11話
時間をかけて出来上がった、六通の手紙。
ノエは、それを卓の上に並べた。
最初に書いたテッサのぶんがいちばん厚くて、最後のデュラのぶんがいちばん薄い。
デュラは、三つのことしか言わなかった。
一つは名前。二つ目は、体は大丈夫かということ。それから最後に、村の井戸を掘ったんだということ。
三つ目を言うとき、デュラは見たこともないくらいに背筋を伸ばしていた。
椅子に座ったまま、両手を膝に置いて、それからお腹に力を入れて口にしていた。うちの村で、井戸を掘ったんだ、みんながその井戸を使っているんだ、と。
ノエは、それをそのまま書いたのだ。
◇
がらがら、がらがら、と。
荷馬車が飛んで来たのは、夏前のカラリと晴れた昼のことだった。
村じゅうが道に出ている。塩が届く大切な日でもあるが、誰も塩の話なんてしなかった。
ハンナが御者台から飛び降りる。
「昼までにって話でしたよね。間に合ってます?」
「間に合っとるよ」
手際よく積んできた塩を配っていく。塩の袋は重たいので、ノエは手を出さずに、麻布の包みを両手で抱えて待っていた。
全ての塩を下ろし終えると、ハンナは荷台の縁に腰かけてひと息ついた。
「で、手紙は?」
村長が、ノエを見た。
ノエは、包みを差し出した。
ハンナが手際よく紐をほどく。一通ずつ数えて、宛名の側を上にして揃え直す。
それから、顔を上げた。
「これ、どこの村?」
「北です。歩いて四日くらいだと」
「村の名前は?」
ノエは、帳面を開いた。
「レイヴンです。テッサさんとデュラさんが、そこで」
「あとの四通は?」
「……三つに分かれています」
ハンナの眉が、少しだけ動いた。
「全部で四つの村を回るんだね」
「はい」
「で、家はどこ?」
ノエは、帳面を見た。
書いてある。村の東のはずれ。それだけだ。
「……それだけです」
ハンナは、しばらく紙を見ていた。
目を細めて、すっと空に視線を飛ばす。
それから、荷台の縁に置いた手で、板を二度叩いた。まっすぐな目がノエたちに向けられている。
「あのさ」
「はい」
「名前だけじゃ、探せないんだよ」
◇
誰も、何も言わなかった。
ハンナは、包みを膝に置いた。
「村に着くだろ。まず井戸に行く。そこにいる誰かを捕まえて、こういう名前の人を知らないかって聞く」
指を、一本立てた。
「知ってりゃいい。知らなきゃ、次の人に聞く。それを、日が暮れるまでやる」
二本目。
「東のはずれ、なんて言われても、東は広いんだ。三十軒あったら三十軒回るんだ」
三本目。
「四つの村なら、四日はかかるよ」
馬が、足を踏み替えた。
村の者は、動かなかった。
三年前、みんなその村から出てきた。出てきたきり、一度も戻っていない。
どうやって届くのかなんて、だれも考えたことがなかったのだ。
「……あたしは、そういうの得意だからさ」
ハンナが言った。
「探すのは、慣れてる。でも、手がかりは要るよ」
◇
最初に口を開いたのは、テッサだった。
「す、水車小屋!」
「え?」
「うちの母さん、水車小屋の三軒隣に住んでるんだよ。屋根の南っかわに、苔が生えてる家に」
ハンナが、こちらを向いた。
「ノエ。書ける?」
「書きます」
ノエは、帳面を開き直した。膝に置いて、万年筆を握る。
「水車小屋の、三軒隣。屋根の南に苔」
「そう。それと、母さんは足が悪いから、たいてい家にいるはずだよ」
「足が悪い」
「あと、名前はマレナってんだけど、村じゃ『粉屋のマレナ』って言えば通るよ。粉屋の生まれなんだ」
書いているうちに、次が来た。
「うちのは、村長さんの家のはす向かいだ」
「犬がおる。黒いのが。とんでもなく吠えるがぜったいに噛まんぞ」
「姉さんは、嫁いだから名字が変わってるかもしれない。でも、赤い髪は珍しいから、それで聞けばわかると思う」
次々に出た。
ノエの手が、追いつかなくなった。
顔を上げる前に、すぐ隣で音が鳴った。
ハンナが、荷台の板を平手で二度叩いていた。
「はい、そこまで!」
声が、村じゅうに通った。
「順番。井戸のときと同じでいいだろ。ノエが書けなきゃ、届かないんだからね」
村の者が、いっせいに黙った。
それから、並び直した。
今度は、誰も揉めなかった。
◇
最後の一人は、なかなか喋らなかった。
セルグの隣の家の女房である。姉に宛てて出した人だ。
「……あの」
「はい」
