」
ハンナは、縄を結びながら言った。
「荷は父さんが運ぶけど、手紙は軽いから、あたしが走る。そのほうが早いからね」
誰も、何も言わなかった。
「一通からでも運ぶよ。運び賃はもらうけど」
ハンナは、結び目を締めた。
顔を上げて、村の者の顔を見回した。
「……どうしたんだ?」
その場には、二十人ほどが集まっていた。
誰も、動かなかった。
持ち帰る荷を抱えたまま止まっている者がいる。降ろした荷の上に手を置いたまま、そこから動けない者がいる。
馬が、一歩だけ足を踏み替えた。
この村の者は、全員が移ってきた者だ。三年前、それぞれの村を出てきた。
親がいる。兄弟がいる。婚家に残してきた娘がいる。
三年、一度も便りをやっていない。
やれなかった。書ける者がいなかったからだ。
書ける者がいないのだから、運び手のことなど、考える理由もなかった。
「……ノエ」
テッサだった。
声が、いつもの半分も出ていない。
「あたしの母さん、まだ元の村にいるんだよ」
「はい」
「生きてるかね」
ノエは、答えられなかった。
テッサは、こちらを見ていなかった。荷馬車の車輪に手をかけて、輻を握っている。指の関節が、白くなっていた。
ハンナが、御者台から降りた。
降りて、テッサのそばへ行って、それから何も言わずに立っていた。
馬が、鼻を鳴らした。
◇
翌朝、ノエは母の声で目を覚ました。
「ちょっと。ちょっとノエ、起きな!」
「……なに?」
「表、見たらわかるよ」
ノエは、寝床から出て、戸口へ行った。
母が、戸を細く開けている。その隙間から、外を見ていた。
ノエも、覗いた。
人が、立っていた。
テッサ。デュラ。セルグの隣の家の女房。それから、少し離れて、名前は知っているが話したことのない男。
四人だった。
みんな、少しずつ間を空けて立っている。順番のようなものはできているのに、誰も詰めようとしない。
朝の霜が、まだ地面に残っている。息が白い。
誰も、戸を叩かなかった。
テッサが、二歩ぶん前に出た。
それから、また戻った。
◇
ノエは、戸に手をかけた。
かけたところで、自分の指が目に入った。
爪のきわが、黒い。昨日書いたぶんのインクが、まだ落ちていない。
戸を、開けた。
四人が、いっせいにこちらを見た。
「……どうしました?」
テッサが、口を開いた。
「早すぎたかい?」
「いえ」
「そうかい。……そうかい」
テッサは、両手で何かを握っていた。何も持っていないのに、握る形になっていた。
ノエは、四人を見た。
みんな、同じ顔をしている。何を言えばいいのかわからない、という顔だ。
ノエは、息を吸った。
「まず、お話を聞かせてください」
四人が、いっせいに口を開いた。
四人ぶんの声が、いっぺんに来た。
「あの、ちょ、ちょっと……待って!」
ノエは、両手を上げた。
「一人ずつ!」
声が、思ったより大きく出た。
四人が、黙った。
それから、自分たちで並び直した。誰が先かで、少し揉めた。
◇
後ろで、戸の開く音がした。
ヨナスだった。
寝起きの顔で、上着も着ずに出てきて、しばらく黙って外を見ていた。
それから、何も言わずに家の裏へ回った。
戻ってきたとき、手に椅子を持っていた。
背もたれのない、木の椅子だ。冬に薪を割るとき、ボルドが座っていたやつだった。
ヨナスは、それを戸口の前に置いた。
ことん、と脚が霜を踏んだ。
そして、ノエの頭を一度だけ叩いて、家の中へ戻っていった。
戸が閉まる。
ノエは、しばらく椅子を見ていた。
四本の脚のうち、一本だけが短い。土に少し沈んで、それでちょうど収まっている。
テッサが、その椅子を見た。
「……座っていいのかい?」
「どうぞ」
テッサが、座った。
ノエは、その前に膝をついた。
膝をつくと、目の高さが同じになった。
◇
順番が来ると、みんな、母親や兄の名前を先に言った。それから、その人がどこに住んでいるかを言った。それから、黙った。
畑の向こうで、鍬の音が始まっている。
ボルドだった。
いつもより早い気がする。列のほうを一度も見ずに、背中を向けて振っている。
ボルドには、宛先がない。
元の村に、身寄りがいない。だから開拓に来た。それは、村じゅうが知っていることだった。
ざっ、ざっ、と土を起こす音が、朝の畑に響いていた。
◇
テッサの番は、三日目になった。
最初の日、彼女は椅子に座って、口を開けて、そのまま閉じた。
「……順番、やっぱり後にしてもらっていいかい?」
「いいですよ」
「ちょっと、考えてくるから」
その次の日も、同じだった。
三日目の朝、テッサは椅子に座るなり、こう言った。
「言うよ! 言うからね!」
「はい、聞かせてください」
