51話
ざっ、と音がして、ひと握りの麦が倒れた。
父の鎌だった。左手で穂の下をまとめて掴み、右手の鎌を根もとへ引く。刃が通ると、乾いた茎がいっぺんに切れて、父の腕の中に収まる。
鎌の刃は、ゆうべ父が研いでいた。着ける前に一度研ぎなよ、とハンナに言われたとおりにだ。灯りの下で刃を何度も裏返しては、親指の腹で確かめていた。
麦は、すっかり色が変わっている。穂の先から茎の根もとまで、どこを見ても乾いた明るい黄色だった。
ざっ。ざっ。
父が一歩進むたびに、刈りあとに白い株の切り口が並んでいく。向こうの畝では、母も鎌を引いていた。小柄な体で、父とほとんど変わらない速さだ。
ノエの足もとには、縄の束が置いてある。ハンナが運んできた、麦を束ねる縄だ。
「ノエ。縄を一本くれ」
父が、刈った麦を腕いっぱいに抱えたままこちらを見た。
ノエが縄を渡すと、父は麦を足もとに立てて、縄をぐるりと回した。端と端をねじって、結び目を押しこむ。
それから、束を持ち上げた。
ずるり。
縄がゆるんで、麦が父の腕からばらばらとこぼれた。
「……またかい」
母が鎌を持ったまま顔を上げた。
「縄が悪いんだ」
「ハンナさんの縄だよ」
父は黙って、こぼれた麦を拾い集めはじめた。
母はまた鎌を引きはじめた。背中が、小さく揺れている。
ノエは縄をもう一本抜いて、父の前にしゃがんだ。
「父さん。僕に結ばせてもらえませんか?」
父の手が止まった。ノエの顔を見て、それから拾い集めた麦を黙ってノエの前に立てた。
ノエは麦の束に縄を回した。
紙の束をくくるときの結びだった。ハンナに教わった手だ。十字にはかけずに、ひと回りだけ巻いて輪を作る。端を、下へくぐらせる。
引くと、結び目がきゅっと締まった。
父がその束を持ち上げた。
軽く振る。もう一度、さっきより強く振る。
麦は、一本もこぼれなかった。
「……ほどけんな」
父は束を顔の前まで寄せて、結び目をしげしげと眺めた。おかみさんの繕った肘を眺めていたときと、同じ顔だった。
「どこで覚えたんだ?」
「ハンナさんに教えてもらいました。紙の束をくくるための結びなんですけど」
「紙の結びで、麦が縛れるのか?」
「縛れたみたいです」
向こうの畝で、母がとうとう声を出して笑った。
それからは、父が刈って、母も刈って、ノエが縛った。束が一つ立つたびに、足もとの縄が一本ずつ減っていく。
十を縛ったところで、息が上がった。
ノエは畦に腰を下ろして、自分の指を見た。中指の横には、いつもの墨の染みがある。そのすぐ下に、穂の細い毛が何本も刺さっていた。つまんで抜こうとすると、指先がちくりとした。
刈りあとの株の向こうに、ノエの縛った束が十、まっすぐに並んで立っていた。
◇
「馬だよ!」
テッサの声が、畑の向こうから飛んできた。
ノエは坂のほうへ顔を向けた。
馬が一頭、坂を上ってくるところだった。背に乗っている人の外套は、灰色ではなかった。
馬は門をくぐると、村長の家のほうへまっすぐ進んでいく。
セルグの畑で、テッサが鎌を畦に置くのが見えた。そのまま、村長の家のほうへ歩いていく。いつもより、ずっと足が速い。
「……おい。刈り入れだぞ」
セルグの声は、テッサの背中に届かなかったらしい。
父も鎌を止めて、坂のほうを見ていた。母も腰を伸ばして、手のひらを額にかざしている。
しばらくして、村長の家から人が出てきた。馬にまたがって、来た道をそのまま戻っていく。蹄の音が坂の下へ消えても、テッサは戻ってこなかった。
ざっ。
父が、また鎌を引いた。
ノエは縄を一本握ったまま、畦道のほうを見ていた。
やがて、その畦道をトバが下りてきた。
蓋のついた木の箱を、両腕で抱えている。そのうしろを、テッサがついてきていた。めずらしく、何も言わない。胸の前で、両手を組んでいる。
