12話
毎朝の行列は、止まった。
書いてしまえば、あとは待つだけなのだ。そわそわと並んでいた人たちは、またいつも通りに畑へ戻っていった。
ノエは、本の家へ通う日課に戻った。
麦は、まだ膝よりも低い。
◇
三日目の朝、道の途中にデュラが立っていた。
畑へ行く途中ではないようだ。鍬も持っていない。ただ、道の脇に立っていた。
「ノエ」
「はい」
「──まだかね」
「返事のことですか? なら、まだだと思います。行くのに二日、向こうで四日かかるって言ってましたから」
「そうか」
デュラは、うなずいた。
それから、村のほうへ戻っていった。
次の日も、同じ場所に立っていた。
「まだかね?」
「まだです」
「そうか」
その次の日も、立っていた。
麦が、少し伸びていた。
◇
六日目、デュラは道にいなかった。
七日目も、いなかった。
ノエは、帰りに遠回りをして、デュラの畑のほうへ回った。
デュラは、畑にいた。膝をついて、草を抜いている。
「デュラさん」
「おう」
「今日は、道にいませんでしたね」
デュラは、草を抜く手を止めなかった。
「もう、聞かんことにしたんだ」
「……どうして?」
「聞いても、まだだろう?」
ふっ、と笑って、抜いた草を脇に放る。
「聞かんでも、来るときゃ来る。気にしてたらな、なかなか日が経たんでな」
デュラはそう言った。
それから、次の草に手を伸ばした。
まっすぐに手元を見つめている。
しばらく、その手が動く音だけがしていた。
「……兄貴はな」
口を開いて、すぐに止まった。
ノエは、待った。
「俺が村を出るとき、見送りに来なかったんだ」
デュラの手が、動き続けている。
ノエよりも深く、数の多い皺が、濃い緑色に浮き上がっている。
「──畑があるから、ってな」
草が一本、また脇に放られた。
「まあ、そりゃそうだわな。畑があるんだから」
ノエは、何も言わなかった。
畑の土が乾いていた。デュラの膝のあたりだけ、色が濃くなっていた。
◇
春の畑に、ボルドが立っている。
ヨナスの畝である。三日ぶんの、一日目だ。
ボルドの鍬は、相変わらずの三日月だった。新しい刃は今年はボルドに渡されているのに、まだ替えていないらしい。
ノエは、畦道に座って、それを見ていた。
ざっ、ざっ、と土を掘り返す音がする。
速い。ヨナスよりも速かった。
「見てんじゃねえよ」
「僕の、報酬なので」
「……気色わるいな」
ボルドは、そう言いながらも手を止めなかった。
四半刻ほどして、ようやく鍬を置いた。畦に座って、手拭いで顔を拭く。日に焼けた首から、湯気が立っていた。
ノエは、しばらく隣で黙っていた。
それから、言った。
「──返事、来ないかもしれません」
手拭いが、止まった。
ボルドの視線は感じない。
「向こうの村に、字を読める人がいないかもしれないんです」
ボルドは、手拭いを首にかけた。
畑の向こうを見ている。麦の穂先が、風で一斉に傾いた。
「……そうか」
「はい」
「テッサさんには」
「まだ、言ってません」
「そうか」
ボルドは、それきり黙った。
ノエも、黙った。
言ってしまってから、少し楽になった。この人に言えたのは、この人が誰にも出していないからだ。
畑の向こうで、誰かが呼び合っている。声だけが遠くから届いた。
やがて、ボルドが口を開いた。
「俺にもな」
「はい」
「一人、いるんだ」
ノエは、ボルドを見た。
ボルドは、まだ畑の向こうを見ていた。手拭いのはしを、指でひねっている。
「三年前に、一緒に来るはずだったやつが」
指が、止まった。
「……いや」
立ち上がる。
「なんでもねえ」
鍬を担いで、畝へ戻っていった。
かん、と石に当たる音が、また始まった。
さっきより、少しだけ遅かった。
◇
荷馬車の音が聞こえたのは、それから十日目の昼だった。
がらがら、がらがら。
畑にいた者が、鍬を置いた。家にいた者が、戸を開けた。
村じゅうが、道に出てきた。
誰も走らなかった。走らずに、みんな門のほうへ歩いていった。
坂を上りきった荷馬車が、門の手前で止まる。
馬が、鼻を鳴らした。
ハンナが、御者台から飛び降りた。
◇
