15話
ぽつぽつと、麦に穂が出て始めていた。
まだ青い。指ではさむと、中が柔らかい。
ノエは門の柱に寄りかかって、坂の下を見ている。
彼女が村を発ってから、今日で六日目だった。
「来たぞ」
ガロンだった。柱の反対側で、しゃがんでじっとしている。顔は、坂のほうをじっと見据えていた。握りこぶしの内側が白い。
ノエには、まだ何も聞こえなかった。
しばらくして、土埃が上がった。
がらがら、がらがら。
荷馬車が坂を上りきって、門の前で止まる。馬が首を振って、鼻を鳴らした。
ハンナが飛び降りた。
額の布が、汗で色が変わっている。
「六日、間に合ったよね?」
「はい、ぴったしです」
「言ったからね」
白い歯を見せて笑ってから、ノエの伸びた髪をかき混ぜた。硬い手のひらが、汗でしっとりと濡れていた。
◇
荷台の左半分が、空いている。
その空いたところに、棒が一本だけ横たえてある。麻縄で二か所留めてあった。
「荷が少ないですね」
「北の二軒は明日に回したからね」
「……遅れてるんですか?」
「一日、ね」
ハンナは、縄をほどいた。
ノエは、荷台の端を見た。
麻の袋が三つと、布の包みが一つ。
包みのほうへ手を伸ばして、抱えた。軽かった。
ハンナの手が、一度止まった。
それから、袋を担いだ。
「その棒はね」
「はい」
「ヴェルダの縄張り屋が切ったやつだよ。畑や、家の土台を測るのを商売にしてる人」
「そんな人がいるんですね」
「役所が測って出せと言うんだから、そりゃあ、測る奴がいるってことさ」
ハンナは、袋を地面に下ろした。
「うちらみたいな村にいないだけだよ」
◇
「まず、動かないものを一つ決めろってさ」
ハンナが、指を一本立てた。
「動かないもの、ですか?」
「道とか、沢とか。木は駄目だって言ってたよ」
ノエは、顔を上げた。
「倒れるからね」
ハンナは、こちらを見ていなかった。
「棒は、端をここに置いて、こう倒していく」
手のひらを、ひっくり返す。
「十倒すごとに、小石を一つ、こっちの手に移す。口では数えるなと言われたよ」
「どうしてですか?」
「揉めるからだとさ」
ノエは、うなずいた。
「あと、その人の帳面も見せてもらったよ」
ハンナが、宙を四回突いた。
「上に、四つ並んでてね。ひがし。にし。みなみ。きた」
「……」
「その下にも何か書いてあったけど、そっちは読めなかった。荷札に出てくる字じゃなかったからね」
ノエは、息を吸った。
「たぶん、四至だと思います」
「シイシ?」
「土地の四方が、何に接しているか。それと、境の長さです。それを書くと、その土地が一つに決まるんだそうです」
ハンナが、大きな目をぱちくりとさせてノエを見る。
「へぇ、よく知ってるね」
「本で読みました」
「ふうん」
ハンナは、馬の首を叩いた。
◇
村長は、卓の前で腕を組んだ。
一枚板の卓だ。今日もよく磨かれて艶がある。
「ふむ。立ち会う、というのは何をすればいいのかね?」
「見てもらうだけでいいみたいです。それで、村長さんの名前も書きます」
「わしの名前を?」
「はい。誰が見たか書いておかないと、あとで、見た見ないでたいへんなんだとか」
村長が、口を開けた。それから、閉じた。
ノエは、帳面を出した。
開いて、卓に置く。
今年の頁と、去年の頁。そのどちらにも、同じ一行が書いてある。
村長は、それを見ていた。しばらく、じっと。
「……ボルドを呼びなさい」
◇
ボルドは、ハンナの棒に自分の斧の柄を当てた。
目を細めて、二度、当て直す。
それから、丸太を挟んで、すぱん、と切った。
「これで同じだ」
「同じですか?」
「同じだろ」
ボルドは、切り口を手のひらで払った。
杭も四本、削った。先を尖らせて、頭を平らにする。削りくずが、足元に溜まっていった。
「なんで四本なんだい?」
テッサだった。いつのまにか、後ろに立っている。
「二本は、あとで抜くんだよ」
「どうして抜くんだい?」
「抜くからだ」
ボルドは、それきり喋らなかった。
◇
テッサとデュラの畑は、どちらも道から南へ、沢のほうへ細長く伸びていた。
西の端に、道の曲がり角の石がある。東の端には、ボルドの畑との杭が立っていた。
緑の濃さが、途中で変わっている。
デュラのほうが、少し濃い。蒔いた日が違うのだろう。