「わからないんだよ」
女房は、両手をこすり合わせていた。
「嫁ぎ先の村までは、聞いたんだ。でも、三年前の話だからね」
ハンナが、うなずいた。
「じゃあ、その村で聞くよ」
「……もし、いなかったら?」
「そのときは、そのときだよ」
ハンナは、それだけ言った。
女房が、うなずいた。何度もうなずいて、それから袖で口元を押さえた。
◇
ノエは、四枚ぶん書いた。
どの村の、誰の、どんな家か。目印となるもの。それから、名前の呼ばれ方。
書き終えて、書き忘れていることがないか、もう一度読んで確かめる。そうして渡すと、ハンナもそれを読んだ。
視線が飛んでいる。読める文字だけを拾っているのだろう。それでも、上から下まで順に目を動かしていた。
「……これ、全部いま聞き取ったの?」
「いま聞いたことです」
「へえ」
ハンナは、紙を四つに折って、上着の内ポケットへ入れた。
手紙のほうも、その隣のポケットに入れる。それから、内側の紐を素早く、だが丁寧に結び直した。走っても落ちないように、だろう。
◇
「で、いくらになる?」
村長が言った。
ハンナは、指を折った。
「一通、麦二升」
村長の顔が、止まった。
「……二升」
「四つの村を回るんだからね。安くはしないよ」
ざわめきが起きた。
六通で、一斗二升になる。冬を越したばかりの村には、軽い量ではなかった。
「あたしが出すよ!」
テッサだった。
「六通ぶん、うちが出す」
「おまえ」
セルグが、女房の腕を掴んだ。
「どっから出すんだよ」
「どっかから」
「どっかってどこだ?」
「……どっかだよ」
村長が、片手を上げて二人を止めた。
「ハンナさん、三日だけ待ってくれんかね。村で集めるから──」
「待てないよ」
ハンナは、荷台から降りた。
「明日には次の村に着いてないと、そのあとが全部ずれるからね」
「そうかね……」
「次の便でいいよね。急ぐもんでもないでしょ?」
「そ、そん──」
テッサが、思わずといった様子で口を開いた。
そして続きは何も言わずに、閉じた。
ハンナは、上着の内側から包みを出した。六通ぶん。それを、村長のほうへ差し出す。
誰も、受け取らなかった。
「……じゃあ、預かっとくよ」
ハンナは、そう言って包みを戻した。
「次に来たとき、麦があれば持っていく」
◇
ハンナが、御者台に上がった。
手綱を握る。馬が、首を振った。
村の者は、道の脇に寄っていた。誰も、何も言わなかった。
「ハンナさん」
人垣の後ろから、声がした。
ゲルダだった。
布の包みを、両手で抱えている。小走りに近い歩き方で、荷馬車の横まで来た。
「これ、持っていきな」
「なにこれ」
「道中に食べな。何日も走るんだろ?」
ハンナは、御者台から手を伸ばして包みを受け取った。
「ただでいいの?」
「よかないよ。いつか返しなさい」
「え」
「冗談だよ」
ゲルダが、皺だらけの顔で笑った。
ハンナは、包みを膝に置いた。
置いてから、鼻を近づけた。
それから、片手で布をめくった。
◇
中身は、干した肉だった。
黒く縮んで、板のように硬い。薄い層になって、何枚か重ねてある。
ハンナは、一枚のはしを歯でちぎった。
噛んでいる。
馬が、足を踏み替えた。
噛みながら、ハンナの動きが止まった。
「……ちょっと待って」
もう一口、ちぎる。
「ちょっと待ってよ」
「なんだい。まずいのかい?」
「逆!」
ハンナは、手綱を鞍にかけて、御者台から飛び降りた。
干し肉を光にかざす。裏返して、層を数えている。
「これ、どこで作ってんの?」
「うちだよ」
「うちって?」
「猪はボルドさんが獲ってくる。あたしゃ、火の番をしてるだけさ」
ハンナが、ボルドを見た。
ボルドが、後ろのほうで肩をすくめた。
「罠を仕掛けるだけだ。あとは、婆さんがやる」
「婆さん扱いすんじゃないよ」
◇
「これ、何枚ある?」
「何枚って」
村長が、まばたきをした。
「そりゃ、冬のぶんが、まだ蔵に」
村長は、指を三本立てて、それから下ろした。
「蔵のは、村のもんだよ。みんなで獲って、みんなで干して、冬に分けるんだ」
「見せて!」
「今かね」
「今」
ハンナは、もう歩き出していた。いつもより、歩幅が大きい気がする。
村長が、慌てて先に立つ。走らないと追い抜けない。村の者も、なんとなくついていった。誰も、なぜついていくのかわからないまま歩いていた。