誰も、何も言わなかった。
二十人ほどが、荷馬車を囲んで立っている。
ハンナは、その顔を見回した。
それから、上着の内側に手を入れた。
「……手紙は」
村の者が、動かない。
「一通も、来てない」
息を吸う音が、いくつか聞こえた。
テッサが、両手を胸の前で握った。
ハンナは、上着から手を出した。何も持っていなかった。
「四つとも行ったよ。全部、家は見つけた」
誰かが、うなずいた。
「みんな、生きてたよ」
その言葉で、何人かの肩が下りた。
「でも、書ける人がいなかったんだ」
ノエは、動かなかった。
十日前の夜、灯りを吹き消す前に、同じことを考えた。考えて、誰にも言わなかった。
言わずにいるあいだは、間違いであってほしいと思っていられた。
──当たってしまった。
当てたかったわけじゃない。
村長が、うなずいた。
二度うなずいて、それから、口を閉じた。
誰かが、地面を見ている。誰かが、空を見ている。
馬が、足を踏み替えた。
ノエは、目を閉じてその音を聞いていた。
◇
「でもね」
ハンナが言った。
顔を上げた者がいた。
「荷物なら、来てるよ」
ハンナは、荷台へ回った。
幌をめくる。
いちばん奥から、包みを引き出した。
両手で抱えないと持てない大きさだった。麻布で厳重にくるんで、上から縄をかけてある。
ハンナは、それを地面に置いた。
どすん、と音がした。軽くはないらしい。
そして、村の者を見回して、言った。
「これを、テッサさんに」
◇
テッサは、動かなかった。
セルグが、女房の背中を押した。押されて、二歩だけ前に出た。
「……あたしに、かい?」
「テッサさんの母さんが、テッサさんにって」
ハンナが言った。
「井戸で聞いて回って、家を見つけて、手紙を渡した。読める人を探したけど、いなかった。だから、村長さんに読んでもらったんだって」
「村長さん?」
「あっちの村の。名前だけは書ける人だよ。だから、途切れ途切れだったけどね」
ハンナは、包みを指した。
「二日待ってくれって言われたんだ。それで、これを渡された」
◇
テッサは、包みの前に膝をついた。
縄をほどく手が、うまく動いていなかった。二度、指が滑った。
セルグが手を出そうとして、引っこめた。
ようやく麻布が開いた。
中から出てきたのは、一本の縄だった。
太い麻縄に、いくつも何かが結わえてある。布の袋。乾いた葉の束。実を包んだ紙。それが、縄に沿って、間を空けて並んでいた。
テッサは、それを見ていた。
誰も、何も言わなかった。
◇
ノエは、縄を見た。
結び目が、五つ。
袋が一つ、葉の束が二つ、実の包みが一つ、それから最後にもう一つ袋。
それだけだった。
ノエには、それだけにしか見えない。
どの袋に何が入っているのかも、なぜ縄に結んであるのかも、わからない。
文字は、どこにもなかった。
テッサが、縄の端に触れた。
いちばん最初の結び目だ。
指が、そこで止まる。
「……一」
声が、出た。
「二」
次の結び目に、指が移る。
「三、四……五」
テッサは、縄を両手で持ち上げた。
持ち上げて、そのまま動かなくなった。
◇
「──順番だ」
テッサが言った。
「これ、順番だよ! 使う順番に、結んであるんだ!」
顔が、上がった。
「塩が先で、それから葉っぱで、それから実で、また葉っぱで、最後にもういっぺん塩なんだ。あたしが忘れてたのは、これだよ!」
テッサの声が、上ずっていた。
「三年、ずっと、順番だけが違ってたんだ。実を先に入れちゃってたんだよ。だから味が変わってたんだ」
誰かが、笑った。
笑い声が、二つになって、三つになった。
「順番だけかい」
「順番だけだったよ!」
テッサは、縄を抱えたまま笑っていた。
笑いながら、袖で顔を押さえた。
◇
まだ、包みの中に何か残っていた。
麻布の底に、丸い膨らみが一つ。
テッサが、右手を突っ込んで持ち上げようとした。
持ち上がらなかった。両手をかけて、ようやく膝の上に乗せた。
石だった。
平たくて、丸い。表面が、白っぽくすり減っている。真ん中のあたりだけ、色が違った。何かの重みで、長いあいだ同じところが当たっていたのだろう。
