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13話

第十三話 よく書けてる



「その木はもう倒れたんだよ!」


 テッサの声で、ノエは顔を上げた。


 相変わらず、よく通る大きな声だ。村長の家が柱から震えた気がする。


 今日は、夏の草刈りの割り振りを決める日だった。


 ノエは、手元の帳面を見た。


 いちばん上に「夏の草刈り」と書いてある。その下は、白いままだった。


「倒れる前の話をしとるんだ」


 デュラが、卓を叩いた。


「倒れる前を、誰がおぼえてるんだい」


「わしがおぼえとる」


「あたしもおぼえてるよ。違うふうにね」


 女房連中は、編み物の手を止めなかった。


 セルグは、壁にもたれて目を閉じている。


 村長が、こめかみを押さえた。


◇


 話が逸れたのは、三度目だった。


 一度目は、井戸の順番だ。デュラが「来年は俺が最初だ」と言ったところから始まった。


 二度目は、その井戸を誰が掘ったかという話で。


 三度目に、境の木が出た。


 ノエは、帳面の頁を戻した。


 去年の冬の頁。


 いちばん下に、一行だけある。


 ──デュラ、テッサ。境の木。決まらず。


 もう一枚、戻した。


 まったく同じことが書いてあった。指でなぞって、そっと頁を戻した。


「だいたい、あの木は誰が植えたんだい?」


「植えとらんよ。勝手に生えたんだ」


「じゃあ、そもそも誰のもんでもないじゃないか」


「木の話はしとらん。畑の話をしとるんだ」


 ノエは、筆を置いた。


 去年も、その順番だった。


 誰が植えた。勝手に生えた。誰のものでもない。木の話はしていない。


 四つとも、同じだ。


「……去年と、同じです」


 部屋が、静かになった。


 デュラが、こちらを向いた。


「同じとは、何がだ?」


「言ってること、同じです。去年も、同じ順番で同じことを言ってました」


「……そんなこと、書いてあるのかい?」


 テッサが、身を乗り出した。


「はい。書いてあります」


「見せてみな」


「どうぞ」


 ノエは、頁を開いて卓に置いた。


 村長ご自慢の、村一番大きな一枚板を丁寧に磨き込んだ卓だ。


 二人が、身を乗り出して両側から覗きこんだ。


 肩がぶつかった。デュラが、少し押し返した。


 しばらく、そのままだった。


 二人とも、読めないんだから当然だった。


「……なんて書いてある?」


「決まらず、とだけ」


「それだけかい」


「それだけです」


 テッサが、椅子に座り直した。


 デュラが、腕を組んだ。


 編み棒の音が、また鳴りはじめた。


 村長が、咳をした。


「……草刈りの話を再開しようかね」


「そうだね」


「おうよ」


 ノエは、筆を持ち直した。


 白いままの頁に、ようやく一人目の名前を書いた。


◇


 今回の帳面には、その一件だけが載っていない。


 木が倒れたのは、一昨年の嵐のことだ。倒れたから、根から抜いて、穴を埋めて、均した。そうしたら、どこにあったかわからなくなったらしい。


 村の者総出で作業をして、だれも覚えていなかった。


 ノエは、家までの道で、もう一度頁をめくった。


 誰が何を出したか。誰が何日働くか。井戸の順番。


 書いてあるのは、決まったことばかりだった。


◇


 帰り際、村長がノエを呼び止めた。


「そういえば、今年も来るころだ」


「何がですか?」


「書記さまじゃよ」


 村長は、顎を撫でた。


 視線の先で、まだ青い畑が、風で波打っている。


「穂が出るころにな。毎年、聞きに来るんだ」


 ノエは、三度、見ている。


 灰色の外套を着て、馬に乗ってくる。村長の家で帳面を広げて、名前を呼ぶ。生まれた者と、死んだ者。それだけだ。


 畑のことは、聞かれない。村長が何か言うと、書記はうなずいて、次の名前を呼ぶ。


