14話
第十四話 シイシ
開いた手のひらに、潰れたまめの跡が並んでいた。
夕日が坂の下から差して、その手を照らしている。
ノエは、そこから目を離せなかった。
◇
「他には、なんて言われましたか?」
「……よく書けてる、と」
ノエの手が、動かなくなった。
「よく書けてる、と言われた」
ガロンは、門の柱に背中を預けた。
「そのあと、何か言われた。むつかしくて、長かった。半分もおぼえとらん」
「一つでも、何かおぼえてませんか?」
「一つか」
「はい。おぼえている言葉を、一つでも」
ガロンは、目を閉じた。
しばらく、そのままだった。
「シイシ」
「シイシ」
「シイシが、ない、と」
ガロンは、目を開けた。
「それだけだ。あとは、わからん」
風が来て、麦が鳴った。
穂先は、まだ出ていない。
◇
ガロンは、その晩、カルスの小屋に泊まった。
ノエは、母が持たせた粥の鍋を、両手で抱えて坂を下りた。
まだ熱い。指が痛くなって、途中で二度、地面に置いた。
戸を叩くと、カルスが開けた。
「おや、これはこれは」
中は、灯りが一つきりだった。
ガロンは、床に敷いた藁の上に座っていた。両足を前に投げ出している。
足の裏が、赤黒く腫れていた。
カルスが、その横で革の切れ端を裏返している。縫い直したところが、また裂けていた。
「もう、当てるとこがないですわ」
カルスは、頭巾を脱いで髪をかき回した。
ノエは、鍋を置いた。
◇
ガロンは、匙を持ったまましばらく動かなかった。
それから、言った。
「あんたのせいじゃない」
「……はい」
「役人が、そう言ったんだ。よく書けてる、と。だから、あんたのせいじゃないんだ」
ノエは、床を見ていた。
ガロンが、粥をすすった。音が、大きかった。
「……なあ」
「はい」
「あの手紙、まだ言えるか?」
「言えます」
「ぜんぶか?」
「ぜんぶです」
ガロンが、匙を置いた。
「言ってくれ」
ノエは、はじめから言った。
紙はもうない。代官所に置いてきた。
それでも、言葉の順番も、行の切れ目も、ぜんぶそこにあった。
ガロンは、目を閉じて聞いていた。
父の名前のところで、うなずいた。
二回とも、うなずいた。
◇
小屋を出ると、外はもう暗かった。
カルスが、戸口まで送ってきた。
「歩けんですよ、あれは」
声を落としている。
「底は縫うたんですがね。足のほうが、もう……」
ノエは、空になった鍋を抱えたまま立っていた。
書いた手紙を、頭の中でもう一度めくった。
いったい何を直せばいいのか、と考えた。
考えて、何も出てこなかった。
直すところがわからないのだから、直せない。
それは、書けなかったときとは、違う困り方だった。
◇
次の朝、ノエは沢を渡った。
緑が濃い。色も、匂いも。虫の声もだんだんと賑やかになってきている。
倒れた木の上を、片手をついて渡る。いつもより足が滑った。
本の家の中は、静かだった。外の音は、何ひとつ入ってこない。
ノエは、片眼鏡をかけた。
棚から『官語辞典』の三巻目を下ろす。両手で抱えないと運べない。
机に置いて、めくった。
シイシ。
音しか、わからない。
丸い文字で「し」から始まるものを、順に追った。
紙が薄い。指の腹が乾いていると、二枚まとめてめくれる。ノエは、指を唾液で湿らせた。
「しい」で始まる語は、三つあった。
一つ目は、人に何かを命じることだった。二つ目は、時のことだった。三つ目は、読めない字が混じっていた。
どれも、土地の話ではなかった。
◇
巻を戻して、一巻目を下ろした。
棚が高い。爪先で立って、背を押し出すようにして引き抜く。
抱えたところで、腕が震えた。
机の角に一度置いて、持ち直した。
「い」から始まるものを見た。ちがった。
二巻目を下ろした。
同じところで、また震えた。
高窓の光が、机の端から真ん中へ動いていた。
埃が、その中をゆっくり流れている。
ノエは、めくった。めくって、戻して、また前からめくった。
指の腹が、紙で切れた。細い線が一本、赤く滲む。
舐めて、続けた。
◇
見つけたのは、光が机を通り過ぎたころだった。
丸い文字が、二つ。
その下に、細い字が続いている。
ノエは、声に出して読んだ。
「四至。土地の四方の境をいう。東、西、南、北。それぞれ何に接するかを記し、境の長さを添えて、その土地を一つに定める」
もう一度、読んだ。
三度目は、指で押さえながら読んだ。
何に、接するか。
東は、誰の畑か。西は、道か、沢か。南は。北は。
ガロンは、それを一つも言わなかった。
ノエも、一つも聞かなかった。
◇
あの手紙には、ガロンの父のことが書いてある。
石を拾ったことが書いてある。麦の丈が書いてある。五年耕したことが書いてある。
名前も、書いてある。ハルグ。ガロン。二回ずつ。
畑のことは、一つも書いていない。
役人は、あの手紙をぜんぶ読んだのだ。読んで、よく書けてる、と言った。
それから、どこの畑かわからん、と言ったのだろう。ガロンがおぼえていない、その半分の中で。
──土地のことをお願いするのに、人のことしか、書いていない。
ノエは、机に額をつけた。
恥ずかしかった。
顔が熱い。誰も見ていない場所で、耳の後ろまで熱くなった。
ガロンは、四日歩いて、四日歩いて、また四日歩いて、四日歩いた。
靴底に縫い付けた新しい革が破れて、もう歩けなくなるまで。
そのあいだ、ノエは指を折って数えていただけだった。
十六日、と。
しばらく、そのままでいた。
◇
顔を上げた。
辞典には、こう書いてあった。
境の長さを添えて。
ノエは、その行を指でなぞった。
──測ればいい。
──どうやって?