テッサの手が、止まった。
「……これ」
石の縁を、指でなぞる。
「これ、うちの石だ」
「石?」
「漬物の重しだよ」
テッサは、両手で石を抱えた。
「あたしが子どものころから、うちにあったやつさ。母さん、これをいつも乗せてた」
包みの中には、それ以外に何もなかった。
紙も、布切れも、印も、何一つ入っていなかった。
◇
テッサは、石を抱えたまま、しばらく動かなかった。
周りの者も、動かなかった。
馬が、荷台の縁に鼻をこすりつけている。その音だけがしていた。
やがて、後ろのほうから声がした。
「そりゃあ、まごうことない手紙だよ」
ゲルダだった。
人のあいだから、少しだけ前に出てくる。
「なあ、そうだろう?」
テッサが、顔を上げた。
ゲルダは、笑っていた。
いつもの、皺だらけの顔で。
「字が書けないんだ。だから、ものを送ったんだよ」
テッサが、うなずいた。
何度もうなずいて、それから、石に額をつけた。
誰も、その背中に何も言わなかった。
◇
ノエは、縄を見ていた。
結び目が、五つ。
自分には、それだけだった。
でも、テッサにだけは、違った。
──読めたのだ。
ノエではなく、テッサが。
紙も、文字も、使わずに。
風が吹いて、麦が一斉に傾いた。乾いた音がした。
ノエは、しばらくその音を聞いていた。
◇
テッサは、縄と石を抱えて家へ帰った。
セルグが、石のほうを持とうとした。渡さなかった。
女房連中が、そのあとをぞろぞろついていった。今日のうちに漬けるつもりらしい。この季節に漬けるものではないはずだが、誰も止めなかった。
村の道が、しばらく騒がしかった。
◇
その日の夕方、ハンナが村長を呼んだ。
荷台の上で、革の袋を開けている。
「干し肉、売れたよ」
村長の口が、開いた。
「五日で全部。もっとあれば、もっと売れたんだけどね」
ハンナは、袋の中身を数えていた。銭が、ちゃりちゃりと鳴っている。
「三割引いた。残りが、これ」
村長の手が、袋を受け取った。
受け取ってから、しばらく持ったまま動かなかった。
「……これは」
「村のぶんだよ」
「いや、その、これは」
「多い? 少ない?」
「……わからん」
「わからないなら、次から交渉しな」
ハンナは、荷台から降りた。
「あと、猪をもっと獲って。冬までに」
ボルドが、後ろのほうで背筋を伸ばした。
「おうよ」
返事が、やけに大きかった。
◇
村長は、その銭で、まず何を買うかを決めなければならなくなった。
その晩、村長は家の前に台を出した。
中に入る人数ではなかったからだ。誰が呼んだわけでもないのに、村じゅうが集まっている。焚き火が焚かれて、女房連中が鍋を持ってきた。テッサの家からは、漬けたばかりの匂いがしていた。
鍬の刃。鍋。塩。話は延々と続いて、三度目に井戸の順番へ逸れたところで、村長が台を叩いた。
ノエは、火のそばで帳面に書いていた。
誰が何を言ったかを、順番に。ひとつひとつ。
手元が暗くて、二度、火のほうへ寄った。
◇
帰り際、荷馬車のところでハンナを見かけた。
明日の朝に出るというので、今夜は小屋に泊まるらしい。カルスの、柱の傾いた小屋のことだ。
「ハンナさん」
「なに?」
「ありがとうございました。手紙のこと」
「渡しただけだよ?」
「届きました。ちゃんと」
ハンナが、こちらを見た。
それから、少し笑った。
いつもより優しい、控えめな笑みだった。
「そうだね」
馬の背に、布をかけている。
「あ、そうだ」
手を止めずに、ハンナが言った。
「レイヴンの村で、聞かれたよ」
「何をですか」
「ノーラって村に、字の書ける人がいるのかって」
ノエは、動きを止めた。
「……誰にですか?」
「知らないね」
ハンナは、布の端を馬の腹の下でくぐらせている。
「井戸で聞いて回ったからね。あちこちで話したんだ。この村から手紙が来たって」
布を結び終えて、手を払った。
「そのうち、誰か来るかもよ?」
それだけ言って、小屋のほうへ歩いていった。
ノエは、その場に立っていた。
村のほうから、まだ言い合う声が聞こえていた。井戸の順番の話が、まだ続いているらしい。