 半日で終わって、その日のうちに馬で出ていく。


 字が読めなかったころ、ノエはその指の動きだけを見ていた。羽根の先が紙をこする音が、しゃっ、しゃっと鳴っていた。


 誰も、紙を持ってこいとは言われなかった。


◇


 その晩、父に聞いた。


「書記さまか。元の村にも来てたな」


 ヨナスは、椀を持ったまま言った。


「どんな人だった?」


「俺は前に出たことがない。畑を継ぐのは兄貴だったからな」


 匙で、椀の底をこすった。


「あれは、土地を持っとる者の話だ」


「うちは?」


「うちはまだ、ただで貸してもらっとる身だ」


 ヨナスは、椀を置いた。


 日に焼けた太い腕だ。木の椀よりも、遥かに深い色をしている。


 マイラに目を向けて、ヨナスは少し照れくさそうに、でも誇らしげに笑った。


「来年で、うちの畑になる。そのときは、俺も前に出るんだろうな」


◇


 麦は、まだ膝に届かない。


 雲ひとつない、晴れた日が続いていた。空気は程よく乾いていて、呼吸がしやすい。


 ノエは毎日、本の家へ通った。ときどき、カルスの荷を数え、セルグの忘れ物に答え、村長の家で決まったことを書いた。


 ハンナは来なかった。


 ゲルダが、時々、道の先を見ていた。


◇


 その日も、ノエは本の家に向かおうとしていた。


 門の手前で、聞き馴染みのない音がしていた。


 酷くつらそうな息づかいと、村の誰とも少し違う歩きかた。片方だけを重そうに引きずっているよう。


 男が一人、坂の途中にいた。


 背は父より高い。ただ、肩が薄かった。日に焼けた首が、襟から細く出ている。


 履き物の底が、片方だけ剥がれていた。それを引きずるから、音が揃わない。


 膝から下が、泥で乾いて白くなっていた。


 男は、門のところまで来て止まった。


 止まったまま、しばらく口を開かなかった。


 肩が、大きく上下している。


「……字の、書ける人が」


 声が、かすれていた。


 目だけが、爛々とノエのことを見据えている。


「この村に、いるって」


◇


 異変に気付いた村の者が、道にわらわらと出てきた。


 鍬を持ったままの者もいる。


 男は、その顔を順に見た。それから、また門の柱に手をついた。門扉に土埃の手形がくっきりと浮かんだ。


「街道の、南から来た。ラントの村の、ガロンという」


 村長が、顎を撫でた。


「南……四日ほどのところの村かね」


「四日だ」


「歩いてこられた?」


「歩いてだ」


 村長は、それきり何も聞かなかった。


 それから、ノエを見た。


 目を合わせて、ひとつ頷いた。


◇


 父の椅子は、戸口の前にずっと出したままになっている。


 ガロンは、そこに座った。


 座るまでに、時間がかかった。膝を曲げるとき、両手で自分の腿を押さえていた。


 ノエは、その前に膝をついた。


 目の高さが、同じになる。


「話を、聞かせてください」


「……あんたが、書くのか」


「はい」


 ガロンは、ノエの手を見た。


 ペンだこと、インクの染み以外、何も汚れていない手だった。


 それから、自分の手を見た。


 爪が割れて、指の節が太い。ヨナスと同じ手だった。


◇


 ゲルダが、桶を提げてきた。


 湯気が出ている。地面に置いて、ガロンの足元に押しやった。


「足を出しな」


「……いや」


「いいから、さっさと出しな」


 ガロンは、履き物を脱いだ。


 底の剥がれたほうが、先に落ちた。


 足の裏が、白くふやけていた。踵のところが、割れて黒くなっている。


 ゲルダは、それを湯に入れた。


 ガロンの背中が、跳ねた。


「あ、熱いって!」


「熱いってわかるなら、大丈夫だね」


 ゲルダは、布を絞った。


 桶の湯があっという間に濁っていく。


「あんた、いくつだい?」


「三十だ」


 ゲルダの手が、一瞬だけ止まった。