トバはヨナスの畑の端で足を止めた。
「ノエ。ちょっと来てくれんか」
ノエが畦を歩いていくと、トバは箱の蓋を開けた。前に書いた元の紙の上に、新しい紙の束が一つ載っている。細い麻の紐が、十字にかけてあった。
「代官所の使いの者が、置いていった。判を捺した届けだそうだ」
トバは、紙の束をノエのほうへ傾けた。
「わしの指じゃ、ほどけんのだ」
トバは紐の結び目を指でつまんで、引いてみせた。結び目は、かえって固く締まっていく。
ノエは手のひらを腿で拭いて、十字の結び目に指をかけた。
上に出ている輪に、爪を入れる。輪を起こして、下をくぐっているほうの端を引く。
結び目が、するりとほどけた。
「……なんだい、今の」
テッサが目を丸くした。
「ハンナさんと同じ結び方です。ほどけるように結んであるんですよ」
ノエはいちばん上の一枚をめくった。
丸い文字が並んでいる。名前。村。畑。四至。立ち会った人の名前。
そのいちばん下に、判が捺してあった。
赤い。ガロンが四日歩いて見せに来た紙に捺してあったのと、同じ色だった。
丸い判の中にも、文字が刻んである。そこだけは、ノエの書いた字ではなかった。片眼鏡を小屋に置いてきたので、何と書いてあるのかはわからない。
二枚目、三枚目と、ノエは紙の端だけをめくっていった。
どの紙のいちばん下にも、同じ赤い丸がある。
十五枚、全部にあった。
「ノエ。どれが誰のだか、わかるか?」
トバが紙の束を、目から遠ざけたり近づけたりした。
「わしには、どれも同じに見えてな」
「わかります。……全部、僕が書いた字です」
「なら、一緒に回ってくれんか。一軒ずつ、見せていかにゃならん」
ノエは父のほうを振り返った。
父は鎌を下ろして、ノエを見ていた。
「行ってこい。うちのは、いちばん最後でいい」
「でも、いちばん上は、うちのですよ」
「この畝を、刈ってしまいたいんでな」
父はそれだけ言って、また麦の根もとへ鎌を入れた。
ざっ。
◇
セルグの畑では、ボルドが鎌を引いていた。
三日月の形をした、ボルドの鎌だ。刈る音が父より速い。セルグは畦に腰を下ろして、腰をさすっていた。
「ボルドのやつ、自分のは、もう終わったと言いよる」
セルグが大きな鼻の頭をかいた。
「……終わってんだよ」
ボルドは顔も上げなかった。
ノエは箱から二枚を抜いて、テッサに渡した。
テッサは、すぐには何も言わなかった。二枚を両手で持って、いちばん下の赤い丸を見ている。
「……これが、判かい」
いつもの半分くらいの声だった。
テッサは一枚を、畦のセルグのほうへ差し出した。
「あんた。ほら」
セルグは腰をさする手を止めて、紙を受け取った。しばらく赤い丸を見てから、大きな鼻をすすった。
「……見えとる」
テッサは自分の一枚を、折り目がつかないように両手で持ち直した。それから、セルグの一枚と重ねて、トバのほうへ差し出した。
「トバさん。なくさないどくれよ」
「わしの箱だぞ。なくすもんか」
トバが箱の蓋を少し持ち上げて、二枚を受け取った。
「村じゅうの届けだからな。まとめて預かっておく。見たくなったら、いつでもわしの家へ来たらええ」
「毎朝、見に行くんだろう?」
セルグが、腰をさすりながら言った。
「……行くよ。悪いかい」
テッサは鎌を拾って、くるりと背中を向けた。
トバは、箱からボルドの一枚を取り出した。
「ボルド。お前のだ」
「見んでも、わかっとる」
ボルドの鎌は止まらなかった。団子鼻が、先のほうから赤くなっていく。
トバが、ごほん、と咳をした。顎を撫でて、背筋を伸ばす。
「そういや、使いの者が言うとった。代官さまがな、自分らで測った届けを揃えてきた村は初めてだと、えらく感心しておられたそうだ」
トバの顎が、少しだけ上がった。