◇
蔵を確認して戻ってきたハンナは、がっしりとした腕を組んで、空を睨んでいた。
「じゃあ、こうしよう」
荷台の縁に腰かける。
「あたしが、これを街で売る」
「売る?」
「売値から、荷の運び賃と、あたしの手間賃を引く。合わせて三割もらう。残り七割が、村のぶん」
村長が、指を折り始めた。折ってから、途中でやめた。
「……三割」
「安いと思う? 高いと思う?」
「……わからんよ」
「わからないなら、三割でいいよ」
ハンナは、干し肉を布に戻した。
「次から交渉しな。あたしは、値切られたら少し下げるよ」
村長が、口を開けたまま黙った。
「手紙の運び賃も、そこから引く。麦は要らないよ」
「……もし、売れなかったら?」
「売れなかったら、あたしの持ち出しさ。運び賃は、いらない」
「そりゃ、あんたが損するだけだろう」
「損なんてしないよ」
「なんでわかるんだい」
ハンナは、干し肉を一枚、掲げてみせた。
にっ、と強気な笑みを浮かべる。
「街の連中、こういうの好きなんだ。硬くて、しょっぱくて、噛んでると味が出る。酒に合うからね」
「酒」
「うん。あたしは飲まないけど」
ハンナは、村の者を見回した。
「で、どうする?」
誰も、反対しなかった。反対する理由が、誰にも思いつかなかったからだ。
「……お願いします」
ノエが、そう言った。
言ってから、自分が言う立場だっただろうかと思った。
ハンナが、こちらを見た。
日に焼けた拳を突き出して、笑う。
「じゃあ、そういうことで」
◇
それから、ハンナは上着の内側に手を入れた。
包みを出す。六通ぶんだ。
一度、村長のほうへ差し出しかけて、そのまま自分の懐へ戻した。
「これは、持ってく」
テッサが、両手で口を押さえた。
誰も、何も言わなかった。
ゲルダが、干し肉の包みを抱え直した。
◇
干し肉の積み込みは、それから半刻ほどもかかった。
蔵の干し肉を、藁で包んで、荷台の乾いたところへ積む。村の女房連中が総出で運んだ。
ゲルダは、荷台のそばに立って、包み方を指図していた。
「重ねすぎるんじゃないよ。汗をかくからね」
「へえ」
「ハンナさん。着いたら、いっぺん風に当てておくれ」
「わかった」
ノエは、それを少し離れたところで見ていた。
ゲルダの声が、いつもより通っている。
テッサが、ゲルダのそばへ行った。
「ゲルダさん」
「なんだい」
「あんた、手紙、出してないだろ?」
「出しちゃいないよ」
「じゃあ、なんで」
ゲルダは、藁の束を抱え直した。
それから、荷馬車のほうを見て、しわくちゃに笑った。
「あたしの分まで、届けてもらうんだよ」
テッサが、何か言おうと口を開いた。
でも、なにも言わなかった。
ゲルダは、藁を抱えて荷台のほうへ歩いていった。小さい背中が、女房連中のあいだに紛れていく。
誰も、その背中に声をかけなかった。
テッサが、目を閉じて小さく頭を下げた。
◇
「二日で行く」
ハンナが、御者台に上がり直した。
「向こうで四日。帰りは荷があるから、三日」
手綱を握る。
「でも、返事はそんなに早く来ないよ。読んで、考えて、書いて、誰かに預けて。そういうのは、時間がかかるからね」
馬の首が、前を向いた。
「次に来るとき、あればまとめて持ってくるから」
がらがら、がらがら。
荷馬車が坂を下りていった。
いつもより、少し遅い。荷が重いのだろう。
村の者は、その音が聞こえなくなるまで、道に立っていた。
◇
その晩、村長の家に人が集まった。
誰が呼んだわけでもない。塩を分けたあと、なんとなくそのまま居着いた形だった。
「で、ノエには何を渡すんだ?」
言ったのは、セルグだった。
ノエは、卓のはしに座っていた。麦茶を飲んでいた。普段より濃い気がする。
「いりません」
「そういうわけにいくかい」
「いえ、本当に」
ノエは、湯呑みを置いた。
「書くのは、苦じゃないんです。むしろ、やりたくてやってるので」
セルグが、腕を組んだ。
「そりゃそうだろうがな」
「畑も掘れないし、荷も運べません。僕にできるのは、これだけなので」
部屋が、静かになった。
本当のことだった。心からの言葉だった。
◇
でも、そこから、話がおかしくなった。
「薪はどうだ。冬に困らんだろ」
「本の家に運べないよ」
「なら、麦だ!」
「干し肉で手一杯だろうが」
「……そうだった」