 それから、また洗った。


◇


「親父が、死んだんだ」


 ガロンは、そう言った。


「ハルグって名前で、去年の秋のことだ。書記さまが村を出ていった、その次の日でな」


 ノエのペン先が、止まった。


「親父の畑は、開拓地でな。今年で年季が明ける」


「年季?」


「五年、耕したら、自分のもんになる。そういう約束だ」


 ガロンは、膝の上で両手を組んだ。


「代官さまに届けを出さんと、領主さまのもんに戻るらしい」


「届け、ですか?」


「親父の畑を継いだ、という書付だ。次の巡回までにちゃんと出せと」


「……次の巡回は、いつですか?」


「穂が出るころだ」


 ノエは、麦のほうを見た。


 膝に届かない丈で、風に傾いている。


 それから、帳面に書いた。


 ラント。ハルグ。年季。穂が出るころ。


◇


「代官さまのところには──」


「行ったさ」


 ガロンの声が、低くなった。


「四日、歩いてな」


「四日……」


「窓のところで、用件を言ったんだ。そうしたら」


 ガロンは、自分の膝を見ていた。


「書いて出せ、と」


「書いて、ですか」


「ああ、書いて出せ。そう、言われた」


 村長が、何か言いかけて、やめた。


「うちの村長は、名前しか書けん」


 ガロンは、それだけ言った。


「……それで、四日、歩いてきた。この村に字を書ける人がいると、村長が教えてくれたからな」


◇


 ノエは、聞いた。


 父のこと。畑のこと。冬のあいだ、何をしていたか。


 ガロンは、順番に話さなかった。話が、行ったり来たりした。


 子どものころ親父に石を拾わされた話をして、それから急に、麦の話に戻った。


「ガロンさんのお父さんは」


「ああ」


「どんな、人でしたか?」


 ガロンの口が、開いた。


 開いたまま、しばらく何も出てこなかった。


「……普通だった」


 ノエは、待った。


 ガロンは、自分の手のひらを見ていた。皮が剥けては治ってを繰り返した、硬い手のひらだ。それから、指を一本ずつ曲げた。


「石を拾うのが、うまかった」


「どんな石ですか?」


「畑の石だよ。おれが一日かかるとこを、半日で拾う。どこに埋まってるか、わかるんだと」


 ガロンは、指を伸ばした。


「教えろって言ったら、そのうちわかると言って教えてくれなかった」


 顔を上げる。遠くを見ている。


「まだ、わからんままだ」


 ノエは、それを書いた。


「麦は蒔いたのか?」


 セルグが聞いた。


「蒔いたよ」


「一人で、か?」


「……一人で、だ」


 セルグは、腰に手を当てたまま黙った。


 それから、ガロンから目をそらした。


◇


 ノエは、家から紙を持ってきた。


 インクの壺の蓋を開けて、万年筆を握る。


「そのまま、書きます」


「そのままとは?」


「はい。ガロンさんが言ったことを、そのまま」


 ガロンが、うなずいた。


 うなずいてから、椅子の上で背筋を伸ばした。


◇


 代官所の、お役人さまへ。


 街道の南の、ラントの村の、ガロンといいます。

 父の名は、ハルグといいます。


 父は、去年の秋に死にました。書記さまが村を出ていった、その次の日でした。

 だから、帳面には、まだ生きていることになっていると思います。


 父の畑は、今年で年季が明けます。

 父が死んだあとも、畑は続けています。冬のあいだに石を拾いました。春に麦を蒔きました。いまは、膝より高くなっています。


 父は、この畑を自分のものにするために、五年、耕しました。

 わたしは、その続きをしています。


 どうか、父の畑を、わたしのものにしてください。


 ラントの村 ガロン


◇


 ノエは、それを読み上げた。


 ガロンは、動かなかった。


 両手を膝に置いたまま、まっすぐ前を見ている。


 読み終えても、しばらくそのままだった。


「……もう一回」