その境目は、線になって見えた。まっすぐではない。ゆるく曲がって、真ん中あたりで一度、大きく折れている。
今年、二人が鍬を止めたところなのだと思った。
地面には、何の境もなかった。
◇
「デュラさん。デュラさんの畑は、どこまでですか」
デュラが、道を歩いた。歩幅が小さい。
途中で止まって、足の先で地面を掻いた。
「ここだ」
「そこですか」
「……あの木の、根っこが──いや」
デュラは、そこで口を閉じた。
ボルドが、杭を一本打った。
かん。かん。
「テッサさんは」
「あたしはこっちだよ」
テッサが、大股で歩いていって、踵で地面を蹴った。
そこは、デュラの杭より、東だった。
ボルドが、二本目を打った。
杭と杭のあいだに、地面が残った。
誰も、そこを踏まなかった。
◇
ガロンが、棒を持った。
角の石に端を当てて、倒す。
かたん。
持ち上げて、また倒す。
かたん。かたん。
ノエは、その横を歩いた。左手に、小石を六つ握っている。
「今の、二本だろ?」
テッサだった。すぐ後ろについてきている。
「一本ですよ」
「二つ動いてたよ」
「持ち上げてるだけです」
「ふうん」
テッサは、離れなかった。
デュラは、道の反対側を歩いていた。足を、かかとからつま先へ、まっすぐ継いでいる。唇が動いていた。
途中で止まって、また最初の石まで戻った。
「デュラさん。足で数えたって、合いやしないよ」
「数えとらん」
「見るからに数えてるじゃないか」
「数えとらんわ」
ノエは、なにも言わなかった。
小石を、一つ、右手へ移したところだった。
かたん。かたん。
風が来て、麦が鳴った。
ガロンは、黙々と棒を倒している。足の裏を庇う歩き方はしていない。
ただただ真剣な表情だった。
棒が倒れて、デュラの杭の根元で止まる。
「三十二です」
次は、東の端から。
ボルドの畑の杭に端を当てて、テッサの示した位置の杭まで倒していく。
かたん。かたん。かたん。
「三十二です」
最後に、角の石から、ボルドの杭まで。
ノエは、右手の小石を数え直した。六つ。
「……六十です」
ノエは、みんなのほうを向いた。
「三十二と、三十二で、六十四になります。六十より、二人の言い分だと四本多いです」
◇
「じゃあ、あんたが四本ぶん、こっちへ寄せてたんだろ」
テッサの声が、道の向こうまで届いた。
「わしじゃない」
「あんただよ」
「毎年、ここまでが鍬を入れとるところだ」
「うちだって、ここまで毎年入れてるよ!」
村長が、こめかみを押さえた。
ガロンが、棒を地面に立てた。
その音が、二人の声の下に入った。
「……その四本のずれが、こうもはっきりわかるんだな」
まくしたてていたテッサが、黙った。
「うちも、はっきりわかるのかな」
ガロンは、それだけ言って、棒を持ち直した。
テッサが、腕を組んだ。
「……今は、うちの話だろ」
声が、さっきより大きかった。
「そこは、うちの畝だよ。二年間、いや、その前から、ずっとうちが起こしてる。デュラさん、あんたも見てたじゃないか」
「わしは──」
デュラが口を閉じた。
いつもの閉じ方だった。
◇
ノエは、小石を握っていた。
手を開く。
ぱらぱら、と小石はこぼれ落ちていった。
「デュラさん」
デュラが、振り返った。
皺の多い手のひらをぐっと握ったままで。
「今、なんて言おうとしたんですか?」
「……いや」
「言ってください。書きますから」
「ノエ、あんたは──」
「テッサさん」
ノエは、テッサを見た。
「デュラさんは、いつも途中で言うのをやめます。去年もでした。やめたあとは、テッサさんが言い切って終わります」
「……あたしが、悪いってのかい」
「わかりません。僕は見てただけなので。どっちが合ってるかは、わかりません」
息が上がってくる。ガロンと同じだけ歩いてもいないのに。
「でも、帳面には決まらずって書いてあります。何回も、書きました。僕が書きました」
みんな、黙っている。
「テッサさんは、藁を二十束出しました。デュラさんは、草刈りを二日多くやりました。両方、帳面に書いてあります。書いたときは、それでいいって言いました。……二人とも」
ノエは、そこで息を継いだ。
「だから、これも書いたほうがいいと思います」
声が、途中で細くなった。
「僕は、書きたいです」
二人に、仲良くしていてほしかった。
膝が、震えていた。
ノエは、それを隠さず、ただ二人を見ていた。