棚が並んでいる。机の上に、紙がある。インクがある。
どこから測って、何で測って、どう書くのか。
ノエは、村で誰かが畑を測っているところを、見たことがなかった。
デュラとテッサも、二年、揉めている。
抜いて、均して、それきりだった。
書記が来ても、二人とも同じことを言うのだろう。変わりない、と。
二枚を足した広さは、合っている。
書記は、それを書き取って帰っていく。
誰も、測っていない。
◇
カルスの小屋の戸は、開いていた。
ガロンが、中で荷を担ぎ直している。麻袋が一つきりの荷だった。
「ガロンさん」
ガロンが、振り返った。
目の下が、黒い。
「もう一度、書かせてください」
ガロンの手が、袋の紐にかかったまま止まった。
「……何を、直すんだ」
「畑のことを書きます」
ノエは、戸口に立ったまま言った。
「畑の東と、西と、南と、北に何があるか。それを書きます。それと、境の長さを」
「長さ?」
「はい」
ガロンが、袋を下ろした。
「測るのか」
「測ります」
ノエは、そこで一度、口を閉じた。
それから、言った。
「でも、測り方はまだ知りません」
◇
ガロンは、ノエを見ていた。
窓から、南の光が入っている。柱が少し傾いているので、床の光も傾いていた。
「知らんのか」
「はい」
「いつまでに、わかる?」
ノエは、答えられなかった。
穂が出るまで。ガロンの足で、往復十六日。
二度は、行けない。
「……穂が出る前に、届くように」
ガロンは、しばらく黙っていた。
それから、袋を床に置いた。置いてから、その上に腰を下ろした。
「待つよ」
「はい」
「……待つしか、ねえからな」
ガロンは、そう言って笑った。
笑い方が、うまくなかった。
◇
小屋を出ると、道に轍が残っていた。
荷馬車のものだ。雨のあとに来て、そのまま乾いている。
深いほうと、浅いほうがある。行きと、帰りだろう。
ノエは、しゃがんで、それを見ていた。
荷は、縄で縛る。縛るには、長さが要る。
いつも縄の長さをうまく使っている人を、一人知っている。
ノエは、立ち上がった。
麦の向こうに、坂の下り口が見えている。
まだ、何も来ていなかった。
◇
ハンナが来たのは、三日後の昼だった。
坂の下から、車輪の音がした。ノエは、それより先に土埃を見た。
荷馬車が門の前で止まる。馬が首を振って、鼻を鳴らした。
ハンナが、荷台から飛び降りた。
日に焼けている。腕に、麻の粉が白くついていた。
「遅くなった。北がぬかるんでてね」
縄をほどきながら、こちらを見もしない。
「手紙は?」
「……今日は、ありません」
「へぇ、珍しいね」
ハンナは、麻袋を一つ、地面に下ろした。
ノエは、その手を見ていた。
節が太い。爪が短い。縄をほどく指が、一度も迷わない。
「ハンナさん」
「なに」
「頼みたいことがあります」
「どんな荷だい?」
「いえ、運んでほしいんじゃないんです」
ノエは、両手を体の横につけた。
「畑の、測り方を教えてくれませんか?」
ハンナの手が、止まった。
それから、また動いた。
「あたしは、荷の測り方しか知らないよ」
◇
馬が、足踏みをした。
ノエは、そこに立っていた。
「畑なんて測ったことがないよ。縄の使い方は知ってるけどね、それとこれとは別だろう?」
「はい」
「別なんだよ」
「はい」
ハンナが、荷を下ろし終えた。
手を叩いて、麻の粉を払う。白いものが、日の中でしばらく浮いていた。
ノエは、その姿をただじっと見ていた。
「……で?」
「なにか、一つだけでもありませんか?」
ノエは、言った。
「僕は、測り方を知りません。村の誰も知りません。ガロンさんの村へ行くこともできません。……四日も、歩くことができないから」
ハンナが、こちらを向いた。
「だから、お願いします。ほかに、頼める人がいないんです」
風が来て、麦が鳴った。
穂先は、まだ出ていない。
でも、色が変わりはじめていた。
ハンナは、しばらくノエを見ていた。
それから、荷台の板を、平手で一度叩いた。
「……次に来るのは、六日後だ」
「はい」
「あたしにできるのは運ぶことだけ。それだけだよ」
ハンナは、振り返ることなく御者台に上がった。
馬が、坂を下りていく。
ノエは、その轍を見ていた。
行きの深い轍と、帰りの浅い轍を。