「──さすがは、トバ殿の村だ、とな」
テッサが、ぶっ、と吹き出した。
「トバ殿って!」
「なんだ」
返事をしてから、トバの顔が赤くなった。
「……やめんか」
ボルドの鎌が、そこで初めて止まった。こちらに背中を向けたまま、肩が揺れている。セルグまで、腰をさすっていた手で口もとを隠していた。
◇
畦道を、トバと並んで歩いた。
トバの足は、いつもより遅い。ノエに合わせてくれているのだろう。
テッサの声が聞こえなくなったころ、トバが口を開いた。
「それとな、ノエ」
さっきより、ずっと低い声だった。
「使いの者が、もう一つ言うとった。ノーラのノエという者の名は、代官所から館へ回した、とな」
ノエの足が止まった。
畦の両側で、まだ刈っていない麦が風に揺れている。
「館へ回ると、どうなるのかね? 使いの者に聞いても、わしは知らん、と言うばかりでな」
ノエは、穂の毛が刺さったままの指を見下ろした。
「……巡回の日に、書記さまが門のところで言っていました。僕の名前が代官所から館へ回ったら、領主さまの館から、呼び出しがかかるかもしれない、って」
トバの手が、こめかみのほうへ上がりかけた。箱を抱えていたので、途中で止まった。
「わしは、何も聞いとらんぞ」
「あのとき、門のところには僕しかいなかったんです」
トバはしばらく黙っていた。
それから、箱を畦の草の上に下ろした。しゃがみこんで、人差し指を土に立てる。
ノ。エ。
畦の乾いた土に、大きな字が二つ並んだ。
「申し出たのは、わしだからな」
トバは字を見下ろしたまま言った。
「館の使いが来たら、村長として、恥ずかしくない迎え方をせんとな」
トバは、字を消さなかった。箱を抱え直して立ち上がる。
「さ、次はゲルダのとこだ」
歩きだしてから、ノエは一度だけ振り返った。畦の土の上に、トバの指で書いた名前が残っていた。
◇
ゲルダは、家の戸口の前で桶に水を汲んでいた。ボルドのところへ運ぶ水なのだろう。
トバが一枚を差し出すと、ゲルダは前掛けで手を拭いてから受け取った。
「どれだい。あたしの名前は」
ノエは届け出る者の行を指でさした。
「ここです」
ゲルダの指が、紙の上へ伸びた。
前のときは、名前の少し上で止まっていた指だった。
今度は止まらなかった。指の先が、丸い文字の上にそっと乗った。
「……下の、この赤いのは?」
「判です。これで、ゲルダさんの畑です」
ゲルダはしばらく指を動かさなかった。
「あの子が帰ってきたら、また書き直すんだろ?」
「はい。そのときは、また僕が書きます」
「なら、それまでは、あたしの畑だね」
ゲルダは紙をトバへ返すと、桶を提げた。
「ボルドに、水を持ってってやらなきゃね」
ほかの家は、早かった。
どの家でも、誰かが手を拭いてから紙を受け取った。腿で拭く人がいて、前掛けで拭く人がいて、シャツの裾で拭く人がいた。拭いても、どの手にも土と藁くずが残っていた。
紙が返ってくるたびに、トバは一枚ずつ、箱の中へていねいに重ねていった。
◇
日が傾くころ、ヨナスの畑へ戻った。
畝は、半分ほどが刈られていた。刈りあとに束が並んで立っている。ノエの縛った十の束の先に、母の縛った束が続いていた。
父の縛った束は、一つもなかった。
父は、最後の一株に鎌を入れたところだった。
ざっ。
刈った麦を母に渡して、父は腰を伸ばした。
トバが箱の蓋を開けた。
最後の一枚は、朝からずっと箱のいちばん上にあった。トバはそれを両手で取り出して、父の前へ差し出した。
父は、手のひらを腿で拭いた。二度。
それから、自分の手のひらを見た。藁くずと、黒い土。拭く前と、ほとんど変わっていなかった。
「……これじゃ、汚しちまうな」
母が前掛けで手を拭いた。何度も拭いてから、両手で紙を受け取った。