「はい」


「そこだけ、もう一回」


「どこですか?」


 ガロンの喉が、動いた。


「親父の、名前のとこ」


 ノエは、紙を持ち直した。


「──父の名は、ハルグといいます」


 ガロンが、うなずいた。


「もう一回」


「父の名は、ハルグといいます」


 ガロンは、桶の中で足を動かした。


 湯が、少しこぼれた。


「……秋から、誰も呼ばんのだ」


「どういうことですか?」


「親父の名前をな、誰も呼ばん。みんな、おれに気を遣って」


 ガロンは、椅子から降りた。


 湯の中から足を出して、そのまま地面に膝をついた。


 片手を土についている。もう片方の手が、土を掴んでいた。指のあいだから、こぼれていく。


 土に、点が落ちた。二つ、三つ。そこだけ、色が濃くなった。


 誰も、何も言わなかった。


 ゲルダが、そっと桶を横へどけた。


◇


 その日のうちに村を発つというガロンに、テッサが焼き締めたビスケットを持たせた。


 村長が、蔵から干し肉を三枚出させた。


「村のぶんから出す。あとで帳面に書いとくれ」


 ノエは頷いた。


 カルスが、小屋から革の切れ端を持ってきた。


 ガロンの履き物を膝に乗せて、底に当てて、糸で縫っている。


「すみません。金は、今はなくて──」


「あとで、麦をいただければ結構です」


 カルスは、糸を歯で切った。髪をかき回す。


「わしも十年、こればっかり履いとりましたから」


 ガロンは、包みを両手で受け取った。


 紙は、いちばん内側に入れた。胸のところを、手のひらで一度だけ押さえた。


 坂を下りていく足音は、来たときより速かった。


 両方の音が、揃っていた。


◇


 その夜、ノエは指を折った。


 ラントまで四日。ラントから代官所まで四日。帰りも、同じだけ。


「……十六日」


 母が、椀を置いた。薬湯から白い湯気が立ちのぼる。


「なにか言ったかい?」


「なんでもないよ」


◇


 麦が、伸びた。


 朝に見ると、昨日より葉先が高い。


 ノエは、本の家へ通った。


 帳面に、書いた手紙のことを写した。誰の、どこへ宛てた、何の紙か。


 書き足すことは、なかった。


◇


 井戸のところで、セルグが腰をさすっていた。


「四日だぞ。しかも、あの足で」


「たぶん五日はかかってるよ」


 テッサが、桶を置いた。


「あの履き物でだよ? うちの人なら六日かかるね」


「なんで俺が出てくるんだ?」


「そりゃ、出てくるさ。自分の姿を見てみな」


 テッサは、桶を担いで先に行った。


 セルグは、腰を押さえたまま、それを見送っていた。


◇


 六日目に、セルグが忘れ物を聞きに来た。


 去年の秋、村長の家で誰が何を出したかという話だった。ノエは帳面をめくって、答えた。


 礼は、言われなかった。


 いつも通りだった。


 その晩、ノエは帳面を閉じて、灯りを吹き消した。


 ガロンの手紙のことは、考えなかった。


 書いたことは、帳面に残っている。


◇


 十七日目の夕方だった。


 坂の下から、足音がした。


 片方だけ、重い音だ。


 ノエは、戸口から出た。


 ガロンが、坂を上りきったところで止まっていた。


 両手を膝について、うつむいている。


 背中が、大きく動いていた。


 ノエは、走った。三歩で息が上がって、あとは歩いた。


「ガロンさん!」


 ガロンは、顔を上げなかった。


「……これじゃ、駄目だと言われたよ」


 ノエは、立ち止まった。


「駄目、ですか?」


「駄目なんだと」


 ガロンが、手のひらを開いた。


 何も持っていなかった。


「手紙は?」


「置いて帰れと言われた。役所は、書付を返さんそうだ」


 ガロンは、開いた手を、そのまま下ろした。


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