◇
麦が風に揺れる音だけが、しばらく続いた。
テッサが腕をほどく。
目線が柔らかい。表情も。声も。
「……ノエ」
「はい」
「それに書いたら、もう消せないんだね?」
「はい、ずっと残ります」
テッサが、鼻から息を吐いた。
「うちは、二本引く。三十二じゃない、三十本までが、うちの畑だ」
デュラが、顔を上げた。
「……わしも、二本だ」
「そんな小さい声じゃ、聞こえないよ」
「わしも、二本引く!」
これまで聞いたことがないくらい、大きな声だった。
テッサが、目を丸くした。それから、大きく口を開けて笑った。軽やかな笑い声だった。
◇
ボルドが、二本の杭の真ん中に立った。
ガロンが棒で二本ぶんをきっちりと測る。
ボルドが、三本目の杭を打った。
かん。かん。かん。
沢の側にも、一本。
打ってから、ボルドは片目をつぶって、今打ち込んだ二本を見通した。
杭の頭を靴の底で少し押して直す。でも、まだ少し傾いていた。
それから、最初の二本を抜いた。
◇
ノエは、畝のそばに座って、測りながら書いたものを読み返した。
膝の板の上で、紙の端を指で押さえる。
それから、立ってもう一度読んだ。
「デュラさんの畑は、北は道、南は沢で、西は、道の曲がり角の石。東は、テッサさんの畑。道に沿って、棒三十本」
「テッサさんの畑は、北は道。南は沢で、東は、ボルドさんの畑の杭。西は、デュラさんの畑。道に沿って、棒三十本」
顔を上げる。
「合ってますか」
「合ってる」
テッサがまず答えた。
デュラが、その横で頷いている。
ノエは、下に三つ、名前を並べた。
デュラ。テッサ。それから、村長。
「見た人の名前です」
村長が、自分の名前をのぞきこんだ。
それから、卓のときと同じように、目を合わせてひとつ頷いた。
「ノエ」
「はい」
「村じゅうの畑で、同じようにできるかね?」
村長は、傾いた杭のほうを見ていた。
「秋までに、全部」
「……できると思います」
「なら、やりなさい。わしが立ち会う」
◇
帰り道、ボルドが余りの杭を二本、肩に担いでいた。
村の東のはずれに、耕していない一枚がある。
麦が生えていない、草だけが丈を伸ばしているところが。
「ボルドさん」
「なんだ」
「秋までに、村の畑を全部測りますから、杭をお願いします。それと、あそこも──」
「そこは、いい」
「でも、誰の畑か書いておかないと」
「いいと言ってる」
ボルドは、杭を担ぎ直して、先に歩いていった。
背中が、少し丸い気がする。
ノエは、それ以上は聞けなかった。
◇
次の朝、荷馬車の前に、ハンナが立っていた。
「棒、置いてくからね」
「ありがとうございます」
「いいよ。依頼だからね」
「北の二軒は、今日に回るんですか?」
「今日で取り戻すよ」
ハンナは、手綱を巻き直した。
「あのさ、ノエ」
「はい」
「うちの親父が言ってたんだ。運び屋は、運べない荷を運べると言った日に、運び屋として終わるんだって」
「終わる……」
「あんた、荷を見て、自分じゃ持てないってちゃんと言うだろう?」
「……持てませんから」
「あたしは、あんたのそういうとこ、嫌いじゃないよ」
ハンナは、御者台に上がった。
「次は、六日後だ」
がらがら、がらがら。
いつもの車輪の音が、あっという間に遠くなっていった。
◇
門の柱に、同じ長さの棒が二本、立てかけてある。
ハンナが運んできたものと、ボルドが切ったものと。
ガロンが、ボルドのほうを持ち上げた。
「これ、貰ってっていいんだな?」
「はい。動かないものをまず見つけてください」
「動かんもの」
「それから、畑に沿って棒を倒します。十回倒したら、小石を一つ移す」
「十で、一つ」
ガロンは、棒を肩に載せて、片手でおさえた。
ノエは、そこで気がついた。
「……ガロンさん」
「なんだ」
「──測った数は、どうやって覚えて帰りますか?」
ガロンが、棒を担いだまま、こちらを向いた。
「数が四つだろう?」
「四至だと、四つです。それと、東と西と南と北に何があるかと、隣の畑の人の名前も要ります」
ガロンの口が、動いた。
数えているようだった。
それから、止まった。
「……いくつまでなら、おぼえられますか」
「一つだ」
ガロンは、笑わなかった。
「十六日歩いて、シイシしか持って帰れんかった」
麦の穂が、風で鳴った。
畑はまだ、青かった。