母は紙をじっと見ていた。丸い文字は、母には読めない。
「どれが、判だい?」
「いちばん下の、赤い丸です」
母の親指が、赤い丸のすぐそばまで行って止まった。
夕日が、紙を赤っぽく染めている。その中でも、判の赤だけは少し濃く見えた。
誰も、何も言わなかった。
父が刈りあとの畝のほうへ目をやった。
「これは、俺の話だけどな」
父は畝の端から端までを、ゆっくり見渡した。
「元の村を出るとき、何人にも言われたよ。鍬も持てん子を連れて開拓に出るのは、無茶だってな。兄貴のとこに預けていけ、とも言われた」
その話は、ノエも知っていた。ずっと前に、人づてに聞いた話だった。
でも、父と母の口から聞くのは、これが初めてだった。
「俺は、しばらく迷った。株だらけの土地で、お前に冬を越させてやれるのか、わからんかったからな」
入植した年の冬、ノエは三月寝こんだ。その冬に、母は東の谷で霧草を見つけてきた。
「迷うようなことじゃないだろ」
母が、父の言葉に重ねるように言った。それから、ノエの顔をまっすぐに見た。
「体が弱いんだから、置いていけるわけないじゃないか」
父が少しだけ笑った。
「……な。母さんは、一度も迷わんかった」
それから父は、ノエを見た。
「ノエ。体の弱いお前に、家と土地を残してやれる。そう思って、俺たちはここへ来たんだ」
父の声は、低くて、ゆっくりだった。
「……これで、残してやれるな」
ノエは父の顔を見ていた。日に焼けた顔の、目じりの皺に、土が入りこんでいる。
何か言おうとして、声がうまく出てこなかった。
母の手の中の紙を見た。それから、刈りあとに並んだ束を見た。
夕日が、株の切り口を赤く照らしている。ノエの縛った十の束が、畑の上に長い影を伸ばしていた。
「……僕は、鍬は十回しか振れませんよ」
笑って言うつもりだった。
言い終わる前に、刈りあとに並んだ束がぼやけた。頬を伝ったものが顎の先から落ちて、墨の染みのある指の上に、ぽつりと当たった。
「知っとる」
父の声は、さっきよりもっと低かった。
「誰も振れなんて、言ってないよ」
母の前掛けの端が、ノエの頬をごしごしとこすった。土の匂いがした。
ノエは束の結び目を見た。
「……でも、結ぶのなら、できます」
父がまばたきをした。
それから、ノエの縛った束の一つに手を伸ばした。結び目のところに、太い指がかかる。
「ああ。……ちっとも、ほどけんかったな」
母がくるりとトバのほうを向いた。
「トバさん。これ、早くしまっとくれ」
紙を、トバの胸へ押しつける。
「汚れちまうよ」
母の声は、いつもより少しだけ早口だった。
トバは紙を受け取ると、ほかの十四枚の上にそろえて重ねた。蓋を閉めて、袖で拭く。どこも汚れていない蓋を、何度も。
◇
トバが箱を抱えて畦道を上っていくと、母は鎌を拾った。
「今日は、ここまでだね」
父は隣の畝の端をもう一束ぶんだけ刈ってから、鎌を下ろした。その一束を、ノエの前に置く。
ノエは縄を回して、結んだ。
日が、森の端に沈みかけていた。
両親が家のほうへ歩いていったあとも、ノエは畦に座っていた。
坂の下は、静かだった。
書記の馬が下っていった坂だ。今日は代官所の使いの馬が、同じ坂を下りていった。
ノエの名前は、その坂のずっと先の代官所から、もっと先の館へ回っていったのだという。
次からは藁を一束、余計に積んでくる、とハンナは言っていた。
呼び出しが来たら、あたしに言いな、とも。
ノエは、穂の毛が刺さったままの指を握った。
──そのときは、まっさきに、ハンナさんに言おう。
いつも読んでいただいている方々、ありがとうございます。
これで、第二部の区切りになります。
全四部編成の予定です。
良ければ今後もお付き合いください。