「うちは、娘をやってもいいよ」
「ノエはまだ十四だぞ」
「うちのだって十だよ」
「余計に駄目だろ」
ノエは、湯呑みを両手で持って、下を向いていた。
耳が熱い。
そのあと、なぜか井戸の順番の話になった。
村長が二度、卓を叩いた。二度目のほうが弱かった。
それを止めたのは、ボルドだった。
壁にもたれて腕を組んでいた男が、身を起こした。
「ヨナスんとこの畝を、俺が起こす」
部屋が、静まった。
ボルドは、こちらを見ていなかった。
「ノエは畑に出られん。その分、誰かが出りゃいい。それだけの話だろうが」
村長が、顎を撫でた。
「……それは、報酬かね?」
「報酬だ」
ボルドは、言い切った。
「ノエに渡すんじゃねえ。ヨナスんとこに渡すんだ。だから、こいつが断っても関係ねえ」
ノエは、顔を上げた。
ボルドは、まだこちらを見ていない。
「あの」
「うるせえよ」
「まだ何も言ってません」
「言おうとしただろうが」
ボルドは、壁から離れた。
「春に三日。俺がヨナスんとこの畝を起こす。ノエ、書いとけ」
ノエは、帳面を出さなかった。
出せなかった。
代わりに、セルグが手を叩いた。
「じゃあ、うちは水汲みを。夏のあいだ、ノエんとこのぶんも汲む」
「うちは麦を挽くよ。うちの臼は大きいからね」
「なら、うちは──」
次々に出た。
どれも、ノエに渡すものではなかった。ノエの家に渡すものだった。
断る言葉を、ノエは探した。
見つからなかった。
卓の向こうで、母が下を向いていた。両手を膝に置いて、じっとしている。その手が、膝の布を握っていた。
◇
家に帰ってから、マイラは何も言わなかった。
鍋を火から下ろすとき、いつもより音が大きかった。匙を置くときも、大きかった。
ノエが寝床に入ってからも、しばらく土間で何かをしている音がしていた。
やがて、その音が止まった。
止まったきり、何も聞こえなくなった。
ノエは、薄目を開けた。
母が、竈の前に座っている。
火は、もう落ちていた。灰が赤いところだけ、わずかに残っている。その明かりで、丸めた背中の形だけが見えた。
何もしていなかった。
鍋も、繕い物も、そばにない。ただ、そこに座っていた。
長かった。
やがて、マイラが息を吐いた。
「……よかったじゃないか」
背中のほうから、声がした。
いつもの声より、少し掠れていた。
ノエは、目を閉じた。
寝たふりをした。
立ち上がる音がして、灰をかき混ぜる音がして、それから寝床のほうへ歩く音がした。
しばらくして、父の声が聞こえた。
「泣くなよ」
「泣いてないよ」
それきりだった。
◇
その夜、ノエは帳面を開いた。
灯りが、風で少し揺れている。
ボルド。畝起こし、三日。
セルグ。水汲み、夏のあいだ。
テッサ。麦を挽く。
書きながら、指が止まった。
──これは、消えない。
去年の冬に思ったのと、同じことを思った。
◇
頁を戻した。
六通ぶんの宛先を、書き写してある。誰が誰に出したか、忘れないように。
水車小屋の三軒隣。屋根の南側に苔。粉屋のマレナ。
村長の家のはす向かい。黒い犬。トルド。
赤い髪の姉。嫁ぎ先の村までは聞いた。
名前を、一つずつ指でたどっていく。
ふと、その指が止まった。
──この人たちは、字が書けるんだろうか。
◇
村には、名前を書ける者が二人しかいなかった。村長と、行商人だ。
それが普通だと思っていた。
元の村も、同じかもしれない。
聖典が一冊あって、誰も読めなくて、しみを目印にして唱えている。そういう村だ。この村の者は、みんな、そういう村から来た。
届いても、そもそも読めない。
誰かに読んでもらわないといけない。読める誰かが村にいるかどうか、ノエは知らない。
そして、返事を書くには。
──向こうにも、書ける人が要る。
ノエは、灯りを見ていた。
芯が短くなって、炎が小さくなっている。油を足せば、まだ持つ。
足さなかった。
テッサは、三日間考えた。椅子に座って、何度も言い直して、四回、手を組んではほどいた。それで出てきたのが、漬物の漬け方だった。
デュラは、名前を三回言い直した。トルドなのか、トルダなのか、自分で自信がないと言って、結局トルドにした。
そして最後に、背筋を伸ばして、井戸を掘ったんだ、と言った。
その人たちに。
──言えない。
炎が、揺れて、細くなった。
ノエは、それを吹き消した。