ノエは、膝の上に帳面を置いて、万年筆を握った。
◇
「元気ですか」
テッサが言った。
ノエが書き始める前に、テッサが手を振った。
「──ああ、違う。それは違うね。だって、元気じゃなかったら困るじゃないか」
「はい」
「じゃあ、うちは元気です」
ノエは、書こうとした。
「あ、待って」
手が、止まる。
「元気じゃないんだよ、うちの人。腰が」
「……」
「いや、書かなくていい。心配させるから」
テッサは、膝の上で手を組んだり、ほどいたりしていた。
それを、四回繰り返した。
朝の日が、少しずつ動いている。椅子の脚の影が、短くなっていた。
やがて、テッサは息を吐いた。
「……ノエ」
「はい」
「あたし、母さんの漬物の漬け方を忘れちまったんだ」
ノエは、顔を上げた。
「毎年、秋に漬けてたんだよ。あたしが手伝ってた。塩と草と実を入れるだけなんだけど、いろいろあってね。それが、どうしても思い出せないんだ……」
テッサの指が、膝の布をつまんでいた。
「三年、自分で試して漬けてみたけど、違うんだ。ぜんぜん違うんだよ」
ノエは、書いた。
書いている音がした。テッサが、こちらを見た。
「……そんなこと、書くのかい?」
「言ったので」
「そんなことだよ、これは」
「テッサさんの言葉なので」
テッサは、しばらく黙っていた。
それから、袖で目を押さえた。
「……書いといておくれ」
◇
テッサが手袋を持ってきたのは、その次の日だった。
布の包みを、卓の上に置く。
「これ、昨日のお礼だよ」
「なんですか?」
「開けてごらん」
ノエは、包みをほどいた。
手袋だった。
布を裁って、縫い合わせてある。指が別々に分かれていた。手のひらの側だけ、もう一枚あてて重ねてある。
染めた布だった。青みがかった、目の詰んだ生地だ。村の者が普段着ている麻とは、手ざわりがまるで違う。
「あんた、手ぇ荒れてるだろ」
テッサは、そっぽを向いていた。
「ずっと気になっててね。あたしゃ金は出せないよ。うちだって、そんな余裕はない」
「……ありがとうございます」
「指のとこは、細くしといた。あんたの指は細いからね」
ノエは、手袋を見ていた。
この布に、見おぼえがあった。
三年前、行商人から買ったやつだ。上等かどうかで、セルグとテッサが去年まで揉めていた。荷札が出てきて、上等と書いてあって、セルグが勝った。
箱にしまってあると、聞いた気がする。
縫い目は、まっすぐではなかった。指の股のところが、少し引きつっている。何度もほどいた跡が、糸の穴になって残っていた。
三日、考えてくると言った人だ。
考えていたのは、手紙のことだけではなかったらしい。
「あんた」
「はい」
「それ、使いなよ」
「……はい」
◇
その夜、ノエは手袋をはめてみた。
あたたかい。指の付け根が、少しきつい。
万年筆を握った。
書けなかった。
指が思うように動かない。線が太くなって、字にならなかった。
あたりまえだ。手袋をしたら、字は書けない。
ノエは、手袋を外した。
灯りにかざす。青い布が、火の色を吸って少し濃く見えた。
畳んで、机の上に置いた。
次の日も、その次の日も、置いたままだった。
母が一度、聞いた。
「テッサさんの手袋、使ってないのかい?」
「歩くときに使ってるよ」
嘘だった。
ノエは、一度も外へ持っていっていない。
汚したくなかった。
母は、それ以上何も言わなかった。
◇
列は、しばらく続いた。
毎朝、二人か三人が立っている。ノエは畑に出ないので、朝はたいてい家にいる。それが、村の中で通っていった。
やっぱりやめるという人もいて、書いた手紙は、合計で六通になった。
ハンナが来る日に、まとめて渡すことになっている。
◇
五日目の朝だった。
列の最後に、ゲルダが立っていた。
小さい体で、少し離れたところに。
順番が来るまで、ゲルダは何も言わなかった。前の人が終わって、椅子が空いた。
ノエは、顔を上げた。
「ゲルダさん」
ゲルダは、椅子を見た。
座らなかった。
朝の日が、その足元まで来ている。
「……ノエ」
「はい」
ゲルダは、そこで黙った。
長かった。
畑のほうで、鍬の音が続いている。ボルドの音だ。今朝も早い。
ノエは、待った。
やがて、ゲルダは笑った。皺だらけの顔で、いつものように。
「……やっぱり、いいよ」
「ゲルダさん」
「いいんだよ」
ゲルダは、背を向けた。
三歩ほど歩いて、一度だけ止まった。
それから、また歩き出した。
ノエは、その背中を見ていた。
書ける。今なら書ける。紙もある。インクもある。書いたらハンナが運んでくれる。
書けるのに、書けない。
──どこへ出せばいいのか、わからない。
空の椅子に、日が当たっていた。




